あの不意の告白以来、シニストラは決してと目を合わせようとはしなかった。食事の時間に大広間で顔を突き合わせても視線を外したままぼそぼそと独り言のように挨拶するだけ。それまでは毎日のようにどんなに下らないことでもいかにも楽しげに話しかけてきたというのに、ここのところシニストラは向こう隣のマグル学教授・バーベッジと控えめに言葉を交わす程度だった。
セブルスは当然そのことに気付いたが、取り立てて何かを言ってくることもなかった。
「」
広間から地下へと帰る途中、後ろから呼びかけられてふと歩みを止める。セブルスは今夜帝王の許へ向かうことが決まっていたので、一足先に研究室へと戻っていた。
「……何か?」
「いいえ、大したことではないんだけど。オーロラとの間に、何かあったのかしらと思って」
やはりそれか。は溜め息を喉の奥にひた隠し、ゆっくりとバーベッジに向き直る。
彼女は年老いた東洋系の魔女だった。ホグワーツにやって来たのは確か七、八年前だったと思う。同じく東洋系の
とはいっても結局のところ四分の一は英国人の血が混ざっていることが判明したわけだが
のことは以前から気にかけていたらしく、彼女の不調を察しては時折こうして声をかけてくることがあった。
「何もありませんよ。少なくとも、教授が気にされるようなことは何も」
どうして、ここにはこうして愚かな人間が多すぎるのだろう。いや、私がここにいることが間違いなのか。
ここは子供たちが学ぶ、純粋な教育の場でなければならない。それを掻き乱しているのは、他でもない自分たちなのだろう。
私は本来、ここにいるべき人間じゃない。ただ闇の陣営から護られるためだけにこうしてここにいる。
いや
違う。私がこの城で、護り抜かなければならない。そうすることが私の、最低の償い。
バーベッジは「そう」と呟いて、呆れたように小さく肩を竦めた。
「それならいいんだけど。でも、忘れないでね。何のために同僚がいるかってこと。あなたは教師としては私の先輩かもしれないけど、人生経験はきっと私の方が積んでるってこともね」
だから何かあったら何でも言ってね。
そう言って静かに微笑み、バーベッジはを残して去っていった。その後ろ姿をしばらく見送り、ようやくもまた地下室へ向けて歩き出す。
馬鹿馬鹿しい。何のために同僚がいるかだって?そんなものは結果論に過ぎない。支え合うためだとでも言いたいのか。そんなことをほざく人間たちもいるだろう。だが自分は違う。
そんなもの、セブルス一人でいい。
私は他に、何も要らない。
吸魂鬼が前回と同じように帝王の下につき、アズカバンの護りが破られた。予言者新聞の一面を賑わせた大事件
『アズカバンから集団脱獄、ブラックを旗頭に集結か?』。
ドロホフ、ルックウッド、マルシベール、トラバーズ、ギボン、ジャグソン、シュテルン、レストレンジの三人。
三年前、あの孤島の監獄で彼女の投獄を知ったベラトリクスが檻の向こうから喚き散らしていたのを思い出し、はその紙面に載せられた彼女の変わり果てた姿を眺めた。青年時代
きっと血筋なのだろう
ベラトリクスはシリウスによく似た完璧な顔立ちに、長く伸ばした艶やかな黒髪。あまりにも美しく、眩いばかりだった。もっとも、の前では敵意を剥き出しにして随分と歪んだ表情を見せてはいたが。
それが今ではすっかり不健康に痩せこけ、ただ強烈な執念だけで生にしがみ付いているかのようだった。
(また……何だかんだと煩いんでしょうね、彼女は)
いつだって顔を合わせれば噛み付いてきたベラトリクス。彼女は純粋な忠誠心から帝王の下についていた数少ない死喰い人の一人だった。帝王をまるで子供のように純粋な心で慕っていた。帝王が姿を消した後も、あのお方を探し出そうとしたのはレストレンジたちだけだった。
一緒に来いと言われたのを、私は無下に断った。だからこそ、今こうしてここにいられるのだろうが。
広間での朝食中にその記事を軽く読んでいると、ふとした視線を感じて顔を上げる。横目でこちらを見ていたらしいシニストラは慌ててそっぽを向いた。
その日の午後だった。アンブリッジにお茶の誘いを受けたのは。
「昨日、頼まれた真実薬をあの女に渡した」
図書館から帰る途中だったので、先に荷物を部屋に置いてきますと言って戻った研究室で。平然とそう言ってのけたセブルスに、は呆気にとられて目を瞬いた。
「わ
渡した?あの女に、真実薬を?」
ああ、と言って彼は顔色一つ変えずにレポートの採点に取り掛かる。その手から朱の羽根ペンを取り上げて、は荒々しくセブルスに詰め寄った。
「どうしてそんなことをしたの?あの女があの薬を手にしたらそれこそ秩序も何もあったもんじゃないわ。あの帝王ですら真実薬の効果を誤魔化す方法なんてない
私はあらかじめそれをあなたから聞いたから対応もできるわ、でももしそれが他の誰かの……もしあの子の口にでも入れば何もかも
」
「止むを得なかった。目をつけられているのはポッターだけでもお前だけでもない。俺にも前科があることは当然あの女も知っている。信用させるには本物を渡すしかなかった」
言ってセブルスは机の引き出しから小さなガラス瓶を取り出した。
「あの女はひとまずフィルチで試すと言っていた。それで俺を信用させることができるなら安いものだろう。だからお前はこれを飲んで
」
かつん、と指の先で瓶の側面を弾く。
「
隙を見て親の瓶にもこの中和剤を入れておけ。ポッターの馬鹿がもうこれ以上余計なことを喋らないうちに」
「そ……そんな、親瓶がどこにあるかも分からないのに、そんな無茶言わないでよ!あなたが蒔いた種じゃない」
「あの女がたとえ俺だけでも信用するようになれば随分とやり易くなるだろうことが分からないわけではあるまい?」
「それは……そうかもしれないけど」
言っていることが的を射ているからこそ反論できずに悔しい思いをする。あの女を信用させる術があるのならそうすべきだろう。それで少なくともセブルスは動きやすくなる。
は無言で彼の手からガラス瓶を受け取り、手近なゴブレットにその中和剤を少量入れて飲んだ。
この研究室は二年ぶり、か。あの頃は自分が学生ならこの授業を受けたいと思わせるような興味深い生物が揃えられていた。だが今はすっかり様変わりし、壁や机はゆったり襞を取ったレースのカバーや布で覆われていた。ドライフラワーをたっぷり生けた花瓶が数個、その下には花瓶敷、一方の壁には飾り皿のコレクションで、首に色々なリボンを結んだ子猫の絵が、一枚一枚大きく描かれている。そしてその集大成のような花柄のローブを着たアンブリッジが、待ってましたとばかりにを中へと招き入れた。
「さあ、さあ、待ってましたのよ、先生。さあどうぞ。紅茶で宜しいかしら?それともコーヒーの方が?」
「……ええ、では、コーヒーをお願いできますか」
を机の手前にある椅子に座らせてから、アンブリッジはせっせとカップにコーヒーを注いだ。ミルクをたっぷりと入れ、不吉なほどに甘い微笑をたたえてこちらへと戻ってくる。
「さあどうぞ。わたくし、思いましたのよ。どのみちこれからも一緒にお仕事を続けていくのですから、私たち、もうちょっとお互い歩み寄るべきかしらと」
「名案ですね」
無感動に呟いて、はさっと部屋中に視線を巡らせた。真実薬のガラス瓶……そうそう分かりやすい位置に隠すとは思えないが。案の定、見渡した限りではそれを見つけることはできなかった。
机を回り込んで自分の椅子に腰掛けたアンブリッジは、今か今かとがカップに口をつけるのを待っている。
(ベリタセラムを飲ませるのにこんなにも分かりやすい魔法使いがいるなんてね)
つくづくお粗末な女だ。こんなもので私を引っ掛けられると思うのなら。だがはセブルスから渡された中和剤を飲んでいたので、案ずることなく出されたコーヒーを飲んだ。正直、不味い。セブルスのコーヒーを恋しく思いながらも、はさらにもう一口それを飲んだ。にたり、とアンブリッジの口がますます横に大きく広がる。
は真実薬を実際に飲んだ時の症状
ぼんやりとした眼差しを故意に作ってみせた。
「そうそう、それで良いの」
満足げに頷いて、アンブリッジが囁く。
「ところでお聞きしたいのだけど、今回アズカバンから脱獄した囚人たちはあなたのお友達よね?」
「互いに知人であることを安直に『友人』だと呼ぶのなら、そういうことになりますね」
下手に否定するとかえって疑念を抱かれてしまう。あくまで、一線を保って。
アンブリッジは「さあ、もっともっと」とにコーヒーを促した。
「じゃあ当然ご存知よね?彼らが一体どこにいるのか
そもそもあなたが彼らの脱獄を計画した?」
はいかにも寝耳に水といった表情を作ってみせた。
「まさか!まったく与り知らないことです。彼らの集団脱獄はシリウス・ブラックの援助によるもの
確か魔法省はそういった見解だったはずでは?」
「表向きは、ね」
アンブリッジは少なからず不機嫌そうに眉根を寄せて言った。
「それは配慮ですよ、この国の魔法界すべてと
そして、あなたへの」
「どういった意味ですか?」
あくまで不思議そうに、問い掛ける。はまたカップに口をつけた。
「お分かりのはずですよ。あなたは史上最も邪悪な闇の魔法使いの血筋
その事実がどれほど国民の脅威となるか。あの闇の魔法使いは死にました。ですがその孫であるあなたは今もこうしてここにいる。そんなことが知れては当然あなたはここにはいられませんし、人々の余計な不安を煽ることにもなりかねない」
「……仰る通りですね。魔法省にはとても、感謝していますよ」
「ですから」
強い口調で言って、アンブリッジはずいとこちらへと身を乗り出してきた。
「馬鹿な真似はお止めなさい。魔法省はすべて分かっているのですよ。引き返せなくなる前に出頭すべきです。言いなさい、彼らは今どこにいるのです」
馬鹿馬鹿しい。私がかつての仲間たちを集めて、蜂起しようとしているだなんて。
だがあくまで真実薬の効果を被った振りをして、は慌てて首を横に振った。
「私には分かりません。あれ以来彼らとはまったく連絡を取っていませんし、そのつもりもありません。そもそもこの城の通信網はすべて魔法省が監視しているのでしょう。私が一体どうやって彼らと接触すると仰るのですか」
とアンブリッジはしばし互いを睨み合ったが、ようやく息を吐いたアンブリッジは肩を竦めながら言った。
「
いいでしょう。そういうことにしておきましょう。では最後にお聞きしますが、シリウス・ブラックはどこです」
は心底驚いて目を見開いた。ベラトリクスたちのことしか想定していなかった。ポケットの中に忍ばせた中和剤を上からなぞっていた手を、身体の震えを誤魔化すようにカップへと運ぶ。
「存じません。どうして私がそんなことを?」
アンブリッジは再び気味悪くにたりと笑い、勝ち誇ったような声をあげた。
「魔法法執行部副部長のアイビス・プライア。ご存知でしょう?彼女から聞いていますよ。あなたが子供の頃からシリウス・ブラックに熱をあげていたことは。そのブラックはあなたに唆された、だからこそ親友を裏切ってまで闇の人間に成り下がった
」
「
違う!」
思わず握った拳を机に叩き付け、は声を荒げた。同時、アンブリッジの背後の飾り皿が数枚何の前触れもなく砕け散る。感情を制御できず魔力が暴発してしまったのは久し振りだった。
自分のことならば大抵は耐えられた。だが彼のことを今でもそうやって誤解し、蔑む人間だけはどうしても許せなかった。
皿が割れたことはさして気に留めた様子もなく、お得意のしたり顔でアンブリッジが笑う。
「今もブラックにご執心なのね。それなら尚更よ。あなたたちの試みは間違っている。アイビスが残念がっていたわ。あの時無理にでもブラックをあなたから引き離していれば、彼が闇に堕ちることはなかったろうにと」
はプライアの冷え切った微笑を思い返し、胸の底から込み上げてくる憤りに歯噛みした。
「あの女に何が分かるっていうの。あなたたちは私たちの何一つも知らないじゃない。それをいかにも物知り顔で語られると反吐が出るわ」
「なるほどそれが本音というわけね」
アンブリッジはふふんと鼻で笑った。
「もう行って構いませんよ、先生。あなたの今のお言葉、決して忘れません」
「そしてプライアに告げ口するんでしょう。あの女があなたに何もかもをばらしてきたように」
吐き棄てるようにそう言って、は乱暴に立ち上がった。ゆったりと構えて机から動かないアンブリッジを一睨みし、さっと踵を返す。
結局。
私に本音を言わせるのに、真実薬なんて必要なかったということね。