どんどん状況は悪くなってくる一方で、セブルスの薬があったとしてもは毎日をやきもきしながら過ごした。ハリーたちの会合場所はまったくといっていいほど見当もつけられなかったし、教育令第二十五号なるものが発令されたち教職員の権限までもが脅かされることになったのだ。アンブリッジはその権限を行使してマクゴナガルの決定を覆し、クィディッチ開幕戦でドラコに手を出したハリーとウィーズリーの双子をクィディッチ永久禁止に処した。

あの三人がクィディッチチームから外れるということはスリザリンにとって大いに有益だが(セブルスはそれを認めなかった)、だからといって喜べるはずもない。まずいことになってきた。この城は、完全に魔法省の手の内に落ちようとしている。

だからアンブリッジの目を掻い潜ってホグワーツを脱出したというハリーやウィーズリー家の子供たちの話を、は誇らしいようなもどかしいような、どこか複雑な思いで聞いていた。

「ナギニの内側から?」

ダンブルドアに会ったというセブルスは、ハリーが蛇の内側から神秘部でウィーズリーが襲われるのを目撃したといった。ウィーズリーはそのお陰で迅速に聖マンゴに運ばれて無事だったという。だがそのことで騎士団はますます魔法省の注意を引くことになったし、それはハリーと帝王との繋がりがより強固なものになったことをも示していた。クリスマス休暇が明ければ、セブルス自身が彼に閉心術を教授するようダンブルドアが指示したようだ。

「閉心術の特別授業……不思議な因縁ね。私にそれを初めて教えてくれたのはあなただった。それを今度は、あの二人の息子に教えることになるなんて」
    皮肉か?」
「まさか」

そうかもしれない。だが、今更それが何になる。あの時、心を閉じる術を知った。それはどのみち必要になったろう。ならば、彼に皮肉をぶつけるのは。

あの子は、それを修得しようとしてくれるだろうか。彼らは互いに憎み合っている。そのセブルスから、素直にその術を学び取ってくれるだろうか。
だがそれはまず間違いなく彼にとって必要になる。彼は時に帝王の感情を読み取ることができる。その逆も然りだ。心を閉じる術を学ばねば、こちら側の情報を帝王に与えることにもなりかねない。事実、帝王はそのことに気付いている。

は無意識のうちにローブの上から左腕を撫で、たまってしまっていた課題の採点に取り掛かった。
クリスマス休暇も終わり、セブルスの特別授業が始まった。週に二、三回、夕方の六時から。その時間、は邪魔をしないようにと決まって図書館で過ごすことにしていた。どうやらここには『あれ』に関する書籍はなさそうだが、だがの中でそれは確信へと変わりつつあった。
間違いない。これより他に、『あれ』を可能にする手段などない。

だが、それならばどうして。このことを、ダンブルドアが知らないはずはない。なぜ、どうして『それ』について何も語らない?
図書館に『それ』についての文献が一冊もないことも不自然だ。どこか意図的なものを感じる。あの老人がすべてを人目に触れないところへと片付けたのか。あの頃、私からそれを隠そうと闇の帝王に関する書籍をすべてここから取り去った時のように。

今日は薬学の教員らしく、担当科目に関する本だけを借りて図書館を出た。昨年末のNEWTではこれまで出題されたことのない新たな形式の問題が生徒たちを大いに悩ませた。もうそろそろそれに慣れさせる練習をさせてもいい。OWL学年にも同タイプのものを課すべきだろう。新しい練習問題を作成しなければ。

「あ、先生!図書館からのお帰りですか?ちょうど良かった、これから天球儀の調整をするんです。今夜の実習で使おうと思って。ちょっと手伝っていただけませんか?」

廊下でばったりと出会ったシニストラはその腕の中に直径一メートルほどはある大きな球体を持っていた。もこれまで何度か彼女のペースに乗せられてその調整とやらを手伝わされたことがある。シニストラが独自に開発したものらしく、天文塔でちょっとした魔法をかけると淡い光が空に散って、星々の名前やその羅列、星座絵などが夜空に浮かび上がるようになっているというなかなかの発明品だ。自分が学生時代にも同じものがあればもっと天文学も分かりやすかったろうにと思ったことさえあった。

「ええ……構いませんよ」
「本当ですか?ありがとうございます!さっきスプラウト先生にもお会いしたから彼女にもお願いしたんですけど、いま温室から手が離せないって断られちゃって。あ、研究室から道具も取ってきますからちょっと待っててくださいね」

言って、シニストラはすぐそこの研究室へと飛び込んだ。と、開いたドアに自分で激突して天球儀を取り落としそうになる。は慌てて駆け寄って扉を押さえつけ、彼女が両腕の中で天球儀を安定させられるようにした。
ふらついたシニストラが、泣きそうな顔で振り返る。

「ご、ごめんなさい、ありがとうございます……ちょっとこれ、重くて、ついふらーっと……」
「……次の改良点はまず天球儀そのものの軽量化ですね」
「そう、そうなんです。それが今一番の課題なんです」

天球儀は非常に繊細に出来ているため、もしもの時のことを考えて普段は倉庫に保管してあるのだという。だがいちいちそれを移動させる際、その重さに耐え切れず彼女自身がふらつくので、側で見ているだけではいつもハラハラさせられるのだった。魔法で運べばいいのにと提案すると、浮遊の魔法が実は一番苦手なのだと彼女は渋い顔で言った。
よいしょ、とひとまず天球儀をソファにそっと下ろし、シニストラは脇の棚から工具箱のようなものを取り出した。

ちょうどその時だった。「ェヘンェヘン」と聞き覚えのある咳払いを聞いて、とシニストラは反射的にそちらへと視線をやる。
がドアを開けたままのシニストラの研究室の前に、いつものようにピンク色の服装に身を包んだアンブリッジがほくそ笑んで立っていた。

「これはこれは    先生とご一緒でしたか、シニストラ先生」
「……何か御用でしょうか」

唇を引き結んで、不機嫌そうにシニストラが問い掛ける。彼女は相変わらずアンブリッジには反抗的な態度を示していた。だがアンブリッジはそんなことはまったく意に介した様子もなく、懐から取り出した羊皮紙のメモを軽くかざしてみせた。

「ええ、以前の査察の結果をお渡ししようと思いましてね。これです、どうぞ」

アンブリッジはもう片方の手で取り出した杖を振り、シニストラへとその査察結果を飛ばした。彼女は受け取ったそれを「どうも」と言ったきり読まずに机の上に載せ、棚の中からまた別の工具箱を取り出した。
にやにやと笑ったままアンブリッジがソファの上の天球儀を見やる。

「何かこれから作業でも?」
「……ええ、今夜の実習の準備を」
「確か七年生のNEWT対策でしたわね?水曜の深夜は」
「ええ。五年生のOWL対策は金曜日です」
    で。ところで先生は一体ここで何をなさっているんでしょう?」

嫌味たらしくアンブリッジが言うと、シニストラはその手を休めずぶっきらぼうに答えた。

「実習の準備を手伝ってくださるんです。先生はもう長年、私によくしてくださっているので」

するとアンブリッジはにやにや笑いを今度はへと向けて再びあの独特な咳払いをした。

「あなた方のところへもこれから伺おうと思っていましたの。如何しましょう、直接スネイプ先生にお渡しした方が宜しいかしら?」
「……いえ、教授は今大変お忙しいので私がお預かりします」

この時間だとまだハリーの閉心術訓練が続いている可能性が高い。余計な邪魔を入れさせたくはなかった。第一、特別授業のことが知れたら何をしているのかとアンブリッジがしつこく詮索してくるだろう。薬学の補習だということにはしてあるが、そんなものが通用するかどうかも怪しい。

フンと鼻で笑い、アンブリッジは懐から取り出した羊皮紙を無造作にへと差し出してきた。無言でそれを受け取り、細めた眼で相手を見返す。
僅かに声を落とし、アンブリッジは蛙そのものの仕草で軽く唇を舐めた。

    今回はパスということにいたしますけれど、これで気を緩めてしまわないように。何しろあなたには言い逃れできない重い罪がありますからね。これからも監視を続けていきますよ」

険しい眼差しでアンブリッジを睨み付け、は手渡されたメモを乱暴に広げた。中には簡潔に、『魔法薬学セブルス・スネイプ教授    パス。助教授    パス』、とある。

それに大きく反応したのはシニストラの方だった。取り出した工具箱をデスクに勢いよく下ろし、激しい口調で捲くし立てる。

「妙な言いがかりは止めていただけませんか。去年だって先生に関して下らない記事が予言者新聞に掲載されました    どうして先生がそんな言いがかりをつけられなければいけないんですか。先生が何をしたと仰るんですか。一度はっきりさせてくださいよ、どうして予言者新聞も、魔法省だって    
「シニストラ先生!」

いけない。これ以上喋らせては。
だがが彼女の言葉を遮った頃には、既に遅かった。舌なめずりしたアンブリッジが、舐めるようにと、そしてシニストラとを交互に見やる。

「あなたは良いお友達を持ったようね、。でもあなたが過去に犯した罪は決して消えない    たとえどれだけ隠そうとしたってね。そして魔法省はそれを忘れることはない。いいこと?あなたがかつて、誰に忠誠を誓っていたか、そしてあなたが今、誰を唆して一体何を企もうとしているのか    魔法省はすべてを知っていますよ」

言って、アンブリッジは懐に杖を仕舞いながらくるりと踵を返した。思わず左腕を押さえかけ、慌ててその手をポケットに突っ込む。そして査察の結果を握り潰し、は苦々しく唇を噛んだ。
間違ってはいない。魔法省は私やセブルスに関してほとんどすべてを知っている。それを内に秘めることでまた、私よりもずっと優位に立つことができる。
あの女がこの城にいる限り、私は怯えて過ごすしかない。

憤慨したシニストラが、アンブリッジの消えた扉を睨みながら歯噛みする。

「何なんでしょうね、あれ!ああもう腹が立つ!こんな、こんなもの!」

シニストラは勢いに任せて査察結果を破り捨てた。理性を忘れたシニストラは前後の見境がまったくつかなくなる。は慌てて彼女に駆け寄り、何とか羊皮紙の残骸を繋ぎ合わせてその結果を確認した。『天文学オーロラ・シニストラ教授    パス』とあった。

「もう、もう!イライラする!さっさと行きましょう、先生!」

工具箱を二つ抱え、さらに天球儀までも持ち上げようとしたシニストラに仰天し、は取り出した杖をさっと一振りした。大きな球体がふわりと宙に浮き、憤りで顔を真っ赤にしたシニストラの周りを意味もなく回る。ただただ彼女を落ち着かせようと必死だった。『繊細』な天球儀を今の彼女が触るのかと思うと心配でたまらない。

どうして、どうしてこんな私のためにそうして心から怒ってくれるの。
こんなちっぽけな私のために、泣いたり笑ったり、心から怒ったり。どうしてそうやって一生懸命になってくれる人たちに恵まれてしまったの。
こんな私のために、危険に晒してしまった人たちがいる。
そんな、もう、そんなことは。
私はそんなこと、これっぽっちも望んでない。

はシニストラ自作の天球儀を運びながら、彼女の小柄な後ろ姿をぼんやりと眺めた。もう、これ以上はきっと。
とても空気の澄んだ、美しい夜だった。天文塔へ持ち込んだ天球儀を下ろし、杖先に小さな明かりを点して調整を開始する。しばらくシニストラに指示された箇所を手直ししてから、一度すべての明かりを消して夜空一面に広がる星を眺めた。

「……綺麗ですね」

ここのところ、ゆっくりと星を見る余裕すらもなかった。暗闇の中で何やら作業を続けているらしいシニストラは、小さく笑って「そうでしょう」と言った。

「だから辞められないんですよね、この仕事」

ホグワーツで見る星空が、この世で一番綺麗だと思うんです。
シニストラはそう言って、取り出した杖で天球儀を一度だけ叩いた。すると一瞬ぱっと球体の表面が光り、それが消えた後、夜空一面にはそれぞれの大まかな恒星の名前が映し出された。それを見上げながら、また少しずつシニストラが天球儀に調整を加えていく。今のままでは、実際の恒星の位置と、投影された恒星の名前が少しばかりずれていた。

「えーと……あれがアルデバランだから……西にあと五度くらい、かな……あ、先生、ちょっとそちらからもう少しだけこっち側に回していただけますか?」
「ええ、えー……これくらい、ですか?」
「あ、もう、あと二度くらい……あああ!行き過ぎた!」

上擦った悲鳴をあげ、シニストラが再び逆方向に天球儀を回すよう指示する。アルデバランの位置を合わせてから今度はプロキオン、アルゴルと他にも五つほどの恒星を合わせてから、最後に今夜の空で一番明るい星の位置を合わせた。

「えーと、じゃあおおいぬ座のシリウスで恒星は最後にしますね。それじゃああと西側に一度……」

は天球儀から視線を上げ、夜空に浮かび上がるその一際明るい星を見上げた    おおいぬ座の一等星、シリウス。オリオンの猟犬であり、そのすぐ隣のうさぎを追いかけているという。『焼き焦がすもの』、『天狼星』、『青星』……どの呼び名も、その体を表しているように思える。

「私ね、シリウスが一番好きなんですよ」

シニストラは突然そんなことを言った。いや、唐突ではないか……彼女は今、天球儀の調整のためにその一等星を見上げている。
はどきりとした自分の気持ちを誤魔化すように、意味もなく咳払いして喉の奥を改めた。

「シリウスって太陽の次に一番明るい恒星でしょう?冬の空で見上げるとすぐにそれって分かるし。きっと私たち人間、誰にとっても眩しい道しるべなんだと思うんですよね。まるで吸い込まれそうで……私が天文学に興味を持ったのも、そもそもシリウスが好きだったからで」

かちゃかちゃと微妙な調整を繰り返し、ようやくシニストラは「できた!」と嬉しそうな声をあげた。

「先生はどの星が一番好きですか?」

はそれには答えず、シニストラが天球儀のスイッチを消して再び目の前に広がった眩いばかりの星空を見上げた。
シリウス……今頃どうしているだろうか。おとなしくあの屋敷にこもっているのだろうか。彼らのために自らを顧みず飛び出して、十二年もアズカバンに投獄されることになった彼が。
私にとってもあなたは、本当に眩しすぎる存在で。どうして、見失ってしまったのだろう。

「……私は」

塔の壁に背中を預け、はそれを自然と口にしていた。この澄んだ空の下、彼と同じ名前を持つ星の輝きに満たされて。

「私は、あの女の言う通り。償い切れない罪を犯した」

この暗闇の中では相手の表情を窺うことはできなかったが、それでもシニストラがはっと息を呑むのはその気配だけで知れた。突如天文塔に流れた沈黙を、さほど間を置かずに打ち破る。

「……私は、とてつもない残虐な罪を犯した闇の魔法使いの下で、償い切れない罪を犯してきた。魔法省はそれを知っている。だから私は、あの女に反駁することはできない」
「……ど、どうしたんですか、先生?急に何を……」
「私は何も言い返すことができない。あの女の言っていることは事実だから。だからもう、私のためにあの女に楯突くのは止めてください。今、魔法省はとても過敏になっているんです。これ以上、奴らを刺激するような真似は止めてください。これは私の咎なんです」

    ああ、言ってしまった。だがもう、こうするより他に。このままではシニストラは、いずれアンブリッジの忌諱に触れる。そんなことはさせられない、決して。

「……まさか、先生、本当に『例のあの人』の……?」

ぎゅっときつく膝を抱え、は俯いて黙り込んだ。からん、とシニストラの手から、乾いた音を立てて杖が零れ落ちる。

「……ご、ごめんなさい……」

震える声で呟いて、シニストラは落とした杖も拾わずにそのまま天文塔を飛び出していった。
ああ、怖がらせてしまった。失望させてしまったか。だがそれも仕方ない。これでもう、彼女は私のためにアンブリッジに反抗することはないだろう。
これでいい。どのみち私はいずれ、この城を去ることになる。そうしなければならない。

ゆっくりと腰を上げ、は先ほどシニストラと一緒に見上げた、一際明るく輝くその一等星を見つめた。

『先生はどの星が一番好きですか?』

私はね、シリウス。
あなたと同じ名前を持つあの星が、とても    とても、大好きよ。