新しい薬のお陰で気持ちも比較的安定し、はそれまでの分を取り返すように必死になって働いた。セブルスが帝王の許へ戻らねばならない時も授業の準備や課題の採点、彼のサポートを続けたし、ホグズミードの巡回や城内の警備など教師陣に割り振られる仕事も率先して引き受けた。その一方で、図書館のとある一角に通いつめることも忘れなかった。

先生、探し物ですか?」

はっとして振り向くと、何冊か分厚い本を胸元に抱えたシニストラが通路からこちらを覗きこんできていた。本棚から抜きかけた本を慌てて戻し、片手に持った本の表紙もまたさり気なく手のひらで隠す。シニストラはのそんな様子を見てからからと笑ってみせた。

「いやだ、そんなに嫌なら覗いたりしませんよ。ところで良かったらお茶でもご一緒しませんか?これからバーベッジ先生のところにお邪魔する予定なんです」
「ありがとうございます……でももう少し、調べておきたいことがあって。すみません」

まったく嫌な顔ひとつせずに、シニストラは分かりましたと微笑む。帝王が復活した今、こうした無垢な人々の何気ない表情の一つひとつがとても尊いものに思えた。
護れるだろうか、私は。護り通せるだろうか、彼らを。

ぼんやりと彼女のことを見つめていると、シニストラは自分の抱えた本を見られていると思ったらしい。それらをこちらにも見えるように持ち直し、いちいちすべてのタイトルを説明してきた。

「これですか?えーと、『宇宙の暦』、『星の栞』、それから『月が導く魔法の法則』……今度生徒たちに紹介しようと思って。先生はご存知ですか?宇宙の暦は十三ヶ月だって」
「ええ……天文学は、結局最後の年まで選択していましたから」

そうだったんですか?とシニストラは不思議そうに瞬きした。彼女とはもうかれこれ十年ほどの付き合いになるが、天文学の彼女には一度もそのことを話したことがなかった。
彼女の抱いた本の一つ    『月が導く魔法の法則』。古びたあの本もまた、彼らと共に読んだ思い出の詰まった一冊だった。古いものをたどり、たどれば彼女の名前もまた見つかるだろう。そんなかつての。

「月には魔力があるんだよ、ポーレス」

校庭の一角、私たちのお気に入りの木の下。そこでごろりとうつ伏せになってその本を広げた彼女を覗き込んで、彼は大仰にそんなことを言ってのけた。
すぐそばでマグルの文庫本を読んでいたリーマスは少しだけ歪めた顔を上げて彼を見た。『何をいまさら。』

だが彼はまったく臆した様子もなく、その場でそれぞれに寛いだ私たちみんなに聞こえるように言葉を続けた。

「僕は満月の夜に初めて魔法が使えるようになった。満月の夜に初めてシリウスが家族のことを打ち明けてくれた。満月の夜にホグワーツからの入学許可書が届いた。満月の夜にリーマスの苦しみを知った。満月の夜にが僕らにとってどれだけ掛け替えのない存在なのかを知った」

は目をぱちくりさせて、彼方を仰ぐようにしている彼を見上げた。同じように呆然としているリーマス、ピーター、そしてシリウスを順に一瞥してから、再び彼へと視線を戻す。
彼はにこりと笑い、先ほど放してあっという間に掴んでしまったスニッチをポケットに突っ込んだ。

「事実がどうかなんて関係ない。僕にとってはそれが真実だから。だから月には僕たちを結びつける強い魔力があったんだ    そう思う」

彼はの読む本のタイトルだけを見て、ただ何気なくそう言っただけなのだろう。だが彼女はあまりのことに驚いて少し上擦った声で聞き返した。

「ね、ねえ、プロングスってこの本読んだことあるの?」
「え?ないよ。残念だけど僕は君やムーニーみたく熱心な読書家じゃないんだ」
「私だってそんなに読んでるわけじゃないけど、でもだってさ」

は既に読み終えたページを捲り、そこに書かれた文字を口早に読み上げた。

「だって、だってここにさ    『それはどちらでもない。そんなことは関係がない。私にとってはそれが真実であり、だからこそ月の魔法を信じるのだ。』!」
「はあ、それ意味分かんねえ。何、お前にそんな小難しいもの読めるのか?」
「ちょ!シリウス、馬鹿にしないでよ!何それ、私だって哲学書の一つや二つ読むよ!」
「それは哲学書ではないけどね」

くすりと笑って、リーマスが肩を竦める。彼女がシリウスの頭に拳を振り上げる仕草を見ながら、彼は「だけど」と言い直した。

「いや、でもすべての本が哲学書ともいえるかな。文章を書くのはいつの時代も人間だ。どんなテクストにも必ずその人の哲学が反映されるからね」

リーマスの言葉にシリウスはますます顔を顰め、お前らわけ分かんねえ!と投げやりに言って芝生の上に大の字に倒れ込んだ。君には一生分からないよ、としたり顔で微笑んで、ジェームズはまたスニッチを宙に放り出す。新シーカーの育成だとかなんだとかで、彼は長年立派に務め上げたそのポジションを少し前に外れた。以来、欲求不満なのか無断でスニッチを持ち出しては彼はこうして校庭の隅で放すことが多かった。リリーはあまりそのことを快く思っていないようだったが。

「哲学、かあ。なんか難しそうだし僕にもよく分からないなあ」

ピーターが、流れる雲を追いかけてぼんやりと青空を眺めながら呟く。寝転んだシリウスの腹を軽く小突きながら、ジェームズは軽快に笑ってみせた。

「分からないだけさ。君には君の哲学がある。じゃないと僕らだって君と一緒にいるはずがないよ」

ピーターはまだ不可解な顔をして首を傾げたが、それでもジェームズの最後の言葉に嬉しそうに頬を緩めた。

そう、誰にだって哲学があったはずだ。ピーターにも、そしてもちろん私にも。
どうして、こんな道を自らの手で選び取ってしまったのか。望んでいたのは、こんな未来じゃなかった。
彼らがそこにいる、ただそれだけで良かったはずなのに。

「……先生?」

ふいに呼びかけられて、は思わず本を抱き抱えた身体を強張らせた。ポーレス……無邪気だったあの頃に、時折戻ってしまうことがある。いや、決して戻れやしない。だがもしかしたらと、今でもこうして。

「すみません……ええ、では、私はまだ探したいものがありますので」
「大丈夫ですか?早めにお戻りになった方が良いんじゃ」
「ええ、そうします……ありがとうございました」

素直に頭を下げると、シニストラは不安げな面持ちのまま立ち去っていった。
もう二度と、失わせない。すべてを護ろうだなんて、どれだけ傲慢なことだろう。だが、私にはそうするより他に。

抜き出した本を腕の中で抱え直し、はまた新しい棚へとその手を伸ばした。
アンブリッジの査察はやセブルスにとってもまた決して快いものではなかったが、だがさして大きな問題もなかったろうと思う。少なくとも彼女をアズカバンに放り込むような口実は与えなかった。それにアンブリッジが授業内容や担当教員について聞いて回ったのは大半がスリザリン生だったので、生徒たちはやセブルスに有利な反応を示してくれていた。

差し迫った問題は、教育令第二十四号により禁止された違法な会合をハリーたちが持とうとしているということ。

「当然、禁止されたからといってはいそうですかとおとなしく聞くような連中だとは思えん」

この間のホグズミード週末に、ホッグズ・ヘッドでハリーによる闇の魔術に対する防衛術の秘密会合が開かれたらしい。その直後にあの法令が出されたということはアンブリッジ側もそのことには気付いたということだ。だがだからといって彼らがその会合を中断するとも考えられず、はそのことで随分と気を揉んでいた。

「それにダンブルドアはそのことを黙認しようとしているわけでしょう?」
「どのみちあの女の目の届かない場所を確保できまいと踏んでいるのかもしれん。もしくは本当に奴らに防衛術を学ばせたがっているか    

言いながら、セブルスが疲れたように頭を振る。悩みの種は尽きない。それでもそれらを受け入れ、乗り越えていかねばならないのだろう。
セブルスが仕入れてきた情報によると、闇の魔術に対する防衛術グループは総勢三十名ほど。その全員が教師に隠れて防衛術の訓練を行える場所……現場を押さえることができれば、アンブリッジに知られる前に解散させることができる。もうこれ以上のトラブルは御免だ。どこだ、それが可能なのはどこだ。セブルスではない、彼らと共にこの城中を探検して回った自分にならそれが分かるはずだ。考えろ、どんな瑣末なことでも思い出せ。
叫びの屋敷……いや無理だ。三十人もの大人数ではあの屋敷に向かうまでが難しすぎる。五階の大きな鏡の裏は二年前彼がホグワーツに侵入した際、リーマスと共にその通路が塞がっていることを確認した。
私たちの知らない部屋があるのだろうか。どうして見つけられなかったのだろう。私たちにとってこの城は自分たちの庭も同然だったはずなのに。

    忍びの地図。
二年前、リーマスがハリーから取り上げたというあの地図。それさえあれば、たとえ地図には載っていない部屋があったのだとしてもそこへ向かう彼らを押さえることができる。
だが今や、この城から騎士団員の誰かに連絡をとるのはあまりにも危険だった。煙突飛行ネットワークは魔法省の管轄であり、ふくろう便も途中で襲われる可能性がある。そもそもは魔法界においても相当の高齢であり、もはや重要な仕事は任せられない状態にあった。

「手紙も運べないふくろうなど用済みだろうに」

平然とそう言ってのけたセブルスに、は自分の腕でうとうとしている森ふくろうの羽をそっと撫でながらフンと鼻を鳴らしてみせた。

「分からないわよね。この子が私にとってどれほど大切な存在か    あなたにはきっと、分からないわよね」

いつだって一緒にいてくれた。気分屋で、甘えん坊で。涙で突き放し、闇に堕ちた後までも私のことを見つけ出してくれた。いつだって純粋な瞳で私を探し続けて。
ねえ、きっと。私がこの手で決着をつけてしまうまでは、そばにいてくれるよね。

「でもこの気持ちだけは、あなたにもきっと分かるはず」

ひっそりと言い残し、を腕に乗せたまま自室へと戻っていった。
そう、彼にだってこの気持ちはきっと分かるはずだから。

だから私は、ずっとあなたについてこられたのよ。