予定より少し遅れたが、例の薬が完成した。
正直、もう駄目かと思った。戻るしかないか    あの陰気臭い屋敷ではなく、闇の帝王の許へと。この苦痛から私を解放できるのはあのお方だけだとクラウチは言った。戻るしかない    そんなことを、考えてしまうくらいに。

だがクィリナスの考案した吸血鬼の牙を用いた薬がセブルスの手によってようやく完成した。その調合法は言わずもがな、材料を入手することがまたさらに難しい。セブルスの高度な技術、なおかつホグワーツの魔法薬学教員という立場でもなければまず確実に仕上がらなかった『作品』だとすらいえた。

「これが……あの、実験段階だった……」

試験管に入れて差し出されたそれは澄んだ水色をしていた。本当に……美しい。は魔法薬学の教員になってから    いや、生まれてこのかた、こんなにも透き通った薬品を見たことがなかった。

「……これは本当に、『芸術品』の域ね……」
「そんなことはどうでもいい。検証は済ませてあるが    何分、人体で試したことがない。覚悟はできているか」
「死ななければ構わないわよ」

この呪いの痛みが少しでも和らぐのなら。たとえ命を縮めても。それに、クィリナスの研究もセブルスの腕もは完全に信用していた。
大丈夫。これできっと、うまくいく。
その上セブルスの話では、アンブリッジが彼女の不在に強い不信感を抱いているという。これ以上地下室に閉じこもっているわけにはいかなかった。

布団の中で上半身だけを起こし、そっと掴んだ試験管を見つめる。その指先が若干震えていることに気付いて、は自嘲気味に笑った。

「イタダキマス」

片言で呟いて、セブルスの視線を感じたままぐっと中身を飲み干す。薬はごくごく少量だったが、喉の奥が火でも食ったように焼け付いた。身体中が燃え尽きる……思わず吐き出しそうになり、慌てて唇を押さえつけた。
ひどい味……ヘドロでも飲んだみたい。今までの薬の苦みとは比べ物にもならない。
だが一気に全身へと広がった熱が引いていくにつれ、は左腕の痛みがその熱さに紛れていくのを感じた。

「……感覚が……」
「初めのうちは皮膚に軽い麻酔を打った状態になって痛みが紛れるに過ぎない。だがじきに身体の中から呪いそのものに効いてくる    はずだ。それも一時的なものだがな」

そうか……彼はクィリナスの実験に、さらにアレンジを加えて。
ただでさえ任務で疲れているのに    私のために。
こんなことを口に出せば、セブルスは勘違いするなと怒るだろうが。

試しに左腕に触れてみたが、何も感じない。呪いの痛みもほんの数分ほどで随分と引いてきた。すごい    こんなにも素早く、少量でこの効果。
それだけ、副作用も強くなるのだろうが。

「……ありがとう。本当に」
「お前に礼を言われる筋合いはない。礼なら材料のことで顔を利かせてくれたダンブルドアに言うことだな」
「ダンブルドアが?」
「こんなもの    俺の一存で入手できるわけがないだろう」

呆れたように呟いて、セブルスがの渡した本を軽くかざしてみせる。確かにクィリナスの実験では、吸血鬼の牙の他にサラマンダーの尾や、バルカン半島特有の植物など入手困難な材料が多く使用されていた。セブルス、ダンブルドア……みんなに迷惑をかけて。今まで休んでしまった分、これから精一杯挽回しなければ。

「本当に、ありがとう。これからはちゃんと働くから」
「突然倒れて『周囲』の注意を引いたりしないよう気を配ってくれることを切に願う」
「気を……付けるように、するわ」

一瞬口ごもってしまったが、なんとか頷いてみせる。大丈夫。私には二人の薬があるもの。私はクィリナスもセブルスも、信じてる。

「週明けから出られるか?」
「ええ、多分。大丈夫」
「それならあらかじめ忠告しておくが、闇の魔術に対する防衛術の    
「分かってる。あの女の前では言動に注意しろ、でしょ。シャックボルトからも話は聞いてる。ドローレス・アンブリッジはアイビス・プライアとも親しいって」
「あの女はプライアを彼女が研修時代から可愛がっていたと。気を付けろ。迂闊な言葉ひとつでお前をアズカバンに放り込むには十分だ」

思ってもいなかった言葉を聞いて、は目を丸くした。アズカバン?まさか    いくら魔法省の人間といえども、ホグワーツの中でそんなことはできまい。
だがそんな彼女の胸中を見透かしたように、セブルスはあらかじめ用意してあったらしい予言者新聞をこちらに投げて寄越した。日付は今週の月曜日。
その第一面の大見出しを読んで、ははっと息を呑んだ。

「な    何なの、これ!」

そんな、いつの間にこんなことに。
記事には、教育令第二十三号によりドローレス・アンブリッジが初代高等尋問官という職位に任命されたと書かれてあった。『高等尋問官は同僚の教育者を査察する権利を持ち、教師たちが然るべき基準を満たしているかどうかを確認する。』

「もちろん俺たちもアンブリッジの査察を受けることになる。そして『基準』に満たないと判断されればその時はどうなるか    これも見ろ」

そしてセブルスはもう一つ別の新聞もの膝の上に載せた。今度は六面の隅、小さな小さな記事に目が留まる。
騎士団員のポドモアが、魔法省侵入及び強盗未遂容疑でアズカバンに六ヶ月の収監を命ぜられたというものだった。

「ポドモアが    そんな……まさか」

まさか、《予言の間》警備の任務に就いている時に。
セブルスは深々と嘆息し、の読み終えた二つの新聞を拾い上げて吐き棄てるように言った。

「奴はダンブルドアとの繋がりを疑われていた。そのポドモアが魔法省内部    しかも神秘部で見つかった。言い逃れのし様がない。あの女がいる限り、同じことがホグワーツ内で起こらないという保証はもうどこにもないだろう」

ベッドの上で膝を抱え、ゆっくりと深呼吸する。先が思いやられるが    乗り越えていくしか、ない。そう遠くはない未来に、奴らは自分たちの過ちに気付く。
私はかつて、あのダンブルドアまでも欺いた。愚かな魔法省の人間くらい。
プライアの冷ややかな微笑を思い出し、は歯噛みした。あの女にやり込められて    たまるか。

「アンブリッジがあの女と近しいからといって、過敏にもなり過ぎるなよ」

彼女の心を見透かして付け加えたセブルスに睨みを利かせようと顔を上げると、ちょうど背を向けた彼が部屋を出て行くところだった。













こんなにも化粧に時間をかけたのは生まれて初めてかもしれない。
学生時代、周りには男の子の目を気にしてばっちりと仕上げたメイクで飾った友人たちもいた。だがはそんなことを気にしはじめる前から『友達』としてシリウスやジェームズたちと育ち、高学年になっても今更着飾ろうとは思わなかったし、卒業後はあらゆるものを棄てて陰の世界で生きた。闇の帝王が姿を消した後も、この城で相手にするのは幼い子供たちばかり。飾り立てる必要性をまったく感じなかった。

だが今は、そんなことを言ってはいられない。呪いの痛みで疲弊したことを隠すにはくすんだ皮膚を覆い、血色の良い肌を演出しなければならない。ポンフリーに頼んで明るめのファンデーションとチークを受け取り、普段は使わない華やかな口紅を塗った。

馬鹿みたい。何でこんなことに気を遣わなければいけないの。
いや、仕方ない……理由を聞かれても誤魔化せる程度に。隠さなければ。心を閉じてしまうように。

先生!もう二週間も出てこられないから心配してたんですよ」
「え、ええ……ごめんなさい。もう大丈夫ですから」
「本当ですか?先生は頑張り過ぎなんですよ。休暇中もずっと残っていらしたとか?でも、思ったより元気そうで安心しました」

もう何年もずっと、私の隣で素直に泣いたり笑ったりしてみせるシニストラ。彼女のこの率直な瞳に、救われたこともきっとあるのだろう。
護りたいものなんて。この世にいくらでもあるのだから。
だから、なんとしてでも。

大広間に行けば問題の人物はすぐに分かった。ピンクのふわふわのカーディガン、頭の上に黒いビロードのリボン……なんて、悪趣味。あの女の隣にコーネリウス・ファッジとアイビス・プライアが並んで立っている姿を想像して、はうんざりと嘆息した。

そして予想通り、朝食を終えてしまうとニヤニヤと不気味に微笑んだアンブリッジがの許を訪れた。

「おはようございます、先生。わたくし、闇の魔術に対する防衛術教授のドローレス・アンブリッジと申しますわ」
「……初めまして、です。『お噂』はかねがね」

はパンを千切る手を休めて、軽く一礼してみせた。う、強烈……嫌でも三年前のDADA教授を思い出してしまう。が、顔を顰めないように無理やり筋肉を動かす。傍らでまだスープを口に運んでいるセブルスが一瞬だけ横目でこちらを見た。

にたりと笑ったアンブリッジが僅かに声を落として告げる。

「わたくしも随分と以前からあなたの『お噂』は耳にしておりますのよ。お会いできて嬉しいわ」
「……光栄です」
「ところでわたくし、今は大臣から高等尋問官という職を任されていましてね。あなた方が教師として相応しいか否かを審査するという仕事がございますの」
「ええ……教授から伺っております」

アンブリッジは満足げに唇を歪めた。

「ですから、あなたが半月遅れで授業に出てきたということはわたくしから大臣に報告させていただきます」
「……ご随意に」

勝手にしろ。ファッジがどう思おうと関係ない。
私は本当に、『具合を悪くして』部屋に閉じこもっていたのだから。疾しいことなんて何もない。

軽い足取りで去っていくアンブリッジの後ろ姿を見据えていると、セブルスの厳しい眼差しと目が合った。『反骨精神など見せるな。』

(……だって、あの女!)
(俺の言ったことが分からなかったようだな。お前は当然『ダンブルドアの犬』と見なされている。そんなにアズカバンに送られたいか)
(じゃああなただったら何て答えてたっていうの!)

どうせセブルスだって同じことを言われていたら私と同じことを言ったでしょうに。あなたはいつだってそうよ。
視線だけでいがみ合っていると、背後で不満げに口を尖らせたシニストラの声が聞こえた。

「感じ悪いですよね。先生は体調悪くしてただけなのに。あんな言い方しなくたって」

は身体を強張らせ、慌てて天文学教授に向き直った。

「いえ、私に非があるんです……仕事前に体調を整えておくべきでした。『高等尋問官』の前では、あまり彼女のお気に召さない発言はなさらない方が」
「それは……ええ、もちろんそうですけど」

シニストラは曖昧に頷いたが、まだアンブリッジの消えた扉を不服そうに見つめていた。いけない、このままでは素直な彼女がアンブリッジへの不満を募らせる。

「もう長年誰も引き受けようとしなかった闇の魔術に対する防衛術の教授になられた方ですよ。魔法大臣の補佐官という職を辞してまで。我々はホグワーツという狭い社会の中ですっかり馴れ合ってしまっています。時には外部からの査察が入るくらいがちょうどいいんですよ」
「……そうですか?」

彼女の言葉にシニストラは眉根を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
まさかそんなこと、夢にも思っていないけれど。騎士団に無関係なシニストラを個人的な感情から危機に追いやるわけにはいかない。あの調子では、アンブリッジは気に入らなければ誰でも彼でも自分の思うように片付けてしまうだろう。子供たちがただ純粋に学ぶための学び舎を掻き乱した。犠牲は最低限に留めなければならない。

同じことだ。私はアズカバンに行くことも、あの陰気な屋敷に戻ることも    帝王の下へ赴くことも、そのどれも避けたい。避けねば。私にはもう、この城しか居場所がない。

(耐えなきゃ……こんなの、何でもない……)

そのために、セブルスにあんなにも複雑な薬を頼んだ。彼もそれを承諾してくれた。この城で働くしか、私には。
そして自分にできる範囲で、『あのこと』を調べる。

(やらなきゃ。私にはそれしかない)

最後の一切れのパンを口に放り込んで、はセブルスと共に席を立った。