夏休み最後の日、本部を訪れたセブルスは吸血鬼の牙の薬がまだ完成していないことをに告げた。
「だがあと半月もあれば何とかなるだろう。それまでは我慢しろ」
あと半月、か。は僅かに肩を落としたが、ありがとうと言ってベッドの上に倒れ込んだ。
グレンジャーとウィーズリーの監督生就任祝賀会である今夜の晩餐には久々にモリーからお呼びがかかっているが、いつものように時間を外してひとりで食べるつもりでいる。セブルスはこの後すぐホグワーツに戻るだろうし、明朝は子供たちが起きるよりも先にこの屋敷を発つ。余計な心労は増やしたくなかった。
このままセブルスと共に城へ帰れればいいのだが、ホグワーツの外を、しかも彼と一緒に行動するのは危険だ。闇の陣営にはまだセブルスを疑う人間が少なからずいるようで、内部には彼を監視する動きもある。そんな中、彼と二人だけで移動している現場を捉えられでもすれば。
「聞いた話だが」
この屋敷で飲むための最後の一回分である薬をテーブルに置きながら、静かにセブルスが切り出した。
「 あの男の部屋に、入り浸っているそうだな」
一瞬シリウスのことを考えてどきりとしたが、すぐに彼のことではないと思い直す。ああと軽く相槌を打って、は物憂げに身体を起こした。
「レグルスの部屋のこと?ええ、そうよ」
「何のために。調べたいことがあると言っていたそうだが」
「誰から聞いたの?ウィーズリー?」
「いや。アップルガースが気にかけていた」
あの男に話した記憶はない。アップルガースはウィーズリーか子供たちにでも聞いたのだろう。は小さく肩を竦めてみせた。
「隠していたつもりはないの。ただ、気になっていたことがあったから」
「何だ」
「まだ、確信があるわけではないんだけど」
「いいから言え。じっとこんなところに閉じこもっていたお前一人に何ができる」
これがセブルスでなければカッとなって手をあげていたかもしれない。好きでこんなところにいたわけじゃない。だがは「そうね」と項垂れて、眼前に立つ彼を伏せ目がちに見上げた。
「本当に……何となく、としか言い様がないのだけど。彼は、知っていたんじゃないかって」
「何を」
間髪容れずに問い掛けてきたセブルスから数秒ほど視線を外し、続ける。
「 おかしいと思わない?帝王は十四年前、撥ね返った死の呪いを受けたのよ。それなのに、あのお方は死ななかった。こうして舞い戻ってきた。何らかの特殊な魔法を自身に施していたとしか思えない」
「そんなことはあの当時からダンブルドアも考えていた。それがあの男と何の関係がある」
「私、レグルスはそのことで何か知っていたんじゃないかと思うの。だからもしかして、彼のところに手掛かりになるものでもあればと思って」
セブルスは訝しげに眉を顰め、馬鹿な、と吐き棄てるように言った。
「何を根拠に。俺の知る限り、あの男は末端の死喰い人に過ぎなかった。そんな重大な問題に関わっていたはずがない」
「そうかしら。それは、私たちが知らなかっただけかもしれないわ。あの頃から帝王は私たちに疑いを持っていたのかもしれないと、それはあなたが言ったことよ。事実、マクネアでさえ知っていたワームテールのことを、私たちはまったく知らされていなかった」
彼はもう一度、馬鹿なと繰り返して嘆息混じりに首を振った。
「……で。仮に、お前のその勘が当たっていたとしよう。奴の部屋から何か『手掛かり』になりそうなものは見つかったのか」
「それは……まだ、だけど」
ばつの悪い心地で答えると、セブルスは呆れた様子でこめかみを掻いた。
「……まあ、いい。明日からの薬はまた城で渡す。それから、新しい薬が完成するまでは生徒たちの前に姿を見せるな。いいな」
やはり、そうか。仕方あるまい。鏡を覗く度に、自分の顔がますます青白く痩せ細っていくことには気付いていた。慢性的な呪いの痛みと、激しい頭痛。こんな姿で人前に出れば病気なのかとすぐに注目を集めてしまうだろう。たとえホグワーツ内といえど目立つような行動は避けたかった。
大丈夫、半月。あと、半月もすればセブルスがクィリナスの発案した薬を完成させてくれる。信じて待つしかない。
セブルスの腕の確かさは、私が一番よく知っている。
「……ねえ」
去りかけた後ろ姿にそっと声をかけると、彼は気だるげに首を捻った。
「 ピーターは、どうしてる?」
口にしてしまってから、そんな自分に失望する。セブルスもわざとらしく息をつき、半分ほど身体をこちらに向けて呟いた。
「容易に想像がつくだろう。あの男にできることなど限られている。帝王の復活に尽力した その功績でしばらくは命も保障されようが、それもいつまで続くか。あの男の処遇に煩い連中も少なくない。つまらん情など忘れろ」
情なんて。あんな男に、そんなもの。
だがは、何も言えずに彼の背中を見送った。
あれからずっと、考えていた。ジェームズたちを裏切った、ピーター。ワームテール。同じだ。私は彼と、何ら変わりない。
彼は、私のためにジェームズとリリーを売ったのだといった。『向こう側』にいる、私のためにと。
くだらないと、私がそれを笑えるか?
同じはずだ。どんな事情があろうとも、も私も帝王の下で働いていた。それは変わらないはずだ。それなのに、私だけが咎められるべきか。私だけが!
違う。私は彼と、同じ世界に堕ちた。
私にはセブルスがいた。ホグワーツを卒業して以来、私の隣にはいつだって彼がいた。彼と共に、この手を闇に染めることを決めた。
だが、彼は。ピーターは、たった一人ではなかったのか。
あのピーターが、自分の意思で帝王に近づいたとは思えない。初めに接近してきたのは死喰い人だろう。騎士団に身を置き、ポッター夫妻とも近しく心の脆い彼に近づいた。
彼は、たった一人で悩み抜いたはずだ。七年を共に過ごした仲間。それを棄ててしまうに、どれほどの決意を要するか。
だからといって決して赦されることではないが。私にはそれを、推し量ることができる。
だからこそ、こんなにも苦しい。
ただ純粋な憎悪で見ることができれば、楽だ。だがそこには、複雑な感情が交錯する。そんなもの、自分勝手なエゴに過ぎない。
私は彼と同じように、かつての仲間たちを裏切った。だが後悔は、今はこの胸に仕舞って戦うしかない。
彼が再び闇の世界に戻るというのなら。今度こそ彼 ワームテールと、干戈を交えるしかない。
この戦いを、終えるまでは。
は気持ちを入れ替えるために一度大きく深呼吸し、跳ねるようにベッドから飛び起きた。
それまでは。
さよなら、ピーター。
本部で最後の風呂に入ろうと、必要なものだけを持って部屋を出る。この時間であれば厨房はまだ宴会騒ぎが続いているだろう。浴場は一階の奥に二つあり、一人ずつが使用できるようになっていた。
この十年まったく使われていなかったとはいえ、天下のブラック家の屋敷だ。一度の大掃除を済ませれば、そこには大人一人がゆったりと浸かれる贅沢な浴室が復活した。
温かい湯に首まで潜り込んで肩の力を抜くと、ほんの少しでもこの左腕の痛みから解放されるような気がした。
足音を潜め、ゆっくりと階段を下りていく。
すると眼下の踊り場に立つ一人の青年に気付いて、は思わず顔を顰めた。あの青年を見るだけで、胃が捩れる。彼はこちらに気付いていないようだった。どうしよう、戻ろうか。いや、どうして私が逃げなければならない。
しばらくその場で足踏みしていたが、覚悟を決めて下りようと唇を引き結ぶ。だがそこで、ようやくは踊り場に立ち尽くすハリーの様子が普通ではないことに気付いた。
扉の開いた客間を見つめ、凍ったように固まっている。
どうした 何があったんだ。
その時、客間の中から震える声が聞こえた。
「リ、リ リディクラス!」
パチンという音とともに、モリーの啜り泣きが鼓膜を打つ。は狂ったように呪文を繰り返す彼女の叫びを聞いていた。
「リ、リディクラス!やめて、やめて……リディクラス!リディクラス!リディクラス!」
「おばさん、ここから出て!」
とうとう客間の中に飛び込んだハリーに触発されるように、もまた着替えやタオルを放り出して駆け下りた。窓から薄い月明かりの差し込む部屋の壁際に蹲るモリーと、その傍らに転がったハリーの死体。はその一瞥だけですべてを理解し、本物のハリーを押し退けて懐から杖を取り出した。客間の文机に何かいると以前からモリーが言っていたのを思い出す。
たかがまね妖怪だ。落ち着け、この程度のことで。
一度だけ深く息を吐いてから、は血を流すハリーに向けてその呪文を唱えた。パチンと音がして、青年の死体が消え去る。そのちょうど同じところに新たに現れたのは、杖を握り締めた自分自身の姿だった。
ほんの一瞬だけ、動揺する。あれから何十年も経つというのに、私はまだまったく同じ影に怯えているのだ。
杖を真っ直ぐこちらへと構えた自分が、冷ややかな眼差しで唇を開く。
「アバ 」
「リディクラス!」
もう一度パチンと音を鳴らし、まね妖怪は霧のように消えていった。ひっそりと胸を撫で下ろし、握った杖を下ろす。
蹲ったモリーは嗚咽とともに両手で顔を覆って激しく泣きじゃくった。
彼女に声をかけたのは、背後から現れたリーマスだった。振り向くと、いつの間にかそこにシリウスとムーディまでもが姿を見せている。はすぐにそちらから視線を外し、リーマスの肩に縋るモリーを見下ろした。
「モリー、ただのまね妖怪だよ。そうだろう?ただのくだらない、まね妖怪さ……」
「わ、私、いつも、いつもみんなが……みんなが、死……死、死ぬのが見えるの!」
モリーは胸も張り裂けんばかりに泣き叫び、リーマスの腕の中でしきりに首を振った。
「い、いつもなの!ゆ 夢に見るのよ……」
そう言って、彼女は嗚咽しながら袖口で必死に目元を拭う。
「アーサーには……い、言わないで。私、ア、アーサーに知られたくないの……あんな、あんな馬鹿なこと考えてるなんて……」
リーマスは子供でもあやすようにモリーの肩を叩き、彼女にハンカチを手渡した。モリーは勢いよく洟をかみ、またぶるぶると頭を振った。
「ハリー、私に失望したでしょうね……たかがまね妖怪一匹も片付けられないなんて……」
「そんなこと」
「わ、私、本当に……心配で心配で……」
再びモリーの瞳からわっと涙が溢れ出た。
「家族の、は、半分が……騎士団にいる 全員が無事だったら、き……奇跡だわ。それに、パーシーは口も利いてくれないし……な、何か恐ろしいことが起こって、もし二度とあの子と……な、仲直りできなかったら?それに、もしも私もアーサーも殺されたら……ロンやジニーは、だ、誰が面倒を 」
「モリー、もうやめなさい」
リーマスはきっぱりと言った。
「前回とは違う。騎士団は以前より準備が整っている。最初の動きが迅速だった。ヴォルデモートが何をしようとしているかを知っている」
はモリーほどその名に大きく反応することはなかったが、それでも身が縮まるのは抑えられなかった。誤魔化すように咳払いし、再びリーマスに視線を移す。
「モリー、もういい加減にこの名前に慣れてもいい頃じゃないか。いいかい、誰も怪我をしないと保証することはできない。誰にもできない。しかし、前回より状況はずっといいんだ。あなたは以前騎士団にいなかったから分からないだろうが、あの時は二十対一で死喰い人の方が数を上回っていた。そして一人、また一人と殺られたんだ……」
その頃私は、帝王の下にいた。その『二十』のうちの一人として、あのお方のために、そしてダンブルドアに『復讐』するために 。
「パーシーのことは心配するな。じきに気付く。ヴォルデモートの動きが明るみに出るのも時間の問題だ。一旦そうなれば、魔法省全員が我々に許しを請う。但し、奴らの謝罪をこちらが受け入れるかどうかは分からないがね」
シリウスが苦々しげに言いやる。は魔法省『全員』がダンブルドアに許しを請うことはまずないだろうと思ったが、何も言わずにそっと杖を仕舞い込んだ。
立ち去ろうと踵を返し、ふと思い立って上半身だけで振り返る。
リーマスのハンカチでまた目元を拭ったモリーに向けて、は諭すように囁いた。
「あなたには、守るべきものがたくさんあるじゃない。失いたくないものがあればあるほど、人はそれだけ強くなれる」
驚いたような顔をして、誰もが一斉にこちらを向く。らしくない。だが構わず、彼女は続けた。
「だからあなたは、もっと強くなれる。失いたくないものがあるのなら、それを失う前に守り抜かないと。あなたはそのために、戦うんでしょう」
まったく、らしくない。だが『彼』の言葉を思い出すだけで、それを伝えずにはいられなかった。
失いたくないものを守るために、そのために闇祓いになりたいのだと真っ直ぐな瞳で語った、彼の言葉を。
それをこの青年に、伝えなければならないと思った。
ムーディが小馬鹿にするように鼻を鳴らしたが、きっぱりと無視する。心なしか嬉しそうな表情でリーマスがこちらを見てくるので急に気恥ずかしくなって、は足早に客間を後にした。立ち尽くすシリウスの脇を、一瞥すらせずに通り抜ける。彼もまた、何も言わなかった。
守るべきものがたくさんあればあるほど、人はそれだけ強くなれる。
だから彼らは、あんなにも強い心を貫けた。
今の私にあるのは、そんなものじゃない。
それでも。
先程放り出した着替えを拾い集め、はそのままふらりと自室へと戻った。
それでも、ねえ、ジェームズ。
私は最期の『その時』まで、戦い続けなければいけないよね。