夏休みも、残すところあと僅か。
遠慮がちな、ノックが二回。
ここのところ入り浸っていたせいで埃の薄くなったベッドに腰掛けていたは、うんざりと嘆息して首を捻った。こんなところに、一体誰だ。この屋敷において自分を訪ねてくる人間は限られているが、そのいずれでもないと認識する。
「どうぞ」
促してから、実際に扉が開くまでには多少時間がかかった。古びたランプが照らす部屋へと恐る恐る踏み込んできたのは、想像だにしなかった相手。
いや。この少女なら、万が一 。
「あの……、先生。お休みのところ、すみません。魔法薬学のことで、どうしてもお聞きしたいことがあって……」
言って少女は、胸の前で抱えていた教科書を軽くかざしてみせた。
少女と呼ぶには、微妙な年頃か。彼女らが真新しい制服に身を包んでホグワーツ城へとやって来た日は、まるで昨日のことのように覚えている。その日、この少女の存在を認識していたわけではないが。だが最も焦がれ、最も恐れていた新入生を迎えたあの夜のことだ。どうやって忘れられようか。
ハリー・ポッターと、ネビル・ロングボトム。
彼らの顔を直視するのは、とてつもない苦痛だった。自分がその死に関わった人々の血縁をホグワーツに迎えることはそれまでにもあった。マクキノン家、そしてボーンズ家の人間。プレウェット夫妻を死なせたのはセブルスだ。バーバラ・プレウェットは叔母によく似たくせ毛のレイブンクロー生だった。
だが、あの二人は。他のどんな子供たちとも、違う。ハリー・ポッター。あの少年の一瞥は、私の全てを容易に射抜いた。
自分を保つには、彼を。
「……分かっているとは思うけど、私は今、教師としてここに留まっているわけではないのよ」
ベッドの上に腰掛けたまま、ゆっくりと足を組みかえて告げる。少女は怖気付いたように口を噤み、教科書をきつく抱き締めて硬直してしまった。
深々と息を吐き、続ける。
「もっと他に、何か用があったんじゃないのかしら」
するとグレンジャーは大きな目をぱちくりさせて、呆気にとられた様子でを見た。
「そ、それは、その……」
「用があるなら早く済ませてほしいわね。私は大事な探し物をしているの」
「……ここ、シリウスの弟さんの部屋、だったんですよね?」
不審そうに部屋を見渡しながら、少女が漏らす。聞こえなかった振りをして、は何気なく天井を見た。
そこに、ふとした違和感を覚えてその薄汚れた一点をじっと見つめる。
あれは まさか。
「シリウスの弟さんも……あの人の、支持者、だったんですよ、ね……?」
恐る恐る発せられた問い掛けに、はようやく少女の顔を見た。殊更に厳しい顔をしてしまったのだろう、びくりと身を強張らせてグレンジャーは僅かに後ずさった。
慎重に言葉を選びながら、口を開く。
「わざわざそんなことを聞きに来たの?よほど、暇なのね。そんなことは 」
「 先生、も」
思い切ったように顔を上げたグレンジャーは。の科白を遮り、それまでとは打って変わった明瞭な口調で告げた。
「先生も、シリウスの弟さんも……それに、スネイプ先生だって 何か事情があったから、だから闇の世界を選んでしまったんでしょう?現に今はこうして、先生もスネイプ先生も騎士団にいます。先生、おっしゃいましたよね?逃げも隠れもしないって。ハリーに、成長したと思えばいつでも来ればいいって。その時に話をするって、おっしゃいましたよね?」
そんな、こと。
だがこちらには口を挟ませず、少女は続け様に言い放つ。
「差し出がましいかもしれませんけど、でももう話し合ってみてもいいと思うんです。ハリーだって、大人になりました。ハリーと、話し合ってください。私、忘れられないんです……先生が、ハリーのご両親やシリウスたちと一緒に写ってる写真。みんな 本当に、本当に楽しそうで」
「 やめて」
「先生、シリウスと付き合ってたんでしょう?ハリーのご両親と親友で、ルーピン先生とだってすごく仲が良くて」
「 やめなさいと言ってるでしょう……」
「それなのにあの人の支持者になるなんて、おかしいです。何か理由があったんでしょう?ひょっとして、先生がずっと本部にいることと何か関係が 」
「いい加減にしなさい!」
かっと頭に血が昇って怒鳴りつける。左腕の髑髏が激しく脈打つのを感じ、振り払うようには勢いよく立ち上がった。喋り続けたことにようやく気付いたのだろう、グレンジャーが真っ青になって大袈裟なまでに震えだす。
最後通牒のつもりで、はゆっくりと、噛み締めるように告げた。
「二度と、私の前でその話題を出さないことね。分かったら出ていきなさい」
「す、すみませんでした……でも、私はただ 」
「聞こえなかったの?さっさと出ていきなさい」
ぴしゃりと放つと、俯いたグレンジャーは小さく頭を下げて慌てて踵を返した。
だが。
「その必要はないよ、ハーマイオニー」
薄く開いたままだった扉の隙間から、声がした。そっと、その人物が中へと入ってくる。
呆けた口調で、グレンジャーが彼の名を呼んだ。
「ルーピン先生……」
「、そろそろ潮時じゃないかな。ハーマイオニーの言う通り、ハリーはもう 少なくとも、子供ではない。君を赦すにせよ、そうでないにせよ、それを受け止めて自分で判断できる年齢だ。君がダンブルドアから君自身の秘密を聞いたのも、確か今の彼と同じくらいの年頃だったろうと思うよ」
は厳しい眼差しでリーマスを睨んだが、彼はまったく怯む様子もなく、おろおろ戸惑うグレンジャーに言った。
「ハーマイオニー、ハリーを連れてきてくれないか。一度先生とよく話をしよう。私も、そして彼が望むのならシリウスも同席するからと」
「ちょっ……勝手なことしないで!私にそんなつもりは 」
「いいから、ハーマイオニー。ハリーを呼んできておくれ。もちろん、あの子が望まないなら無理強いはしない」
「ルーピン!」
激しく相手の名を怒鳴りつける。彼は少し驚いたようだったが、すぐに表情を戻してグレンジャーに一瞥を送った。ぺこりと頭を下げて、少女が足早に去っていく。
はリーマスに詰め寄りながら一気に捲くし立てた。
「余計なことしないで!こんなところで厄介事を増やしたくないの。これは私の問題なのよ、放っておいてよ、お願いだから」
分かっていた。こんなの、ただ逃げてるだけ。
諌めるような彼の視線が、あまりにも厳しく 容赦ない。
今日こそ彼は、本気だ。
「これは君だけの問題じゃない。君ももちろんハリーも ジェームズだって、リリーだって。それに」
そしてそっと目を伏せて、リーマスは寂しそうに囁いた。
「 私だって、たまらないんだよ。君があの子に真実を秘め続けて苦しむことも、あの子が君のことを何も知らずに憎み続けることも」
そう言った彼の眼が、少しだけ赤くなっている。どうして、あなたが苦しむの。どうして、どうして。
優しすぎる彼の涙が、私の心を揺さぶる。
「それに、今ここであの子に打ち明けておかなければ 君はもう、この先もずっと、あの子に何も言えなくなるような……そんな、気がするんだ」
「………」
確かに、その通りかもしれない。ホグワーツには他にも何百という子供たちが共に生活していて、自分にも、そしてあの子にもそれぞれの為すべきことがある。ゆっくり話ができるとすれば、それは今、ここでしか。
は大きく溜め息をつき、観念したように軽く両手を挙げた。
「……分かった。でも、あの子と二人で大丈夫よ」
「そうか。でも、もしもあの子が望むようならシリウスも一緒に 」
「それはだめ」
思わず、強い調子で言ってしまった。彼は少なからず驚くかと思ったが、「やっぱり」とつぶやいて顔を曇らせた。その様子に、こちらの方がかえって意表を突かれてしまう。
「やっぱり、彼と何かあったんだね?単なる、喧嘩ではなくて」
ちょうどその時、戻ってきたグレンジャーがおずおずと扉の隙間から顔を覗かせた。
「あの……ハリーは、話したくないって、言ってます……」
少女の言葉に、気まずそうな面持ちで振り向いたリーマスがこちらを見た。さり気なく視線を外して、グレンジャーを見やる。
「そう。それなら、いいわ。どうもありがとう」
平たい声でそう告げると、グレンジャーは小さく一礼してすぐに扉の向こうに姿を消した。正直、ほっとした。私の咎ではない、あの子が望まないからだ 。
それを見透かしたように、リーマスが言った。
「、君は 」
「リーマス」
はっきりと、彼の言葉を遮る。
逸らしていた視線を真っ直ぐにリーマスへと戻し、は告げた。
「いい年をして、心配ばかりさせてごめんなさい。でも、何もかも自分で蹴りをつける。だから、私のことは心配しないであなたは自分の任務に専念してちょうだい。私は、大丈夫だから」
閉心術の最大のポイントは、相手の視線を捉えること。ただ。
「 ありがとう」
その言葉だけは、真実。
彼は、寂しそうに笑った。
「冗談でしょう?」
ドローレス・アンブリッジ。コーネリウス・ファッジの補佐官。
夜更けに本部へと戻ってきたウィーズリーから聞かされたは思わずスープを噴き出した。ファッジの直接の部下が、ホグワーツの教員 しかも、闇の魔術に対する防衛術の教授に?
厨房にはウィーズリー夫妻、そして任務の合間に立ち寄ったシャックボルトが残っていた。の飛ばしたスープの跡を魔法で取り除きながら、ウィーズリーが首を振る。
「本当だよ。ダンブルドアが闇の魔術に対する防衛術の教授を見つけられずにいたことはもちろん君も知っているだろう?」
当たり前だ。自分たちが学生だった頃から既に闇の魔術に対する防衛術の教官は年々入れ替わっていた。
「この時期になってもまだ適任者が見つからないものだから、とうとうファッジが干渉することになってね。ダンブルドアも受け入れることを決めた。苦肉の策だ」
「でも……だからといって」
帝王が復活した今、最も重要なことは英国民すべての危険認識を育て、個々の防衛術を強化することでもある。そんな大切な時期に、帝王復活という事実から目を逸らす魔法省の人間が防衛術の教授になるなんて。
今こそ、真に闇の世界を知る人間が必要だというのに。
痛む左腕をテーブルの下で押さえつけながら、眉根を寄せる。ウィーズリー夫妻は不安げに目配せしたが、何も言わなかった。
「そういえば、」
落ち着き払った声で、シャックボルトが言った。
「ホグワーツに戻るときは、アンブリッジに注意した方がいい」
「どういう意味?」
訊ねると、彼は手元のカップを見下ろしていた視線を上げて小さく頷いた。
「魔法法執行部の一部が君を警戒している。例のあの人が復活したなどという噂を流す人間がいるのは、君がかつてのあの人のように支持者を集めて立ち上がろうとしている、そのための布石ではないかと」
ああ……、と気のない声でうめく。ある程度は予測していた。
「君が姿を眩ましているのはそのためだと力説する人間もいる。ダンブルドアは、君は研究に専念しているのだと説明しているが」
今や耄碌した老人に過ぎないというレッテルを貼られたダンブルドアの言葉だ。信じない者もいるだろう。もっとも、新学期が始まって城に戻れば、自分が研究に専念できるほど健康な身体ではないということはすぐにばれてしまうに違いない。
あと、二日しかない。どうか、セブルス。間に合って。成功すれば、その薬は絶大な効力をもたらすはずだから。
あなたを信じてる クィリナス。
「魔法法執行部副部長のプライア 君が行動を起こそうとしていると勘繰る連中の筆頭だ。アンブリッジはプライアと近しい。彼女の前ではより一層言動に注意するべきだと思う」
プライア、か。どこまでいっても、きっと永遠につきまとう。そういった予感。そしてそれは、あながち誤ってはいまい。
「ありがとう。覚えておくわ」
言って、は冷めかけたスープをまた飲んだ。
が、突然思い出したように、シャックボルトが言葉を続ける。
「それから、もうひとつ」