会議室となる厨房にシリウスが下りてきたのは、ダンブルドアが現れた数分後のことだった。ここのところ上機嫌だったその顔が今では見るからにムッとしている。は気付かない振りをしてセブルスの隣に腰掛けた。

「それでは、始めようかのう」

 テーブルについた全員の顔をゆっくりと見渡しながら、ダンブルドアが言った。













 ハリーがブラック家の屋敷に到着してから、既に一週間が過ぎた。魔法省の尋問は二日後に迫っているが、団員たちはそのことを前日まで敢えて本人には言わないでおこうという意見で一致していた。早めに伝えておいたからといって利点はないし、ただ緊張させるだけだ。どのみちは子供たちと顔を合わせないようにと極力自室にこもっていたので、彼女にはさして関係もなかったが。

 二度目の会合では重大な議題が話し合われた。セブルスが持ち帰った、『予言』を巡る問題についてだ。まさかこんなところで記憶から掘り起こすことになろうとは夢にも思わなかった。

 あの予言さえなければ。私があの予言さえ聞かなければ。彼らは。

 帝王に為されたという予言だってそうだ。あんな予言さえなければ母が死ぬこともなかった。私は今でも家族の愛に包まれて、日本で平和に平凡な暮らしを享受していたかもしれないのに。

 ダンブルドアの機転で思うように動けず行き詰っている帝王は、シビル・トレローニーの予言に着目したという。そもそもあの予言から全てが始まったのだ、と。予言のことをセブルスが帝王に伝えたとき、彼らはその一部分しか知らなかった。その全貌を手に入れることができればきっと、そこから新たな道が拓けるはずだ、と。

 予言の全てを知れば、帝王はどんな手を使ってでもハリーを仕留めるだろう。は後にそれをダンブルドアの口から聞いた。一方が生きる限り、他方は生きられぬ。

 真の予言者によって為された予言は魔法省に申告する義務があり、トレローニーの予言もまた、魔法省の《予言の間》に保管されているという。

 《予言の間》の予言、そしてトレローニー本人を闇の陣営から死守すること。

 は重苦しい心地でそれらが口々に話し合われるのを聞いていた。ごめん、ごめんね。ごめん……。ただそれだけを、繰り返すしかない。

 会合の後、厨房の入り口で出会い頭にぶつかったセブルスとシリウスはまさに一触即発の状態だった。凄まじい形相で睨み付けるシリウスに、セブルスはふんと冷たく鼻で笑ってみせる。

「つまらんことを詮索しているようだが。暇な人間は考えることもいちいち全てが稚拙だな」

 かっと頭に血が昇ったらしく、彼に飛びかかろうとしたシリウスを慌ててウィーズリーやシャックボルトが止めた。多忙なダンブルドアやマクゴナガルは既に去った後だった。

 長身のシャックボルトに押さえ込まれてもがきながら歯を剥くシリウスを冷ややかに見据え、セブルスがマントを翻す。

「せいぜい大掃除にでも専念してつまらんことを考える時間をなくすことだな」

 その一言で、シャックボルトの腕から飛び出したシリウスが、杖を抜く間も惜しかったのかセブルスにそのまま掴みかかってあわや格闘になりかけた。モリーの金切り声で我に返ったらしい二人は突き放すように互いのローブを払い、セブルスはひとりでさっさと厨房を出て行った。

 以来、シリウスとの関係は急激に悪化した。お互いに可能な限り同じ空間にいることを避けたし、彼はまた仏頂面の毎日に戻った。愛しいはずのハリーがやって来てからもそれはさほど改善されることもなく、は彼にもらったリングのネックレスを外し、また母のクロスを身に着けるようになった。

 愛想を尽かされたのだろうな、と思う。売り言葉に買い言葉とはいえ、セブルスと関係を持ったことをあんなにも開き直って宣言してしまった。寂しかったのは本当だ。苦しい記憶を少しでも考えずに済む、それだけの理由で彼と寝たことは決して褒められたことではない。そしてそれが十年という歳月で日常と化していた。

 だが、どうしようもないじゃないか。

 いいんだ、これで。彼を愛している。その気持ちに、偽りはない。だからもう、"ごっこ"は終わりにする。指輪を贈り、愛を囁き合い、身体を重ねる。そんなものは、必要ない。

 彼を愛している。ただ、その真実さえあれば。

 この一週間ほどでダンブルドアの状況は急速に悪くなっていた。帝王復活の演説をした後、彼は国際魔法使い連盟の議長職を失い、ウィゼンガモット法廷の主席魔法戦士からも下ろされ、先日は遂に勲一等マーリン勲章も剥奪されたのだ。

「このままじゃ、ダンブルドアのアズカバン行きもそう遠くないかもしれないな」

 くまの深く刻まれた目元を押さえながら、リーマスが疲れたように嘆息する。彼は任務の合間に本部に足を運び、度々の部屋にも立ち寄った。

「縁起でもないこと言わないで」

 威勢よく切り返したはいいものの、掠れたいかにも情けない声になってしまった。嘆息混じりに軽く頭を振り、言い直す。

「そんなことになったら……この国はおしまいよ。いいえ、それだけじゃ済まない。あのお方は、いつか、この世界を……」

 この世界を、手に入れてみせると。

 思い出すだけで、身体中に悪寒が走る。それを何とか誤魔化そうとベッドの上で両腕を抱いてみたが、リーマスは見透かしたように肩を竦めてみせた。

……君たちに、奴を名前で呼べとは言わないよ。でもね、そういった言い方はやめた方がいい。それじゃあいつまで経っても奴への恐怖心はなくならないだろうし、周囲の誤解を招くことにもなる」

 その言葉に空しい憤りを覚え、膝の上で握り締めた拳を見つめながら、ぽつりとつぶやく。

「そんなの……なくならないわよ。私は帝王の力を間近で見ていた。死ぬまであのお方への恐れは消えない」

「なくそうともしていないだろう」

 あっさりとそう返され、は憤慨して顔を上げた。だがすぐ目の前でこちらを向いた彼の瞳があまりにも真っ直ぐ彼女を見つめていたので、そのまま何も言えずに口を閉ざした。

 彼は物静かな口調で、繰り返す。

「君は奴への恐怖心を取り除こうとはしていない。名前を恐れることはそのものへの恐怖心をも増幅させる……長年ダンブルドアのそばにいた君が、知らないはずもないだろう。それなのに君は、今でも奴の名前すら崇めているんだ。それじゃあいつまで経っても君は君からあらゆるものを奪ったあいつを畏怖し続けることになるんだよ」

「………」

 彼の言うことはよく分かる。そうすべきなのだろうということも、頭では。だが同時に、それはあなたが帝王を知らないからだともどかしく思うこともまたやめられなかった。

 帝王というその人物を肌で知っていても尚、その眼を真っ直ぐあのお方へと向けていられるのは。

 はそっと瞼を伏せ、咳払いひとつでこの話題に終止符を打つことにした。リーマスは疲れたように息を吐いたが、それ以上追及してくることはなかった。

「そういえば……」

 ふ、と。ややあって、口を開いた彼の瞳がこちらを見ている。

 いや、正確に言えばこちらの、胸元、か。その時初めて、は無意識のうちに服の下にある十字のネックレスを掴んでいることに気付いた。そうだ、帝王のこと、母のこと。この血のことで心が乱れると、こうしているのが癖だった。子供の、頃から。

 リーマスが躊躇いがちに、言ってくる。

「そういえば、シリウスと喧嘩でもしたのかい?ここのところ、随分荒れているようだけど」

 もちろん、彼が   だろう。それとも、自分が気付いていないだけで、私自身もまた荒んでいるのだろうか?

 だとしたら、どうしようもないわね。

 自分で、選んだ道なのに。いや、選択肢などない。

 彼と共に歩む道を、棄てるしかなかった。

 ネックレスから手を離し、は小さく笑んでみせた。

「大したことじゃないのよ。心配させて、ごめんなさい」

「そうかい?それなら、いいんだが」

 彼はまだ不安げだったが、ひとまず納得はしたようだった。

 それは彼女が久方ぶりに駆使した、帝王とセブルスから授かった閉心術の賜物だった。

 こうして心を閉じてしまうことなど、何でもないはずだった。

    いつの間に、こんなにも。


















 の朝は早い。

 この屋敷に身を置く他の誰よりも早く目覚め、ひとりでさっさと朝食を済ませて部屋に戻る。とはいえ任務の合間に立ち寄る団員たちと顔を合わせることは多く、今日もそのことは覚悟していた。口煩い子供たちに遭遇するよりはずっといい。

 だがその日、は予想外に厨房が騒がしいことに気付いて扉の前で重々しく足を止めた。リーマスにトンクス、それから、ウィーズリーか。

 部屋に戻ろうか、とも考えた。だが、馬鹿馬鹿しい。どうして私がこそこそ逃げるような真似をしなければならない?

 厨房の扉にそっと手を掛けたそのとき、は中からリーマスの低めた声を聞いた。

「ところで、シリウス。まさかハリーの尋問についていこうなんて思っているわけじゃ   

「リーマス、そのことは一昨日の晩ダンブルドア先生がいらっしゃったときに   

   ええ、そんなことは、まったく考えてもいませんよ

 リーマスの言葉を途中で遮り、モリーとシリウスの険悪な声音が続く。

 は反射的にドアノブから手を離し、じりじりと後ずさった。そうか、ハリーの尋問は今日だ。ダンブルドアが証言に立てば、敗訴という事態は避けられるだろうが。あるいは、もしかしたら。

 やはり戻ろうと、足音を潜めてそのまま踵を返す。薄暗い階段を足早に上がりながら、は苦々しく唇を歪めた。もう、たくさんだ。早くホグワーツに戻りたい。

 左腕の痛みは日に日にひどくなっていた。セブルスの薬で抑えられる限界を超える日はそう遠くないだろう。いずれこの身体は腐り、朽ちていくかもしれない。そういった幻覚が染み付いて離れない。

 いずれにしても、最早この左手では魔法薬の調合は不可能だった。薬学の教員としては致命的だ。これだけの痛みが続けば単純な事務作業をこなせるかも疑問が残る。

 だから、こそ。この呪いを抑える新薬の開発が必要だった。

 何も   文字通り"何も"できない自分など、ホグワーツに身を置く資格はない。

(セブルスに、頼るしかない)

 吸血鬼の牙を用いた解毒剤を理論的に思いついたのは自分だが、それを実際に調合できるのは彼だけだと確信している。少なくとも、この身体、この環境では実験すらできない。

    ねぇ、クィリナス。

 あなたは、まさか。このことを知っていて。

 かつての同僚の姿が頭をもたげてくる。ぎゅっときつく目を閉じ、そして思い切ったように顔を上げたその先に。

 玄関ホールへと続く階段の上に、呆然と立ち尽くしたハリーがいた。気を利かせてモリーが用意していたのだろう、洗い立てのTシャツを着込んでいたが、その頭はいつも以上にぼさぼさだ。

 ジェームズとはまた違う、無造作さがある。だがやはり   似ている。

 この屋敷でまともに顔を合わせたのは、初めてだった。

 彼は視界に現れた人影がであることに気付くとすぐさま顔を歪め、彼女もまた苛立たしげに目を細めた。

 唇を引き結び、は何事もなかったかのように再び階段を上がっていく。

 擦れ違い様に声をかけてきたのは青年の方だった。

   どうして」

 彼の踏み締めた段を二つ上ってから、ようやく足を止める。だがそれでも、彼女は振り返らなかった。

「どうして」

 彼もきっと、こちらに背を向けたままだったのだろう。くぐもった声で、繰り返す。

「どうして、『先生』はここにいるんですか」

「……え?」

 眉を顰め、は首を捻った。予想に反して、ハリーはこちらを見ていた。

 あの、緑色の瞳を不信で満たして。

 彼は糾弾そのものの口調で、続けた。

「あなたは、騎士団員なんでしょう。どうして、こんなところに閉じこもっているんですか。それともシリウスと同じように、『先生』も外に出られない何か理由でもあるんですか」

 シリウスと、同じように。

 小さく鼻で笑い、は肩を竦めてみせた。

「そんなこと、あなたにはどうだっていいことでしょう。私には私の仕事がある。あなたは尋問のことだけ考えていればいいのよ」

 いくら証人があのアルバス・ダンブルドアとはいえ、彼の世間的地位は今や危ういものになっているのだから。

 彼の答えを待たずして、踵を返す。早々に階段を上がり、が足を踏み入れたのは自室ではなかった。

 薄暗く、埃っぽい   閑散とした、彼の部屋。

 既に部屋中を引っ繰り返して、何か手掛かりでもないかと調べていたけれど。

(そうよ……私には、私のすべきことがある)

 自分の、為すべきこと。

 この呪われた身体でも、できること。いや。

 この身体   だからこそ。

(お願い)

 お願い、だから。なにか、ヒントをちょうだい。

 思い出したことがある。帝王の傍にいた、男の姿。

 そうか   あれが。

 何か、あるはずなんだ。何かが。

 知っていたんでしょう、あなたは。

 だから、お願い。

 何でもいいの、どんな、些細なことでも。

 くすんだ壁に両手を這わせ、つぶやく。

「私たちを   助けて」

 レグルス。