それはささやかな、至福の時間だった。神は私の罪を赦しはしまい。だが確かにそれを認め、受け止めてくれる人たちがいる。この私を選び取り、最愛の人は共に生きると誓ってくれた。

 それはただの、口約束だ。何の契約を交わしたわけでもない。にも関わらず、こんなにも力強く私を支えてくれている。

 これが、これこそが愛の力だと、私はそれを知っていたはずだった。

 だからもう、失いたくはないと強く願った。

    だが。

 それは私にはやはり、過ぎた幸福だったのだ。










 二度目の会合を控え、疎らだった団員たちの来訪が少しずつではあるが密になっている。会合の二日前には久方ぶりにリーマスも本部を訪れ、彼は会合が終わるまでここに留まるつもりだといった。

「身体は大丈夫なの?」

 のベッドに腰掛けたリーマスは疲れた顔で静かに微笑んでみせた。

「私は平気だよ。明日までしっかり休ませてもらうからね。君の方こそ、大丈夫なのかい?」

「ええ、ありがとう。たまには外の空気を吸いたいと思うこともあるけれど」

 ほんの冗談のつもりだったのだが、彼はすぐさま表情を曇らせてたしなめるように言った。

「まさか、本部を抜け出すつもりじゃ   

「違う、違うわよ。その気があるならこんなところ、とっくに一人で飛び出してる」

   

「やだ、冗談よ。分かってる。そんな身勝手なことはしない」

 悪い冗談を言った。私の愚行ひとつでこの国が沈没する可能性すらあるのだ。だが同時に、冗談を言える心持ちに落ち着いた自分を嬉しく思うのもまた事実だった。

 彼はまだ非難がましい眼でこちらを見ていたが、やがて振り払うように頭を振って視線を逸らした。するとそこに何か気になるものでも見つけたのかふと目を開いて、リーマスは何やら枕元を眺めている。

 彼の視線を追いかけて見やる。と。

「あれは……お母さんの、ネックレスだったね?」

 どうして、それを。彼にそのことを話した記憶はない。

 ベッドの枕元には、先日首から外したばかりの十字のネックレスを寝かせてある。ハグリッドの手で渡されて以来、肌身離さずつけていた母の大切な形見。その代わり身につけるようになったのは、シリウスから贈られたリングを通したシルバーチェーンだった。指に嵌めるのはあまり気が進まないだろうと配慮した彼が、予め用意してくれていたのだ。一体いつの間に、そういった気の回る男になっていたのか。小さく笑い、母のネックレスに手を伸ばす。

「ジェームズから聞いたことがあってね。あれは、のお母さんの形見なんだって」

 言って、リーマスが寂しげに笑む。

 この十字を外すことには。抵抗があった。外してはならない。私はこの重い十字架とともに、死ぬまで自分の犯した罪を背負い続けねばならない。

 だが、そうだ。気付いた。この十字架を外したところで私の罪が消えるわけではない。今までは、母と共にそれを負ってきた。遠い日に散った母は、いつだって私のそばで同じだけの痛みを引き受けてくれていた。

 この先は、彼が。初めて心の底から愛した、唯一の人が。

 共に生きていこうと、言ってくれた。リングを首から下げるその時、心に決めた。これからは、彼と二人ですべてを分かち合おうと。この痛みも、罪も。彼の辛苦も、重荷も、そして喜びもすべて。だから。

(見守っていて、くれるよね……母さん、父さん)

 握り締めたネックレスを、そのままポケットに仕舞い込む。そしては、ローブの上から新しいネックレスを取り出して見せた。

 リーマスはしばらくポカンとそのリングを見つめていたが、やがてあっと目を見開いて瞬く。

「まさか、……とうとう、彼と?」

 はにかむように微笑んで、は再びネックレスをローブの下へと隠した。リーマスはすぐに表情を緩め、心底安堵したように息をつく。

 彼女には、そして彼には、それだけで十分だった。幸福感に満ちた空気が、陰気なはずの部屋をゆったりと流れていく。二人はそれから、一言も喋らなかった。ただそれぞれに、彼らが出逢ってからこれまでに生きた歳月の大きさを想った。

 長かった、のだろう。きっと。ここまで歩いてくるのに、一体どれだけのものを失い、どれだけの痛みを負ってきたか。

 だが確かにこうして、得られたものは   ある。

 私にはまだ、護るべきものが残されている。

 この、穢れきった両手でも。

 セブルスが屋敷に現れたのは、その二日後、二度目の会合の少し前だった。

















   薬だ」

「……ありがとう」

 ガラス瓶を、数本。

 空になったそれの隣に新しいものを置き、は部屋を訪れたセブルスに向き直った。落ち窪んだ目元がさらに落ち込み、青ざめた頬の色を鋭い眼光だけが光らせている。

「異常はないか」

「……ええ、今のところ」

 言って、彼女はすぐさま踵を返そうとしたセブルスを呼び止めた。今ここで、話しておこう。ずっと彼の来訪を待っていた。

「待って。話しておきたいことがあるの」

「……なんだ」

 疲れている。苛立っている。機嫌が悪い。悪循環の塊のようなその男を見つめたまま、準備していた一冊の本を手に取る。

 はもう片方の手で、真昼間だというのに薄暗い部屋の中に明かりを点し、折り目をつけていたページを開きながらセブルスのもとへと歩み寄った。

 怪訝そうに眉根を寄せた彼の眼前に、それを押し付ける。

 彼はますます不審そうに眉を顰め、低めた声音でつぶやいた。

「……なんだ、それは」

「見ての通り。吸血鬼の牙の毒性について書かれた文献」

 一瞬だけちらりと表題を見せてから、再び該当のページをセブルスへと向ける。そこに手書きで記された書き込みを指差し、彼女は続けた。

「死ぬ前に、クィリナスから借りたの。ただの方便だったけど。でも私は、これをずっと持ってた。彼のこと、忘れちゃいけないと思って。もう二度と、彼のような犠牲者を出してはならないって」

   何の話だ。本題を言え。じきにダンブルドアが来る。お前の感傷に付き合うつもりはない」

 クィリナスの名を出した途端、疎ましげに目を細めてセブルスが毒づいた。小さく息をつき、告げる。彼にクィリナスの思い出を求めるのは、きっと。

「……ここを見て。『吸血鬼の牙は毒性が強いため強力な解毒剤には適するが、その副作用も大きい。だがその毒性を弱めるためにとカモミール等のハーブを合わせてるとその効果は極度に下がり、解毒剤としてはほとんど効力がなくなる』」

「知っている。故に吸血鬼の牙は一般の解毒剤として使われることはほとんどない。生か死か……効力の調節が非常に困難だからだ。だからお前の薬にも吸血鬼の牙は使っていない。そんなことは、確認するまでもないだろう」

「分かってるわ。でも、これを見て。ここ。クィリナスの書き込みよ」

 ゆっくりと、強調する。すると、彼は目を細めてようやく彼女が開いたページをまじまじと覗き込んだ。もまた、何度も目を通してすっかり覚えてしまったその一文を声に出してつぶやく。

「『但し、グロスターワームの尾に含まれる毒との中和によって効果の調整が可能になる』」

 するとセブルスは信じられないとばかりに目を見開き、こちらの手から乱暴に本を取り上げて食い入るように見た。

「馬鹿な。これらの毒素は互いに反発し合うはずだ」

「理論上は、ね」

 でも、と、静かに続ける。

「吸血鬼に関しては、クィリナスは私たち以上に精通していたはずよ。吸血鬼の牙とグロスターワームの尾……どちらもあまりに強烈すぎるから、これまで誰もその二つを併せようとはしなかった。でも、彼はこの組み合わせも研究していたみたい。新しい成分を発見して、それらをどのように配合すればうまく変性するか実験を繰り返していたと」

「……まさか、あの男が、そんな   

「彼は子供の頃から闇の魔術に興味を持ってたわ。吸血鬼の秘められた力にも。関心のあることはとことん追究する人だった。ただ純粋に学問を愛してた。彼なら見出せたはずよ」

 次第に語気が荒くなっていく自分に気付いて、はばつの悪い心地で目を伏せた。開いた本を見下ろしたまま何も言わないセブルスに、再度声音を落ち着かせて告げる。

「……全部、読んだわ。彼の書き込みもすべて。綿密な計画の上で繊細な実験を繰り返してる。その上で彼の下した結論よ。だから」

 ほんの一瞬。好奇心に煌く彼の青い瞳を思い出した。胸が、疼く。

「だから、試してみる価値はあると思う」

 顔を上げると、セブルスの不審に満ちた暗い瞳と視線が重なる。

「この調合に成功すれば、最高の解毒剤が完成するわ。この腕の呪いも……もしかしたら、抑えられるかもしれない」

「有り得ない。あの程度の男が開発した薬などであの方の呪いを解けると?本気でそんな馬鹿げたことを言っているのか」

「それじゃああなたは今のままでいいの?延々と、ずっとこの先も際限なく私の薬を作り続けて。いつどんな風に発症するかも知れない呪いに怯えて!もし私のこの呪いを抑えられたら、あなただってもっと任務にも仕事にも集中できるでしょうよ。私だってこれまでと同じように働ける」

「馬鹿にするな。お前のことがあろうがなかろうが俺の仕事に抜かりはない」

 すぐさま反論しながらも、彼の目線は一瞬だけ本の紙面へと戻った。数秒ほどの沈黙を挟んだ後、セブルスが顎でベッドを示しながらつぶやく。

「……座れ」

 首を傾げつつ、はおとなしくそれに従った。その傍らに浅く腰を下ろしたセブルスがクィリナスの本をベッドに置き、溜め息混じりに告げる。

「脱げ」

 服用するための薬を調合する際には、対象者の体調を調べておく必要がある。特に試作段階の薬ならば尚更だ。彼の意図を解したは、ありがとう、と囁いてすぐに上半身のシャツを脱いだ。

 熱を帯びた皮膚にセブルスの冷たい指先が触れて僅かに身震いする。彼はつまらない単調な作業をこなすときの姿勢そのもので、あっという間に診断を終わらせた。こちらの左腕に浮き上がる髑髏からは、故意に顔を逸らしていたように思う。

 それでも、汚物か何かを目の当たりにしたかのように顔を顰めた彼に、胸の内でだけ苛立ちをぶつける。決して美しいものではない。どれだけ忌まわしい印かを分かっている。でもあなたの腕にも、まったく同じものがついているでしょうに!

 セブルスは再びクィリナスの本を手に取り、中ほどのページをぱらぱらと捲りながら言った。

「試してみるが、材料を入手するにも多少時間がかかる。文句はないな」

「分かってるわ。グロスターワームの尾は貴重な材料だものね……ありがとう。ごめんなさい、手間をかけさせて」

「お前の我侭には慣れている」

 淡々とつぶやいた彼に苦笑しながら、下着ひとつの自分の上半身を見下ろす。先ほどシャワーを浴びたばかりなので、ネックレスは外していた。肌は元々そう白いわけでもなかったが、腕だけは頑なに太陽の下から隠してきたためか白っぽく映えている。

 そこに生々しく刻まれた髑髏さえなければ、美しいとさえ言えたかもしれない。

(……そんなこと言っても、仕方ないけど)

 立ち上がったセブルスに本を手渡し、しわだらけのシャツに袖を通す。モリーはよく身だしなみが云々と口煩く言ってきたが、こんな湿っぽい屋敷に閉じ込められれば数日でそんなことには気を遣わなくなる。それでも随分とましにはなった。

 大切な人を、取り戻したから。

 だがそのためにめかし込むような年頃はとうに過ぎ去ったし、そもそもそういった心持ちではないのだ。決して。

「お前もすぐに下りてこい。ダンブルドアが来る」

「ええ、そうね   

 言いながら、開いたシャツの前ボタンを一つ留めて顔を上げたその時。

 唐突だった。部屋の扉が開き、そこにはこちらの様子を見て呆然と立ち尽くすシリウスの姿がある。

 息が詰まった。無意識のうちにシャツの前をきつく合わせ、落ち着きなく視線を落とす。

 彼もまた戸口に立ったまましばらく身動きがとれなかったようだが、はっと我に返った様子で足早に部屋の中へと踏み込んできた。

「お前……一体、何やって……!」

 が答えるよりも先に、シリウスの苛立った眼がセブルスを捉えて収縮する。彼は悠然と構えたセブルスにいきなり掴みかかった。

「貴様   

「シリウス!やめて!」

 片手でシャツの前を押さえつけたまま、飛び上がって二人の間に向け声をあげる。セブルスは小さく首を振り、シリウスの手を払い除けるとき一瞬気だるげにを睨み付けた。申し訳程度に襟を直しながら、さっさと部屋を出て行く。

 ばたん、とドアが閉められた後、セブルスの胸倉を掴んでいた両の手のひらを呆然と見つめていたシリウスは、唇を噛みながらこちらを向いた。

 苛立たしげな、だがどこか悲しそうな、もどかしげな瞳。

 面倒なことになった。

 案の定、彼が激しい口調で言ってくる。

「お前……スネイプとはもう何もないって、そう言っただろう!」

「何もない   ないわよ、何も」

 あるわけ、ない。あなたが生きていると知らされたその瞬間から、私がずっとどんな気持ちでいたと思ってるの?

 彼女の平淡な物言いに煽られたのか、シリウスの語気もますます荒くなる。

「何もない?じゃあさっきの状況はどう説明するつもりだ!何もないのにお前は、奴の前で   

 ああ、もう。苛々する。眉根を寄せ、怒鳴りつける。

「どうしてそんなこと、いちいちあなたに説明しなきゃいけないのよ!私は私よ、セブルスと個人的に話だってあるわ!あなたには関係ないでしょう!」

 シリウスは虚をつかれたように大きく目を見開いたが、すぐに勢いを取り戻してさらに声を荒げた。

「個人的に話、だ?そりゃあそうだろう、あるだろうな!お前はもう十年以上ずっと奴と一緒だったんだ、なかなか会えなくて寂しいんだろうな!だから!」

 その言葉に、ぐさりと胸を刺された気持ちだった。まさか、本気で言っているのだろうか?

 気付いたときには、の右手は勢いよく彼の頬を弾いていた。驚いたように固まったシリウスのグレイの眼が、瞬きもせずにこちらを見つめている。

 やってしまった。だが、もう引き返せない。

「そんなんじゃないわよ!セブルスとは……そんなんじゃ、ない。セブルスは、他の誰とも違う……彼は、私なのよ」

「……お前、何言って……」

 彼を叩いた手のひらをきつく握り締め、瞼を伏せる。セブルスは、彼は   

「彼も……臆病だったから。私とおんなじ。だから道を誤ったのよ。セブルスは、私とおんなじ。私自身の姿なの。だからセブルスのこと、そんな風に考えたことなんて私は一度だってない!」

 私が、一体どんな思いで。胸の内から込み上げてくるものを、意地だけで堪える。

 シリウスはしばらく言葉を失って硬直していたが、まだ言い足りないことがあったらしい。非難がましい口調で、言ってくる。

「でも   奴と、寝たんだろう。それはお前が自分の口で言ったんだ。お前は   

   何よ、悪いの?」

 もう、限界だ。

 涙でにじむ眼を開き、抑えつけた声で怒鳴りあげる。

「それが悪いことなの?好きな男としか寝ちゃいけないって?あなたが戻ってくると信じてずっと待ち続けろとでも言いたかったの?十二年よ……十二年!あなたにとっても、とてもとても長い年月だったでしょうよ、ええ、もちろん!でもそれは私にとっても長すぎる十二年だったのよ!死んだも同然のあなたを待ち続けて貞操を守れとでも言いたかったの?私だって女なのよ、寂しいと思えばそれなりのことをするわ!それが悪いことなの?」

 今度こそ決定的に打ちのめされた様子で、シリウスが黙り込む。こんなこと、言いたかったわけじゃない。それなのに、もう。

 もう、抑えられなかった。これで終わってしまうのならば、それはそれで仕方がない。目頭が、熱い。唾と一緒に呑み込み、は小走りで部屋を後にした。

 階下までいくつか飾られたままになっているキャンバスがひそひそ声で話しているのを視線だけで威圧し、階段を下りている途中で急いでシャツのボタンを留める。短かった。これからは一緒に生きていけると、信じた時間はあまりに儚かった。

 だが、気付くべきだった。私は永遠に闇から抜け出せない。この髑髏から逃れられない限り、私もセブルスも光の下では生きられない。そんなことは、初めから分かっていたはずなのに。

 一時の夢に溺れた。

 これで、いい。どのみち私は、彼と共には生きていけない。セブルスと離れられない以上、三人で共存するのはほとんど不可能だろうし、彼とは生涯分かり合えないものが多すぎる。先ほどのような諍いがきっと何度でも繰り返されるのだ。お互いを傷つけるだけになる。

 愛したのは、生涯でただひとり、彼だけだったと。きっと私はそう言って死ねる。

 共にいることだけが、愛の形ではない。

 苛立ちが残るのは確かだが、そういったことではなく。ただ純粋に、私たちは距離を置いて生きるべきだと思った。

 恋愛ごっこ、は、もう終わり。





 今度こそ、私はひとりになる。