「 プロングスを?」
彼の呼吸が、一瞬詰まって凍りつく。小さく笑い、は彼の腕の中でたった一度だけ首を振った。
「……馬鹿だよね。そんなこと、あるわけないのに」
シリウスは答えない。彼にはただ、笑い飛ばしてほしかった。ジェームズは、もういない。そんなことは分かりきっている。彼はもう、決して私たちの前には姿を現さない。
死ぬとは、そういうことだ。彼らは、死んだのだ。
布団の中で身を縮め、彼の胸に額をうずめる。
彼は、唱えるように囁いた。
「いや……お前が見たというんなら きっとそれは、ジェームズだったんだろう」
「え?」
驚いて、顔を上げる。彼の透き通った眼は、真っ直ぐに天井を見上げている。
「あいつが戻ってきて、ハリーを、俺を、そして お前を、助けてくれたんだ」
彼はそっと瞼を閉じて、つぶやく。は再び彼の胸元に顔を押し付けて、熱い目頭をきつく閉じた。
一年前の夏、湖の畔で確かにそれを見た。気を失ったシリウスと、彼を庇おうと身を挺するハリーと。彼らを包囲した吸魂鬼。絶望に押し潰されそうになり、うまく守護霊を生み出すことができなかった。
獲物を目の前にしたあの飢えきった怪物に、見境などない。このままでは、二人ともが死んでしまう。
そんな時 だった。彼が、現れたのは。
湖面を矢のように滑り、無数の吸魂鬼を粉砕したのは一頭の大きな鹿だった。見間違うことなどあろうか。それともやはり、過ぎ去った過去はいつか薄れるのか。プロングス。そしてその光の背後に、はその人影をも見た。
ジェームズ。
杖を構え、しっかりとこちらを見ていた。ジェームズ。まさか、そんな。
本当は、すぐにでも駆け出して確かめたかった。あれは一体、何だったのか。あの青年は何者なのか。違う。そんなこと、あるはずがない。彼は死んだのだ。私が死なせた。無二の親友と、愛すべき兄弟とを。私の傲慢と、この臆病さが。
いや、臆病なこの身体はそれを確かめに飛び出すこともできなかったかもしれないが。
涙のにじむ瞼をゆっくりと開き、は震える声音で囁いた。
「……あの時、ジェームズがね。笑ってるように、見えたの」
こちらの肩を抱いたシリウスの指先が、僅かに身じろぐ。隠しもせずに、失笑する。
「 馬鹿みたい。ジェームズはもう、私なんかに笑いかけてくれるはずないのに」
たとえそれが、幻影だったとしても。
私があまりにも重すぎる責務を果たす、その時までは。
「バカヤロウ」
シリウスは突然そう言って、俯く彼女の顎を上向かせて続けた。どきりとして、何度か瞬きを繰り返し、彼を見る。
「いつでもハリーに会いに来いって、あいつがそう言ったんだろう。だったら、それ以上の言葉が要るのか。あいつは笑ってた。俺たちを助けてくれたジェームズは、確かにお前に笑いかけていったんだ」
彼がその様子を見ていたわけでもあるまいに。だがしっかりと確かな響くを持ったその口調に、胸が緩むのを感じる。
同時に、どうしようもない罪の意識が押し寄せてくる。溢れ出た涙が、彼の映る視界を狭めていく。瞼を伏せて、告げる。
「……ごめん。ごめん、なさい……」
今までずっと、伝えられずにいたことを。
「私……あなたを、信じてあげられなかった……あなたがどれだけ、誠実な人か、私はそれを知っていたのに。私こそが、あなたを信じられる距離にいたはずなのに……私は 」
「もういい、やめろ」
彼の言葉は、どこまでも優しい。
「あんな状況だったんだ……仕方ない。俺だって、お前を信じてやれなかった。お互い様だろう。だからもう、それ以上言うな」
「でも!私は……私のことは、いいの。私は本当に、みんなを裏切ったもの……でも、シリウス、あなたは 」
刹那。
唇に温かいものが触れて、ふっと目を開く。彼の整った睫毛が、閉じられた瞼の縁で揺れている。
柔らかい口付けの間に、ほとんど独白のような、だが確かにこちらに向けられた言葉で。
「……何も、言うな。もう、分かったから。お前の気持ちはもう、十分に分かったから」
何が分かったというのか。私の気持ちなんて、誰にも分かるはずがない。
だが、そんな叫び慣れたフレーズさえも。
彼の力強い抱擁が、霞のように消し去ってしまった。
あんなにも波打っていた感情が、彼の腕に抱かれているだけで静かに納まっていく。あんなにも不安定だった鼓動が、彼の匂いを嗅ぐだけでなだらかに滑っていく。
それは子供の頃に感じた、あの温もりに似た 。
でも。
浅く眠りかけていた意識が冴えて、はっと上半身を起こす。はそれまでと変わらず子供たちや他の団員との食事の時間をずらしていたが、モリーは彼女とシリウスの関係の変化に気付いたようだった。取り立てて何も言ってはこないが、こちらを向くその眼は明らかに嬉しそうなそれになっていることが増えたし、部屋にこもっている彼女への伝言をシリウスが持ってくることもよくあった。
近頃シリウス自身の様子も大きく変わったようだった。この屋敷に閉じ込められてしばらくは顔色も悪くいかにも不機嫌そうだったが、最近では鼻歌らしきものを歌っていることも多い。そして夜遅く、子供たちが寝静まった後に少しだけの寝室を訪ねてくることまであった。
その夜、彼がやって来た時、はちょうど左腕に激しい痛みを感じてベッドから起き上がるところだった。それに気付いたシリウスが慌てて彼女のもとへ駆け寄り、汗ばむ身体を抱いて宥める。
「触らないで!」
捲り上げた袖の下から現れた髑髏に触れようとしたシリウスを、抑えた声で一喝する。両腕を庇うように上半身を折ったは、噴き出す汗の不快感に身震いしながら軽く首を振った。
彼は布団ごと、大きく、ゆったりときつく抱き締めてくれる。
駄目だ、駄目なんだ。どれだけ彼を愛していても、どれだけ満たされたいと感じても。この髑髏が、一生付きまとう。今この瞬間も、この呪いは確実にこの身を食い尽くしていく。
ひょっとして今ここで、私は死んでしまうかもしれない。
ふと、そんな錯覚に襲われる。帝王は私を殺しはしまい。あのお方は同じ過ちを繰り返すほど愚かしい魔法使いではない。だが、その悪夢がいつだって気付けばそこに頭をもたげてくる。
いや、闇の帝王は私を殺しはしまい。だがもしかして、今ここで私が最愛の人を殺してしまうかもしれない。
私は、蛇だ。サラザール・スリザリンの、そして帝王の血を引く 闇に染まった、蛇だ。呪いに蝕まれた、いわば毒に侵された、蛇。
だが、彼と共にいたいと願うことをやめられない。
彼を切り離す勇気を持てない、ただ弱いだけの。
「……俺が、何とかする」
発作的な痛みがようやく引いてきた頃、彼がぽつりとそう言った。
「俺が、お前の呪いを解く方法を見つける」
そんなこと。
セブルスも、ダンブルドアでさえも見つけられないそんなものを、あなたが、一体どうやって。
いいの。私は。あなたが、そう言ってくれるだけで。
「ありがとう……気持ちだけで、私は」
「気持ちだけじゃお前は助からないだろう!」
突然低い声音で怒鳴りつけられ、驚いて顔を上げる。彼はばつの悪い顔で眉根を寄せたが、その眼は暗がりの中でも真っ直ぐにこちらを向いている。
ありがとう。今の私は、本当に。
「私は……いいの。私は、償いきれない大罪を犯した。この呪いがこの先どんな効果をもたらすのか、分からないけど……痛みを抑えてくれる薬は、セブルスが調合してくれてる。帝王を打ち倒すその瞬間まで、自分にできることが為せるなら、私はそれでいいの。だから 」
「」
彼の声が。いくらも調子を落として、苛立たしげに発せられる。そのまま、また怒鳴られるのかと思った。だが彼は、やりきれない面持ちでその額をゆっくりとこちらの頭に押し当てて唸った。
「……そんなことは、俺が許さない。言っただろう。俺には、お前が必要なんだ。お前と一緒にいたい。今この瞬間も、ヴォルデモートを倒してこの国に平和な時間が戻ってきたその後も、ずっと ずっとだ。お前が必要なんだ。お前がいなければ、俺は……」
「 シリウス……」
帝王の名を耳にすることは、あんなにも恐ろしかったはずなのに。
今はそのことよりもただ、愛する人の言葉が。
「だから必ず、呪いを解く方法は俺が見つけ出す。生きてくれ。過去の過ちを忘れろとは言わない。いや……忘れるべきじゃない。一生忘れるな。お前の負った十字架は、俺が半分引き受ける。だから、自分はいいなんてもう言うな。俺と一緒に生きると、約束してくれ」
「………」
皮膚が粟立って、全身の脈が激しく打ちつける。そんな、そんなこと。そんな言葉を、私に。
私の犯した罪の重さを知って、なお。
「受け取ってくれ」
彼がポケットから取り出したリングを、そっと薬指にはめてくれる。今度はぴったりと、そう、彼女のためだけにあしらわれた銀色のリングが、あるべきそこへと納まる。
こんな私と、生きたいと言ってくれた。
そう、あの時も。
『俺も精一杯頑張って絶対闇祓いになるから』
ちゃんと仕事に就いたら、お父さんにも会いに行く。日本でもどこでも行く。
そう言った彼の頬が染まっていくのを、私はまるで他人事のように見ていた。
心を閉じる術。私は既に、セブルスからそれを学んでいた。
『だから俺と、一緒に暮らして欲しい』
あの時ばかりは閉心術を忘れ、しばらくぼんやりと放心してしまったのを覚えている。彼の口からそんな言葉が飛び出すとは、考えてもいなかった。
でも私は、すぐにまた心を閉ざして微笑んでみせた。情など、切り捨てろ。そんなものは、復讐の邪魔になる。
「受け取ってくれ。お前と、一緒に生きていきたい」
あの時、偽りの心で答えてしまった大切な言葉を。
「……シリウス」
今ここで、本当の気持ちで向き合おう。
「 ありがとう」
十六年も待たせたその答えを、今。