この欝塞とした屋敷に閉じ込められてから、あいつとはまともに口も利いていない。

 子供達や団員と集まって摂る食事の時間はまず顔を見せないし、みんなと時間をずらしての食事中に俺が食堂へと足を運べばすぐさま片付けを済ませて去ってしまう。モリーとは辛うじて通常の会話は成立しているようだが。

 何といって呼び止めればいいのか、分からない。

 あの時確かに、俺はあいつの身体を抱き締めたはずだったのに。

 あいつは小さい頃から細身だった。だが今ではすっかりと痩せこけ、抱き留めたあの瞬間は思わず身震いした。こんなにも。彼女をこうさせたのはあまりにも残酷すぎる時間なのか、それとも忌まわしい彼女の血筋か。

 この、俺自身なのか。

 覚えている。初めて抱いた   彼女の、身体。単純にただ、綺麗だと思った。そう白いとはいえないが、しなやかで、いかにも女らしい痩躯。ちょうどそんな、年頃だったか。

 それが今では、このまま崩れてしまいそうなほどに憔悴している。少なくとも俺には、そう思えた。どれだけ鋭敏で強気な素振りを見せていても。

 少しずつ、だが確実に蝕まれていく彼女を目の前にして、俺には何一つしてやれることがない。

 あの時   そう、あの時だ。あの時俺が、この手を伸ばしていれば。こんな非力な指先でも、彼女を引き戻すことができたはずなのに。

 俺が、そうしなければならなかった。

 何があっても一緒にいると。誓ったのは、この俺なのに。

 だから、今度こそは。

 もう二度と、あんな思いはしたくない。












 これもまた、外れ。

 嘆息混じりにベッドの上に倒れ込み、閉じた本を放り出す。セブルスが立ち寄るまで、この屋敷中の本を可能なだけ読んでおこうと決めた。高貴なる由緒正しきブラック家所蔵の文献。外出を禁じられている以上できることは限られているし、大抵の魔法使いの家庭よりは有用な書籍があるはず、だ。実際、闇の魔術に関する本もかなり残されていた。シリウスの母親の寝室だったという部屋には強固な呪いを巡らされている本棚もあったほどだ。が、そんなものを解除することは彼女にとって造作もない。

 それだけの能力を備えているというだけではない。その呪いもまた、この身を流れる血筋の何たるかに気付いている。

 感じる。スリザリンの血を引くこの身体への畏怖と   同時に、それをなげうった彼女への蔑如を。

「何とでも言えばいい」

 姿なき臭気へと、冷ややかに告げる。

「私は自分の意思で、自分の生きる道を決めた。ただそれだけのこと」

 言って彼女は、手にした一冊の本を黒ずんだ棚へと押し戻した。周囲から漂ってきた不気味な空気を、視線だけで威嚇して退ける。この部屋に立ち入ることにはシリウスが頑なに反対した。

「私を誰だと思ってるの」

 遂には部屋の前までついてきて止まらせようとするシリウスに、はぴしゃりと言いやった。

「私はあの暗黒時代、死喰い人の只中で二年を過ごしたのよ。この程度のことは何でもない」

 彼はそれ以上、何も言ってこなかった。そのまま独りで部屋に入り、薄く灯りをつけて室内を見回す。十年の闇という、湿りきった臭い。だがどこか、心地良い。

 これが私の世界だ。そう感じてしまう自分と、やはり   

「自分の意思で、そう決めたと?」

 声は、すぐ傍らで聞こえた。

 気付いていた。ぼんやりと浮かび上がる額縁の中に潜む、愉しげな魔女の姿。低音で卑屈に笑いながら、言ってくる。

「知ってるよ。あんたは闇の帝王の下で動いたり、ダンブルドアの飼い犬になったり。忙しい女だからね」

「あなたほどではないと思うけど」

 額縁の下に記された名前を一瞥し、皮肉混じりに切り返す。魔女は一度甲高い音を立てて笑うと、懐から取り出したパイプを銜えて唇を歪めてみせた。

「あんたがどう思おうと、生まれ持ったものからは逃れられない。分かってるだろう?どれだけダンブルドアに忠実な振りをしてみせたところであんたは闇の帝王の血筋さ。ワルバーガのあの碌でもない息子だって結局のところここに戻ってくるしかなかった。おんなじことさ。お前の還る場所なんて初めから決まってる」

「残念だけど、聞き飽きてるの、そういうの」

 同じことの繰り返し。いっそ感覚など麻痺してしまえばいいのに。

 踵を返し、部屋を立ち去ろうとした彼女を絵画の魔女が愉快そうに呼び止めた。

「あの碌でなしが、あんたの部屋の前で待ってるよ」

 ぴたりと足を止め   振り返ろうとしたが、すぐに思い直して首を振る。声は高らかに笑った。

「面白いね。あれが惚れ込んだのがスリザリンの家系ときた。まったくどうして血筋ってやつは似た者同士を引き寄せてしまうのかね。面白いもんだ」

「死んだ後くらいは大人しく黙っていられないのかしら」

 早口に、それだけを残し。

 蹴り開けた扉をくぐり、彼女は部屋を出た。声がまた、耳障りな音で笑った気がした。












 アラミンタ・メリフルアの言葉通り、彼は部屋の前で待っていた。こんなことは、初めてだ。

 階段や食堂で、偶発的に会ってしまうことはあった。同じ屋敷で生活しているのだから当然だが。だがそんな時もどこか気まずい思いで互いに目を逸らし、そのまま過ぎ去ってしまうことがしばしばだった。

 よほど物思いに耽っていたのか、階段を上がりきるまで彼はの存在に気付かなかったらしい。慌てた様子で顔を上げ、大きく見開いたグレイの瞳で何も言わずにじっとこちらを凝視している。先に視線を外し、彼女は自室に歩み寄りながら無感動につぶやいた。

「何か用事?」

 彼のちょうど傍らで、足を止める。シリウスが唾を飲む音が、やけに大きく聞こえたように思った。

「……話が、ある」

「何?」

 震えそうになる喉を理性で抑え込み、素早く訊き返す。数秒ほどの沈黙を挟み、ようやく彼が口を開く。

「中で、話がしたい」

「ごめんなさい。部屋を借りている身で申し訳ないんだけど、散らかしているから。ここで済ませてもらえる?」

「いや   部屋の中で、話したい」

 どこか不安げな。だがしっかりとした口調で、シリウス。彼がこんな調子で何かを言ってくることは、子供の頃から少なかった。

 だからこそ彼が、これから何を告げようとしているのか、痛いほどに分かってしまう。

    それでも、拒むことができなかった。

 唇を引き結び、ゆっくりと扉を開けて彼を中へと促す。分かっていた。こうなることは。"その時"が遂に訪れた、ただそれだけのことだ。

 撥ねつけることも、できたのだろうが。

(いえ……きっと、できない)

 あの時も、そうだった。

 彼の真っ直ぐな瞳は、私を逃そうとしなかった。

『俺にはお前が、必要なんだ』

 あれは子供の頃の、誓い。何の拘束力もない、ただの口約束。

 お前の全てが欲しかったと、若すぎた彼はそう言った。

 あれから、十数年。

『俺はお前を』

 赦したい。認めたい。

 だから心の整理がつくまで。

『俺を待って欲しい』

 この俺を。彼はあの日、確かにそう言った。

 待つなんて。

 私の心は、あの頃からちっとも。

(私は他の誰も……愛する術を、知らなかった)

 心はあの時、凍りついた。愛を忘れた。思い出せるのは、今ではもう。

 扉を閉め、ベッドの上に散乱した本を片付ける。空になった両手をローブのポケットに突っ込み、は少しの距離を置いて彼と向かい合った。瞬きとともに、さり気なく目線を落とす。



 ひっそりと。彼の唇が、彼女の名を呼んだ。



 繰り返す。答えずに、ただ瞼を伏せる。

「お前に……言ったな。俺が、お前を憎むか、認めるか。心の整理がつくまで、待って欲しいって」

 口腔が、乾く。右手でそっと口元を押さえ、彼女は沈黙を保っていた。静かに、ただ鼓膜で相手の振動を聞くだけ。

 彼は一瞬、失笑したらしかった。

「そんなもの、考えるまでもなかったんだ」

 はっとして、目を見開く。彼は瞼を半分ほど落とし、泣き出しそうな顔で微笑んでいた。

    微笑んでいた、のだ。

 落ち窪んだシリウスの瞳が、柔らかく歪む。それは帝王が復活したあの晩、医務室で彼が見せた眼差しに似ていた。

 愕然と、唾を飲む。どうして。そんな。

 彼の優しい微笑は、あまりにも重すぎた。喉の奥が、詰まりそうになる。だが彼はそのままの調子で、ゆっくりと続けた。

「俺はお前を、忘れられなかった。今でもお前を、必要としてる。悔いるお前をいつまでも責めたところで、意味なんてない。ジェームズもリリーも、お前を赦した。俺にはお前が必要だし、苦しむお前のためなら何でもしたいと思う。お前の罪は……憎い。だがそれはもう、過去のことだ。俺は   

「ま   ま、って!」

 こんなところになって。

『君がまだあいつを愛してるんなら』

 自分の両手が穢れていることを強く感じる。

『資格がどうだなんて関係ない』

 関係ないわけないよ、ジェームズ。

 彼は、清らかな人間だもの。私の手はもう、穢れきってしまっている。

 この手が、あなたたちの息子に触れてはならないように。

 私が抱き締めるには、彼はあまりにも。

「やっぱり、駄目よ……私は……」

 腹の底から、ぞっとするような悪寒が込み上げてくる。自分の両腕を抱き寄せて、身震いする。

 この血が、憎い。自分の犯した罪は、もっと憎い。この腕に刻み込まれた呪いは、それ以上に。

 眉根を寄せ、シリウスが苦々しげに言ってくる。

「……俺のことが、嫌なのか」

 違う。そんなこと、あるわけない。

 私の身体には、あなたを愛した記憶しかない。

 それが尚更、反発になって首を振る。いつの間にか溢れ出た涙が頬を伝って零れ落ちた。

 何が悲しいのか。何が悔しいのか。

 たまらなくなって、背後のベッドに崩れ落ちる。受け入れられないのなら、突き放すしかない。それなのに自分はこうして、彼の前で口を閉ざして涙するだけ。何もできない。何ひとつ、決められない。

   

『好きっていう感情以外に、何が必要なの?』

 何が必要か、だって?

 他には何も要らないというのか。そんなものは、まったく子供じみた馬鹿げた理想に過ぎない。

 好きだけで愛を語れるのは、何も知らない子供だけだ。

 "好き"だけがあれば何も考えずに済むのなら。きっと私は、今頃。

 ベッドの縁に座り込んだの前に跪き、彼は真っ直ぐに彼女の名を呼んだ。



 ゆっくりと伸びてきたその右手が。そっと涙を拭ってくれる。

 優しすぎる、彼の指先が。

 それはこんなにも、間近にあるというのに。

「……

 彼はもう片方の手で懐から何やら小さな箱を取り出しながら、躊躇いがちに言った。

「本当は……ホグワーツを卒業したらすぐにでも、渡そうと思っていたんだ」

 それは。どこかで、見覚えがあるように思った。

 彼がその蓋を静かに開けてみせた瞬間、その記憶が鮮明に蘇る。

「だが、お前は……あの後すぐに行方を眩ませたから……結局、そのままになっていた」

 薄青色の小箱の中から現れたのは。小振りの宝石があしらわれた、シルバーリング。

 ジェームズとリリーが殺され、ピーターが死に、シリウスが投獄されたという話を最後にリーマスと交わして三本の箒を去った後。訪れたサウスエンドオンシーの彼の家で。

 自分以外の誰かへの贈り物かもしれない、とも、思った。

 だがそれを、十年という歳月を経て彼は。

「こうして、渡せる日が来るとは……思わなかった」

 指輪を丁寧に取り出し、そしてこちらの左手をそっと握る。震える彼女の指先を優しく押さえ、シリウスはそれを薬指へと通した。

 十数年前ならば、確かに合っていたのだろう。だがそれは、今の彼女には緩すぎた。すっかり痩せ細った、十本の指。長年繊細な魔法薬調合をこなしてきたため、それなりの力は保たれてあるが。

 小さく笑い、シリウスはリングを嵌めたままのその指先を見つめる。

「やっぱり……少し、大きいな。こんなに、痩せちまって」

 そうして柔らかく皮膚をなぞられると、思わず鳥肌が立ってはきつく目を閉じた。彼のことが。あまりに愛おしいという事実をありありと突きつけられて。

 それがどれだけ辛いか、切ないか。分かっているのか。

 過去は変えられない。だからこそ。

 だからこそこの、自分自身が、許せないというのに。

「サイズは……近いうちに、合わせるようにする。だから、そうしたら   受け取って、欲しい」

「でも   

 反射的に口をついて飛び出した言葉は、両手をきつく握られてそのまま潰えた。速まる鼓動が、さらに追い討ちをかけるように圧し掛かってくる。

 彼の灰色の瞳が。透き通って、この醜い自分の姿を映す。

「ヴォルデモートが復活したあの晩、呪いが発症してお前が倒れたと聞いた時、俺がどんな気持ちだったか分かるか」

 帝王の名に、ぞっと寒気が走るのを感じたが。彼の眼はそれを許さないほどに、真剣だった。

「お前を決して赦せないという頑なな意地と、だが確かにお前を求めるこの思いと……俺は、必死だった。どうすればいいか、どうすべきか。お前の口から真実を聞いて以来、来る日も来る日もそのことばかり考えた。だが、あの時分かったんだ。どんな理屈を並べたところで、俺がお前を求めてる   それ以上の事実なんて、ない」

 シリウス・ブラックという人は。まったく、どこまでも。

「愛してる」

 その言葉が。どれだけ私を苦しめることになるか。私は永遠に、闇から抜け出せないのに。

 だがとうとう彼は、それを言葉にして、吐き出した。

 それを言わせたのは、紛れもなく   

 納まりかけた涙が、堰を切ったように溢れ出す。求めていた。私こそが、その言葉をずっと求めていた。

 私が、いつまでも曖昧だったから。

 切り捨てられなかった。過去の思い出、一度交わっただけの愛情。何もかも、棄てられなかった。

 愛を知るから戦うのだと。

(……そんなこと、よくも偉そうに言えたものね)

 ごめんなさい、セブルス。でも。

 間違っては、いないでしょう?あなたも、そして私も。痛いほどの愛情を知るからこそ、帝王を倒すことを決めた。

 それともあなたは、本当に初めから。

「……愛してる、シリウス」

 もう。






 言わずには、いられなかった。