やシリウスのように本部に留まったままほとんど動かない団員はウィーズリー夫人だけだったが、食事や仮眠を摂るために立ち寄るメンバーは少なくない。だがセブルスは一回目の会合以来まったく姿を見せなかったので、は城にいた頃から考えていたことをなかなか彼に伝えられないでいた。守護霊を飛ばし彼を煩わせてまで告げるようなことではない。
「たまにはみんなと一緒に食べないか。モリーが気にしていたよ」
ノックひとつですぐに部屋へと入ってきたリーマスが肩を竦めて言った。彼は仲間集めといって時折屋敷を出て行ったが、こうしてよく舞い戻ってきては食事を摂って空き部屋に泊まっていくこともしばしばだった。
はベッドの上に広げた本を放り出しながら、嘆息混じりに首を振る。彼女はここに来てからずっと、他の団員や子供たちと食事の時間を大きくずらしてきた。
「分かるでしょう?私が同席しても誰も喜ばないわよ。せめて顔を合わさないでいてあげるのが他の者たちへの"思い遣り"じゃないかしら?」
彼は呆れたように息を吐き、そっと後ろ手にドアを閉めた。非難がましい口調で、言ってくる。
「つまらないことを言うのはやめてくれないか。少なくともモリーやアーサーは君のことを心配しているよ。子供たちだって君が変われば受け入れてくれるさ。わざわざ憎まれ役を演じることはない」
「私は変われない。そのつもりもない。これが 私、だから」
受け入れて欲しいなんて、思っていない。これ以上の情など要らない。
最初の会合の晩、ウィーズリーは宣言通り子供たちと共にやって来た たった一人、魔法省に忠誠を誓った三男を除いて。その代わりにいうわけでもなかろうが、彼らはグリフィンドールのグレンジャーを連れていた。それ以前からウィーズリー家に泊まっていたらしい。子供たちはが居座っていることを知ると、その階へは決して近付いてこなかった。お陰で有り難いことに、食事の時間さえずらせば彼らと顔を合わせることはほとんどない。聞こえてくる声ばかりは防げないが。
リーマスは眉根を寄せ、こちらへと歩を進めながら首を振ってみせた。
「……みんなに本当のことを話せとは言わない。でも、、私は言わなかったかな。ハリー あの子にだけは、全てを打ち明けて欲しい。あの子と、向き合って欲しいと。君はまたホグワーツに戻る。あの子からは逃れられないだろう。あと一歩が踏み出せないのなら、私が君の背中を押せる。そのことで君も、ハリーも苦しんでいるのは私にとっても辛いんだ。ジェームズだってリリーだって、きっと 」
「やめて」
やめてくれ。あの二人の名を出すなんて、卑怯だ。
彼らのことを言われれば何も反論できなくなると、分かり切っているくせに。
瞼を伏せ、握り締めた拳を冷えた布団の上できつく固めながら、は喉の奥で呻いた。やめて、もうやめてくれ。
だがリーマスは打って変わって強い口調で、続け様に言い放った。
「何度でも言うよ。、あの二人に瓜二つのハリーを前にして戸惑うのも分かる。でも、もう四年だ。割り切って飲み下すだけの時間は十分に過ぎたはずだよ。君はあの二人の親友として、あの子に真実を語る義務があると思う。"撥ね付けていればそれで済む" そんな脆弱な絆ではないはずだ。君と、あの子の間にあるものは」
絆。
ぼんやりと、意味もなくそれを繰り返す。絆。私と、あの子の間にある、絆。
二人に抱かれて穏やかに寝息を立てていた赤ん坊の姿を、思い出す。
絆。そんな言葉で語ることは、きっと許されない。
「昼食が終わったら今日から本格的にみんなで屋敷の大掃除を始めるようだよ。君も手伝ってくれると嬉しいと、モリーが」
彼は声の調子を戻し、ドアノブに手をかけながら言った。振り向き、穏やかに微笑んでみせる。それはやはり、昔から変わらない、温もりを与えてくれる彼の笑顔だった。
そう 変わらないものは、ここにある。
「昼は具沢山のサンドイッチだよ。トンクスが色々と材料を買ってきてくれたからね。それじゃあ」
そしてリーマスは静かに部屋を去っていった。ひとり残された空間で、ベッドの端に片手をついたは。
突然込み上げてきた嘔吐感に抗いながらも、そのまま布団の上に倒れ込んで咳き込んだ。喉の奥が、焼けるように痛む。左腕の印もここ数日で疼痛がぶり返してきていた。呪いの痛みがほんの少しずつだが、着実にひどくなっている。その上、この副作用だ。他の団員や子供たちと顔を合わせない理由の一つには、そういったものもあった。
布団の上に広げていた本に手を伸ばし、乱暴にページを捲る。
かつてのその本の持ち主による書き込みを震える指先でなぞり、それを反芻しながら、は湧き上がってきた汚物を抗うことなく口腔から吐き出した。
この屋敷にやって来てからというもの。
毎日繰り返すことはさほど多くもなく、そしてそれはいつも決まった循環でしかなかった。ホグワーツでの生活も似たようなものだったが、それでもあの城で過ごす日々にはまだ生き甲斐と張りとが保たれていた。
日が昇る前に目覚め、屋敷の他の住人たちより先に簡単な食事を摂り、薬を飲み、身体の不調を無視してただひたすらに本を読む。ホグワーツから持ってきたものは疾うに隅から隅まで読み尽くしてしまった。宛がわれた部屋にあった古びた本も、手の届くところにあるものはすべて。
うんざりと息を吐き、彼女はベッドから重い腰を上げた。物憂げに歩み寄った扉を薄く押し開き、階下から霞んだ子供たちの声を聞く。
またひとつ嘆息しつつ、はゆっくりと部屋を後にした。この時間ならば、きっと彼は。
二つ下の踊り場で足を止め、少し離れたところにある開いた扉へと視線を向ける。不服そうな子供たちの喧騒は、どうやらそこから届いていた。
そして、彼の気だるげな指示も。
「その棚にあるものは、全部このゴミ袋に 」
「そこの二人!おやめ!よく分からないものには触っちゃだめって言ったでしょう!」
「やだな、ママ、俺たち何にも触っちゃいないよ」
母親の怒声も、茶化すようなあの双子の言葉も。
彼女が顔を覗かせて扉を軽くノックすると、それらは一斉にぱたりと止んですべての眼がこちらを向いた。気にせず、黒髪を無造作に伸ばしたままの男だけに、声をかける。
「ブラック 少し、聞きたいことがあるの」
彼は驚いた顔を僅かに強張らせてしばらくじっとこちらを見ていたが、やがてウィーズリーの子供たちとグレンジャーに作業を続けるように告げ大股で部屋の入り口へとやって来た。その様子を興味深そうに凝視している子供たちを、ウィーズリー夫人が一喝して指示された棚へと誘導する。
目の前に立った長身の男から足元へと視線を落とし、はほとんど独白のような声音で言った。
「レグルスが使っていた部屋を、教えて欲しいんだけど」
「 レグルスの部屋?」
鸚鵡返しにつぶやいて、シリウスが眉を顰める。数秒の沈黙を挟み、ようやく彼は言葉を続けた。
「……何で、そんなものを」
それはごく自然な、当たり前の疑問だったのだろうが。なぜか込み上げてくる不快感に唇を歪め、彼女は舌打ちとともに吐いた。
「調べたいことがあって。ひょっとしたら彼の部屋に、何か手掛かりになるものでも残っていればと」
彼が再び口を開くまでには、かなりの時間がかかった。ちらちらとこちらの様子を窺い、聞き耳を立てているらしい子供たちにウィーズリー夫人が時折声を荒げる。
疲れたように軽く首を振り、こちらの脇へと一歩踏み出したシリウスをは言葉だけで引き止めた。
「いい 教えてもらえれば、ひとりで行く」
足を止め、振り向いた彼のグレイの眼が訝しげに瞬く。拒絶する心地で、告げる。
「あなたは、ここで子供たちに指示を出していればいい」
いつまで、こんなことを続ければいい。
死ねばきっと、何もかもを終えることができるが。
いや 変わらないか、何ひとつ。
彼は視線を逸らし、苦々しげにつぶやいた。
「……奴の、部屋だ。何か危険なものが、あるかもしれない」
「それはこの屋敷中に言えることでしょう。それにこの私に、そんな心配は結構。何かがあればむしろ有り難いくらいよ」
突き放す。目を逸らす。距離を置く。すべて、自分の意思でやっていることなのに。
この胸のざわめきは、一体なに。
「……私がまだこの屋敷にいた頃、あいつが使っていたのは 」
静まり返った空気の中に漂う彼の言葉を、背後から轟くウィーズリー夫人の大声が掻き消した。
「フレッド、ジョージ!その引き出しはまだ触るなと言われたばかりでしょう!」
驚くほどに、何もなかった。
本当にこの部屋で人間が生活していたのかと思われるほどに、何も。
当たり前か。もう十年以上、ここには誰もいなかった。
あの男はこの屋敷を出てどこか他の場所で生活していたのかもしれないし、元々物を持たない性質の人間だったのかもしれないし、彼の死後身内の誰かが部屋を整理したのだろうし、もしくはあのろくでなしの屋敷しもべが彼の思い出の品を巣穴へと持ち出したのかもしれない。あのしもべにとって、彼は"可愛らしいお坊っちゃま"だったに違いないのだから。
実家の私の部屋を、父は整理してくれたのだろうか。
帰らぬ娘の代わりに、こまめに掃除でもしてくれていたのだろうか。
いや、父は無精な人間だった。毎年夏に帰ると、部屋の角には埃がたまっているし、キッチンには牛乳パックやペットボトルが散らかり放題。主を失ったあの家も今や、この屋敷と変わらない廃屋と化しているのだろう。もっとも、こんなに立派なものでは有り得ないが。
彼の案じていた"危険な何か"は、その片鱗らしきものすら見当たらなかった。そんなものは端から考慮してもいなかったが。
レグルス レグルス・ブラック。
あの男とは、そう深く関わったわけでもない。だが何度か顔を合わせた感触として、あまりに純粋な男だと思った。
彼の弟だとは、気付かなかった。彼は自らのことを何も語らなかった。兄の存在を無に帰したかったのか?だが今は、そうではないと言い切れる。
彼は兄を、愛していた。愛していたからこそ憎み、反目し、そして口を閉ざした。
彼は、私そのものだった。
いや。彼はただ、純粋すぎた。そう、兄と同じように ただひたすらに、真っ直ぐすぎたのだ。今なら分かる。確かに彼は、紛れもなくシリウスの弟だった。
レグルスは死に、そして私が生き残った。
神は私に、戦うことを強いたのだ。こうして鉄壁に護られ、蹲っているためではない。
だから私は、自分の手で見つけなければならない。今の自分に、何ができるか。護られるだけの駒ではない。自らが招いた悲劇は、この手で落し前をつける。
薄暗い一室の中、そっと腕を伸ばして棚から抜き出した本。その背表紙を撫で、小さく息を吐く。
部屋の扉がノックされたのは、ちょうどその時だった。
階段をゆっくりと上ってくる足音には、気付いていた。それが誰のものなのかも、大よそ察しがついている。
答えるよりも先に、声が聞こえてきた。
「、お腹空いてるでしょう?サンドイッチを持ってきたんだけど、一緒に食べましょう」
いつからか。ウィーズリー夫妻には、ファーストネームで呼ばれるようになった。どことなく、居心地の悪さを覚えながら、静かに扉を開ける。
言葉通りサンドイッチの載ったトレイを持ったウィーズリー夫人は朗らかに笑い、空いた手で杖を振って部屋の明かりをつけた。
「どうも……ありがとう。屋敷のことも何も手伝えていないのに」
「いいえ、そんなことは構わないのよ。体調もあまり良くないし、調べたいことがあるんでしょう?あなたは自分のことだけ気にしていればいいわ。はい、どうぞ」
自分のことだけを気にしていればいい。
お前は黙って休んでいろ。
本部から一歩も外に出ないように。
いつだって、そうだ。私は、護られるために生かされているわけではない。
本をひとまず棚に戻し、トレイを受け取る。そのままの姿勢でぼんやりしていると、ウィーズリー夫人が彼女を埃っぽいベッドへと促した。夫人が杖を一振りすると、布団に張り付いた埃がさっと取り払われる。
一通り部屋の中を眺め、ウィーズリー夫人はさして感慨を覚えるでもなくつぶやいた。
「ここが、シリウスの弟が使っていた部屋?」
「……そう、みたいね」
手に取ったサンドイッチにかじりつくと、芳ばしい肉汁が口の中で溢れる。だがそれを、心底美味しいとは感じない。感じ揺れ、触れる心。そんなものは必要ない。
夫人もまたサンドイッチを頬張りながら、もう片方の手でトレイに載ったティーカップを取った。
「探し物は見つかったの?」
「さあ……あまり、期待していたわけでもないから。せめて何か、有益な本が見つかればいい」
レグルスは優秀な魔法使いだった。それは単に成績で測れるといった意味合いでしかないが。だがそれも、一種の判断基準にはなる。役立つ資料のひとつやふたつ、あれば幸運だといえよう。
「シリウスの弟を、知っていたのね?」
相手の意図を測りかねて、一瞬眉根を寄せる。だがは瞬きひとつですぐさま真顔に戻り、平然と言いやった。
「ええ。何度か会ったことが。その時は彼の弟だとは知らなかったけど」
なぜそんなことを聞くのか。私の過去を暴きたい?それもいいだろう。そんなことがこの無垢な魔女にとって、面白いというのならば。
右手に残ったパンの切れ端を口に放り込み、夫人は囁くように言ってきた。
「……私はあなたを、知っていたわ」
ますます、意味が分からない。今度は隠しもせずに顔を顰め、は傍らの女を見た。
ウィーズリー夫人の瞳は、穏やかに、だがどこか哀しげに微笑んでいる。
「あなたがホグワーツに入学したその年、私はグリフィンドールの六年生だったの」
「………」
「スリザリンからグリフィンドールへの転寮。あなたはたちまち城中の有名人よ。あなたの周りには人気者が自然と集まってきたし、目立って当然のグループだったわね、あなたたちは」
「……何が、言いたいの?」
そんな思い出話に、今更一体何の意味があるのか。苛立つ気持ちを拳に込めて歯噛みする。それに。
私の周りに、人気者が集まってきたわけじゃない。人気者の彼らに私が惹かれた。ただ、それだけのことだ。
そうだ。私と交わらなければ。きっと彼らの未来は、変わったに違いない。
夫人は顔色ひとつ変えずに、続ける。
いや。少し目尻が、緩んだか。
「だからあなたとシリウスが付き合っていたと聞いたときは、なんだか私まで嬉しくなったわ」
「………」
何を。言っているのか。
「でも同時に、とても悲しかった」
何を、言っているんだ。
関係ない。そんなこと、あなたにはまったく無関係じゃないか。
どうしてそんなことを言うのか。放っておいてくれ。私にはそんなこと、関係ない。
これ以上言わせては。だがは細めた眼差しで彼女を見据えながら、それでも身動きひとつとれないでいた。
彼女の瞳はこちらを向いていないが。だが確かに、のことを見ていた。
「好きっていう感情以外に、何が必要なの?」
夫人の問い掛けに、一瞬息が詰まる。こちらの答えを待つつもりはなかったのだろう、彼女はすぐにあとを続けた。
「家庭を築くにはもちろん『好き』だけじゃ足りないわ。でも一番大切なのは、お互いを想うその気持ちでしょう?過去は変えられない。"今"を受け止めて、大切な人と"未来"を紡いでいくこと。シリウスにも、そしてあなたにも それは誰にでも、必要なことよ」
徐に立ち上がった夫人の温かい手が、こちらの頬をそっとなぞって去っていく。
「後先を考えることは大事よ。だけど過去と未来に固執しすぎて今この場所で動けなくなるくらいなら、むしろ何も考えないがいい。大切なのは今の気持ち。私はそう、信じてるわ」
ひとり残された部屋の中、は胸の奥から噴き上げる感情に身震いした。
憤怒ではない。悔悟でもない。
ただ思い出したのは、遠い日に聞いた親友の言葉だった。
「君がまだあいつを愛してるんなら」
資格がどうだなんて関係ない。
「シリウスのところに行ってやってくれ」