他の騎士団員たちはその日の昼過ぎから少しずつブラック家の屋敷に集い始めた。簡単な食事を終えたは薬を飲むといって宛がわれた部屋へと上がり、そのまま個室に閉じこもって時折耳に届く彼らの遠い声を聞き流していた。昼の間には階下から数回正体不明のおぞましい叫び声が響き渡り、後に彼女を呼びにきたリーマスからそれが例の"厄介な"肖像画であることを聞かされた。

「……彼の、母親?」

「ああ。自分たちの誇り高い屋敷が今やどういった目的で使われているかを知って激しく憤っているよ」

「……そう。そう、でしょうね。だけどそんなものをよく彼がそのままにしてるわね」

 何とはなしにつぶやくと、僅かに振り向いたリーマスが苦笑する。

「もちろん外そうとしたさ。ここが本部として使われると決まったその直後にね。だけどどうやら裏に永久接着呪文がかけられているらしい。どうにもこうにも動かせないんだ」

「ああ……なるほど、ね」

 彼に続いて階段を下り、は虫食いだらけの長いカーテンを通り過ぎる際にふと足を止めた。ああ、ここか。この奥にあの耳をつんざくような叫び声を発する、彼の母親が眠っている。死してもなお純血の一族を尊び、永遠にその誇りにしがみつき続ける魔女が。はまだ見ぬその女性を一瞬哀れむ思いに囚われたが、すぐに思い直して軽く頭を振った。

 もしかすると彼女は、永遠に迷いを棄てきれないこの自分よりもずっと幸福なのかもしれない。

「触らない方がいい。首を絞められたくなければね」

 傍らでそっと囁かれ、は自分が知らぬ間に眼前のカーテンに手を伸ばしていることに気付いた。はっと目を見開き、慌てて右手を庇いながら後退する。

 重苦しい声音で、リーマスは小さく笑った。

「……まあ、どうしても彼の母親を見てみたいというのなら止めはしないが」

「ば   馬鹿なこと言わないで」

 静かに、と彼は唇の前で人差し指を立ててから何も言わずに再び歩き出した。ぶつけ損ねた感情を拳にこめて紛らわせ、足音を潜めて追いかける。玄関ホールは無人だった。

 地下へと続く石段を下り、は彼が何の躊躇もなく厨房の扉を開くのを見つめる。中からは何重にも折り重なる複数の話し声が聞こえてきた。重々しい心地で、深く嘆息する。

 二人が足を踏み入れると、一斉に振り向いた騎士団員たちはぴたりとその動きを止めた。ざっと数えても、二、三十人といったところか。セブルスやダンブルドアの到着はまだのようだった。

 じっとこちらを見つめたまま動かない団員たちを余所に、リーマスは敢えて明るい声をあげてみせる。

「もう大体みんな揃っているみたいだね。時間は過ぎているしあとはダンブルドアが来れば始められるかな」

「ああ、そうだな。シリウス、ワインかなにかを出そうか」

 ウィーズリーが朗らかにそう言って立ち上がり、シリウスと一緒に厨房の奥に入っていく。ジョーンズやヴァンスたちもグラスを取りに彼らの後を追っていった。はリーマスと共に傍の椅子に腰掛け、長テーブルの一角に両肘をついてそのまま瞼を伏せる。

 他の団員たちはそこでようやくそれぞれの会話を再開したが、それでも彼らが時折ちらちらとこちらを見ていることに気付かないわけにはいかなかった。

 暗黒時代からの騎士団員も、新たに加わったメンバーも。一度闇に堕ちた人間をそう易々と認めるはずもない。殊に自分の正体を知っていれば尚更だ。居心地の悪さには無意識のうちに眉間に力をこめ、今日何度目とも知れない溜め息を吐いた。










 ダンブルドアが現れたのは、招集の九時を十数分ほど過ぎた頃だった。団員たちはすぐさま長テーブルの空席に着き、彼が上座に座るのを見守る。ダンブルドアのすぐ後から俯いたセブルスが入ってくるとやはり何人かの団員は厳しい顔をしたが、誰も何も言わなかった。

「遅くなって済まぬ。そろそろ、始めても良いかのう」

 ダンブルドアの問いに、全員が静かに頷く。彼は一週間ほど前、が最後に見た時よりもずっと深刻そうな様子だった。

 やっと気を許せる仲間の姿を見ては少なからず安堵感を覚えたが、ダンブルドアの隣に腰掛けたセブルスは目線を下ろしたままこちらをちらりとも見ない。無駄な努力は諦めて彼女はダンブルドアに視線を戻した。セブルスはこの一週間で、ますます困憊したようだ。

 何もできない自分が、ますます惨めになってくる。

「まず、皆に言っておきたい。こういった状況下でここにこうして集ってくれたことに心から感謝する」

 そして全員を見渡してから、ダンブルドアは早々に本題に入った。第三の課題の晩、ハリーが遭遇した事態について。帝王の復活。ファッジを筆頭に、そのことに対する魔法省の姿勢。

「我々は今、困難な状況に立たされておるとも言える。じゃがハリーのお陰で、こうして間を置かずに志を共にする仲間を集めることができた。既に任務に就いてくれておる団員もおる。この強みを活かし、奴らが暴挙に出る前に手を打たねばならぬ」

 言ってダンブルドアは、細めたその眼をふいにこちらへと向けた。強く、真っ直ぐと   だがどこか、哀しげな瞳。

 一瞬俯きかけたが、はなんとかそれを思い止まった。目を逸らしては、いけないと思った。

 ダンブルドアの視線を追って、団員たちが次々と彼女の顔を見る。ダンブルドアは数秒ほどの重苦しい沈黙を挟み、ようやく言った。

「まず、確実に食い止めねばならぬことは   彼女、が奴らの手に渡ることじゃ。これだけは、何としてでも阻止せねばならぬ」

 新たに加わった団員たちは互いに目配せし、不可解そうに眉を顰める。彼らは彼女が死喰い人だったという事実は聞いていても、最も肝心なところはまだ知らされていなかったのだろう。はリーマスが疲れたように瞼を伏せるのを横目に見た。ムーディが不機嫌そうにふんと鼻を鳴らす。

「それは一体……どういうことですか?」

 落ち着いた雰囲気を僅かに乱し、闇祓いのシャックボルトが訊いた。ダンブルドアは一呼吸をついて、告げる。

 は膝の上で拳を握り、きつく、眼を閉じた。

「一つの予言が、為された。もう三十年以上も昔のことじゃ。ヴォルデモート卿の支持者に、予見の能力を持つ者がおった。その人物が、奴に伝えた   奴が、自分の血を継ぐ者から得た血を取り入れた瞬間……奴は、この世で無敵の存在になる、と」

 まさか、と、誰かがつぶやくのが聞こえた。そして何人かの視線が、また彼女を向いて大きく見開かれる。

 ゆっくりと頷き、彼はあとを続けた。

「それが、じゃ」

 セブルスの調合した薬のお陰で治まっていた左腕の痛みが、突然ぶり返してきたような気がした。だが錯覚だったらしい。そうだ、今日の分はきちんと服用したじゃないか。

 息を呑む音と同時、トンクスが素っ頓狂な声をあげて叫んだ。

「そんな!例のあの人に子供が   しかもそれが、の血であの人が無敵の存在になる?そんな、そんな突拍子もない話……いきなり、言われても」

「その女はパーセルマウスだ。スリザリンの特殊能力の一つ。スリザリンの血を引く人間にしか扱えん。そしてヴォルデモートは、最後のスリザリンだといわれていた」

 即座に答えたのはムーディだった。荒々しいほどの憎悪をこめ、を睨みながら早口に続ける。

 は冷ややかな思いでそれをちらりと見返した。

「その予言のせいでヴォルデモートの娘は   そいつの母親は殺された。自分のもとを離れれば彼女の身体を蝕むようにと施された呪い。娘のことをダンブルドアに託そうと奴の下から逃げ出した彼女はその呪いに耐え切れず死んだ。娘を護り抜こうとした   その娘自身に殺されたというわけだ」

「やめぬか、アラスター」

 静かに、だが強い口調でダンブルドアが言った。ムーディは顔を顰めたが大人しく口を閉じ、ぷいと脇を向く。初めてその事実を聞かされた団員たちは唖然と口を開き、何も言えないでいるようだった。

 俯き、歯を食い縛り。は涙を押し殺す。そうだ、私が殺した   私が、母を死なせた。何か方法があったはずなのに。ダンブルドアならきっと、それを見つけられたはずなのに。時間を奪ったのは、他ならぬこの自分。

 ダンブルドアは額に手を当てて軽く頭を振ってから、再び顔を上げて全員を見渡した。

「予言には、ヴォルデモート卿がある年齢に達してからその血を取り入れれば、という条件が付随しておった。暗黒時代と呼ばれた当時、奴はまだその年齢には届いていなかったが……今やその条件は十分に満たされた。故にヴォルデモートは前回よりも躍起になって彼女を求めておる。そうじゃな、セブルス?」

 問われたセブルスはさして驚いた風もなく、無表情に頷いてみせた。ダンブルドアを上目遣いで見ながら、だが団員たちに向けて口を開く。

「今はまだ、従う者もさほど多くはない。故に彼らは慎重に物事を進めているが、の血さえ確保すれば帝王は強大な力を得ることになる。帝王は最も狡猾な魔法使いだが、余分な手間を嫌う。最も手っ取り早く力を取り戻す方法がだとすれば、それを得るために躍起になるのは道理だろう   ですが、こちらが何としてでもを堅守しようとしていることには当然帝王も気付いています。ひとまず彼女のことは諦め、別の方法を考えた方がいいと進言する者も。もっとも、帝王がそれを聞き入れるかは定かではありませんが」

 うむと相槌を打って、ダンブルドア。

「彼は命懸けで密偵としてヴォルデモートのもとへ赴いてくれておる。どれほど奴がを求めておるか……想像に難くない。そこでまずは、、君への任務じゃ」

 任務。

 苦々しく、胸中で繰り返す。何を言われるかは分かり切っていた。は悟られない程度に嘆息してから、視線を上げて老人を見る。

 果たして彼は、予測通りのことを言ってきた。

「君の血が奴らに渡れば……取り返しのつかないことになる。奴らの体制が整うよりも先に、手を打たねばならぬ。君にはしばらく、本部から一歩も外に出ないで欲しい。何があっても、じゃ」

 しばらく。それは一体いつまで。は瞼を伏せ、ただ小さく一度だけ首を縦に振った。歯痒い。どうしようもなく
   もどかしい。この手が。この指が。

 それから、といってダンブルドアは続けた。

「シリウス、君もじゃ」

 聞き違いだろうかと。そうであればいいと思いながら眼を開ける。長テーブルの奥に腰掛けたシリウスは不意打ちを食らって唖然としていた。容赦なく、ダンブルドアは告げる。

「無実とはいえ、魔法省は聞く耳を持たぬ。手配中の君も外を出歩くのは非常に危険じゃ。君も同様、この屋敷に留まるように」

「そんな!私は動けます!あなたもご存知でしょう   私は動物の姿に変身することができます!個人的に狙われているわけでもない……魔法省は私が動物もどきだと知りません!私なら騎士団のために働けます!」

「貴様には無理だ」

 シリウスが声を荒げると、セブルスが冷たく水を差した。強烈な憎悪を剥き出しにして紅潮するシリウスに、彼はさらに続ける。

「ワームテールが従っている。奴は帝王の復活の際に大きな功績を残した。当分の身の安全は保障されている。奴が貴様のことを帝王に話せば、その情報はマルフォイを通して魔法省にもすぐ届くだろう。残念ながら貴様のその尊大な能力もまったくの無益ということだ」

「……貴様!」

 怒鳴り上げて、シリウスが右の拳をテーブルに強く叩き付ける。その拍子に彼のグラスが跳ねて中のワインが飛び散った。慌てて隣のウィーズリーが彼を押さえ込み、ダンブルドアの声でようやくシリウスは椅子の上に座り直し唇を引き結ぶ。

「分かって欲しい、シリウス。君は一度逃亡し、一年前のあの夜、吸魂鬼のキスを受けるはずじゃった。次に見つかれば、もう口付けは避けられんじゃろう   君の無実が、世間にはっきりと証明されるまでは。わしらは、君を失いたくはない。分かって欲しい」

 シリウスは何も言わなかったが、乱暴にウィーズリーの手を放し腕を組んで下を向いた。

 彼の歯痒さは身に染みるほどよく分かった。同じだ。こんなところに閉じ込められて、何もできないでいる自分の無力さに苛立つ。だが。

 彼と四六時中、同じ屋敷の中で過ごさねばならない。その事実の方が、の心をより苦しめた。考えるだけで、息が詰まりそうになる。ウィーズリー家の子供たち。陰気な屋敷しもべがひとり。そして、シリウス。

 ダンブルドアはそれから他の団員たちに外部の状況を聞き、それぞれに役割を振っていった。仲間の勧誘、魔法界とマグル界、双方の要人の護衛。省内のスパイ。面の割れている死喰い人の追跡。そしてもちろん、ハリーの護衛。それには手が空いている団員が交代で常に張り付くことになった。フィッグは彼がマグルの町で暮らすようになってからずっと身近であの子を見守っている。今この瞬間も、スクイブである彼女はその任務についているといった。

 スクイブでさえまともな任務があるのにといえば、きっとダンブルドアは失望するだろう。

 会合の終わりを告げてダンブルドアが席を立つと、は彼が素早く厨房を出て行こうとするのをすんでのところで引き止めた。

「校長。一つ、お聞きしたいことが」

 団員たちはウィーズリー夫人の声で食事の準備にかかろうとしていたが、そのうちの何人かはこちらの会話に耳をそばだてているのが分かった。は老人を連れて廊下に進み出、そっと後ろ手にドアを閉めた。声を低め、訊ねる。

「私は……一体いつまで、ここにいればいいのですか。新学期の準備さえできない……私は、スネイプ教授の助手です。私の仕事は彼の補助のはずです。今、彼は騎士団の任務で疲れ切っています……私にできるのは、セブルスを支えること、それだけなんです。私から唯一の意味を取り上げないで下さい。何もできない私が生きる意味は、もうそれしかないんです……だから、お願いします。任務に就かせろとは言いません。でもせめて、ホグワーツに戻らせて下さい」

 暗がりの廊下ではとても彼の表情は窺えなかった。数秒ほどの沈黙を挟み、ダンブルドアはゆっくりと首を振る。

「セブルスの助手という意味を君に与えたのは、確かにこのわしじゃ。じゃがそれだけが唯一の生存意味だなどと……二度と、口にはしないでおくれ。君を想う人間がそれを聞けば、きっと悲しむ」

「先生!はぐらかさないで下さい……私は、一体いつまでこんなところにいればいいんですか」

 明るい光が届かない場所で、良かったと思う。彼の眼を見ないで済むのは楽だった。

 微かな吐息とともに、老人はつぶやく。

「……本当は、君に新学期からの休職を勧めるつもりじゃったが……その様子では、とても受け入れてはくれぬようじゃな」

 休職?まさかとは思っていたが、真実味を帯びて考えたことはなかった。怒りとも戸惑いともつかないものを感じながら、黙って相手の言葉を待つ。

 ダンブルドアは疲れたように言った。

「……分かった。新学期から、また城に戻っておくれ。但しそれまでは、先ほども言ったようにこの屋敷で過ごして欲しい。休暇中に動けるだけ動いておくつもりでおる故、城には戻れそうにない。君を一人には……させられぬ。それだけは、分かっておくれ」

 答えるよりも先に。

 背後の扉が静かに開き、は慌てて振り向いた。姿を見せたのは無表情のセブルスだ。彼は冷ややかに鼻を鳴らして目を細めた。

「お前の補助など要らん。大人しく黒い廃屋の掃除でもしていろ」

 あまりの言い草に思わずカッとなったが、彼はこちらに一言も挟ませずに続ける。

「薬はヴァンスに渡しておいた。後で受け取っておけ。校長、少しお話があります」

 そして有無を言わさずを厨房へと押し戻した。

 沸き上がってくる憤りに眉根を寄せつつ、顔を上げる。夕食の準備を進めていた団員たちは一瞬動きを止めてこちらを見たが、すぐに何事もなかったかのようにそれぞれの作業を再開した。

 リーマスだけが不安げな面持ちで、じっとこちらを見ている。

 憐れんで欲しいわけじゃない。

 何も分からなくなってきた。私は一体、何のためにここにいるのか。

 分かっている。セブルスは私のためを思って言ってくれたのだ。いやそれともそれは、身勝手な勘違いだろうか。

 ダンブルドアは様々な状況を考慮した上で、ああいった結論に至ったのだ。

 どれだけ言い聞かせても、きっと。

 はあからさまな仏頂面でテーブルに皿を並べるシリウスの姿を一瞥し、嘆息混じりに独りごちた。

 きっと十数年ぶりに、彼と共有できたものには違いあるまいが。

 はヴァンスから一週間分のセブルスの薬を受け取り、夕食は要らないといって厨房を後にした。セブルスに話したいことがあった。だが彼女が廊下に出た時には、既に二人は立ち去った後だった。