の到着で厨房の空気は一変した。暗黒時代からの騎士団員、エルフィアス・ドージと、グリフィンドールの数年前の卒業生で闇祓いになったニンファドーラ・トンクスは逃げるようにその場を立ち去り、新たに紹介されたいかにも胡散臭そうなマンダンガス・フレッチャーはテーブルに足を放り出して懐から取り出したパイプを吹かせ始めた。アーサー・ウィーズリーは二人とも小腹が空いているだろうといって簡単な食事の準備に厨房の奥へと向かい、ヘスチア・ジョーンズも彼を手伝うと席を立った。

 フレッチャーと共にテーブルに残されたシリウスは、仏頂面で腕を組んだままどこということもなく虚空を睨み付けている。

 リーマスは二人から少し離れた手近な椅子に腰掛け、にも着席するようにと促した。ありがとう、といって大人しく彼の向かいに腰を下ろす。

 改めて見回すとそこは、上のホールと同じように暗く、粗い石壁のがらんとした広い部屋だった。やはりどこかスリザリン寮を彷彿させる造りだ。寮監でも卒業生でもない彼女が実際に蛇寮の内部に立ち入ったことは一度もないが、入り口の前まで赴いた際に重苦しい石造りの扉を見た。きっと談話室も似たようなものなのだろう。

「今はまだこんなものしか出せないけれど、明日からはもっとちゃんとした食事にありつけるよ」

 バゲットにスープ、サラダ、ソーセージ。それらが雑多に載った皿をいくつか運んできたウィーズリーがそう言って気さくに微笑む。は礼を言うのも忘れて訝しげに彼を見上げた。

「明日からは?どうして?」

 彼はリーマスの隣に座り、軽く右手を振ってみせた。

「明日、私の家族がみんな到着するからね。妻がちゃんとしたものを料理してくれるよ」

「え?家族……」

 思わず上擦った声をあげ、呆然とウィーズリーの顔を見返す。彼女の反応に、彼はかえって驚いたようだった。目をぱちくりさせながら言ってくる。

「どうかしたのかい?」

「あ、いえ……どうして、あなたの家族が全員来るの?ここは騎士団の本部でしょう。未成年は決して騎士団には入れない」

「ああ、それはもちろん。でも私も上の息子も、仕事や任務で家を空けることが多いからね。本部にいれば安心だろう、だから」

「……そう。そう、ね」

 ちょうどその時鉄製の広口ジャーを持ってジョーンズが戻ってきたので、会話はそこで打ち切りになった。は黙ってフォークを持ち、目の前のサラダをつつく。リーマスも静かにバゲットを千切り、厨房にはフレッチャーが煙たい息を吐き出す微かな音だけが響いた。

 ただでさえこんな陰気臭い屋敷に閉じ込められることになって憂鬱だというのに、ウィーズリー家の子供たちと一つ屋根の下で暮らさなければならないなんて。

 胃の辺りに重苦しいものが圧し掛かり、はバタービールでパンを流し込みながら深々と嘆息した。まったく、うんざりする。

「リーマス、マッド−アイはどうしたんだい?一緒にを迎えにいったんだろう?」

 ウィーズリーが訊ねると、リーマスはソーセージの最後のひと欠片にフォークを突き刺して顔を上げた。

「ああ、そのまま出て行ったよ。明日までに済ませなければならない仕事があるとかで」

「そうか、残念だな。少し見てもらいたいものがあったのに」

「それなら明日頼めばいいよ。どのみちみんなが集まるんだ」

 そうだな、といってウィーズリーは気楽に笑った。

 彼の出してくれた食事は胃袋を満たすには十分だった。区切りを告げるバタービールを勢いよく飲んで、空のゴブレットをテーブルに置く。そして何とはなしにそれを見下ろして   ようやく彼女は、先ほどから手のひらに触れる微かな凹凸の正体に気付いた。側面に刻まれた小さな紋章。

 彼女はその印に、見覚えがあった。

「リーマス……ここは」

 咄嗟にテーブルの向こうにいるシリウスに視線をやったが、彼は腕組みしたまま厳しい顔で瞼を伏せていた。すぐさまリーマスに向き直り、あとを続ける。

「ここは、ブラック家の屋敷……なの?」

 言い当てられたことに、彼は少なからず驚いたようだった。数秒ほど物珍しいものでも見るかのようにこちらを凝視してから、

「どうして分かったんだい?誰かから聞いていた?」

「いえ、そうじゃなくて……これと同じ家紋を、見たことがあったから」

 言って、軽くゴブレットを掲げてみせる。その純銀のゴブレットには、遠い昔ベラトリクスが身に着けていたものと同じ印が刻まれていた。確かマルフォイ家にも似たようなものがあったはずだ。たとえ婚姻しその名は失っても、彼女らは"高貴な純血一族"ブラック家出身という肩書きを永遠に忘れない。それはああいった人種のかなり強固な誇りだった。

「私がダンブルドアに提供した」

 今まで石のように黙り込んでいたシリウスが、唐突に口を開いた。延々とパイプを吹き続けるフレッチャー以外の全員が顔を上げて彼を見つめる。もまた、まるでそれが知らない誰かのものであるかのような心地でシリウスの影を見た。

 彼はそれらの視線に一切気付かない様子で、虚空を睨みながらつぶやく。

「元々この家には探知不能の魔法が何重にもかけられていたし、どのみち朽ちていくだけのボロ屋敷だ。この程度しか使い道はない」

「でも……どういうこと?あなたはブラック家の人間として排除された身でしょう。どうして屋敷を自由に使えるの?ご両親はどうしたの?」

 彼は学生時代に家を出た。叔父の遺産を手に、小さな一軒家を買って。

 シリウスは喉の奥で笑ってみせたが、彼がこの状況を面白がっていないことは明白だった。皮肉めいた笑みで、ひたすらに無機質な言葉を紡いでいく。

「死んだらしい。もう十年も昔に。残念ながらブラック家の生き残りは私ひとりだ。この屋敷の所有権は、自動的にこの私に引き継がれたというわけだ」

「でも、危険だわ。あなたは確かにブラック家の血を継ぐ生き残りかもしれないけれど、言ってみればベラトリクスやナルシッサも純血のブラックには違いないでしょう。もしかしたら、彼女たちにはこの場所が分かってしまうかもしれない   

「だから、だよ。君も気付いただろう?この屋敷を護る秘密の守り人は、ダンブルドアだ。仮にマルフォイたちに探知不能の魔法が効かなくとも、秘密の魔法が確実にここを護ってくれる。この屋敷は何重もの強固な鎖に護られているんだよ。これ以上安全なところはない」

 落ち着いた様子でそう言って、リーマスは広口ジャーから自分のゴブレットにバタービールを注ぎ足した。

 秘密の魔法。確実に、この屋敷を護ってくれる。果たして、本当にそうなのだろうか。どうしたところで十三年前の悲劇が脳裏を過ぎった。

 あの時自分が守り人を引き受けていれば、と。

 何度悔いてみたところで、失われた時間を取り戻せやしないが。

「……明日の九時に、なにかあるの?」

 話題を逸らそうと向かいのリーマスに視線を戻す。先ほど去り際のドージに彼はそう確認していた。口腔のものをじっくり飲み下してから、リーマスが頷いてみせる。

「ああ。明日の夜九時から騎士団の会合があるんだ。外せない任務に就いている団員以外は全員集まる予定だよ。もちろんダンブルドアも来る」

「……そう」

 ダンブルドア。その名を聞いても今は、どこか複雑な思いが胸を巡る。振り払うようにかぶりを振って、は再びゴブレットを手に取った。だがすぐに中身が空だったことに気付いて薄く開いた唇を閉じる。

 斜め向かいに腰掛けたジョーンズが、ジャーを取り上げて軽く傾けてみせた。もう要らないと手振りだけで告げて、さり気なくシリウスの方を見やる。だが今やフレッチャーの吐き出す煙が厨房中に充満し、離れた彼の姿は朧ろげにしか窺えなかった。

 雑談染みた気楽な口調で、ウィーズリーが言ってくる。

「さあ、食べ終わったら二人とも今日はもう休むといい。シリウス、上に空いている部屋があったはずだね?」
















 ウィーズリーたちにおやすみを告げ、無口な背中を見せたままずかずかと歩いていくシリウスに続いて厨房を出る。後から急ぎ足でついてきたリーマスがにそっと耳打ちした。

「ああ、そうだ。言い忘れていたけど……ホールでは、声を低くしてくれよ」

「どうして?声が外部に漏れるの?」

「いや、そういうことじゃなくて……ホールに、少し厄介な肖像画があってね。一度起こすと面倒だから」

「そう……分かった」

 そうしているうちに玄関ホールまで辿り着き、隅に置いてあったトランクを掴む。するとすかさず後ろから手が伸びてきて、リーマスがその取っ手をやんわりと奪い取った。

「私が運ぶよ」

「いえ……いいのよ、この程度のものは、自分で」

「いや。ほら、君は『長旅で疲れているだろうから』」

 彼女の口調を若干真似て、リーマスは微笑む。あなただって疲れているでしょうに、と言いつつ、もまたありがとうと笑ってみせた。

 ふと顔を上げ、振り向くと   少し離れた先で立ち止まったシリウスが、眉間にしわを寄せて不機嫌そうにこちらを見ている。敢えて、こちらの眼からは視線を外して、だが。明らかな棘を重々しく感じてはリーマスと彼のもとへ急いだ。だがこちらが追いつくよりも先に、再びシリウスはひとりで勝手に歩き出す。彼は虫食いだらけの長い両開きのカーテンの前を通り、暗い階段を上がっていった。正体不明の巨大な傘立て、屋敷しもべ妖精の萎びた首が掛かったずらりと並んだ飾り板……。

 二つ目の踊り場で、シリウスは何の前触れもなく足を止めた。

「ひとまず使えそうな部屋は、ここだ。あとはもう一階上にまだましな寝室がある」

 彼の声は、あくまで事務的なそれだった。彼が何に腹を立てているのか、よく分からない。どぎまぎしながらが示された部屋のドアノブに手を伸ばそうとすると   

「それじゃあ今夜は私がこの部屋を借りるよ。シリウス、、おやすみ」

 一瞬先んじてそのドアを開けたリーマスは彼女のトランクを踊り場に置き、さっさと部屋の中へ入っていってしまった。その行動があまりに素早かったため、は唖然として閉められた扉を見つめる。シリウスも同様にリーマスの消えたドアを数秒ほど凝視していたが、やがて思い直したように踵を返してさらに上へと階段を上っていった。何も言わずに、彼女のトランクを持って。

 リーマスが消えた瞬間、胸の奥底に渦巻いていた奇妙な感覚がどっと押し寄せてくる。

 シリウスの背中を遠目に見据えながら、はようやく彼の後を追って階段を駆け上がった。三つ目の踊り場。薄汚れた扉のドアノブを彼がゆっくりと押し開ける。取っ手はやはり、蛇の頭を象っていた。

「ここを使ってくれ。まだまともに掃除はできていないが   大きな埃だけは取っておいたから」

 天井の高いその陰気な部屋にトランクを入れながら、シリウスが言ってくる。だがその瞳は決して、真っ直ぐにこちらの眼を向かない。

「あ……ありがとう」

 ひとまず礼だけを述べ、彼の脇を通り過ぎて恐る恐る中へと足を踏み入れる。どことなく冷気が漂うような、そういった気味の悪い一室だった。だが文句を言える立場でもない。どのみちどの部屋も同じだろう。諦めて、小さく息を吐く。

「それじゃあ、私、今夜はもう寝るから……おやすみなさい、ありがとう」

 はトランクに手をつき、振り向かずに短く告げた。

 だが一向に、彼が去っていく気配が感じられない。

 振り向こうかと、迷った。だが、思うように首が動かない。乱れて脈打つ自分の鼓動だけを聞きながら、は身動きもとれずにそこに立ち尽くしていた。どこまでも無防備な背中を晒しているという事実が、己の存在意義を希薄にしていく。

(警戒できない私なんて……私じゃない。意味がない)

 磨り潰すような心地で、つぶやく。

 あそこで得られたことがあるとすればそれは、ひたすらに懐疑し、不断の警戒心を保つこと。それが重要だということはこの一年で嫌というほど再認識させられた。

 だがそれでも、痛いほどの沈黙の中での身体はぴくりとも動かなかった。

(駄目だ……動けない)

 情けない。この甘さが、一寸先には自滅を招くかもしれないというのに。

 と。



 呼ばれた。張り詰めた糸のような、だが今にも擦り切れてしまいそうな、そんな、儚げな声。

「……何を、考えている?」

 それは予期せぬ問い掛けではあった。トランクに手をついたまま何度か瞬き、ひとまず振り返ろうとしたのだが。

 やはりまだ、硬直しきった身体は言うことを聞いてくれない。

 彼はさらに、あとを続ける。

「私はずっと、考えていた。お前のこと、ジェームズのこと、リリーのこと。リーマスのこと、ハリーのこと、それに   

 そこで彼は、思い直したように言葉を切った。触れたくないものに自ら手を伸ばしかけて当惑したのだろう。奇妙に震えた声音を持ち直して、言ってくる。

「いや……何でもない。ゆっくり、休んでくれ。こんなところで落ち着いては眠れないかもしれないが……身体は休めておいた方がいい」

「ええ……ありがとう」

 ようやくそれだけを返し、背後で静かに扉が閉まる音を聞く。彼の足音が階下に完全に遠退いてから、やっとのことでは傍らのベッドに倒れ込んだ。

 埃っぽい、どこまでも冷ややかな布団。

 はその上で寝返りを打って、これからの二ヶ月を過ごすかもしれない部屋の天井をぼんやりと見上げた。カーテン越しに僅かに差し込んでくる月明かりが、いかにも殺風景なつまらない一室を朧ろに照らす。暗闇に慣れた彼女の眼には、それだけの光で十分だった。

(確かに……あまり面白い本はなさそうね、ここには)

 部屋の隅には洋箪笥と、小さな本棚が一つずつ据えられている。何とはなしにそれらを視界に捉えてから瞼を閉じ、は迫り来る睡魔に意識を委ねた。

 あの時、彼は一体何を言おうとしたのだろう。





 私は一体、何を伝えたかったのだろう。