本物のムーディはホグワーツの中で顔を合わせる度に、いかにも神経質そうにジトリとを見た。懐に挿し入れた右手が飛び出してきて今にも呪いをかけられそうだ。クラウチに服従させられた一年を過ごしたせいで、あの男は以前にもましてますます疑心暗鬼になった。



 夏季休暇に入って一週間ほどが過ぎた頃、調べ物を終えて図書館から戻る途中、廊下で鉢合わせたムーディが言った。

「ダンブルドアから、お前に伝言を預かってきた」















 は子供たちの去ったホグワーツに残り、またいつものように巡った一年の片付け、またいつものように巡ってくる一年の準備を進めていた。他の騎士団員   セブルス、マクゴナガル、ムーディ、そしてダンブルドアはほとんど例外なく城を空けることばかりで、ハグリッドは休暇が始まると同時に北へ向けて発った。一旦フランスに戻ったマクシームと合流して共に巨人の残る山岳地方へと向かうらしい。

「本部が決まった……と?」

「そうだ」

 こんなことをお前に教えるのは甚だ不本意だといわんばかりに顔を顰め、ムーディは口早に言った。

「お前には、今すぐわしと一緒に来てもらう」

「今すぐ?」

 眉根を寄せて鸚鵡返しに訊き返し、はきっぱりと告げた。

「お断りします。まだ新学期の準備もろくにできていませんし、それに調べておきたいことがあるんです。場所さえ教えていただければ都合がついた時に自分でそちらに向かいます」

「今すぐ、と言ったはずだ」

 嗄れた声をますます低く落とし、ムーディが脅すように切り返す。思わずむっとして唇を開くと、男は覆い被せるようにして続け様に捲くし立てた。

「学期の準備などスネイプに任せればよかろう。調べたいこととは今すぐやらねばならんことか。わしとて好きでお前を迎えに来たわけではない。つべこべ言わずにすぐ支度をしろ」

 あまりに一方的な言い分ではないか。図書館から借りてきたばかりの本を腕の中で抱え直し、は咄嗟に声を荒げた。

「私はダンブルドアの言うようにここで大人しくしているわ。そんなことまで逐一命令されたくはないわね、取り分けあなたには」

 皮肉でも突きつけてやるつもりだったのだが、ムーディは顔色ひとつ変えずに言ってきた。

そのダンブルドアからの命だ。いいか、今ヴォルデモートがポッター以上に狙いを定めておるのはお前だ。死喰い人たちはてぐすねひいてお前を取り戻す機会を窺っておる。ダンブルドアがお前ひとりをいつまでも空っぽのこの城に置いておくとでも思ったか。お前の護衛についてお前を無事に本部まで連れていくこと。それが今のわしの任務だ。子供のような理屈を通して足を引っ張るな。お前のことだけに時間をかけているような暇はない」

 護衛?

 声には出さずに繰り返す。かっと突き上げてきた屈辱感には激しく唾を散らした。

「そんなものは必要ない!自分の身くらい自分で護れるわ!馬鹿にしないで!」

 男は鼻で笑ったらしかった。大きく削がれ、曲がった鼻の奥から微かに震える息を吹く。かつての仲間が遺した生の証。どうせならこの手でこの男の鼻を潰してやりたかった。

「どうやら自分が生かされてきたということに気付いていないようだな。護られるばかりで一人では何もできん……ダンブルドアがいなければお前の人生はとっくの昔に終わっていたろうに。暗黒の時代、お前を死喰い人の手から護るためにどれだけの人員が割かれたかを知っておるか?ミリセント・バグノルド……当時の魔法大臣だ。なかなか賢明な魔女だった。卒業後お前が姿を消してから、死喰い人による数々の事件の事後処理に追われながらも警察部隊をお前の捜索に当たらせた。闇祓いが何人も派遣されたこともある。お前ひとりのためだけに、だ。知っておったか?」

 端から答えなど求めてはいなかったのだろう。ムーディはさほど間を置かずに続けた。

「この国の魔法界すべてを振り回し、結局お前は自ら闇の道を選んだ。だが闇にもなりきれず、光にも戻れず。そうしてお前はまた我々を振り回すのだ。自分の身は自分で護れるだと?驕るな。お前にたった一つでも自分の力でやり遂げられたことがあるのか?お前はいつまでも何もできない無知な小童に過ぎん。ひとりで何も決められぬなら、大人しくダンブルドアに従っておればいいのだ」

 立て続けに罵られ。

 男の言っていることはあながち誤ってはいないのだろう。的を射ているからこそ、それは彼女の逆鱗に触れては息を呑む。

 ひとりでは何もできない。何も決められない。

 いつまでも、無知な子供のまま。

 たった一つでも、自分の力でやり遂げられたことがあるのか。

 きつく、爪が食い込みそうなほどに強く手元の本を掴んだは、視界にその姿が映るまで、二人に近付いてくる人影に気付かなかった。

   もういいだろう、マッド−アイ。過ぎたことを言っても仕方がない」

 不服そうに鼻を鳴らし、ムーディがそちらを振り返る。階下から現れたのはリーマスだった。窘めるようにムーディを見てから、やがてその眼差しがゆっくりとこちらを向く。

「やあ、。久し振りだね」

 彼女は茫然とリーマスの瞳を見返した。だが彼はこちらを見て少し微笑んでから、すぐにムーディへと視線を戻して告げる。

「先に正門で待っていてもらえないかな。あとでを連れて行くよ」

「……ふん」

 鼻息で了承の意を伝え、ムーディは羽織ったマントを翻して大股に階段を下りていった。入れ替わるようにして残りの段を上がってきたリーマスは彼女の正面に立ち、が抱えた本を半分引き受けながら微笑む。目の下に黒いクマを刻んだ疲労の滲む笑みではあったが、それでもその笑顔はやはり彼女をいくらか落ち着かせた。盛り上がった憤りが次第に薄らいでいく。

「久し振り、ね。その……この間は、手紙、ありがとう。返せなくてごめんなさい……色々、忙しくしていたから」

「構わないよ。むしろ、君に気を遣わせてしまったかもしれないね。すまない」

「そんなことは   

 言いかけて、途中で口を噤む。ふたり並んで地下へと下りながら、思い直しては別の台詞を紡いだ。

「……あなたも、私の護衛に来たの?」

 彼はきょとんとした表情を見せた後、少しだけ困ったように笑った。

「いや、私では君の護衛にはならないよ。本当はマッド−アイひとりが来るはずだったんだけどね。ほら、君は……彼とはあまり、親しくはないだろう?」

「ええ、あまりね」

 ありのままを素直に告げたのだが、リーマスは応対に窮したようだった。曖昧な笑みだけを残し、彼はそのまま口を閉ざす。玄関ホールを抜けてさらに地下への階段を辿り、はここ数日顔も見ていないセブルスのことを思った。

 無事だろうか、彼は。

 彼女を帝王のもとへ連れ帰ろうとすればいくらでもその機会はある。彼はそういった位置に居る。そんな状況下で、一体いつまで彼らを欺くことができるか。

(結局……何もできないのは私ひとり)

 もしも彼を失えば。それこそきっと自分は、本当に何もできなくなってしまう。ひとりでは何もできない。分かっている、分かっているのだ。そんなことは。

「本部はここから遠いの?」

 訊ねると、彼は気を取り直したように言ってきた。

「ああ、ロンドンにあるんだ。ここからは姿くらましで向かうよ」

「そう。ダンブルドアはできるだけ急いで見つけると言っていたけど……少し時間がかかったのね」

「そうだね。でもそれなりの場所が見つかった。本部としては最高だよ」

「……それはどういう意味?」

「まず間違いなく、敵に見つかることはない」

 話しているうちに研究室まで辿り着き、は彼を中へと招き入れた。セブルスが知れば気分を害するだろうが、教えなければさして問題もなかろう。

 彼女の机に図書館の本を置き、その背表紙を眺めながらリーマスは怪訝そうにつぶやいた。

「調べ物というのは……なにか、闇の魔術のことを?」

「え?あ……ああ、ええ」

 彼が置いた本の上に借りてきた三冊をさらに載せ、はそれらをまとめて机の引き出しに放り込んだ。

「まあ、あまり期待はしていないけど。図書館の蔵書に書かれている程度のことをダンブルドアが知らないはずもないし。でもどうしても、調べたいことがあるのよ」

 敢えて視線を逸らして、告げる。リーマスは少し考え込んでから、躊躇いがちに口を開いた。

「役に立てるかは分からないけれど……でも何かあるなら、力になるよ。何を調べてるんだい?」

 自室へと歩き出したは、ほんの半歩ほど振り向きかけたが。

 彼に背を向けたまま、微笑とともに小さく首を振ってみせた。

「ありがとう。でも、まだ   分からないことだらけだから。言えるようになれば、その時に言うわ」













 簡単な身支度だけを済ませてリーマスの待つ研究室に戻ると、彼はばつの悪い様子で軽く頬を掻いた。

「あの……できれば、二ヶ月ほどここに戻ってこなくても構わない程度のものは……持っていった方が、いいと思う。着替えだとか、あとは簡単な読み物もあった方がいいかな。本部にはあまり面白い本はなさそうだから」

「え?でもずっと本部にいるわけじゃないでしょう?私は新学期の準備にまたすぐ戻ってこなければならないし」

「いや……そのことなんだけれど」

 言いながら、彼は数秒ほどの躊躇を挟んでようやく重苦しくつぶやいた。こちらの様子を窺うように、恐る恐る視線を上げて、

「その……怒らないで聞いて欲しい。彼には彼なりの考えがあるんだろう。ダンブルドアが言うには、君にはこの夏中ずっと本部に留まって欲しいそうだ。それが君のためにも、そして騎士団のためにもなるだろう……だから、私もそうして欲しいと思う。恐らくきっと、今あの本部はこの国のどこよりも安全だ。それこそホグワーツよりも、ね」

 その本部とやらで二月もじっとしていろ、と。この一週間何の連絡もなしに待たされた結果がこれか。それともこれも、子供染みた反発に過ぎないのか。

 あくまで激しい感情は抑え込み、は平静な声音で言い返した。

「私はこの城で魔法薬学というクラスの補助を任されているの。それを放置して誰かに用意されただけの鉄壁の中で暇を持て余すつもりはないわ」

「新学期の準備なら、暇を見てセブルスが済ませてくれるよ。そのことは心配せずにダンブルドアの言うことを聞いてくれないか。今最も危険に晒されているのはきっと、   君なんだ」

 分かってくれ。そう言った彼の眼差しは、純粋に友人の身を案じるそれだった。

 反論する気も失せ、肩を落としつつ頷いてみせる。どのみち彼に噛み付いたところで何の意味もない。支度をしてくると告げて再び彼に背を向けると、ちょうどその時軽い目眩を覚えては傍らの棚によろめいた。

!」

 大袈裟なと思えるほどの声をあげてリーマスが慌てて彼女の身体を支える。は体勢を戻しながら力なく笑ってみせた。

「ありがとう……でも、いつものことだから、気にしないで」

「平気なのかい?話は聞いてるよ……君の印が、元に戻ったって。同時に、昔ヴォルデモートが君に施していた呪いが……発動したんだって。痛みだけでも激しいのに、他にも何らかの効力があるかもしれないと……ダンブルドアも、とても心配していた」

「……大丈夫よ。痛みを抑える薬は一週間分セブルスが煎じてくれているし、今のところ他に症状は出ていないから。ただ、時々副作用が起こるだけ。問題はないわ」

「そうか……でも本当に、無理はしないでくれよ。君は私たちの、大切な仲間なんだ」

 大切な仲間。

 虚ろな思いでその言葉を繰り返す。大切な、仲間。

 仲間という意味を、思い出せない。

 私は騎士団にとって、一体何なのだろう。

 ただ護られているだけの、非力な小鳥。それならばまだ可愛らしいものだろうが。

 捨て去るような心地で、彼女は自分の身体を支える彼の腕を放した。

「荷物を取ってくるわ」

 それは逃走ではないが、ある種の迷走には違いない。
















 夜中の十時を回った頃だった。小さなトランクに数日分の着替えと本を何冊か詰め、はくたびれたフードを目深に被る。リーマスはマントを前できっちりと留め、二人は吹き付ける夜風に身を縮めながらムーディの待つ正門へと急いだ。ようやくこの城を出られるかと思えば、また場所を移して軟禁されるだけ。せめてセブルスに会いたい。彼には言いたいことがある。

 そこから何度か言われるがままに姿くらましを繰り返して辿り着いた先は、どこかのマグルの住宅街のようだった。すっかり寂れた様子で、ペンキの剥がれ掛けたドア、階段下に積み上げられたゴミ、割れた窓ガラスの数々が街灯の明かりを受けてその荒廃ぶりを物語っている。が周囲の状況を詳しく把握しようと視線を巡らせると、杖を掲げたムーディが同じく杖を構えた彼女の手に一枚の羊皮紙を押し付けた。

「急いで読め。すぐに覚えろ」

 左手でそれを受け取り、自分の手元を微かに照らす。そこにはダンブルドアの文字で、『不死鳥の騎士団の本部はロンドンのグリモールド・プレース十二番地に存在する』と書かれてあった。覚えたかと訊く前に、ムーディはさっさとそれを燃やしてしまう。

「今覚えたことをしっかり頭に思い描いて。さあ、行こう」

 リーマスが促し、が顔を上げると、目の前にある二つの家の間からどこからともなく古びた扉が現れ、立て続けに薄汚れた壁と煤けた窓までもが出現した。さほど驚くこともなく、は磨り減った石段をリーマスと並んで駆け上がる。こういった作りの家屋を実際に見たことはなかったが、魔法界で長らく過ごした経験上この程度のことは予測できた。剥がれ掛けた黒いペンキの扉には、銀色のドアノッカーがついている。それはとぐろを巻いた、一匹の蛇だった。

 一瞬、自分の中に眠るその生き物の鼓動が脈打ったが。

 リーマスが杖先で扉を一回叩くと、カチカチと大きな金属音が響き、鎖のような音と同時にドアはゆっくりと開いた。目覚めかけた蛇の言葉は彼の呼び掛けであっという間に消失した。

、早く入って。但し、あまり奥には進まないように」

 は敷居を跨ぎ、ほとんど真っ暗闇の玄関ホールに入った。埃っぽい打ち棄てられた臭いが鼻を突き、思わず顔を顰めてトランクを下ろす。続いてリーマス、そしてムーディが中に入り静かにドアを閉めると、周囲は一筋の光もない完全な闇に包まれた。どことなく落ち着くものを感じ、は見えない視界で辺りを見渡す。

 すぐ傍でマッチを擦るような音が聞こえたかと思うと、壁に沿って頼りないガスランプがいくつかまとめて灯った。見えてきたのは長い陰気なホール、剥がれ掛けた壁紙。擦り切れたカーペット。天井には蜘蛛の巣だらけのシャンデリアがひとつぼんやりと輝き、年代を経て黒ずんだ肖像画は壁全体に傾いで掛かっていた。シャンデリアも、傍らのテーブルに置かれた燭台も、何もかもが蛇の姿を象っている。

「……リーマス、ここは」

 ここは、間違いなくスリザリンの家系の屋敷だ。遠い昔、まだドラコが生まれるよりも以前。マルフォイ家に招かれてセブルスと数回彼らの邸宅を訪ねたことがあるが、純血を重んじる人間たちはその血筋と同様にスリザリンの象徴をも丁重に扱う。この屋敷は主を失って長らく放置された廃屋には違いなかろうが、それにしてもなぜ騎士団がこのようなところを本部にと定めるのか。

 この身体に流れるスリザリンの血が、その空気を感じて奇妙に疼く。

 振り向いたリーマスは、声を落として囁いた。

「ああ……まずは厨房に下りようか。それから説明するよ。ホールではあまり大きな声を出さないように」

「どうして?」

「それも後から話すよ。さあ、行こうか」

 彼女の肩にそっと手を添えてリーマスが歩き出すと、背後に控えていたムーディがほとんど独白のような声音で言った。

「それではわしはこのまま行く。ダンブルドアが来るのは明日だったな?」

「ああ、確かそう言っていたと思うよ。マッド−アイ、食事もまだだろう?少しでも何か食べていった方がいいと思うが」

「いや、生憎だが。明日までに済ませねばならんことがある。どこかの誰かのせいで余計な時間を食ったからな」

 嘲るようにこちらを一瞥し、ムーディは先ほど閉めたばかりの扉を開けてさっさと出て行った。嘆息混じりに肩を竦め、リーマスはそのドアをまた閉めてつぶやく。

「あまり……気にしない方がいい。元々ああいった人だ、分かってはいると思うけれど」

「別に、気にしてないわ」

 素っ気無く返し、は彼に続いて地下への階段を下りた。トランクはひとまずホールの隅に置いておく。ひんやりとした石段を一段ずつ踏み締めながら、彼女はふと思い出してフードを後ろに脱いだ。

「ああ、そうだ……セブルスは来ている?彼に話しておきたいことがあるのだけれど」

「さあ……どうだろうね。彼はあまりここにも顔を見せないから」

「そう」

 仕方がないか。彼は私と違っていくらでもやるべきことがある。

 階段を最下まで下り、その奥の石造りの扉に手をかけながらリーマスが振り向いた。

「でも何人かは残っているはずだよ。君にも紹介したい人たちがいる。新しく加わってくれたメンバーが何人かいるからね」

 そして彼がドアを押し開けると、中にいた数人の魔法使いや魔女たちが一斉にこちらを見た。笑顔でリーマスを迎えてから   強張った面持ちで苦笑いしてみせる者、好奇心に満ちた眼差しを向けてくる者。

 その中で、気まずそうにこちらを見てからすぐに視線を逸らした男に気付いてはあっと息を呑んだ。

    失念していた。

 不死鳥の騎士団の本部。そこには当然、彼がいる可能性も考慮しておくべきだった。

 会いたくはなかった。もう、二度と。

 だからこそ、思い出すことを拒んだ。ほんの、つい数週間前に全身で抱き締められた感触。

 リーマスは黒髪の中年魔女と、無精ひげのずんぐりした煙たい魔法使いに向けて口を開いた。努めて明るく振る舞おうとしているような、そういった声。

「ヘスチア、それからマンダンガスは初めてじゃないかな。彼女は、。ホグワーツでセブルスと一緒に薬学を教えている。私の同期で、古くからの友人だよ」