夢を見た。どこまでも続く闇と、微かな呼び声。
それが誰なのか、彼女にはよく分かっていた。
何も見えない、聞こえない。それでも自分の進むべき道は自ずと浮かんでくる。不死鳥の調べ。
ディゴリー。見知らぬ老人。ジョーキンズ。
聞こえる。それは、はっきりと。
「もうすぐ、お父さんが来ますよ」
視界には何も映らない。それでも彼女の姿は、はっきりと。
「繋がりが切れると、僕たちはほんの少ししか留まっていられない。それでもお前のために、時間を稼いであげよう」
彼は息子を見下ろして、低く、優しく囁いた。
彼らの姿は、こうしてただ喘いでいるだけの自分の瞼にもはっきりと。
「君は……ポッター君か?」
そう言ったのは、二人に続いて虚空に浮かび上がった一人の男だった。やつれ切ったその顔面に、希望の光が滲み出ている。
「君ならできる。君はあの子の、自慢の親友だから」
「ハリー、僕を連れて帰ってくれないか。父さんと、母さんのところへ」
「さあ、やりなさい、ハリー」
「ハリー、大丈夫よ」
「ハリー」
いくつもの声が弾け、流れるように散っていき。
「退け!俺様が殺す 奴は俺様のものだ!」
甲高い叫び声とともに。
彼女は目を覚ました。
これ以上はないというほどに激しく悶えながら飛び起きると、は自分が救護テントにいることに気付いた。そういえば、左腕の痛みがひどく、セブルスとここまで歩いてきて……それから。
「起きたのかね」
ベッドの傍らには真剣な眼差しのダンブルドア、そして青ざめた顔色の中にも厳しい光をたたえたセブルスが控えていた。少し離れたところでは不安げなポンフリーがこちらをチラチラ見ながら何やら薬の準備をしている。
心臓のように激しく脈打つ左腕を押さえつけながら、はダンブルドアだけに聞こえる程度の低い声で捲くし立てた。
「先生……ハリーは、あの子は無事なんですか!」
「、落ち着くのじゃ。ポピー、もう少し薬を持ってきてくれぬか」
「先生!あの子は!」
観念したように吐息したダンブルドアは、小さく首を振って口を開いた。
「……アラスターに調べてもらったが、迷路の中にあの子の姿はなかったらしい。引き続き、彼が捜索してくれておる」
そんな。
胃が沈み込む思いで、愕然とする。一体どうやって、巡回の目を掻い潜ってあの子を連れ出したというのか。
瞼を閉じると、夢に見た光景が目まぐるしく駆け巡っていく。ぞっと身震いしながら、はようやく震える声でつぶやいた。
「先生、父が……父が……」
「何?」
「父が、現れたんです……ジェームズもリリーも、ジョーキンズ……知らない老人も……それに、それに……」
嘘だ。そんなこと、あるはずがない。
煙のように立ち昇った像は、確かに穏やかに微笑みながら彼を見ていた。
「ディゴリーが……ディゴリーが……」
そんなこと、あってたまるか。
どうしてあの子が、死なねばならない?
夢に過ぎない。そんなものは、つまらぬ夢にしか過ぎない。
だが彼女には、それが夢ではないと分かっていた。
この左腕が、すべてを教えてくれる。他の誰にも理解できないあらゆる事実を。
セブルスは椅子の上から身を乗り出してをまたベッドの上に横たわらせると、強い口調で言ってきた。
「お前は錯乱しているんだ。お前はここでずっと眠っていた。死者は蘇らん。下らないことを言っていないで大人しく休んでいろ」
「違う、違うの。そんなことは分かってる。そうじゃない……ディゴリーが、ディゴリーがどこかで……どこかで……」
「もういい、お前は眠れ」
「セブルス! 校長、今すぐディゴリーを探して下さい。彼の無事を確認して下さい。もしかしたら……もしかしたら、ディゴリーは……」
こちらの肩を押さえつけたセブルスの向こう側で、ダンブルドアが僅かに眉を上下させるのが見えた。すぐに奥からガラス瓶を持ったポンフリーがやって来て、それをセブルスに手渡す。
瓶の蓋を開けるセブルスを睨み付けてから、は素早くダンブルドアを見た。彼の青い瞳はただ真っ直ぐと、こちらを凝視している。何かを確認しているようにも見えた。
ゆっくりと、言い聞かせるように繰り返す。
「ダンブルドア校長。お願いします、今すぐです。ポッターだけじゃない、ディゴリーの捜索もムーディ教授に頼んで下さい。下手をすれば……彼の、命にも関わります」
それを裏付けるかのように、より一層左腕の痛みが強くなる。は呻き声を何とか喉の奥に押し込めながら、布団の中で身を捩った。ポンフリーは既に薬箱を置いてあるところに戻って自分の仕事を続けている。そして新しい包帯と大きな箱を持って今度はクラムのベッドへと歩いていった。落伍した二人の選手はずっと眠り続けている。
こちらから視線を外したダンブルドアは、うむと小さく唸って徐に立ち上がった。
「……分かった。アラスターに話をしてこよう。、セブルスの言う通り、君は薬を飲んでゆっくり休んでおるのじゃ」
そう言ってからの老人の行動は迅速だった。彼はあっという間にテントから立ち去り、残されたセブルスはゆっくりとの上半身を起こさせて紫色の液体が半分ほど入ったガラス瓶を見せる。
口を開こうとした彼女を遮るようにして、彼は冷ややかに言った。
「痛みに悶えるだけのお前に今できることは何もない。精々身体を休めておくんだな。近いうちに呪いの効力を和らげる薬は見つけておいてやる」
「……私のことは、どうでもいい。それより……お願い、あの子を見つけて。あの子に、あの子にもしものことがあったら……」
繋がり合った杖先から噴き出した親友たちの影が、ありありと思い出される。一体あれは、何だったのだろう。
彼は瓶の口をそっとの唇に押し当てながら、フンと鼻を鳴らしてみせた。
「お前を休ませろと言われている。お前が大人しく眠らない限り、俺はここから動けない」
「………」
眼を閉じ、苦々しく歯噛みして。
はセブルスの傾けた瓶から零れ落ちてくる薬を飲み込み、重たい瞼が落ちてくるに任せた。遠退く意識の中で、夢に見た人々の顔を思い出す。
(父さん……)
きつく閉じた眼瞼をなぞるようにして、涙が溢れ出していく。彼女は最後の力を振り絞って布団を額まで引き摺り上げ、セブルスから顔を隠した。
(ごめん、ごめんね。ごめん)
ジェームズ、リリー。
みんな、みんなみんな。
(ごめん。ごめんなさい。ごめん)
ただそれだけを繰り返しながら。
薬の効果であっという間に眠りについた彼女には、突如競技場から聞こえてきた大歓声などはまったく聞こえなかった。
本来ならばクィディッチ競技場であるべきその場所から聞こえてきた喧騒には気付いていた。
終わった、のだろう。何事もなければいいが。ここからでは判然としない。ただ推測できるのは、第三の課題は終わったということだ。
無事に帰ってきたのならいいが。
胸騒ぎがしていた。数々の怪事件はすべてこの第三の課題に結している、そんな気がしていた。の印のこともそうだ。確実に、ヴォルデモートは力を取り戻している。
少しでも、あの子の側にいたかった。そしてダンブルドアは今夜限り、彼がホグワーツの敷地内に立ち入ることを許した。
何かが起こるとすれば今夜だと。それはあらゆる感覚が悟っていた。
何事もなければいいが。
カボチャの蔓を意味もなく前脚で突きながら、視線だけは遠目に仄かに見える競技場の明かりを見つめる。
少しでも、あの子の側にいたかった。
果たして、それだけだろうか?
自問し、そして微かに首を振る。違う。心配だった。あの子のことも、そして同時に彼女のことも。
彼女は心から己の過ちを悔いていた。それだけのものを背負ってこの十三年を生きてきた。自分が監獄で蹲っている間も、ずっとあの子を護ろうと必死だった。
いや、そんなことは関係ない。
自分が、どうしたところで彼女を求めている。
孤島の監獄で過ごした十二年間、彼の時計は同じ時間を刻んで止まったままだった。信頼、絶望、疑念、妄執。何もかもが二十一歳でその歩みを止めた。
彼女を愛していた。
憎みながらも愛し、疑いながらも信じた。
あの頃と同じように、今でも彼の心は彼女を求めて叫んでいた。
彼女を、愛している。
それでも、深い葛藤があった。
もしも彼女がその耳で予言を聞かなければ?ヴォルデモートを倒す子供が彼らの間に生まれると、そう知らされなければ当然ヴォルデモートは躍起になって奴らを探そうとはしなかったろう。秘密の守り人を任されうる人間に近付こうとしたはずがない。
確かに二人は、優れた魔法使いだった。あの予言がなくとも狙われた可能性はゼロではない。だが仮にそうだとしても、あんな形で二人が殺され、ハリーが一人ぼっちになることなんてなかったはずだ。
ダンブルドアが彼女の母親を殺した?どうしてそんな下らない言葉を信じた。
スネイプの言葉を鵜呑みにして心を閉ざした。行くつもりのない卒業旅行の計画をリリーと楽しそうに練り、イギリスに戻ってきたら俺の家に来ると、はっきりとそう約束した。
彼女が心にもないことを巧く装ってみせる能力に長けているなどと、あの頃一体誰が想像しただろう。
楽しい時には声をあげて笑い、悲しい時には真っ赤に腫らした眼で涙した彼女が。
「ほんとに、って素直だよね」
ジェームズがそう言って笑ったのは、いつのことだったか。
誰も、彼女の内に秘められた闇に気付けなかった。あの、ダンブルドアでさえも。
「 話があるんだ」
ホグワーツ特急を降りてホームに立った彼女は感慨深げに列車を見渡していた。こちらの呼び掛けに気付くと少しだけ驚いたように瞬いてから、「何?」と首を傾げて振り返る。
すぐ側でリリーやリーマスたちと話していたジェームズは逸早く反応してあからさまなまでに大声で言ってきた。
「お、シリウス!ようやく言う気になったんだね!もう、君がいつまでもモジモジしてるからこっちが苛々してたところさ!僕にも聞かせてくれよ、立会人になってあげるからさ!」
「うっせ、黙ってろ!」
ジェームズのお陰で周囲の気を引いてしまったので、仕方なく彼女の手を引いて少し離れたところまで歩く。ジェームズはつまらなさそうな顔をして唇を尖らせていたが、リリーが非難がましい眼でそれをたしなめていた。
立ち止まり、彼女の手を放そうかと考えて 結局、彼はそうしなかった。そのことを不思議に思ったのだろう、彼女は「どうしたの?」と言いながら眉を顰めてじっとこちらを凝視している。
頬が熱くなってきたのを誤魔化すように、肺の空気をゆっくりと吐き出しながら。そのままの勢いで、彼は遂にそれを口にした。
「に、日本からイギリスに戻ってきたら……その、その……俺の家に来て欲しい。もちろん、サウスエンドオンシーのあの家だ。狭いし、大したものも置いてないけど、でも……でも、俺も精一杯頑張って絶対闇祓いになるから。ちゃんと仕事に就いたら、お父さんにも挨拶に行く。日本でもどこでも行く。だから俺と、一緒に暮らして欲しい」
彼女はほんの数秒、ポカンと口を開けて呆然としていたが。
すぐににっこりと微笑んで、ありがとうと頷いた。
夢じゃないかと、思った。一世一代の大プロポーズのつもりだった。ひょっとして考えさせて欲しいとか、ちょっと待ってくれとかそういったことを言われるだろうと覚悟もしていた。
だが彼女は、ありがとうと頷いた。
あの短い沈黙は、ほんの少しの戸惑いだろうと思っていた。
だが、もっと別の何かが隠されていたのだろうと今ならば思う。
そう、それは夢だったのだ。
彼女はそんな残酷な嘘を、笑顔で吐いてみせた。あの沈黙の内に、それを読み取るべきだった。あの時、あの手を放すべきではなかったのに。
彼女は闇の人間になった。
たとえそれが愛する母親のためだったとはいえ。彼女は自分たちではなく、あのスネイプの言葉を信用した。
今でも彼女を愛している。彼女のことを心から欲している。それは事実だ。
今こうして誰もいないハグリッドのカボチャ畑で犬らしく振る舞っている間も、案じているのは名付け子のあの子のことばかりではない。それは紛れもない事実だ。
だが。
彼女の内に潜む闇と、そして自分の抱える闇の感情とが邪魔をする。
彼女を目の前にして、失われた数々の命を忘れられるか。いや、忘れてはならない。それはつまり、彼女への憎悪を併せ持つということに他ならない。
憎みながらも愛することはできる。ずっとそうして、彼女を想い続けてきた。
それでは自分は、一体どうすればいい?
こういった形で大切な仲間を失ってしまった以上、純粋に彼女を愛することはできない。
だがそれでも、共にいたいと願う自分を棄てられない。
どうすればいい?
ダンブルドアは彼女を赦し、こうして側に置いている。彼のように、赦し、認めることができたなら。
彼女の口から真実を聞いてから、ずっと考えてきた。そしてまだ、悩み続けている。
彼女のいないあの家は、思ったよりも広く、静かだった。
あそこで彼女と暮らすという夢を、今でもまだ。
ぼんやりと漆黒の空を見上げる彼のもとにマクゴナガルがやって来たのは、ちょうどその頃だった。