赤く光る大きな星を三角帽子につけ、競技場に入る。スタンドは興奮した熱気に包まれ、空は澄んだ濃紺に包まれていた。

「私たちが迷路の外側を巡回しています」

 バグマンの傍らにいる代表選手たちに向け、マクゴナガルははきはきと言った。

「何か危険に巻き込まれて助けを求めたい時は、空に赤い火花を打ち上げなさい。私たちのうちの誰かが救出します。お分かりですか?」

 代表選手が頷くと、満足げに相槌を打ってバグマンが声をあげる。

「では皆さん、持ち場について下さい」

 はマクゴナガル、ハグリッドと軽く視線を合わせてから、踵を返して自分の持ち場に向かった。途中、不敵な笑いを浮かべたムーディがこちらを見ているのを無視する。彼もすぐさまとは反対方向に義足を引き摺って歩き出した。

 持ち場に指定された場所には既に、漆黒のマントを纏った男がひとり立っている。

「もうすぐ始まるわ」

 告げると、物憂げに振り向いたセブルスの右手には杖が握られていた。も脇に聳える生垣を見渡しながら、そっと杖を取り出す。やがて彼方から甲高いホイッスルの音が聞こえ、三度目の合図の後にはひっそりとした静寂が訪れた。

 神経を張り巡らせ、唇をきつく引き結ぶ。

「……嫌な予感がする」

 忌まわしげに生垣を睨みながら、セブルスが言った。も彼の視線を追い、重々しくつぶやく。

「ええ……とても。ムーディが目を光らせていれば、そう簡単には手出しできないでしょうけど」

 あの男には、迷路の中の様子が分かる。異常に気付けばすぐさま救出に向かうだろう。

 は自ら進んで迷路の巡回を申し出た。当初はマクゴナガル、フリットウィック、ハグリッドにムーディの四人が務めるはずだったが、左腕の違和感が以前にも増して急速に強まったために少しでも課題の様子を側で見たかったのだ。周囲を巡回していれば、異常があった際に行動を起こしやすい。

 ダンブルドアは渋っていたが、セブルスを共に就かせることで了承した。

 何事もないように思えた。少なくとも、数十分ほどは。その間、とセブルスは杖を握り締めたまま全神経を研ぎ澄ませてただじっと迷路の生垣を見ていた。

 悲鳴が聞こえた。甲高い、デラクールの叫び。

 だが赤い火花は上がらなかったため、は軽く頭を振って再び迷路だけに集中した。中にどういった障害が置かれているのかは彼女も知らされていないが、命に関わるようなものはないはずだ。そもそも彼女は、落伍した選手を拾うためにここにいるのではない。それは予め他の巡回者にも伝えてあった。

 闇の気配を感じれば、いつでも飛び出してあの子を救えるように。

「じゃが一つ、約束しておくれ」

 巡回を申し出た時、ダンブルドアはそう言って僅かに眼を細めた。

「もちろん、あの子のことも心配じゃ。大切じゃ。じゃが、もしも左腕に何かがあれば   無理をしてはならぬ。すぐにわしか、他の騎士団の仲間に守護霊を飛ばすこと」

 その場では頷いたものの、その指示に従えるかは分からない。

 こんなに側にいながら、私は何度もあの子の命を危険に晒してしまったのだから。

 あの子を死なせてしまったら、きっと私はこの先生きていくことも死んでしまうこともできなくなる。

 これ以上、彼らを苦しめるような真似はできない。

 は横目でセブルスを見たが、彼は厳しい眼差しで真っ直ぐに迷路を見上げている。彼もまた、あの子を死なせるわけにはいかないのだろう。ローブの上から左手でネックレスを掴み、は瞼を伏せる。

 重い十字を背負っているのは、私だけではない。

 その後も一度ディゴリーのものと思しき悲鳴が響き渡り、とうとう赤い火花が打ち上げられたが、とセブルスは動かなかった。ディゴリーが落伍   スプラウトやシニストラの落胆した顔を思い浮かべると、少々残念に思う。あの天文学教授はやけにディゴリーを可愛がっているようだった。分からないでもないが。

 そうしているうちにも強まっていく左腕の違和感が、迷路に向けた集中力を乱していく。

 そしてそれは、突然起こった。












 バーサのことで相変わらず世間はうるさい。その上休暇申請していたクラウチがホグワーツに現れ、ダームストラングの代表選手を襲って失踪だと?そんなことが知れてみろ。ああ、考えただけでぞっとする。おまけにそのクラウチの狂気にバーサが関わっている?まったく、突拍子もないことばかりを言って我々を惑わせるのもいい加減にして欲しい。

 コーネリウスは眼球だけを動かしてじとりと審査員席を盗み見た。ルード、カルカロフ、ダンブルドア、マクシーム……よくよく考えてみれば、まったくもって胡散臭い連中ばかりだ。第一、私の言葉よりも巨人の血の混ざったフランス人を信じるとは一体全体どういう了見だ?

 ルードは一人でうきうきと迷路を見つめ、マクシームは既に落伍し救護テントに運ばれたデラクールの様子を見て戻ってきたところだった。ダンブルドアは何の感情も感じさせない瞳で真っ直ぐに前方を見据え、カルカロフはあんなにも大事にしていたクラムが救護テントに担ぎ込まれたというのになぜかそちらにはまったく目も向けず、青ざめた顔でぶるぶると震えていた。

 どいつもこいつも、まったく訳が分からない。

 ディゴリーか、もしくはハリー・ポッターか。

 どちらにしてもホグワーツの優勝には違いないが、どちらかといえばハリーに先着して欲しい。そうすればしばらくはそれで紙面を賑わせられるだろう。世間もこれまでのごたごたを一時忘れて最年少の優勝者を祭り上げるに違いない。その間にバーサがひょっこり戻ってくれればいい。誤ってリトアニアに着いてしまったと。

 眼を閉じて軽く頭を振り   そしてゆっくりと、瞼を上げる。視界に映る光景は変わらない。聳え立つ生垣、その奥に潜む果て無き迷路。

 と。

 何の前触れもなく、突然傍らのダンブルドアが立ち上がった。驚いて、素っ頓狂な声をあげる。

「ど、どうした、ダンブルドア」

「少し、外す」

「おいおい……君は審査員の一人だぞ?今にも選手が戻ってくるかもしれないというのに」

「すぐに戻る」

 そう言って彼はこちらの返答を待たず、さっと風のようにどこかへ消えてしまった。観客の目は迷路に注がれており誰もさほど気に留めていないようだったが、コーネリウスは落ち着きなく椅子の上で身じろぎする。ああ、まったく。いつだってあの男は身勝手だ。

 再び他の審査員に視線を戻すと、コーネリウスは異常なまでに真っ青になり、どこを見るでもなく唖然と眼を見開いているカルカロフを見た。

(……何なんだ、一体)

 どう考えてもおかしい。マクシームが訝しげに声をかけても、カルカロフにはまったく聞こえていないらしかった。両腕を抱え込むように身を縮めて、ただひたすらに震えている。病気だろうかと思うほどだった。

(まったく……どいつもこいつも)

 不可解な連中には深入りしないに限る。

 ひとりで納得したように頷き、コーネリウスは腕を組んで椅子の背に反り返った。












 突然、左腕が焼け付いた。食い縛った歯の隙間から呻き声が漏れ、ぐらついた身体は後方に崩れ落ちる。それでもは、右手の杖を手放さなかった。

 すかさずセブルスの腕が伸び、彼女の背を抱き止める。はなぜか十年以上前、初めて帝王の下に参ずるために掴んだ彼の腕の細さを思い出してその対照に苦笑いした。それも左腕の印の痛みに掻き消され、歯噛みして唸る。文字通り、焼けるような苦痛。

 だがそれは、この人生の中で一度も感じたことのない類の痛みだった。

(……これは……)

 セブルスの胸に凭れ掛かったまま、荒々しく呼吸を繰り返す。印から滲み出る熱が全身から汗を噴出させた。

 小刻みに震える手のひらで、彼のローブを掴む。

 こちらの背を抱き寄せた彼の腕もまた、心なしか震えていた。

「……セ、ブルス……」

 印が   それとも膜か?どちらでも良いが   まだ燃えながら、激しく主張している。あまりの激痛に神経を攫われ、は何とか踏ん張っていた両足が情けなく折れるのを感じた。彼も引き摺られるようにして地面に膝をついたが、セブルスは既に掲げていた杖を虚空に向けて振った。その杖先から銀色の何かが鳥のように噴き出して飛んでいく。

「……   

 失われかけた意識を、セブルスの厳しい声が呼び戻した。薄く開いた瞼の向こうで、こちらの顔を覗き込んでいる彼の輪郭がぼんやりと見える。

「すぐにムーディに連絡して迷路内を捜索させる。ダンブルドアを呼んだ   お前は休んでいろ」

「どうして!私も探す!あの子を……あの子を見つけないと……」

 この痛みが、伝えている。それはセブルスにも分かっているはずだ。

 帝王が力を取り戻した   この迷路の中とはいえ、ハリーはダンブルドアから離れたところにいる。それはつまり、安全ではないということだ。

 両手を地面に突き刺し、立ち上がろうと歯を食い縛る。だが左腕から先に崩れてしまい、はその場に伏して呻いた。

「いや……行かないと……帝王が戻ってきた……あの子が、あの子が   

   

 澄んだ、不思議な響きを持った声。

 音もなく、ダンブルドアはそこに現れた。

 いつになく深い、真剣な眼差しでこちらを見据えている。

 たちが何か言うよりも先に、二人の傍らに屈んだダンブルドアは有無を言わさず彼女の左腕を掴んだ。

「せ、先生……それは   

 懇願も空しく、強い力でローブを捲し上げられる。は顔を顰め、きつく眼を閉じた。見たくない   それだけは、どうしても見たくない。

「……戻ったか」

 疲れたようにつぶやいた、ダンブルドアの言葉。

 彼が元通りに袖を戻し、彼女の腕をそっと放す。

 は自分の両腕を抱え、いまだに続いている左腕の痛みを忘れようと額を何度も地面に打ち付けた。

!」

 鋭く叫んだセブルスが彼女の肩を掴み、上半身を起こさせる。だがは彼の腕の中でがむしゃらに泣き叫んだ。印が戻った   あの忌まわしい髑髏が、再び。腕を見なくとも、自分の身体だ。その程度のことは分かる。

「セブルス、を密かに救護テントに連れていっておくれ。ポピーに安定薬を貰って休ませるのじゃ。わしは今すぐアラスターに迷路内を調べてもらう。急いでを」

「先生!私は何ともありません   私も調べます……私は……」

「いや、駄目じゃ。敵の動向に関してはまだ何も分かっておらぬ。今我々にできるのは、迷路の中のハリーの安全を確認することだけじゃ。それは魔法の眼を持つムーディにしかできぬ。君は今は休んでおくれ。印が戻ったことで身体に何らかの異常が出る可能性も高い……とにかく落ち着いて、休んでおるのじゃ。セブルス、頼んだぞ」

 を抱き締めたセブルスが頷いたその時、再び左腕の印に激しい痛みが走った。セブルスも身を強張らせて微かに呻き声を漏らす。それを見てダンブルドアは、ますます深刻そうに眉根を寄せた。

 一瞬の躊躇の後、セブルスがそっと口を開く。

「……招集がかけられました。帝王です……帝王が、死喰い人に招集をかけました」

 はっと息を呑んだダンブルドアは、素早く立ち上がって口早に繰り返した。

「セブルス、を頼んだぞ」

「……先生!」

 歯噛みしながら顔を上げると、最早ダンブルドアの姿は視界のどこにもなかった。

 項垂れ、激しく脈打つ痛みの中でセブルスの声を聞く。

「立てるか」

「……大丈夫」

 熱に浮かされたような心地で、は何とか彼の腕に縋って立ち上がった。いつの間にやら落としていた杖を拾おうと腰を屈めると、セブルスがすぐにそれを拾い上げてこちらのポケットに押し込む。彼女は彼の肩を借り、長引く痛みと格闘しながらゆっくりと救護テントを目指して歩き出した。テントは客席の死角に設けられているため、人目に触れず簡単な薬を貰うことはできるだろう。今はダンブルドアの言う通り、気持ちを落ち着かせることが先決のようだった。

「セブルスは……大丈夫?」

「……万全とは言えないが、大したことはない。単なる招集の合図だ。だがお前は違う。作用の分かっていない膜が消えた……どんな呪いが効いているのか、まったく未知数だ。今もまだ、ひどく痛むんだろう?」

「ええ……ずっと、招集の痛みじゃなくて……もっと他の何かが、働いているような……こんな痛み、今まで……」

 これは招集のそれではない。膜に働いていた、何かの呪い。

 全身から噴き出した汗が皮膚を伝い、冷えた汗が滲んだローブはべっとりと肌に張り付いた。寒気がする。だが焼けた左腕の印はいまだに熱く燃え続けていた。

 見たくない。どうしても、見たくはない。

 ざわめくスタンドの後ろをそっと通り過ぎて救護テントに辿り着くと、デラクールとクラムはベッドの上で眠り込んでいた。その傍らの椅子に座りうつらうつらしていたポンフリーは人の気配に気付くとパッと目を覚まし、こちらの姿を見て仰天したようだった。

「ど、どうなさったんですか先生!すごい汗じゃありませんか!」

「マダム、このことは内密にお願いします。それから……できれば、安らぎの水薬を」

 空いたベッドに彼女を横たえながらセブルスは囁いたが、既にの意識は遠退いていた。左腕の激痛に壊された神経が、重たい瞼を下ろしていく。

 ポンフリーが大慌てで取り出したガラス瓶を持ってセブルスが戻った時には、はうわ言をつぶやきながらも疾うに眠りについていた。

 その寝顔は、どこか泣き顔にも似ていた。