禁じられた森でクラウチが目撃され、ダームストラング校のビクトール・クラムが襲われたその翌日。
は午後の授業中、ここ数ヶ月に感じたことがないほど強烈な痛みに襲われて思わず傍らの壁によろめいた。六年生のレイブンクローとハッフルパフの合同授業だったのだが、すぐ側にいたディゴリーがすかさず声をかけてくる。
「先生、どうされましたか?大丈夫ですか?」
「助教授は持病をお持ちだが、君が気にすることではない、ディゴリー。作業に戻れ」
いつの間にか後ろに回ってきていたセブルスが冷ややかに告げると、ディゴリーは一瞬驚いたようだったが慇懃に一礼して素早く催眠豆を刻み始めた。持病という言葉が生徒の気を引いたのだろう、他の子供たちも目をぱちくりさせながらチラチラとこちらを盗み見ている。セブルスが睨みを利かせると、彼らはすごすごとそれぞれの作業に戻っていった。
視線だけで問われ、視線だけで大丈夫だと答える。
(持病……ね。適切な表現だわ)
皮肉に唇を歪め、はそれを手のひらで隠しながら再び生徒たちのテーブルの間を歩いた。セブルスも反対方向へと歩き出し、ハッフルパフ生の大鍋を覗き込んでは顔を顰めている。
授業を終えると、は片付けをセブルスに任せてひとまず校長室に向かった。もう左腕の痛みは引いていたものの、あれほどの激痛を感じることは稀有であり そして不気味な合図でもある。
「校長。です、少しお話したいことが 」
内側から開けられた扉の向こうにいたのは、またしてもその部屋の主ではなかった。
静かに微笑んだプライアの冷ややかな瞳と眼が合う。
「あなたはいつも、望まれた時に望まれた場所に現れるのですね。それとも離れたところにいる校長の意思がそのまま通じるのかしら」
言いながらプライアが先日と同じように脇に寄ると、部屋の奥にはダンブルドアとファッジが見えた。ダンブルドアは深刻な眼差しで、ファッジはどこか怒っている様子だ。
望まれた時に、望まれた場所に。
「何かね」
ダンブルドアの問い掛けに、は小さく首を振った。
「いえ……お取り込み中でしたら、また後ほど」
「いや、話は終わった。我々はこれで失礼する」
ぶっきらぼうにそう言ったファッジが掴んだ山高帽を乱暴に丸める。彼は同意を求めるようにプライアを見やったが、彼女は僅かに唇の端を持ち上げてそれを拒否した。
「いえ、大臣。先ほど申し上げた通り、私はこちらの助教授に伺いたいことがあります」
「おいおい、アイビス。その件は無関係だと 」
ほとほと疲れたようにファッジが肩を竦めてみせる。だがそれをまったく無視し、プライアは訊いてきた。
「昨夜の九時半から十時にかけて、あなたはどちらにいらっしゃいましたか」
眼を見開き、プライアの顔を見返す。彼女は表情を変えず、冷えた微笑だけをたたえてこちらを見ていた。
二十年という歳月を越えて、再び蘇った悪意がの心臓を突き刺す。
「……それは私が、クラムを襲いクラウチ氏を攫った犯人だと疑われているということでしょうか?」
「疑いたくて疑っているわけではありません。ですが、残念ながらあなたには不利な条件が揃っています。こちらとしては、疑わしきはすべて調査しなくては。いくら世間には隠し通せたとしても、あなたがあなたであるという事実は変わりませんからね」
言い様のない不快感に、眉根を寄せる。こちらにだけ見える角度で勝ち誇ったような笑みを滲ませるプライアの背後から、ファッジは嘆息混じりに言った。
「アイビス、クラウチが攫われたという確証はない。仮にクラムが失神術でやられたにせよ、正気を失った彼の仕業とも考えられる。君が身内のことで過敏になるのは分かるが、そもそもクラウチがホグワーツに現れたという証拠すら 」
「私はその頃、スプラウト教授のオフィスで、彼女とそれからシニストラ教授と一緒でした。これで宜しいでしょうか」
詰問するような口調で、告げる。ファッジは戸惑った様子で言葉を切り、プライアはすべてを予測していたかのように眼を細めて浅く頷いた。
「なるほど……現場不在証明はしっかりしているということですね。分かりました。こちらは別途に調査を進めます」
「アイビス、これ以上何を調べるというんだ?我々の仕事は終わった。さあ、戻ろう 」
軽くあしらう風にファッジが右手を振り、それに合わせてプライアは相槌を打った。連れ立って出ていこうとする二人に向けて、ようやくダンブルドアが口を開く。
「コーネリウス、アイビス。もう一度言うておこう。わしはマダム・マクシームのことも、のことも信用しておる」
ゆっくりとした、深い感情を秘めた声音。
そのどちらもが振り向いたが、答えたのはプライアだった。
愉快そうに眼を細めつつ、ファッジとは対照的に獲物を狙う獣そのものの眼差しでダンブルドアを見据える。
「それはあなたの心証に過ぎませんよ、ダンブルドア」
初めてダンブルドアの眉間に、ほんの微かに凹凸が生まれたように思えた。
無論、そんなものは錯覚だったかもしれないが。
「ですが、あなたのお言葉は部長にお伝えしておきます。それでは」
そうしてプライアは風のように校長室を去り、ファッジは途方に暮れたように頭を掻きながら彼女の後を追いかけていった。静寂の訪れた校長室の中で、深々と嘆息したダンブルドアが傍らの椅子に腰掛ける。
はずきずきと痛むこめかみを押さえながら、顔を上げて問い掛けた。
「……昨夜の一件の調査ですか?」
「そうじゃ。結局のところ、ファッジはクラウチが正気を失って失踪したということで片を付けるつもりのようじゃが」
「もしくは何もなかったことにしてしまうか、ですね」
「魔法法執行部が黙っておればの話じゃが」
何も答えずにただ眉を顰めると、ダンブルドアはさほど間を置かずに言ってきた。
「ここのところ 取り分け、ここぞというところでシリウス・ブラックを逃して以来、ファッジと魔法法執行部は折り合いが悪いらしいのじゃ。魔法法執行部部長のアメリアはホグワーツの警備に関してファッジとまったく対照的な案を提示しておってのう。アイビスの取り持ちで何とか関係は改善しつつあるというが」
「……そうですか」
プライアのことだ。そういったことは得意なのだろう。
ここへやって来た目的を思い出してが口を開くと、ダンブルドアはそれを手で制しながら徐に言ってきた。
「印が痛んだのかね」
「あ……はい。それも、ここしばらく感じた中で最もひどい痛みでした。何か……重大なことがあったのだろうと思います。何か」
するとダンブルドアは再び立ち上がり、後ろの棚からペンシーブを取り出した。それを机の上にそっと置き、抜き出した憂いを落とす。
水盆の表面に浮かんだのは、不安げな、それでいてどこか興奮した様子で捲くし立てるハリーの姿だった。
「夢を見ました ヴォルデモート卿の夢です。ワームテールを……先生はワームテールが誰か、ご存知ですよね 」
ヴォルデモート卿。ワームテール。
は身震いしつつ、水盆に映る黒髪の青年を食い入るように見つめた。
「ヴォルデモートはふくろうから手紙を受け取りました。確か、ワームテールの失態は償われた、とか……そんなことを言っていました。それから、誰かが死んだって。ワームテールを蛇の餌食にはしないと ヴォルデモートの椅子の側に、蛇がいました。えっと、それから それから、こう言ってました。僕を……僕を、餌食にするって。そしてワームテールに磔の呪いをかけました。その時、僕の傷が痛んだんです」
「……これは?」
ペンシーブの中でゆらゆらと揺れるハリーを見下ろしたまま訊くと、ダンブルドアはゆっくりと視線を上げた。
「先ほど、あの子がわしを訪ねてきてのう。彼も君と同じように、傷が痛むと言ってきた。もちろんあの子の場合は、額の傷痕のことじゃが」
思いもよらない返答に、唖然とする。彼の傷痕が、痛む?まさか、彼の傷も私と同じように。
「わしが思うに、あの子の傷痕はあやつがかけ損ねた呪いを通して奴と繋がっておる。ちょうど君の印を覆った膜が、その呪いを通して奴と繋がっておるように」
はダンブルドアの瞳から眼を逸らし、ローブの上からきつく左腕を擦った。あの子も私と同じように、帝王との繋がりに苦しんでいる。
「ただ、君の膜はあやつの魔力に直結するが、あの子の傷痕は奴の精神的な部分と繋がっているようじゃ」
「……どういうことですか?」
「あの子は、時折あやつの夢を見る。そしてそれは恐らく 実際に、あやつの身に起こったことじゃ。そういった意味では君よりも、あの子とあやつの繋がりの方がより強い。先ほどはあやつが強烈な感情を抱き、強力な呪文を発したために君たちの呪いが同時に痛んだのじゃろう」
こんな痛みを背負うのは。私ひとりでいいはずなのに。
歯噛みし、拳を握り締め。潤んだ瞼を見開き、は吐息とともに呻いた。
「……クラウチ氏の失踪は、帝王と何か関係があるということですか」
「昨日、ハリーが会った時バーティはわしに何かを警告したいと言っておったらしい。あやつが強力になっておると。バーサが死んだと。バーティは何かを知っておったに違いない。あやつに纏わる、何か重要な事実を。考えたくはないが……ハリーが夢に見たという、『誰かが死んだ』というのは……クラウチのことではないかと、わしは思っておる」
バーサが死んだ?そして クラウチが?
「まさか……ジョーキンズは本当にアルバニアで帝王に会ったと?でもそれが、一体クラウチと何の関係が……」
ダンブルドアは疲れたように首を振るばかりだ。仕方があるまい。彼ならすべての問いに答えられると期待するのは間違っている。苦笑混じりに、は続けた。
「それに、『誰かが死んだ』と……仮にその夢が正しかったとしても、それを安直にクラウチ氏と結びつけるのは少し短絡的ではありませんか?彼はもう何ヶ月も以前から具合が悪そうでしたし……あの、少し疲れていて気が触れたとしても……その……」
「確かにバーティは、どこか普通ではなかったらしい。じゃがあやつのことを口にした時、彼の口調は一番はっきりしていたと」
「それなら……本当に、それほどまでの危険人物がこのホグワーツに潜んでいるということですね?クラウチ氏を先生に会わせたくない誰か……ポッターの名をゴブレットに入れ、そしてクラウチ氏を……死に至らしめた誰かが、この城に」
考えるだけで恐ろしい話だった。そういった刺客が潜んでいるのだとすれば 。
ダンブルドアの眉間に深い線が刻み込まれ、はこの老人がここまで打ちひしがれるのを初めて見たように思った。実際は古い時代に同じものを見たのかもしれないが、あまりよく覚えていない。
吐き出した彼の言葉は、やはり掠れて震えていた。
「今一度、君たちに頼みたい。あの子から目を離さんでおくれ。ミネルバ、ハグリッド、アラスター、セブルス……みなで情報を共有し合い、必ずあの子を護り抜いて欲しい。対抗試合が終わるまで 一時も、気は抜けぬ。ゴブレットにあの子の名前を入れた誰かが事を起こすとすれば 」
「 第三の課題、ですね」
老人の言葉を引き継ぎ、つぶやく。ダンブルドアは小さく頷き、そのあとを続けた。もう彼の声は、掠れてはいない。
「あやつの好きにはさせぬ。もう、何も奪わせぬ」
送られる非難の手紙は次第に数を減らしたが、魔法省が公には煮え切らない対応をしていることもあってまだ完全に呪いの手紙がなくなったわけではない。だが不思議なことに、あれ以来スキータはに関する記事をまったく書かなかった。
第三の課題当日の朝、予言者新聞を見てその理由を知り、嘆息する。ハリーの記事に飽きたと思えばハグリッド、とターゲットを替え、そして再びスタート地点に舞い戻ったらしい。一面には『ハリー・ポッターの危険な奇行』と大きく書かれ、中には彼の傷痕が痛むことや彼がパーセルマウスであることなどが詳細に記載されていた。
「ポッターは蛇語を話せます。」ホグワーツ校四年生のドラコ・マルフォイが明かした。
「二、三年前、生徒が大勢襲われました。『決闘クラブ』でポッターが癇癪を起こし、他の男子生徒に蛇をけしかけてからは、ほとんどみんなが事件の裏にポッターがいると考えていました。でも、すべては揉み消されたのです。しかし、ポッターは狼人間や巨人とも友達です。少しでも権力を得るためには、あいつは何でもやると思います」
「ドラコ、ちょっと訊きたいことがあるの」
魔法薬学の試験後、は教室にドラコひとりを残してセブルスをも先に研究室に帰らせた。教室の扉を閉め、そっと防音の魔法をかけてから彼の向かいに腰を下ろす。
ドラコはしゃんと背を伸ばして畏まってから、「何ですか」と瞬きした。
懐に仕舞っていた新聞の切り抜きを取り出し、訊ねる。
「このインタビューなんだけど リータ・スキータは校内への立ち入りを禁止されているのよ。一体どこで彼女のインタビューを受けたの?」
ぎくりと身を強張らせて、ドラコは唇を引き結んだ。それがあまりに素直な反応だったため、思わず失笑しながら付け加える。
「あなたを責めようと思って訊いてるんじゃないの。禁止されているのはスキータの校内への立ち入りであって、あなたが取材を受けることではないから非があるのは彼女の方よ。だから教えてくれないかしら。私も彼女には随分と煩わされたからね 私のために、聞かせてくれない?」
俯き、彼はひどく葛藤しているようだったがそれでもようやく肩を震わせて「ホグズミードで」とつぶやいた。だが頑なにこちらから視線を外しているところを見ると、事実ではないらしい。それ以上の追及は諦め、は小さく息をついた。
「そう……分かったわ、ありがとう。それじゃあ行ってもいいわ。次の試験に遅れないようにね」
記事をポケットに入れ、立ち上がる。続けてドラコも鞄を持って席を立ったが、もどかしげな表情でこちらを見つめていた。
扉に向けて数歩進み、振り返って首を傾げてみせる。
「何か訊きたいことがある?」
ドラコは腹の前で抱えた鞄をもぞもぞと抱き直したが、やがて顔を上げて言ってきた。
「あの記事は……本当、なんですか?」
果たして予想通りのことを彼は訊いてくる。はまた音には出さずに噴き出しながら、視線だけを動かしてドラコを見た。
彼の複雑そうな眼差しと目が合う。それは彼の葛藤の結果だった。
口元から笑みを消し去り、告げる。
「その時が来るまで、私はあなたに何も言えない」
彼は驚いたように何度も瞬いた。やや間を置いて、続ける。
「言葉は容易に人を殺す。覚えておきなさい。いずれ、誰にも本音を言えない時が来る。確実なものが見えるまで、真実は直隠しにしておかなければならない。きっとあなたのご両親も同じことを言うわ」
意味が分からないらしい。プラチナブロンドの青年はその場に立ち竦んだまま呆然とこちらを見ていた。
「信じるか疑うかは、自分で決めるしかないの」
そうして、微かに笑みを向け。
彼女はそっと、地下牢教室を歩み出た。
第三の課題は、もうそこまできている。