イースター休暇が終わると、夏学期が始まる。は学年末の試験に向け、数々の課題の採点や試験作成に追われていた。
「」
解毒剤の成分。調合の手順。
「」
薬の表面が褐色になってきたら、ゆっくりと左向きに十回攪拌する。
「」
それから反対向きに掻き回し、液体が透明になるまで繰り返す、……。
「!」
突然頭の後ろで怒鳴られ、は眼前の試験問題から意識を引きずり出された。はっとして振り向くと、いつも以上に深く眉間にしわを刻んだセブルスが仏頂面でこちらを見下ろしている。
「……何?」
彼はこちらが黙考できるほど十分に時間を置いてから、嘆息混じりに言ってきた。
「これをスプラウトのところに持っていってくれと言ったのが、聞こえたか?」
そして右手の羊皮紙を軽く掲げてみせる。は呆然と彼の顔を見返して、思い出したように声をあげた。
「あ、ああ……ええ、分かった。他に何か、届けるものはある?」
「いや、そこにあるものを貰ってきてくれればそれでいい」
「分かった」
頷き、デスクに広げた羊皮紙を脇にまとめる。そうして立ち上がると、セブルスはいかにも胡散臭そうな目付きでじっとこちらを睨んでいた。
「……何よ」
非難がましく問い掛けてはみたものの、後ろ暗い思いで眼を逸らす。彼は見透かしたように鼻を鳴らし、それ以上は何も言わなかった。だが、彼はそのことに気付いているに違いない。
いや、果たしてそうだろうか。分からない。分からないが 彼は決して、私の異変に気付けないほど愚鈍ではない。
私はあれから、ますます先の見えない迷路に嵌り込んでしまった。そもそも迷路というのは、そういった性質のものだが。
すべてを語り終えた後、彼はしばらく何も言わなかった。座り込み、俯き、何かを熟考しているようにも見えるし、また何一つ考えていないのかもしれない。聞こえるのはただ、ヒッポグリフの蹄が地面を軽く擦る音だけだ。
すべてを打ち明けてしまっても、腹の底には驚くほど不気味な塊が残った。嘔吐感が込み上げてくる。逃げ出したい気持ちを得体の知れない何かが凍らせ、彼女をその場に立ち竦ませた。
噴き出した汗が冷え、冷やされた身体から発せられる熱が意識を朦朧とさせる。
「……お前が」
つぶやいた彼の声音は、絶望に満ちたそれだった。
「お前が、聞いた予言が……あいつらを、死なせた……のか」
冷え切った手で心臓を掬い取られたかのような、そんな錯覚。
分かっていた。彼がリーマスのように、穏やかな言葉をかけてくれるはずがないと。
彼のようにどこまでも真っ直ぐで強い人間が、私の弱さを理解できるはずもない。
そう、私は同じなのだ。ポッター一家を売ったピーターと まったく、変わらない。
それでもあなたは、私のことが好きだと言える?
「……そうよ。私が、あの予言を聞いた。だから……帝王は、それを知ってしまった」
涙を流す資格などない。眼を閉じ、音を立てずに闇の中でゆっくりと深呼吸を繰り返す。
彼は地面の上で背中を丸めたまま、独り言のようにつぶやいた。
「……スネイプが、唆して。お前が、予言を聞いて。それを知ったヴォルデモートが、ペティグリューの情報でゴドリックの谷を襲った……」
そうして並べてみると、事は実にシンプルなもので。その巡り合せは、皮肉としか言い様がない。
自分の両腕をきつく抱き抱えながら、は冷気の中でぞっと身震いした。
「私の前で……帝王の名前を、口にしないで」
左腕の印が、熱を帯びて疼く。だが彼はまったく悪びれた様子もなく、あっさりと言い返してきた。
「俺は、奴を恐れない。それはあいつらだって……同じだった。だから俺は、奴の名を呼ぶ」
「あなたは!あなたたちは それでいいかもしれない。でも怖いのよ!私は……あのお方が、怖くてたまらない……」
『名前を言ってはいけないあの人』。それを初めて聞いた時、なぜニースがあれほど敏感に恐怖するのか理解できなかった。
だがそれは、己が無知だったからに過ぎない。
名前を言ってはいけないあの人。例のあの人。自称、闇の帝王 ヴォルデモート卿。
彼の残忍性、魔力の強大さ、臆さぬ心。殺戮に喜悦する、あの紅い瞳。
それを眼前に見た時、あなたはまったく同じことが言えるのか。
(……言えるんでしょう、きっと。言えるんでしょうね……あなたたち、なら)
はマントの上から左腕の印を掴み、歯噛みしながら何度も首を振った。
「臆病だった私にすべての責任はある。それは分かってる。でも日に日に左腕の痛みがひどくなるのよ……この恐怖が分かる?いつまた自分のあの忌まわしい印が浮かび上がってくるか……毎日毎日自分の肌を見るのがどうしようもなく怖いの。あの印が戻ってきたら……それはきっと……帝王の復活を、意味するから。この間の夏から、どんどん痛みがひどくなってる……どうすればいいのか、何も分からないまま!何もできないまま、ただ帝王が力を取り戻しているっていう事実だけを、自分の身体が教えてくれる……」
掻きむしるように爪を立ててから、左腕を放す。そうして再び自分の身体を抱き締めて、は彼に背中を向けた。
こうして話すことができたのはまた、この暗闇のせいなのだろう。彼の顔を見るのは怖かった。失望は、その声だけで十分だ。
(イゴールには偉そうなことを言ったけど……結局私も、何も変わらないのね)
変わらない。何も。結局のところイゴールもピーターもセブルスも自分も、まったく同じ死喰い人であってそこに大した差異はない。
もう私は、光の下に生きる存在とは相容れない。
「……少し、時間をくれ」
彼は突然、そんなことを言ってきた。意味が分からず沈黙を保っていると、あまり間を置かずに彼はあとを続ける。
「言っただろう。恨むか憎むか、それは俺が決めるって。まだ……よく、分からないんだ。自分の気持ちが。お前を憎む気持ち、求める気持ち、恨む気持ち、認める気持ち……自分がどうしたいのか、今はまだ 混乱してる。だから、時間が欲しい。俺はお前を……赦したい。認めたい。だから心の整理がつくまで、俺を待って欲しい」
「……な、にを」
何を言っているのか。
馬鹿げている。まったく意味が分からない。どうして私が待たなければならない。何を待てというのか。
「何で……何でよ!」
拳を握り、彼に向き直る。彼の表情は見えない。分からない。それでもこちらを見上げているだろうことは空気で感じることができた。
「私はあなたに赦されたいなんて思ってない!人間は誰も罪人を赦すことなんてできない!私は一生死喰い人だから!だから憎んで欲しい、罵って欲しい、仇だと怒鳴りつけてくれればいい!だから話したのに 私がジェームズとリリーを殺したのに!私があなたの名付け子を独りにしたのに!どうして罵倒してくれないの!何で、どうして!」
「違う」
思いのほか強い口調で、彼はすぐさま言ってきた。
「人が罪を赦せないのなら、それでもいい。それなら俺は、お前を認めたい。俺は……家族を、棄てた。だがお前は……家族を選んだ。その違いに、気付くべきだった。俺が気付くべきだったんだ……何があっても一緒にいると、誓ったのは俺だ。だから 」
そしてゆっくりと立ち上がり、
「お前にまだほんの少しでも、俺を思う気持ちが残っているのなら。俺がお前を認められるようになるまで、待っていて欲しい。もちろん……待つか待たないかは、お前が決めることだ」
分かっていたはずだ。
彼が無慈悲に突き放すことはないと、分かっていたはずなのに。
打ち明けてしまった。そして彼を、こうして苦悩させてしまった。
こんなことは、望んでいなかったはずなのに。
震える指先で、彼はこちらの頬をそっとなぞった。幼子の肌に生まれて初めて触れる父親のように 不器用な感触だけが残る。
「一つだけ訊きたい」
彼の指先に、ほんの僅かに力がこもった。
「……スネイプとは、何もないんだな?」
ぎくりとして、頬の筋肉が引き攣る。は彼の指を引き離し、その場から出口へと数歩歩いて乱れる呼吸を言葉に被せた。
「今は 何も、ない」
今は。何も。
何と言えば良かったのだろう。何もないと言えば良かったのか。それとも彼とは関係があると言うべきだったか。
だがどうしても、今この瞬間に嘘をつくことはできそうになかった。
「……そうか」
明らかに落ち込んだ様子で、シリウス。
今も関係があると言ってしまえば良かったのに。それができなかったのはきっと。
待っていて欲しい。
これまで待たせ続けたのは、私か。それとも。
その夜、はそのまま彼の洞窟を後にした。
ノックをして立ち入ったオフィスには、一つのテーブルを囲んでお茶を楽しむ二人の魔女の姿があった。そのうちの一人、天文学教授がぱっと表情を明るくして右手を挙げる。
「こんばんは、先生。聞きました?第三の課題、障害物迷路だそうですよ」
「ええ、そのようですね」
「なーんだ、ご存知だったんですか?たった今スプラウト先生から聞いたばかりだから一番乗りだと思ったんですけど」
子供のように唇を尖らせて、シニストラは浮かせていた身体を椅子の上にどさりと戻した。それを見て苦笑しつつ、スプラウトが訊ねてくる。
「何かご用ですか?」
「ああ、ええ。スネイプ教授からいつものものを」
「今日でしたか。用意してありますよ」
手にした羊皮紙を差し出すと、それを受け取ってスプラウトが立ち上がる。そして側の棚に入れてあった薬草の束をまとめて手渡してくれた。
「先生もご一緒にいかがですか。スプラウト先生のスコーン、とっても美味しいんですよ」
上機嫌のシニストラが口をもごもごさせながら笑う。彼女は常に楽しいことしか考えていない。そういった気楽さを与えてくれる。は素直に二人と同じテーブルに着いた。
今はこうして、他愛のない話をして笑っていたい。
彼の"答え"が出る時、私もまた答えを出さなければならないのだから。
「これはもうディゴリーの優勝で決まりですよ!いくらポッターとはいえ呪いや何やら六年生のディゴリーに敵うはずありませんもん」
すっかりディゴリーが優勝した気分でシニストラはからからと笑った。スプラウトも謙遜しつつ嬉しそうに唇を緩めている。は微笑して静かにスコーンを頬張った。まだ仄かに温かく、織り込まれたチョコレートが口腔でゆっくりと溶けていく。
空になったティーカップにまた杖を振って新しい紅茶を注ぎながら、シニストラが顔を上げてこちらを見た。
「それにしても災難でしたね、先生。あんな馬鹿馬鹿しい記事を載せられて。先生が例のあの人の支持者だったなんて、まったく馬鹿げてますよ、ねぇ?まだ嫌がらせの手紙、届くんでしょう?」
は表情を崩さなかったが、それでもさり気なく彼女から目線を逸らした。屑を零さないよう丁寧にスコーンをかじりながら、曖昧に頷く。
「ええ」
「そんな危険な人間、ダンブルドアが雇うはずないのに。何でそんな簡単なことが分からないんでしょうね、あのゴシップ記者。私たちも気を付けないといつ餌食にされることやら」
「ええ」
ほとんど上の空で、返す。シニストラは次々と新しいスコーンに手をつけ、山のように積んであった菓子はいつの間にやら半分以下に減ってしまっていた。
「また新しいの、作りましょうか」
「あ、今度は私がやりますよ!次はコーヒー混ぜましょう、コーヒー!それからラズベリーも」
シニストラの気楽さを見ていると、どことなくほっとする。スプラウトの節度は今の自分にとって本当に有り難い。
新しいスコーンができるまで、はセブルスに渡す薬草を取り出して数えながら洗い場に立つ二人の後ろ姿を見ていた。
バーティミウス・クラウチが禁じられた森で目撃されたのは、その夜のことだった。