『君のことが新聞に載っていて、随分と驚きました。きっと風当たりは強いだろうと思う。でも、君はあれから立ち直り教師として立派にやってきたのだから、自信を持ってこれからも教壇に立って欲しいと思っています。
私のことなら何も心配しないで下さい。日雇いの仕事だけれど、何とかやっています。いつの日かまた君と会えるのを楽しみにしているよ。』
その日、日が落ちる前にはそっと城を抜け出した。マントを被り、腕には厨房で貰った食べ物の詰まったバスケットを抱えている。彼女はダンブルドアの言いつけで、ホグズミードの外れにいるという彼の友人に食料を運ぶところだった。
「ふくろうにでも届けさせればいいのに……」
だがどうも、ふくろうには重過ぎるらしい。パン、果物、飲み物、野菜、菓子類……に届けさせようとその脚に括りつけたのだが、森ふくろうはキーキー喚くばかりでまったく飛び立てなかった。諦めて、自分の足でホグズミードへと向かう。
そのダンブルドアの友人というのは、国内を旅している放浪の魔法使いだという。ダンブルドアは彼をホグワーツに誘ったのだが、対抗試合の邪魔をするわけにはいかないと相手はそれを頑なに拒んだらしい。それならばせめて食べ物を、となぜかが遣わされることになった。
というのは、あくまで方便であり もっとも、巧みな嘘ともいえなかったが ダンブルドアは何らかの込み入った事情があって身を隠さねばならない誰かに食べ物を届けたいのだろうと、は考えていた。だから彼は平日の日暮れに出掛けろと言ったのだろうし、持てるだけの食料を持っていくようにと念押ししたに違いない。
人目を忍んで行動しなければならない誰か。
真っ先に思い浮かんだ人物のことを思考から追い出し、はバスケットを握る手に力を入れた。まさか、そんなこと。脱獄犯の彼がホグズミードなどにいるはずがない。
ホグワーツの正門を出る時、彼方からやって来たふくろうが城に向かって静かに飛んでいくのが見えた。
この数日で受け取った誹謗の手紙は膨大な量にのぼる。五十通までは意味もなく数えたが、それ以上になるともう嫌になりまとめて暖炉に放り込んだ。それでも大広間にいる時に受け取る吼えメールは跡を絶たないし、手に取った途端に込められていた呪いが爆発する類の手紙も少なくない。生徒も教師も好奇心と恐怖の入り混じった眼で遠巻きにを見た。もっとも、それは朝食の席でダンブルドアが全員に対して"記事の内容は間違いだ"と告げてからめっきり減ったが。だがハリーのこちらを見る眼差しはいつまでも嫌悪の籠もった氷そのものだった。
その中に埋もれるようにして届いた リーマスからの、手紙。
短い手紙だったが、彼の言葉も文字もすべてが穏やかで優しく、萎れた彼女の心を和ませるには十分だった。そして同時に、忙しさを言い訳にして自分のことばかりを考え、彼を気遣うことができなかった自分がとてつもなく情けなく思えた。何とかやっていると彼は言っているけれど、反人狼法が起草された今、日雇いでも仕事を得ることは困難だろう。彼のために、何かできることはないか。いや そんなものは、ない。だがほんの少しでも喜んでくれるなら。私と会えることを楽しみにしていると言ってくれているのなら。せめて手紙を書こうと、は思った。
彼は私の心を軽くしてくれた。何年も、ずっと会うことが恐ろしかった。それでも彼は、分け合うことで私の心を軽くしてくれた。
だから次こそは、自分にできることをしたい。
ハイストリートを進み、ダンブルドアの指示通りダービッシュ&バングズの前を通り過ぎてさらに歩き続ける。村の外れには今まであまり来ることがなかった。曲がりくねった小道を突き進んでいるうちに、辺りはどんどん暗くなっていく。
やがて大きな角を曲がり、茂った低木を抜けて上り坂を進むと 。
岩だらけの山の麓に、はきらりと閃く小さな二つの何かを見た。
呆然と眼を見開き、言葉を失う。
暗がりで判然としないが そこに、大きな黒い動物がいた。闇の世界で生きた彼女にとって短時間で暗闇に慣れる力は不可欠であり、そのことが功を奏してか動物のシルエットがそう間を置かずに認識できるようになる。もっとも、その眼を見た瞬間にはそれが何者か分かっていたが。
「……ど……どうして……」
どうして、あなたがこんなところに。
驚いたのは向こうも同じようで、黒犬はしばらく直立不動でじっとこちらを見つめていた。が、やがてくるりと踵を返して岩だらけの山肌をとことこ歩いていく。それは逃げるのではなく、ついてこいと自分を呼んでいるように見えた。
まさか、食料を届ける相手というのは本当に彼のことなのか。
はその場で隈なく周囲を見回したが、他に彼女を待っているらしい人影はまったく見つけられなかった。少し先で立ち止まったシリウスが振り返り、彼女が追いつくのを待っている。は覚悟を決め、バスケットの中身が零れないように押さえながら犬の後を追った。
だからダンブルドアは下手な嘘をついたのか。
ただ身を隠さねばならない誰かに食料を届けるのなら、正直にそう言えばいい。もしくは何も言わなければ良かったのだ。それを下手な嘘で送り出そうとしたのは後ろ暗い思いがあったせいだろう。気付くべきだった。
シリウスが突き進んでいくのは曲がりくねった石ころだらけの険しい道で、は何度もバスケットを抱え直しながら息を切らせてついていった。呼吸を整えるために足を止めると、数歩遅れて黒犬も立ち止まり振り返る。は半ば自棄になって、刺すような寒気の中、不快な汗をかきながら山道をよじ登っていった。
すると突然、シリウスの姿が視界から消えた。不意を衝かれ、きょろきょろと辺りを見回す。まるで彼の存在など初めからなかったかのように、そこには無関心な暗闇だけが広がっていた。
左手でバスケットの取っ手を掴んだまま、懐に右手を挿し入れ杖を握る。まさか本当に、幻だったのか?それならばなんと滑稽なことか 早く、指定された場所に戻らなければ。
その時、ちょうど彼が消えたところから、低い、押さえつけたような声が聞こえてきた。
「ここだ」
シリウスの、掠れた声。
あの時の 彼の声。
幻聴か。それとも本当に彼はそこにいるのか。
ゆっくりと、慎重に歩を進めていく。そこに、狭い岩の裂け目があった。
思い切って身体を押し込むと、中はひんやりとした冷気が漂う洞窟のようだった。仄かな月明かりすらも遮られ、視界がまったく効かなくなる。が杖先に光量を押さえた明かりをつけると、そこには人の姿に戻ったシリウスと、さらにロープで繋がれたヒッポグリフがいた。
ボロボロの灰色のローブを着た彼の呆然とした瞳が、瞬きもせずにこちらを見ている。
は杖を脇に下ろしながら、持ってきたバスケットを傍らの地面に置いた。彼から視線を逸らし、つぶやく。
「……こんなところにいるなんて。てっきり、もっと遠くに逃げたんだと思ってた」
「 逃げた。もっとずっと、南の方へ。最近……戻ってきたんだ。あの子のことが、気掛かりで」
軽く杖を振り、は完全に明かりを消した。バックビークの姿も彼の表情も、すべてが見えなくなる。いや、自分が瞼を閉じただけかもしれないが、どちらでもいい。
「心配しなくても……良かったのに。あの子には、ダンブルドアがついてるわ。今ホグワーツにはムーディもいる。それより、指名手配されているあなた自身の身の安全の方が、より優先すべきだったんじゃないの?まあ……今更言っても、遅いでしょうけど」
「私は」
僅かに声の調子を強め、シリウスは囁いた。
「私は あの子の、名付け親だから。私が、護らなければいけないんだ」
「……そう。あなたがそれでいいのなら、好きにすればいいわ」
内心は気が気でなかったが、平然と言い返す。どうして。どうしてこんなところで彼に会わなければいけないのか。逃げられたと、思っていたのに。
私が彼から、逃げ出してしまいたかったのに。
「食べ物は……ダンブルドアからの、配慮。こんなところに隠れてたんじゃろくなもの食べてないんでしょうから、しっかり食べて。それじゃあ、私は帰らないと」
冷え切った空気の中で、自分の声だけが遠く、切り離されて飛んでいく。自分ではない誰かの唇が紡いでいるかのように、味気なく。だが確実に、それは自分の言葉なのだろう。そう思う。
眼はまだ見えてこないが、それでも出口だけは分かる。そちらに向き直った時、背後から唐突にきつく右腕を掴まれた。
どきりと心臓が跳ね上がり、全身が総毛立つ。そのほんの一瞬で凍りついた神経に、シリウスの言葉が突き刺さる。
「……逃げるのか」
それが脅しならば、振り放して逃げることもできたのかもしれない。だが彼の言葉はどこまでも悲しげな、儚いものだった。
こちらの腕を掴んだ彼の手のひらが、小刻みに震えている。
「私は、ホグワーツの人間よ。ここへはダンブルドアの遣いとして来た。ただそれだけ」
「 言ったはずだ。次に会った時は……何もかも、話せって」
「あなたがそう言っただけでしょう。私はそんなこと、約束してない!」
声を荒げ、振り解こうと身を捩ると、より強く腕を握られて痛みに顔を顰める。彼は慌てたように拘束を緩めたが、それでも決して彼女を放そうとはしなかった。
掴まれた箇所から、急速に熱が奪われていく。
バックビークが小さく不安げに鳴くのが聞こえてきた。
疲れたような溜め息とともに、シリウスがつぶやく。
「どうして……何も言わない。私は、知りたいんだ。お前がなぜ、あんな馬鹿なことをしたのか……聞かせてくれ、私は知りたい」
彼の言葉の起伏が、皮膚を通して伝わってくる。息が詰まる思いで、は力なく首を振った。
言えない。言えるはずがない。言ったところで何がどう変わるというのか。
軽く、だがしっかりと掴まれた腕をさらに引かれる。そうして彼は苛立たしげに言ってきた。
「俺が!知りたいんだ……リーマスは、それを知ってるんだろう。何で……何でなんだよ!俺はもう、これ以上待ちたくないんだ!」
「話したくないって 言ってるでしょう」
言い終える前には。
懐から取り出した杖を 恐らく胸元だろう 相手に突きつけ、は乾いた唇を舐めた。彼もこちらが何をしているかには気付いたに違いない。慎重に息を呑むのが分かる。
だが決して彼女の腕を離すことはなく、彼は張り詰めた声で囁いた。
「そんなに……嫌なのか」
痛いほどの静寂の中で、シリウスの吐息までもがやけに大きく聞こえてくるように感じる。
「そんなに俺のことが、嫌いになったのか」
嫌い。シリウスのことが、嫌い?
思わず込み上げてきた笑いをは抑え込まずに吐き出したが、それは随分と乾いた惨めな音だった。そのままの調子で、続ける。
「……好きとか嫌いとか、そんなことは関係ない。誰にも、話したくないのよ……だから、その手を放して」
言いながら、突きつけた杖を脅すように動かす。彼はしばらくこちらの腕を掴んだまま沈黙を保っていたが、やがて糸が切れたかのようにだらりとその手を離した。
項垂れた彼のシルエットが、闇に慣れた視界にぼんやりと映る。
「……そうか」
それはほとんど、吐息のような声だった。だがこの静寂の中ではそれだけで十分すぎるほどにこちらの胸を突き刺す。彼もまた、問うことをやめたのだ。問い詰めることを忘れようとしている。
これで、いい。これでやっと、彼は余計なものを棄てて護るべきものだけを護ることができる。
そう、彼はハリーの名付け親なのだから。彼だけを見守り、そして彼だけを愛せばいい。
私のことなんて、すべて忘れてしまえばいい。
は杖をポケットに仕舞ってから、くるりとシリウスに背を向けて一歩右足を踏み出した。
「それじゃあ……おやすみなさい」
彼が何かを言うより先に、バックビークが寂しげに鳴き始める。近付いて、挨拶しようかと悩み はあっさりとそれを断念した。仄かな月明かりを頼りに、狭い岩の割れ目に手をかける。
ちょうどその時、左腕に鋭い痛みを感じて彼女は呻き声をあげた。その拍子に岩を掴んだ両手が緩み、後方に転倒する。
「!」
左腕の印は今では慢性的に疼くようになっていたものの、時折こうして不意を衝いて激痛が走ることがあった。授業中や騎士団員以外の教師と一緒にいる時はかなり気を配っているため印が痛んでも声をあげずに済むのだが、まさに今この瞬間は痛みに関して気を抜いてしまっていた。あまりの迂闊さに歯噛みするも、既にシリウスの腕の中に倒れ込んでしまっている。彼の体臭よりもその温もりに反発してしまい、は後ろに飛び退こうともがいた。
だが彼の両腕がしっかりと、こちらの身体を抱え込んで動かない。
「、どうした!どこか痛むのか 」
いやだ。いやだいやだいやだ。
私はこの温もりに、触れたくない。
だから突き放した。もう戻れない。突き進むしかない。あなたの優しさが側にあれば私は前には進めない。
「 は な し 」
「!俺は後悔してるんだ!あの後どうしてお前と別れたのか あの時お前と一緒にいれば良かった 一時も離れるべきじゃなかったって……」
何を言っているのか。だがきつく抱き締められているこの状態では、激しく脈打つ彼の鼓動があまりに煩くて
ひょっとしてそれは自分のものだったかもしれないが 何も、考えられなくなる。何も訊けなくなる。
震える声で、シリウスはあとを続けた。
「俺はもう、あんな思いはしたくないんだ……何もかも、教えてくれ。俺には話したくないのなら、それでも……構わない。お前が、ムーニーを選ぶなら……それも仕方がないと、思ってる」
「……え?」
今、なんて。
思いもよらない台詞を投げ掛けられ、肩の力が抜ける。私が、リーマスを選ぶ?一体何を言っているの。
彼の声音が、いよいよ頼りないものになっていく。
「十三年。十三年だ……俺が投獄されてから、十三年。その間にお前の気持ちが離れても……お前が、あいつのことを……好きに、なっても……」
「ちょ 馬鹿なこと言わないで。何で私が……勝手に決め付けないで!リーマスとは、そんなんじゃないわ」
馬鹿馬鹿しい。どうしてすぐにそんな下らない考えに飛躍するのか。
だが、ふと考える。それを否定する必要があるのか。放っておけばいい。馬鹿げた妄想は好きなだけさせておけばいい。私には、関係がない 。
こちらの背を抱き寄せる彼の腕の力が強まり、シリウスは荒っぽく声をあげる。
「だったら何でリーマスにだけ話した!俺は……俺、そんなに信用できないか。俺は……」
項垂れた彼の顔が、肩に圧し掛かってくる。は夜の寒気の中でどうしようもないほどに火照る頬の熱を何とか忘れようとした。だが意に反して身体中の熱はどんどん上昇していく。
瞼を閉じ、一度だけ深呼吸をしてからゆっくりと眼を見開く。これはもうどちらの身体の震えなのか、分からない。
「……違う」
違わない。何も、違わない。
それでも彼女の唇は、胸中とはまったく別の言葉を紡いでいた。
「違う違う違う!私にだって分からない!分からないけど……でもどうしても、言えないことってあるでしょう?私が馬鹿だったんだから……今更言い訳なんて、したくないのよ。そんなの、何の解決にもならないもの……私は、あなたにずっと……憎まれていたいのよ……」
ああ、一体何を言っているのだろう。
分からない。分からない。ここで彼を、突き放してしまえばいいのに。何も言わずに、城に戻ればいい。それなのに。
「勝手だ。お前はいつだって勝手すぎる」
そう言った彼の吐息が、どことなく首筋にかかる。ぞくりと身震いしながら、は軽い目眩を覚えた。
「俺のことが嫌いになったなら、それでも……いいんだ。それなら……昔馴染みのよしみで、教えて欲しい。その後俺がお前を恨むか、憎むかは……俺自身が決める」
こうして、彼の腕に抱かれていると。ずっと、貫いてきた固い何かが脆くも崩れ去っていくのを感じる。
何をやってきたのだろう。十三年、いや十六年。私は一体何をやってきたのか。
人生の中で、唯一好きになった人と。最愛の親友たちの息子に恨まれて。憎まれて。そうして生きていくのが、当たり前だと思っていた。
それなのに、こんなにも容易に。
こんなにもあっさりと。張り詰めていたものを切られてしまった。
早くここから逃げなければ。未練がましい弁解をしてしまう。
彼にだけはどうしても、背負わせたくないのに!
それなのに。
「……馬鹿」
つぶやいて。
無意識のうちに掴んでいた左腕をそっと放し、は静かに瞼を伏せた。