毒ツルヘビの皮、二角獣の角が再び盗まれた夜、その犯人がハリーであるということを裏付ける事件が起こった。破られた封印の魔法、代表選手の卵、階段に落ちていた忍びの地図、そしてそれを自分のものだと言い張ったムーディ……ムーディの魔法の眼は透明マントをも見透かす。ハリー寄りのあの男が彼を庇うのは自然なことだろう。
だが、到底許せる行為ではない。一度は見逃してやった。そしてそれを繰り返すという。ポリジュース薬は非常に高度な知識と経験を要し、そうでなくともホグワーツでは生徒の無許可での調合は禁じられている。こんな身勝手な行動を、見過ごすわけにはいかない。
「我輩はベッドに戻ろう」
上りかけた階段を苛立たしげに下りてきたセブルスの背後 透明マントに覆われてそこにいるはずのハリーに向け、は低めた声でつぶやいた。
「いい加減にしなさい。自分が特別だと勘違いしているようだけど、あなたには夜中にこうして歩き回る権利はないの。次に現場を押さえれば私たちがあなたを必ず退校処分にしてやるわ」
擦れ違い様にセブルスは微かに口角を上げ、も踵を返して彼を追いかける。もうこれ以上ムーディの声は聞きたくなかったが、それでも聴覚を遮断できるわけもなく嘲笑うようなあの男の言葉が背中から聞こえてきた。
「その前に、自分自身が尻尾を出さぬよう気をつけることだな」
寝室への道のりを辿りながら、苛々と歯噛みする。いい加減にして欲しい。ムーディ、イゴール、見えない敵、日増しに違和感の強くなる左腕の印、リータ・スキータ、数は減ったがまだ届く吼えメール、ニースからの手紙、数を減らす毒ツルヘビの皮、二角獣の角……一体誰に変身したいというのか。ハリーたちがまたポリジュース薬を、しかも定期的に作っているのだとすれば誰にも気を許せないということになる。
一年前のセブルスも、同じような気持ちだったのだろうか。もっと彼のことも考えるべきだったかもしれない。彼がリーマスやシリウスたちと深い確執を持っていることは痛いほどに分かっていたはずだ。
(……ニース、リーマス シリウス……)
名前を。声には出さずに、繰り返す。
一体どうしているだろうか。ふと、思うことはある。だが日々の忙しさやストレスに押し潰され、それらを深く考えることはない。そんな余裕はない。明日のこと、目の前の仕事。やるべきことは山のようにある。
そして 考えることに、意味はないのだろう。彼らのためにできることはない。祈るだけならばそれは、何も考えないのと同じことだ。
(私は今でもお前のことを)
蘇りかけた記憶を、唾と一緒に飲み込む。考えるな。何も、考えるな。
彼はただ、無事に逃げてくれていればそれだけでいい。それは文字通りの意味だ。どこかで生きていてくれているのなら、ただそれだけでいい。
彼と再会してしまえば、自分の気持ちが分からなくなる。
実質的には初恋であり、唯一の恋人であったシリウスが自分にとって特別な存在であることはきっとこの先も一生変わらない。だが、それだけだ。今でも彼を愛しているわけでは、ない。そこまで私は純真ではない。
仮に自分が心から彼のことを想っていたとしても、今でも彼が自分を好いていると言っても。
「……ねえ、セブルス」
研究室に戻り、自分の寝室に帰ろうとこちらに背を向けた彼にそっと声をかける。セブルスは部屋のドアノブに手を添えてから、物憂げに振り向いた。
「何だ」
「えっ」
反射的に間の抜けた声をあげてしまい、セブルスは不機嫌そうに眉を顰める。は伸ばしかけた右手をネグリジェの胸元に運び、曖昧に唇を緩めた。
「……ごめんなさい、言おうとしたこと忘れちゃったわ」
「は? 疲れてるんだろう、お前も早く休め」
「ええ……おやすみ」
「おやすみ」
くるりと踵を返し、セブルスはさっさと扉の向こうに消える。は溜め息混じりに額を掻き、重苦しく瞼を閉じた。彼の言う通り、疲れているのだ。要因はいくらもである。早く眠らなければ。
一体私は、彼に何を言うつもりだったのだろう。
またしてもやられた。
これが一度目ならば今回は許容できた。何しろ数百年ぶりの三大魔法学校対抗試合という誉れ高い場である。だが既に二度も保管庫を荒され、何食わぬ顔で授業に臨んでいる青年のことを思い返すと不快感は隠しきれない。彼が無事に帰還したこと、"道徳的な力"とやらを示しディゴリーと揃って首位をキープしたことを差し引いてもまだ苛立ちは治まらなかった。もっとも、そのことに対する無言の罰則としてセブルスが今まで以上にハリーに辛く当たったので、はそれを見て心を落ち着かせるに留まったが。
「さすがは俺のハリー!あの二人の息子だろう、え?」
小屋を訪ねる度に、ハグリッドは第二の課題での彼の"気高い行い"について長々と誇らしげに語ってみせた。その都度は顔を顰め、胡散臭そうに首を振る。
「ジェームズならもっと上手くやるわ。ディゴリーのやり方の方が確実だしずっと良かった。それにリリーは決して人様の物を黙って盗んだりしなかったわ。彼女だってもっといい方法を見つけ出したはず」
すると彼はまた声をあげて豪快に笑った。
「いいじゃねーかそれくらい。必要なもんを時間内に手に入れるんだって立派な作戦のうちだ。鰓昆布なんてそこいらの子供じゃなかなか思いつかねぇ!それだけで大したもんだ」
「……鰓昆布なんて植物事典を引けば大抵はどれにでも載ってるわよ。でもあまりに希少価値が高いから誰もそれを使おうとは思わない。だから他の代表選手はもっと別の方法を見つけたんでしょう。それを教員の保管庫から盗み出すなんて……あんな貴重なものを」
「まあ、大目に見てやれや。俺たちの可愛いハリーが一位なんだ!あの子は絶対にやってくれるぞ、何しろあの二人の息子だからな……」
俺たちのハリー。誰の。誰のハリー。ハリー・ポッター。
一度だけ触れた、赤ん坊の彼を思い出す。俺たちのハリー。僕たちの、ハリー。
「名前、シリウスが考えてくれたんだよ」
あの赤ん坊の小さな小さな指をそっと握りながら、ジェームズは嬉しそうに笑った。
僕たちのハリー。僕たちのハリーだよ。
記憶ばかりが一人歩きして。代表選手として人々の前に立ち、あの教室で嫌そうに魔法薬を調合している青年とあの二人の子供との影が重ならない。あの子を見ると思い出す。ジェームズのクシャクシャの黒髪、リリーの緑色の透き通った瞳。だがそれはまた、まったく別の人間として脳裏に刻まれているように思う。
それでもハリー・ポッターは、紛れもなくあの二人の息子なのだ。
どうして愛せないのだろう。大切な彼らの子供を、どうして愛してあげられないのだろう。
そうしたかった はずなのに。そうできない自分になってしまったのは、己の咎だ。はティーカップを握る指先に力をこめていることに気付き、慌ててその手を離した。
「それじゃあ……そろそろ行くわ。午後の準備もしないといけないし」
午後は二限続きのグリフィンドールとスリザリンの四年生合同授業だ。一番疲れる授業ともいえるし、一番楽な時間ともいえる。何をすべきかは、はっきりしているからだ。
その日の授業ではグレンジャーが週刊魔女を持参したため、セブルスは彼らの座席をバラバラに離した。彼は教卓の前のテーブルに移動させたハリーをお得意の低音で嬲り続け、はスリザリン生を中心に丁寧なアドバイスをして回る。ちらりと視線を巡らせると、思い詰めた表情をしたウィーズリーが乳棒でタマオシコガネを躍起になって潰していた。
ちょうどその時、地下牢教室のドアをノックする音がした。そのすぐ側に立っていたは一瞬セブルスと目を合わせてから、扉に向き直って告げる。
「どうぞ」
入ってきたのはイゴールだった。クラス全員が振り向き、彼がこちらにやって来るのを驚いた様子で見ている。は手本として根生姜を刻んでいたパーキンソンの小刀を彼女の手に戻してから、急いでイゴールに歩み寄り彼を教室の隅に引き摺っていった。作業も忘れて呆然と二人を見ている生徒たちに、セブルスは早急に自分のやるべきことに戻れと声を荒げる。
声量を落とし、はほとんど唇を動かさずに捲くし立てた。
「どういうおつもりですか、カルカロフ校長……授業中ですよ!」
「話がある……君たちに話が!」
イゴールもまた独白のような小声で不安げに、激しく言ってくる。するといつの間にかすぐ背後にまでやって来ていたセブルスがつぶやくように言った。
「授業中だ、カルカロフ。後にしろ」
「いや、今だ。今話したい。セブルス、、君たちはずっと私を避けている……君たちが逃げられない時に、どうしても!」
「授業の後だ」
ぴしゃりと告げて、セブルスは早々にその場を離れていった。も厳しい眼差しでイゴールを睨み付け、やはりまだこちらを見ている子供たちを払い除けるように軽く手を振る。それから再び調合の指導に戻った。
イゴールは二時限続きの授業の間、ずっと教卓の後ろで落ち着きなくウロウロしていた。終業ベルが鳴り、子供たちがガヤガヤとドアに向かい始めると、待ち焦がれたように飛んできて早口で言ってくる。
「やっと話ができる……君たちはここのところずっと、私を避け続けている」
「 それで、一体何がそんなに緊急なんだ」
あからさまに顔を顰めつつ、セブルスが訊ねる。するとあろうことかイゴールは突然ローブの左袖を捲り上げ、その内側に刻まれた髑髏を見せ付けてきた。ぞっとするものが胸の奥で湧き上がり、は思わず後ずさる。
「どうだ、見たか?こんなにはっきりしたのは初めてだ……分かるか、これは間違いなく 」
「しまえ!」
激しい感情を暗い瞳に宿し、教室全体をさっと見回しながらセブルスは低く唸った。子供たちは既に出ていき、静まり返った室内にイゴールの興奮した呼吸が響く。
「君も気付いているはずだ、セブルス 」
「後にしてくれ、カルカロフ」
吐き捨てるように言ったセブルスの視線が、教卓の陰になっていた床へと冷たく走った。
「ポッター!何をしている」
見やると、そこから何事もなかったかのように立ち上がったハリーが汚れた雑巾を軽く掲げてみせる。彼の存在に気付いていなかったはぎょっと眼を見開き、イゴールは慌てて袖を下ろした。
「アルマジロの胆汁を拭き取っています、先生」
怒りと心配の入り混じった顔をしたイゴールは、ハリー、そしてとセブルスとをジロリと睨んでから大股で教室を出ていった。続いてハリーが鞄に教科書と材料を投げ入れ、逃げるように去っていく。後に残されたとセブルスは、大きく息をついて提出された薬のガラス瓶を隣の保管庫へと運んだ。
教室を出る前に、そっと問い掛ける。
「……あんなにもはっきりしてきてるなんて、どうして言ってくれなかったの」
「痛みが次第にひどくなると、お前も言っていただろう。いちいち言う必要があるのか」
「でも……あそこまで」
イゴールの左腕の印は、思った以上に鮮明な色を浮かび上がらせていた。ここしばらくはセブルスの印も見ていなかったので、その明瞭さに寒気を覚えたほどだ。確かに自分の左腕も頻繁に疼くようになり、時に調合の精密さを欠くことがある。だが実際にそれを目に見える形で目の当たりにするのとはまた訳が違った。
研究室の前には、案の定ソワソワした様子のイゴールが腕を組んで立っている。セブルスは肩を竦めつつ、嘆息混じりに「入れ」と彼を部屋の中に促した。
研究室に足を踏み入れるや否や、堰を切ったようにイゴールは早口で喋りだす。
「セブルス、……あのお方が力を取り戻しているんだ……こんなにはっきりと浮かび上がるなんて、あの頃と一緒だ……もう、逃げられない、誰も、誰も……闇の帝王が戻ってくる……」
そして彼は、側にいたの両腕を強く掴んだ。そのままの勢いで、こちらの左袖のローブを捲し上げる。
そこにあるべき見えない印を疎ましげに見据え イゴールはしきりに首を振った。
「君には見えないか……いや、だが分かるはずだ……私たちはみな、この印の下で誓ったのだから……」
この印の下で。永遠の忠誠を。
『我々はこの印の下、互いに"家族"なのだから』
彼はの左腕を握ったまま、ぱっと視線を上げて二人を見た。
「逃げよう」
イゴールの小さな瞳が、涙に濡れて何度も瞬く。
「逃げよう……私と、一緒に逃げよう。この国を出て、どこか遠くへ もっと遠くに。誰の手も届かないところへ」
救いを求めるその眼差しから視線を逸らし、はセブルスを見た。彼は俯き、うんざりした様子で手元のレポートを見つめている。
は再びイゴールに向き直り、彼の冷たい手のひらを自分の腕からゆっくりと引き離した。
「私たちは、逃げない。ダンブルドアの側を離れない。だから逃げるなら一人で逃げて。こうしている間にも、あなたはこの国を離れた方がいいのかもしれない」
覚悟がなければ。ここに留まることにきっと意味はない。イゴールは茫然と眼を見開き、穴が開くほどこちらを見ている。
「そういうことだ、イゴール」
デスクについていた右手をそっと浮かし、セブルスは冷ややかに言った。
「何度言われようとも俺たちの気持ちは変わらん。諦めて、逃げるのなら一人で逃げろ。印は俺たちにもある。いちいちお前が騒ぎ立てずとも何が起こっているのかは分かっている。そして どうすることもできん」
イゴールの顔面が、次第に色を失っていく。
は彼に捲られた袖を下ろし、静かに瞼を伏せた。どうすることもできない。どうすることも。
だから自分に、できることをやり遂げる。
予想だにしなかった記事が予言者新聞の一面を飾ったのは、その僅か二日後の朝だった。