『名前を言ってはいけないあの人』に仕えた巨人の多くは暗黒の勢力と対決した『闇祓い』たちに殺されたが、フリドウルファはその中にはいなかった。海外の山岳地帯にいまなお残る巨人の集落に逃れたとも考えられる。魔法生物飼育学の授業での奇行が何かを物語っているとすれば、フリドウルファの息子は母親の狂暴な性質を受け継いでいるといえる。
同僚で魔法薬学助教授の・は「彼には教師らしからぬ振る舞いが目立ちます。校長には近日中に是非とも自らの人選の見直しを求めたいですね。このままでは数千年の歴史を持つ我が校の威信に傷がつきます」と語った。
「……申し訳ありません。私が不用意な発言を与えてしまったばかりに」
「いや、君が何も言わずともリータはまったく同じことを書いたじゃろう。君の気持ちは分かっておる。そう気を落とすでない」
広げた新聞を机の上で丁寧に畳みながら、ダンブルドアが微かに唇を緩める。だがそれもほんの一瞬で消え、彼は疲れたように息を吐いた。
新学期第一日目の朝、予言者新聞の一面にはいかにも胡散臭そうなハグリッドの写真が掲載された。それはの予測した内容ではなく。
『ダンブルドアの巨大な過ち』
それはハグリッドが巨人の血を引く混血児であり、その血筋が彼の危険な狂暴性に結びついているに違いないというものだった。記事の中にはの名前まで盛り込まれていたが、彼女が口にした答えは一言も書かれていない。
「それにしても……知りませんでした。彼が、半巨人だったとは」
だからどうだというわけでは、もちろんないが。
「もう二十年来の付き合いになる私ですら知らなかった事実を、スキータは一体どこで入手したのでしょう」
「わしにはさっぱり、分からぬ。じゃが問題は、この記事によってハグリッドがひどく打ちのめされたということじゃ」
言われるまでもない。今朝の大広間にも、昨日の食事にもハグリッドは姿を見せなかった。小屋にこもってしまった彼の代わりにダンブルドアは慌てて代用教師を用意し、既に噂は城中に広まっている。
偏見だ、と言ってみたところで人の口に戸は立てられないし、実際のところ代用のグラブリー−プランクの授業の方がまともで、彼女こそ魔法生物飼育学の教師に相応しいという意見は生徒の間では少なくなかった。もっとも、彼が巨人の血を引いていて狂暴だという記述に関してはあまり気にしてはいないようだったが。
「ハグリッド。いるんでしょう?ここを開けて頂戴」
何度目になるか分からないノックを繰り返すも、応答はない。代わりにどうやらファングが入り口の扉に内側からガリガリと爪を立てているらしい音がした。
彼が小屋に引きこもってから、既に四日が経過していた。食事だけはダンブルドアの計らいでしもべ妖精が小屋の中まで届けてくれているようだったが、如何せん本人がそれに口をつけなければ意味がない。は紙袋に詰めたパンと一緒に持ってきた手紙の山を胸元で抱え直しながら、苛々とドアを叩いた。
「いい加減にしてくれない?私だって暇じゃないのよ。どれだけ人に迷惑をかければ気が済むの。いいからここを開けなさい」
それでも中から聞こえてきたのは大きく洟を啜る音だけで、一向に扉は開かない。は小さく息をついて、軽く周囲を見渡した。誰もいないことを確認してから、空いた片手で杖を取り出す。
「ファング、ちょっと退いてなさい」
果たしてその言葉がファングに届いたかは分からないが、は杖先を扉の上方へと向けてつぶやいた。
「レダクト」
するとあっという間に木製のドアの上半分が吹き飛び、奥のベッドに倒れ込んだハグリッドが涙に濡れた眼で唖然とこちらを見ているのが分かった。ファングは驚いて飛び上がったが、壊したドアの高さに満たないその身体自身はまったく傷付いてはいない。は半分になったドアの上から手を伸ばして宥めるようにファングの頭をそっと撫で、嘆息混じりに言いやった。
「傷付くのは勝手だけどね。与えられた仕事を放棄するなんて大人のやることじゃないわ。みんな迷惑してるの」
ポカンとしていたハグリッドは再び泣くことを思い出したかのように、両手で顔を覆ってしきりに嗚咽を漏らした。精神的ダメージとまともな食事を摂っていないこととが相まってひどく憔悴した彼は今にも倒れそうなほど顔色が悪い。それでも彼はようやく指の隙間から消え入りそうな声をあげた。
「お、俺には初めっから、向いてなかったんだ……だ、だからお前さんが愛想尽かしたって……こ、ここを追い出されたって……仕方ねぇんだ、俺は、俺はそういう人間なんだ……」
俺はそういう人間なんだ。
歯噛みし、は眉間に力をこめて泣き続けるハグリッドを睨む。
「馬鹿じゃないの?私がいつ愛想尽かしたって?それともあんな三文記者の記事をいちいち鵜呑みにしてるのかしら。ふざけるのも大概にしなさい。誰も気になんてしてないの。あなたが気にしてるほど、教師も生徒も誰もあんなものは気にしちゃいないのよ!」
声を荒げると同時、手元の手紙の山を床に叩き付ける。
「私だってあの女の記事のせいで迷惑してるの!見なさい、この手紙が何なのか、あなたに分かる?この数日で吼えメールだって何通受け取ったことか……『人のことをどうこう言う前に自分の行いを振り返れ』!全部、卒業生からの苦情の手紙よ。ダンブルドアのところにも何十通も届いてるらしいわ。あなたを知る人間は、あんな下らない記事に振り回されたりはしない!それだけで十分だと思うけど?それともあなたにはそれじゃあ足りないのかしら」
「お、俺のせいで……俺のせいで、お前さんにそんな……ダンブルドアにも……」
「誰もあなたを責めてなんかいない」
言いながら手で内側の鍵を開け、は壊れたドアを押し開けて小屋の中に入った。嬉しそうに飛び掛ってきたファングを何とか受け止めてから、自分が吹き飛ばした扉を修復する。抱えた紙袋をテーブルに下ろし、彼女は床に散らばった手紙を丁寧に拾い集めた。
「リータ・スキータがあることないこと何でも面白おかしく書き立てる三文記者だっていうことは知っている人は知っているわ。あの女に目をつけられたらもうどうすることもできない。覚えているでしょう?スキータがダンブルドアのことをどういった言葉で表現したか」
ハグリッドは赤く腫れた眼でこちらを見つめ、幾分も屈辱的な顔をした。
「あ、あんな馬鹿馬鹿しいもんは誰も信じねぇ……ダンブルドアは、ダンブルドアは偉大な魔法使いだ……」
「ええ、分かってるわよ。あれだけひどいことを書かれても、ダンブルドアは気にしなかったでしょう。本人が動じなければ誰も何も言わないわ。煩く言いはやすようなつまらない人間は放っておけばいい。あなたがそうやっていつまでもメソメソしているから、だから安っぽい人間が面白がるんでしょう。あなたを案じている人間は城の外にもこんなにたくさんいるのよ」
拾った手紙の数々を彼の腰掛けるベッドに落とす。ハグリッドはしばらく呆然とそれを見下ろしていたが、すぐに洟を啜ってかぶりを振ってみせた。
「だ、だが俺は……俺が、俺が巨人の子供だってことは……それは、本当のこった……俺は……俺の、おふくろは……」
「それはあなたにはどうすることもできない。子は親を選べない。自分が自分であることはどれだけ忌諱したところでやめられない。そんなことは、あなたには当然分かりきっているものだと思っていたけど」
言いながら彼女は、尻尾を振って飛びついてくるファングの耳の後ろを掻いた。
冷ややかな心地で、つぶやく。
「私が誰の孫であるかなんて、私に決められる?リーマスの体質は彼に非があるの?あなたが言っているのはそういうことよ」
リーマスが人狼であるということ。私が帝王の血を継ぐ魔女であるということ。
彼が、純血一族の生き残りであるということ。
ハグリッドは充血した眼を大きく見開いてこちらを見たが、身震いしながらしきりに首を振った。
「お、俺はそんなつもりじゃ……」
「同じことでしょう。確かに私の正体を知る人間は少ないわ。でもどうしたところで私が……あの、魔法使いの孫であるという事実は変わらない。史上最悪の……闇の魔法使いよ。だからといってあなたは私や母を見放した?ダンブルドアも、マクゴナガルも……その道に堕ちた私でさえ、こうして受け入れてくれた。それなのにあなたがこんな下らないことで仕事も何もかも放り出して家に閉じこもっているなんてがっかりだわ」
ぴしゃりと言い放ち、彼の萎縮した黒い眼球を見据える。ハグリッドはぼろぼろと涙を流し、再び顔面を大きな両手で覆って俯いた。
僅かに声の調子を落とし、続ける。
「……確かに巨人は、例外もいるんでしょうけど荒っぽい者が多い。だから……喜んで帝王に与したことがあるし、おまけに今じゃイギリスの巨人は絶滅しているからその実体を知る人間は少ない。偏見だけが独り歩きしてる。だからといって、あなたは巨人ではないし、あなたがこうしてたくさんの人間に愛されているという事実は変わらないでしょう」
はベッドに散らばった手紙の山を示したが、彼は顔を上げなかった。
「あんなつまらない記事に振り回されないで。自信を持ってあなたの仕事をして頂戴。ダンブルドアが与えて下さった職務を放棄しても構わないと思ってるの?」
するとハグリッドは突然ぱっと眼を開き、激しく首を振ってワンワンと泣き始めた。
結局のところ、彼はダンブルドアの名を持ち出されればそれに従わざるを得ない。
無実の罪とはいえ一人の生徒を死なせたと疑われ、退学を強いられた彼。
帝王に仕え、あらゆる人間を苦しめ死なせてきた自分。
狂暴性の高い巨人の血を継ぐ彼。
史上最悪の闇の魔法使いである帝王の血を継ぐ自分。
似ているようで、まったく異なるが。それでも自分たちが、ダンブルドアに救われたのは疑い様もない。
抗えるはずもない。すべてを捧げてもなお足りないほどに、あの老人には多くを与えられてきた。
子供の頃からそうだった。生まれたその瞬間から暗い影が差していた自分の未来を彼は必死に照らしてくれようとしていた。私にはきっと、勿体無いくらいその機会が与えられていたはずなのに。
だから我々は、報いなければならない。
「来週からはちゃんと授業に戻りなさい。それから、食事もきちんと摂ること。その情けない顔を洗って風呂にも入ること。他校の子供たちにあまり醜態を晒さないで頂戴。主催校の一職員としての自覚を忘れないで」
もっと他に投げ掛けてやるべき言葉はあるのかもしれない。だがきっとそれは、私の役割ではない。
はファングの頭を二、三度軽く叩いてから、彼の反応を見ないまま小屋を後にした。研究室に戻ればまた新しい吼えメールが届いているかもしれない。安易に記者などというものと関わりを持つなとセブルスは小煩く説教してきたが、もし仮に彼がスキータからハリーに関する取材を受けることがあれば、果たして同じことを言うだろうか。
寒さに身を縮めながら城への道を辿っていると、は唐突に後ろから呼び止められた。
「 !」
重苦しいものを覚えつつ、ゆっくりと振り返る。慌てた様子で駆け寄ってきたイゴールは、乱れた呼吸を整えながらやはり情けない声で言ってきた。
「外で会えるとは……いや、嬉しい。どうだ、船の方で一緒に茶でも」
ああ、またか。深々と溜め息を挟み、は首を振る。
「……困ります。あなたは、ダームストラングの校長ですよ。軽率な行動は慎んで頂けますか」
「なにを!対抗試合のテーマは国際交流だ、他校の教員を誘って何が悪い」
まったく、そんなことは欠片も考えていないだろうに。
怒るでもなく、ただ戸惑った様子で言い返すイゴールには眉根を寄せた。
「それならば他の教員をお誘い下さい。私はまだ、仕事がありますので」
「、そんなことを言わないでくれ……ゆっくり話をしよう 」
縋るように手を伸ばし、イゴールが必死に訴えかけてくる。は周囲を見回して誰もいないことを確認してから、声を低めて叱責した。
「いい加減にして!こんなところを誰かに見られたらどうするの?私たちが古い仲だと知られたら面倒なことになるかもしれないでしょう?例の件なら解決策なんて一つもないわ……これ以上話しても無駄よ。逃げるなら逃げなさい。でも私たちにしつこく付き纏わないで」
打ち棄てられた猫のように呆然と立ち尽くすイゴールを残し、は無慈悲に踵を返す。彼はそれ以上は追いかけてこなかったが、城の正面玄関を潜る時にそっと振り向くとまだその場から動けないでいるようだった。
その恐怖は分かる。きっと同じものを感じているはずだから。
だが、だからといって何ができる?
何も、ないのだろう。仲間と引き換えに監獄を逃れた彼にはきっと、できることは何もない。
それならば、逃げろ。
生きたいのなら、逃げるしかない。どこまで逃げられるか、果たして逃げ切れるのか。だが逃げなければ、確実に殺される。
逃げろ。
情があるわけではないが、最悪の時間を共有した人間として最低限の思いだけはある。
逃げろ。
悔いているのなら。生きたいのならば。
逃げろ。
私に言えるのは、ただそれだけしかない。