イゴールは優雅なステップでこちらを自然とリードし、ダンスなど踊ったことのないは彼にただ身を任せているだけでよかった。子供たちは曲に合わせて   もしくはそんなものは端から無視して、あるパートナーは幸せそうに、またあるパートナーは不機嫌そうに踊っている。

 ちらりと視線を巡らせると、セブルスは広間の隅でひとりで腕組みし、何を見るでもなく難しい顔を天井へと向けていた。

 ようやくその曲が終わり、とイゴールはダンススペースの端で動きを止める。妖女シスターズはまたすぐに新しい曲を奏で、子供たちは一時も休もうとはしなかった。

 どちらからともなく離した手で自分のパーティローブの襟首を直したイゴールが、激しい音楽に紛れ込ませるようにしてそっと囁いてくる。

「どこか別のところで、少しお話しませんか」

 その声は先ほどまでのものとは違い、どこか落ち着きなく上擦っている。は伏せていた瞼を上げて彼を盗み見た。今やその愛想笑いは翳り、落ち窪んだ暗い瞳には救いを求める褪せた色がある。

 こちらが答えるよりも先に、イゴールは踵を返して大広間の扉へと歩き始めた。豊かなファーのついたローブが彼の動きに合わせて揺れている。は視線だけで離れたセブルスに合図を送ると、僅かに時間を置いてイゴールの後を追った。

 玄関ホールに出、開いている樫の扉を抜けて城の外へと踏み出す。大広間は魔法をかけて気温を上げてあるが、一歩外に出れば肩や腕が剥き出しのこのドレスローブではあまりに寒すぎる。は取り出した杖で身体を温めながら、先に出ているはずのイゴールを探して歩いた。フリットウィックが作り出した妖精の光が至る所で煌き、対抗試合のために整えたバラ園の小道を仄かに照らしている。

 石段を下りてからあまり歩かないうちに、傍らの茂みからイゴールが飛び出してきた。公衆に見せていた愛想笑いはすっかり霧散し、妖精の薄明かりで青ざめた顔がますます不気味に浮かび上がっている。は思わず後ずさったが、その腕をイゴールが無造作に掴んで茂みの中に引きずり込んだ。

 こちらの腕を両手で掴んだまま、彼は切羽詰った様子を隠しもせずに言ってくる。それはこの二ヶ月、人前で見せてきた彼の表情からはまったく想像もできないものだった。

「ああ、……ずっと話がしたいと思っていた!だがなかなか機会が得られなかった……、分かるだろう、何が起こっているのか。君には分かっているはずだ……ああ、私は一体どうすればいい?」

「ちょ……ちょっと、待って下さい、カルカロフ校長。一体何を仰っているのか……とにかく、落ち着いて下さい」

「いや、分かっているはずだ!私は真剣に案じている……、君たちも同じだろう?我々は裏切り者だ……これが兆候だとすれば、あのお方は決して私たちをお許しにはならない……何とかしなくては……だが、どうすればいい?」

 声を押し殺して   だが抑えきれない様子で、イゴールはひたすら不安げに捲くし立ててくる。が白を切って首を振ると、とうとう彼は薄明かりの下で自分のパーティローブの袖を乱暴に捲り上げた   痩せ細った、その左腕を。

 そこに浮き上がった髑髏をもう片方の手で示しながら、彼は声の調子を上げる。

「気付いているだろう……変化は間違いなく起こっている!この十三年、ここまではっきりと濃くなることは一度もなかった……分かっているはずだ!」

「イゴール、生憎だけど私の印は消えたままなの。見たところ、そう騒ぐほどの変化でもないようだけど?」

 嘆息混じりに言いやると、イゴールはとんでもないと言わんばかりに眼を見開いた。

「この数ヶ月で、ますますはっきりしてきた!、君も気付いているはずだ……君の印は決して消えたわけではない。この違和感に気付かないはずがあるまい!何も起こっていない振りをしてみたところでそれは事実なんだ!」

「だったらあなたはどうしたいの」

 ぴしゃりと言い放ち、眼前の男を睨み付ける。泡を食ったように瞬く彼に、は続け様に告げた。

「逃げたいのなら逃げなさい。だけど私はここに残る。この世で最も安全なのは、あの男に護られたこのホグワーツだから。それが叶わないのなら、ひとりで勝手に逃げなさい」

「そっ   

 明らかに狼狽した様子で口を開いたイゴールを遮るようにして、突然背後から甲高い悲鳴とセブルスの唸り声とが聞こえてきた。ぎょっとして振り向くと、側の茂みから飛び出した二つの人影が大慌てで走り去っていくところだった。

「ハッフルパフ、レイブンクロー、ともに十点減点だ!」

 フォーセットとステビンズの後ろ姿に向けて吐き捨ててから、杖を構えたセブルスが足早に近付いてくる。彼の眼は唖然と口を開いたとイゴールではなく、二人を通り越してその背後を睨んでいた。

「ところでお前たちは、一体何をしている」

 セブルスの視線を追って首を巡らすと、たちのいる茂みから僅かに離れた小道の先に立っていたのはハリーとウィーズリーだった。イゴールは動揺を隠そうと神経質そうにヤギ髭をなぞり、はうんざりと嘆息する。

「歩いています」

 ウィーズリーが短く返した。

「規則違反ではありませんね?」

「ならば歩き続けろ!」

 セブルスが噛み付くように怒鳴りつけると、二人はすぐさまその場を去っていった。静まり返った小道を辿り、セブルスがたちの立ち尽くす茂みへとやって来る。

 彼は杖を懐に仕舞うと、忌々しげにこちらを凝視した。

「感心しないな」

「はい?」

「このような場所で大声で言い合うようなことか」

 彼の視線が、イゴールへと移動してから再びの眼に戻ってくる。

「現に、あの二人はお前たちの会話に耳をそばだてていたようだが」

「……ごめんなさい、配慮が足りなかったわ」

「どうせ分かりはしまい。それよりセブルス、君はどうするつもりだ」

 まったく悪びれた様子もなくイゴールが問い掛けると、セブルスは平然と訊き返した。

「どうする、とは?」

「君も気付いているだろう!あれがますますはっきりしてきた……どうにかしなければ、我々は」

「我輩は、何も騒ぐ必要はないと思うが。イゴール」

「君までそんなことを!」

 明らかに衝撃を受けた様子で、イゴールは声を荒げた。

「分からないのか?いいかセブルス、が案じていないからといってそれを鵜呑みにすることは我々にはできない!には究極の切り札がある……どんな罰が待っていようと彼女は必ず生かされる。だが私たちは違う……手を打つなら、早急に   

「一体どんな手があるというんだ」

 冷ややかに、セブルスがつぶやく。次の言葉を呑んで口を噤んだイゴールに、彼はそのままの調子で続けた。

「逃げるなら逃げろ。我輩が言い訳を考えてやる。だが、我輩はホグワーツに残る」

 苦々しげに眼を細め、イゴールはヤギ髭から手を離して俯いた。呆れたように首を振り、踵を返して城へと歩き出したセブルスを追おうとも顔を上げ   イゴールの青ざめた横顔を見つめる。

「私は必ず生かされると言ったわね」

 彼は虚ろな眼差しでこちらを向いた。

「確かにあなたの言う通り、私にはまだ利用価値がある。でも忘れないで。必要とされているのはただ私の血なのよ。それさえ採られてしまえば私はあなたやセブルスと同じ   ただの裏切り者。あなたたたちとの間に違いがあるとすればそれは、ほんの少しだけ生き長らえることができる、ただそれだけなのよ」

 何も違わない。

 イゴールと、セブルスと。何も変わらない。

 この城にかつての死喰い人が三人も、揃った。運命の皮肉を感じる。

「でも、私は逃げない。セブルスとここに留まる。私にはここでの仕事が残っているから   だからこの城からは、離れられない」

 イゴールは何も言わなかった。も彼から視線を逸らし、既に遠ざかったセブルスを小走りで追いかける。

 地下室に戻る途中、玄関ホールでムーディに出会った。ニヤニヤと不快な笑みを浮かべながら、じっとこちらを見ている。

 何もかもを見透かしたように笑うその両眼に、刃を突き立てたい衝動に駆られながら。

 軽く会釈し、は大人しくその脇を通り過ぎた。

 ひとつだけはっきりしたのは、イゴールはゴブレット事件の犯人ではないということ。

 あれほどに恐怖している彼が、帝王の下に戻ったとは考え難い。

    それならば、一体誰が。












 あれ以来イゴールは、しばしば偶然を装ってやセブルスに近付いてきた。闇の印の輪郭が明瞭になるにつれ、その不安を共有しなければ日々募っていく恐怖に耐えられないのかもしれない。

 もちろん、恐れがないと言えば嘘になる。三年前に対面した帝王の影。あのお方が完全に復活すれば果たしてその恐怖に耐えられるか、自信はない。だがだからといってイゴールのようにその不安を口に出すことで救いが得られるか。解決策が見出せるか。否。そんなことには意味がない。故にもセブルスも、不必要にその話題を出すことは避けていた。

 だが確実に、左腕の印は熱く疼き、何かをしきりに訴えている。

 はその腕を庇うようにして抱き抱え、年明けのある朝、ひとりでホグズミードへ向かった。休暇中の仕事を終え、息抜きとセブルスに頼まれた私用を済ませるために古本屋に入り、白い息を吐きながら三本の箒に立ち入る。カウンター席に座ったはロスメルタからホットレモンソーダを受け取り、その温もりにほっと唇を緩めた。

 ちょうどその時、不快な甲高い声と同時にの隣の空席に誰かが腰を落とす。

「あら、あなたはホグワーツの先生でしたね?お名前は確か   先生?」

 相手の姿を認識して、は僅かに眉を顰めた。ロスメルタもそっとこちらに目配せして、逃げるように奥へと入っていく。リータ・スキータはまったく気にした様子もなく、手にした蜂蜜酒に口をつけながら意気揚々と話しかけてきた。

「少しお話をお聞かせ頂けませんこと?こんなところでお会いできたのもきっと何かのご縁ですわ」

「……申し訳ありませんが、ポッターのことでしたらお話できることは何もありませんよ。あなたがお書きになった以上のことは何も存じませんから」

「あら、残念ですわ。そういえばあなたは、魔法生物飼育学のハグリッドと親しくされているそうですね?」

「いえ……人並みに付き合いはありますが、それが何か?」

 ハグリッドのことを訊かれるとは思っていなかったため、思わずジョッキを置いてスキータを見やる。彼女は舌なめずりして派手な眼鏡の奥からこちらを見つめていた。

 次のターゲットは、ハグリッドか。

 だが一体どうして、彼が攻撃される?ヒッポグリフの一件を叩かれるのか。ルシウスかドラコが動けばその程度のことは容易だろう。下手なことを言うわけにもいかない。早々に帰るより他にないだろう。

 はレモンソーダを一気に飲み、空になったジョッキの中に銀貨を入れて立ち上がった。表に戻ってきたロスメルタに軽く手を挙げてから、足早にパブを出る。だがスキータはしつこく彼女の後ろについてきてこちらが口を噤んでいる間にも取り出した羽根ペンをしきりに動かしていた。

「ハグリッドはもう何十年もずっとホグワーツに勤めていますよね?去年は授業中に大きな問題があったと伺っていますが、その辺りを同僚としてどのようにお考えですか?」

「教師として軽率だったと感じています。ですがあれだけの事故を起こしたのですから、今年は彼も慎重になっていますしどうかこの件は穏やかに」

「ええ、もちろんですわ」

 リータ・スキータはホグワーツの敷地内への立ち入りを禁止されていたし、その取材にも一切答える必要はないとダンブルドアは教職員に伝えていた。だがまったくの無回答は無責任な記事を余計に煽り、ダンブルドアへの批判も激しくなる。それならば適度に返しておくことが最も問題がないように思えた。

 正門の手前で立ち止まり、は物憂げにスキータに向き直る。

「それでは、私はこれで」

「ええ。貴重なご意見をありがとうございました」

 この女は、辞職したリーマスの正体も喧しく書き立てた三文記者だ。その記事が引き金となって二ヶ月前には反人狼法が起草された。明日にはまた誇張と偏見に満ちたつまらない文章が紙面を飾るのだろう。

 もしも私の正体を、この女が知ることになれば。

(恰好のネタ、っていうのかしらね。それだけで数ヶ月は紙面を賑わせられる)

 例のあの人の孫である死喰い人。暗黒時代から十三年間、同じく死喰い人と共にホグワーツで教鞭を執る。ダンブルドアの問題だらけの人選。

 自嘲気味に笑みを零し。

 スキータに背を向け、ゆっくりと城へと向かって歩き出す。純白の雪を被ったハグリッドの小屋の煙突からは、静かに薪を燃やした煙が立ち昇っていた。