気になってはいたのだ。
左腕の印が、慢性的に疼くように感じることが多かった。
思い過ごしかと思っていたのだが、ゴブレットの一件で危機感は募った。ハリーの死を望む者の仕業だとすれば
恐らくその可能性の方が高いが それは一体誰なのか。印が痛むことと何か関係があるのか。
自分の印が他の死喰い人のものよりも帝王の力に敏感に反応するということは、例のあの夜に判明している。
問い掛けると、セブルスもまた厳しい顔をして徐に左の袖を捲り上げた。
刻まれた髑髏を忌々しげに一瞥し、言ってくる。
「……俺も、気になっていた」
眉を顰め、は湯気の立つマグカップを片手で掴んだまま彼の傍らに腰掛けた。
「ここのところ……頻繁に印が疼く。見ろ」
言いながら、セブルスがその腕をこちらに突き出す。彼女は息を吹きかけて冷ましていたカフェオレから視線を外し、言われるままに首を捻った。
彼の左腕にある闇の印は、それまでと変わらずそこにある。だが。
「僅かだが、確実に濃くなってきている」
言われるまで、気が付かなかった。は口をつけたマグカップの中で軽く噎せ返り、もう片方の手で胸元を押さえつける。
すぐさま呼吸を整えて横を向くと、彼は袖の下に闇の印を仕舞うところだった。
自分のものだけでなくセブルスの印までもが異変を起こしているということは、帝王の身に何らかの変化が現れているであろうことはまず間違いない それも恐らく、こちらにとっては有り難くはない変化が。
は自分もローブの袖を捲って、蛇を吐く髑髏があるはずの位置を軽く撫でながらセブルスを見た。視線を合わせて、頷く。
帝王は何らかの力を得ている。ゴブレットの一件もその過程のうちの一つなのだろう。
(でも……どうやって?)
実体を持たない帝王自身が、炎のゴブレットに名前を入れられるはずがない。そして城内には常にホグワーツの騎士団員が目を光らせている。外部からの侵入はほとんど不可能なはずだ。
考えられる可能性は、一つ。帝王はまたしてもホグワーツ内部に手足を見出した。
「……イゴール?」
「まさか」
恐々と口を開いたを、セブルスはあっさりと一蹴する。
「奴はあまりに多くの仲間を裏切った。帝王が奴を許すはずがないし、今奴の頭の中にあるのはただ優勝の二文字だけだろう」
「だけど、対抗試合を利用してハリーを始末することを条件に帝王が再び彼を迎え入れることを約束したのだとしたら?ハリーは帝王にとって大きな脅威だわ。ホグワーツ内部に手足を持てることは帝王にとっても嬉しい状況のはず」
「………」
ますます眉を顰めて、セブルスが顎に手を当てて嘆息する。は適温にまで冷えたカフェオレを喉に通しつつ、溜め息混じりにつぶやいた。
「まあ、今は他に目星も付かないし。ハリーの周辺と、イゴールの動きを監視するしかなさそうね」
「おう さん」
その名で呼ばれるのは、実に二十年ぶりだった。
だがにはそれが自分に向けられたものだと分かった。相手はちょうど彼女の行く手に立ち、笑いながらこちらを見ている。
彼はそこでようやく自分の誤りに気付いたのだろう。手のひらを打ち合わせて軽く額を掻いた。
「いや、失礼……さん、でしたな。どうもお母様の記憶がいつまでも抜けませんで……失礼」
「いえ……。覚えていて下さって、光栄です」
「なに、申し上げたはずですよ。わしは売った杖のことはすべて覚えておると。そちらは確か、スネイプさんでしたな」
言ってオリバンダーが視線を巡らせると、セブルスは無愛想に小さく顎を引いただけでそそくさと行ってしまった。代わりにが愛想笑いで対応することになり、夕食のために下りてきた生徒たちを避けて玄関ホールの脇に寄る。
「杖調べのお帰りですか?」
形式的な口調で訊ねると、彼はにこやかに微笑んで頷いた。
「どれも上々の状態でしたよ。素晴らしい競技が見られることでしょうな」
「そうですか。御苦労様でした」
一礼し、そのままセブルスを追って大広間に向かおうとしたをオリバンダーは穏やかに呼び止めた。
「さん」
踏み出しかけた足を止め、振り向く。
老人はどこか掴みどころのない感情をその大きな淡い瞳に秘めてこちらを見ていた。
「少し、構いませんかな」
微笑み、僅かに首を傾けてみせる。
目を瞬かせ は小さく頷いた。
外はひんやりと冷気を帯びた風が吹きつけていたが、とオリバンダーはその校庭の一角に立っていた。
「いや、実に懐かしいですな」
言いながら、老人は清々しそうに肩で呼吸してみせる。はしゃがみ込んだ地面の冷たさに顔を顰めながら、頬にかかる髪を掻き上げた。
「ホグワーツを訪れるのも久方ぶりです。ここはまったく変わりませんな」
どうでもいい心地ではあったが、ひとまず顔を上げて問い掛ける。
「建物も、オリバンダーさんがいらっしゃった頃と変わりありませんか?」
「ええ、まったく」
湖の方を仰ぎ見ていた彼は、振り向いて人の良さそうな笑みを浮かべる。
だがそれも、長くは続かなかった。表情を曇らせたオリバンダーはゆったりとこちらに歩み寄りながら、両手を後ろで組み沈痛な眼差しを向けてくる。
は抱えた膝から身体を離し、重苦しい気持ちで彼の言葉を待った。
「……案じては、いたのです」
意味が分からず、はただ黙って相手の顔を見る。オリバンダーは目線を下ろし、その視線が合うことはなかったが。
「杖というものは、まったく同じものが一本たりともないのと同様に、何らかの因縁を持つものが幾多もあります。案じてはいたのです。あなたを選んだあの杖が、あなたの道を誤らせやしないだろうかと」
「……どういう、ことでしょう」
話の先が、まったく読めなかった。老人は軽く頭を振り、視線を上げて上空を仰ぐ。
彼はまるで独り言のように だが確かに彼女の聞こえるように、あとを続けた。
「イチイの木、一角獣のたてがみ……確か、そうでしたな?」
「……はい」
「さんの あなたのお母様の杖も、同じでした。イチイの木、一角獣のたてがみ……そして、あなたのお祖父様のものも」
どきりと心臓が跳ね上がるのを感じて、は数秒ほど言葉を失った。痛いほどに目を見開き、だが翁はこちらを見てはいない。
彼女は声を低めるのも忘れ、思わず怒鳴った。
「どういうことですか……どうして、あなたがそのことを!」
ようやくこちらに視線を戻したオリバンダーが、物々しい口調で言ってくる。
「杖の関連性は、ある時には他のどんな事象よりも真実を語ることがあるのです」
そのまま彼は、静かに瞼を伏せた。
「あなたのお祖父様の杖は……芯こそ異なれど、材木はあなたやお母様のものと同じ、まったく同じイチイの木から採取したものです。大抵一本の木からはもっと多くの資材を採るのですが……あの木には、とりわけ強力な力がこめられていました。故に採取できたものは僅か。その僅かな材料を使用して作り上げた杖 それが、あなた方家族を選び抜いたあの三本の杖なのです」
家族。
その言葉に言い知れぬ違和感を覚えて、ローブの胸元を手繰り寄せる。家族。そんなものとは違う。
闇の帝王は 祖父は。私の大切なあらゆるものを奪っていった。そしてこれからもきっと多くを奪おうとしている。帝王は私の家族を奪った。そんなもの 私の家族でも何でもない!
老人は微かに声の調子を落としたようだった。
「杖の因縁というものは……あまり重視されることはありませんが。ですが思うよりも関係の深いものなのです。現にあのハリー・ポッターの杖の芯に用いている尾羽根と、例のあの人の杖の芯に用いた尾羽根は同じ不死鳥から提供されたものです」
そんなことはこの際どうでも良かった。は再び膝に身体を押し付け、背中を丸めて話の行く先を思う。
「あなたがあの杖を手にした時、あなたのお母様のこと お祖父様のことを考えました。そしてお母様の最期を……あなたが同じ道を辿らぬようにと」
はっと顔を上げ 強張った身体を抱える。そうか。この老人は何もかも知っていたのだ。やはり何も知らなかったのは、無知な自分ひとりだった。
オリバンダーの言葉はしめやかに続いていく。
「あなた方三人は……強固な絆で結ばれた、とても強力な魔法使いです。その力は、どんな道にもあなたが思うように使うことができる。だからこそ案じていたのです。お祖父様の踏み出した道にも、お母様が歩もうとした道にも、そのどちらにもあなたは踏み込むことができる」
そんなことは、分かっている。私はもう、決して抜け出せないところに踏み込んでしまったのだから。
せめて爪先を向ける前に、一声その言葉をかけてもらいたかった。
いや、そうすれば未来は変わっただろうか。聞けば私は踏み止まったか。愛する人々を手放さなかったか。
「わしの言葉は遅すぎたと、そうお思いかもしれませんが」
言いながら老人は、力なく微笑んでみせた。
「それでも伝えるのは、決して遅すぎるということはないと思うからです。使用した材木はあなた方三人の杖はまったく同じものですが、芯は違います。あなたのお祖父様の杖の芯は不死鳥の尾羽根。ですがあなたと、そしてお母様の杖の芯に使ったたてがみは同じ一頭の一角獣から採ったものです。一角獣がどのような生き物か……あなたならば、ご存知ですね?」
答えずにいると それでも構わないということなのだろう。オリバンダーはさほど間を置かず、言ってきた。
「一角獣は、純潔の象徴。あなたがお母様との絆を大切にされ さんの志を継いで下さることを、わしは心から信じています」
呆気にとられて何も言えないでいるを見下ろして、彼はやはり寂しげに笑む。どうして彼が、そんなことを言うのだろう。どうして彼が、そんなことを知っているのだろう。
「わしは、さんの真っ直ぐな瞳が好きじゃった」
恥じることもなく、老人は彼方を仰ぎ見ながら語る。
「彼女は杖の状態を非常に気遣う細やかな子じゃった。年に一度、八月になると必ずやって来てわしに杖を見せた。卒業してからも一度訪ねてきて……結婚が決まったと、それは嬉しそうに話してくれた。が 以来、ぱたりと音沙汰がなくなった」
出会ったのはたった一度。再会したのは二十年以上経った今だ。それなのにどうして、今更そんなことを話すのか。
もう何もかもが、手遅れだというのに。
「もしも出会うことがあれば その時はあなたに、返そうと思っておった」
そう言ってオリバンダーは、懐から細長い何かを取り出した。言うまでもなく 古惚けた、一本の杖。それは彼女のものよりも、若干短いようだったが。
「イチイの木、一角獣のたてがみ、二十二センチ」
その時だけ明瞭な職業口調に戻り、老人は杖を持った皺だらけのその手をさらにこちらに近づけてきた。
「ダンブルドアが 形見分けのつもりだったんじゃろう。あの事件後、わしのところに送ってくれた。じゃが、わしがいつまでも持っておくべきではない あなたの懐で眠る方が、彼女も喜ぶ」
「………」
母の杖と、そしてそれを握る老人を見上げながら。
恐る恐る手を伸ばし 彼女は、震える手でそれを受け取った。
母の掴んだ感触が、その形にまだ残っているようで。
オリバンダーは安堵したように微笑む。
「その首に掛けてあるネックレスも 彼女のものじゃね?」
はゆっくりと立ち上がり、ローブの下から隠れた十字架を取り出して見せた。老人の眼が眩しいものでも見るかのように細くなる。
確かにその眼球に涙が光るのを、彼女は間近で目撃した。
感慨深げに、オリバンダーが息を吐く。
「……今日ここに来て、本当に良かった」
何を言えばいいのか分からず。は黙って俯いていた。右手に掴んだ杖をさらにきつく握り締め、乾いた喉に唾を飲む。
オリバンダーはそのままホグワーツを去ったが、彼女はしばらくその場から動くことができなかった。
母の杖を抱え、熱い瞼を閉じる。
母は私の知らないところでも、たくさんの愛を知っていた。母は愛されていた。たくさんの愛に囲まれていた 。
父、ダンブルドア、ハグリッド、マクゴナガル、オリバンダー そして、親友だったというジェーン・ベンサム。
私にも、愛してくれる人はたくさんいたというのに。
「……何、してるんだろう」
そうだ。こんなところで泣いている場合ではない。
薄暗くなってきた星空を仰ぎ、彼女は深く息を吸い込んだ。長く、吐き出す。
「 父さん、母さん」
ジェームズ、リリー。
私は振り返らないから。
護るべきものは、まだある。
だから。
赦してとは言わない。でも。
下ろしていた瞼を開き、彼女は踵を返して城へと戻った。その懐には二本の杖がしっかりと納まっていた。