その日は朝から激しい雨が降り続いていた。気温もすっかり落ち、は羽織ったマントに魔法をかけて熱を逃さないようにしている。シニストラはここのところ何日も悪天候が続いているので観測が滞っていると愚痴をこぼしていたが、彼女はもっと別のことが気になっていた。
ムーディが来ない。
宴も終わり、間もなくダンブルドアが生徒に対抗試合のことを発表するという時になってもまだ現れない。セブルスの隣は空のままだった。このまま来なければいいのに。あの男と顔を合わせるかと思うと胃が捩れるようだった。
だがダンブルドアが寮対抗クィディッチ試合の中止を告げ、今まさに三大魔法学校対抗試合の発表を行おうというその瞬間。
耳をつんざく雷鳴とともに、大広間の扉が音を立てて開いた。
戸口に立っていたのは、長いステッキに寄りかかった傷だらけの男だった。見間違うはずもない ムーディだ!マントから覗く肌は記憶にあるよりも随分と多くの傷で塞がれてはいたものの、あのコインのような魔法の眼は紛れもなく当時のままだ。それは忙しなく上下左右に動いていた。静まり返った広間にコツコツと義足の音を鳴らしながら、ゆっくりと歩いてくる。
ムーディはダンブルドアに近付くと、節くれ立ったその手を差し出して無造作に握手した。それから二言ほど小さく言葉を交わし、ダンブルドアに促された空席に腰掛ける。セブルスは顔色一つ変えなかったが、は乾いた唇をさり気なく舐めて前を向いた。寒気がする。ムーディの刺すような眼差しを確かに感じた。
旅行用マントのポケットから取り出した小刀でソーセージを頬張っている間にも、彼の魔法の眼はグルグルと動いている。
「さて、闇の魔術に対する防衛術の新しい先生をご紹介しよう」
ひっそりと不気味な沈黙が漂う中、ダンブルドアは明るく言った。
「アラスター・ムーディ先生じゃ」
新任の教師は大抵愛想程度だったとしても拍手で迎えられるのが普通だが、今回ばかりはダンブルドアにハグリッド、マクゴナガル それにとセブルスがほんの一瞬手のひらを打ち合わせただけで終わった。誰もがムーディのあまりに異質な有り様に呪縛されたように動かなかったのだ。ムーディはそのお世辞にも温かいとはいえない歓迎ぶりにもまったく無頓着で、取り出した携帯用酒瓶から何やらぐいぐいと勢いよく飲み始めた。その後ようやくダンブルドアは対抗試合に関する説明を始めたが、その間にもムーディはただひたすらに口を動かして食事を進めるだけだった。
ダンブルドアがすべての話を終え、子供たちを帰らせてもなおムーディは黙々と食べ続けている。
とセブルスはちらりと視線を合わせ、彼の眼を避けるようにしてひっそりとその場を立ち去ろうとした。
と、そこへ。
「……まだ、こんなところに残っていたんだな」
神経を尖らせていなければ聞き取れなかったかもしれない。その程度の声音で、ムーディが手元のチキンを見つめたまま背中で言ってくる。
二人は足を止めたが、答えることはしなかった。それでも構わないということなのだろう。彼は小刀の先で適当に肉を突き刺しながら、あとを続ける。
「まったく、こんなところで十何年も……いいご身分だな、え?」
「……失礼」
相手の言葉を遮るようにして軽く会釈し、セブルスが足早に歩き出す。もムーディの背中を視界に入れないよう注意を払いながら、その後を追いかけた。あの男の魔法の眼は、背後までも見透かす。
地下室に戻ったは、我知らずソファの脚を蹴り上げて声を荒げていた。
「あんな男と同じ職場なんて、息が詰まるわ!」
「 仕方あるまい。触らぬ神に何とやらだ。神からは到底程遠いようだが」
関わり合いにならないのが一番問題がないということか。もっともだ。はセブルスに淹れてもらったコーヒーを飲みながら深々と嘆息した。肺の底から厄介なものをすべて吐き出そうとしたのだが、どうも物事はそう安易にはいかない。
だがやはり、問題を起こさないことが一番問題がない。
はセブルスに倣い、城のどこでムーディを見かけても極力避けて通るように努めた。あちらも好んで近付いてこようとはしなかったし、接触しないことが最も平和的な関係でいられる秘訣だ。彼は彼らしく、禁じられた呪文を全学年の生徒に見せるという前代未聞のやり方で授業を行い、子供たちからは好奇の眼で見られ、盛んにもて囃されているようだった。
その日、図書館から薬草の本を借りてきたはちょうど廊下で鉢合わせたマクゴナガルと階段を下りていた。夕食の時間が近く、生徒たちは既に大広間へと向かっている。次の新書購入の予定日について話をし、二階でまさに副校長と別れようとしていたは階下から聞こえてきた破裂音に思わず空いた手で耳を塞いだ。マクゴナガルも小さな目を真ん丸にしてきょろきょろと辺りを見回している。
ほとんど間を置かず、バーンという二度目の大きな炸裂音がした。続いて、しわがれた吼え声が玄関ホールから聞こえてくる ムーディだ。
あの男が厄介事を引き起こしたのは間違いない。マクゴナガルは本を抱えたままうんざりと息をつき、その原因を求めて側の階段を足早に下り始めた。騎士団員は誰もがムーディの実力を信じている。だが彼は年をとってますます被害妄想が激しくなり、ほんの些細なことにまですぐに反応して反撃に出るのが厄介な性質だった。新学期初日、ホグワーツに来る前にも家の庭で襲撃だといってゴミ箱を飛ばしてきたらしい。
玄関ホールは夕食を待つ生徒で溢れてはいたものの、その中心に立つムーディや数人の生徒を取り巻く形で大半は後退し、ほとんど綺麗な半円を描いていた。騒ぎの只中にいるムーディは、ただ一人で意味もなく杖を上下させている。
「ムーディ先生!」
生徒たちが瞬時に作ったいびつな道を通りながら、マクゴナガルが声をあげる。は足元に気を配りながら階段を下り、もう一度ムーディを見た。彼は無意味に杖を振っていたのではない 白いイタチを何度も石畳に叩き付けているのだ。
「これはこれは、マクゴナガル先生」
振り向いたムーディが落ち着いた調子で挨拶する。その間にも彼はしつこく白イタチを高く跳ね飛ばしていた。
困惑した様子でそのイタチの姿を追いかけながら、マクゴナガルが問い掛ける。
「な 何をなさっているのですか!」
「教育だ」
「教……」
それが至極一般的な方針だとでも言わんばかりにムーディが答えると、言葉を失ったマクゴナガルは腕に抱えていた本をすべて床に落とした。もあんぐりと口を開け、呆然とムーディを見る。
ほとんど悲鳴のような声で、マクゴナガルは叫んだ。
「ムーディ、それは生徒なのですか!?」
「その通り」
「そんな!」
わなわなと震え、マクゴナガルが取り出した杖を振る。すると次の瞬間、バシッと大きな音を立ててムーディの前に姿を現したのはドラコだった。平生は白い顔を今は炎のように燃やし、滑らかなホワイトブロンドの髪は四方に乱れて床に這いつくばっている。は思わず手にした本を放り出し、マクゴナガルの足跡を辿るようにして急ぎ足で階段を下りた。再び生徒の人垣が割れ、その間を乱暴に歩く。
「ムーディ教授!本校では生徒に対して変身術を使用することは禁じられています!」
ムーディはすぐさま忌々しげに顔を歪めたが、マクゴナガルがの言葉を継いで言いやる。
「その通りです、ムーディ先生。本校では懲罰に変身術を使うことは絶対にありません。ダンブルドア校長からお話があったはずですが」
つまらなそうに顎を掻きながら、ムーディは鼻を鳴らす。
「ふむ。そんなことも聞いたかもしれん。だがわしの考えでは、一発厳しいショックで 」
「アラスター!本校では居残り罰を与えるだけです!もしくは規則破りの生徒が属する寮の寮監に話をします!」
「そうか。それでは、そうするとしよう」
マクゴナガルが厳しい口調で言うと、ムーディは面倒臭そうに軽く手を振ってドラコを睨んだ。その眼には確かに嫌悪の色が濃く浮かんでる。
立ち上がったドラコは痛みと屈辱にかまだブルーの瞳を潤ませていたが、ムーディを憎らしげに見上げ、何かを二言ほどつぶやいた。その中で、"父上"という単語だけが聞き取れた。
ムーディは不敵に笑い、義足の鈍い音を響かせながらドラコに近付いていく。ドラコは詰められたその距離をそのまま後ろに引いて避けた。
「ふむ、そうか」
何が面白いのか、傷だらけのその顔にじわじわと不気味な笑みが広がっていく。
「いいか、わしはお前の父親を昔から知っているぞ……親父に言っておけ。ムーディが息子から目を離さんとな……わしがそう言ったと伝えろ」
ムーディが言っているのは、まず間違いなくあの頃のことだろう。このまま喋らせるのはまずい。
咳払いを漏らし、はマクゴナガルの一歩前に出て重々しく口を開いた。
「ムーディ教授。そもそもミスター・マルフォイがあなたの前で何をしたとおっしゃるのですか。無力なイタチに変えてしまうほどですからさぞ取り返しのつかないような重大な真似を仕出かしてくれたのでしょうね?」
ムーディはドラコの方に傾けていた重心を起こし、低く唸るような声で奇妙に笑ってみせた。
「古い友人の息子を庇おうということかね。なるほど、麗しい友情だ」
「そんなことは伺っていません。マルフォイが何をしたのかと訊いているのです」
胃が捩れる この男に見透かされるのは、本当に気味が悪い。
静まり返ったホールの中、ムーディだけが大声をあげて笑った。
「汚い真似をしおった。ポッターが背中を見せた途端に襲ったのだ なんとも下劣で、臆病な行為だ……そうは思わんか、先生?」
そこで初めて、はすぐ近くにハリーたちが立っていることに気付いた。舌打ちし、そちらから視線を外してムーディを睨み付ける。男の眼はそのどちらも瞬きすらせずにじっとこちらを見つめていた。口元を拭い、ムーディの背を睨んでいるドラコを視線だけで制す。
一度小さく息を吐き、なんとか胸を落ち着かせてからはゆっくりと口を開いた。
「 敵が礼儀を踏まえて襲ってくるとでもお思いですか?どんな状況にも対処できるよう指導するのがあなたの仕事でしょう。だとすれば生き残った方が勝者ですよ。どれだけ臆病と罵られようと、死ねば何の意味もありませんからね」
ドラコはまだ顔を紅潮させていたが薄くニヤリと笑い、ハリーは憤慨して拳を握るのが見えた。一方のムーディは可笑しそうに唇を歪め、黙ってを眺めている。
「……とはいえ、喧嘩は本校の規則違反にあたります。マルフォイには私から注意しておきますから、あなたはどうぞお戻り下さい」
が言うと、マッド−アイはあっさりと首を振ってみせた。
「そういうわけにはいかん。お前はこやつの寮監ではあるまい?わしから直接話をする。寮監は スネイプだったな?」
「スネイプ教授はお忙しいので私が責任をもって引き受けます。マルフォイの身柄をお渡し下さい」
「いや、わしから話す。懐かしのスネイプ殿と口を利く機会を、ずっと待っていたのだ……さあ、来い」
「ムーディ教授!」
の厳しい制止をまったく無視し、ムーディはドラコの上腕をむんずと掴んで歩き出した。そのまま彼を引き摺るようにして地下への階段を下りていく。深々と嘆息して顔を上げると、マクゴナガルが"大人しく従っておいた方がいい"と視線だけで告げてきた。
浅く頷いて、落とした本を拾ってから物憂げに地下へと下りる。やや経ってようやく階上から子供たちのざわめきが聞こえるようになり、は既に姿の見えないムーディを追って研究室に戻った。
ムーディは玄関ホールでに聞かせたものとほとんど同じようなことを長々とセブルスにも話して聞かせた。ドラコは終始不服そうに顔を顰めていたが、セブルスは口を閉ざしただひたすらに無表情で彼の話を聞いているだけだ。やがてコツコツと鈍い音を鳴らしながらムーディがオフィスを出て行くと、ドラコが口を開くよりも先にセブルスは冷え切った声音で囁いた。
「あの男には逆らうな」
面食らったように固まり、ドラコは呆然とセブルスを見ている。彼は傍らの机に手のひらをつき、そちらに体重をかけながら続けた。
「下手なことを言えば厄介事を引き起こすだけだ。黙って聞いていればいい。あの男の妄想癖は君も聞いているはずだが?」
「……はい」
項垂れ、ドラコが小さく頷く。セブルスはとにかくあの男には関わらないことだときつく言い聞かせ、すぐにドラコを帰した。
二人だけが残ったいつもの研究室で、彼がうんざりと嘆息してみせる。
「お前……あの男には関わるなと、言わなかったか?」
その暗い眼は非難がましくこちらを見ていた。思わず視線を逸らし、ほとんど独白のような声でつぶやく。
「それは……分かっては、いたけど。何、ひょっとして全部聞こえてた?」
「ホールであのような騒ぎが起これば、聞こえていない方が不自然だと思うが?」
「……そう」
ただ反応を示すためだけに声を吐き出し、居心地の悪い思いで俯く。セブルスはさらにため息をつき、軽く首を振った。
「別段あの男に隠し立てするようなことは何もないが……周囲をうろつかれると面倒だ。放っておけ。ああいった騒ぎを起こせば俺たちの間に只ならぬ溝があると子供たちに宣言しているようなものだろうが」
「……そうね。ごめんなさい。気を付けるわ」
言葉通りセブルスはムーディとは極力衝突を起こさないようにと気を配っていたが、その反動でますます生徒に険悪な態度で当たるようになった。怯え切ったネビルはまた新たに大鍋を溶かし、新学期早々居残り罰を言い渡されたのでドラコは大喜びだった。
九月が始まり、まだ一度目の週末を終えたばかりの午後。
(……まったく、セブルスは子供たちに当たり、私は一体誰に当たればいいのよ?)
早速溜まった課題の採点に取り掛かりながら。
答案の隅に"D"と書き殴り、やはり彼女もまたグリフィンドールの生徒に当たるしかないのだと自覚した。