ウィーズリー家から城に戻ったは、すっかり冷えたパンを地下室に置き早々に校長室へと向かった。起きて彼女を待っていたセブルスも一緒だ。
ダンブルドアは彼女が意気込んで話し出そうとすると、片手でそれを制して後ろを向いた。黒い戸棚をそっと開き、中から何やら石の器を取り出して机に載せる。
見たこともないその道具を見つめ、彼女は水盆の中から溢れる銀色の光に目を細めた。
「……これは、何ですか」
セブルスはその正体を知っているのか たとえ知らずとも彼はダンブルドアの前で滅多に表情を崩したりしないが 顔色一つ変えずに立っている。ダンブルドアは無言のまま懐から杖を取り出し、突然その先を自分のこめかみに押し当てた。
やや間を置いてそこから杖を離すと 吸い出されたように、白っぽい銀色の糸が彼の皮膚からするすると出てくる。が唖然としているうちに、ダンブルドアは糸状のそれを水盆の表面に落とした。
そこに浮かんてきたのは、記憶にあるよりも老いたバーティ・クラウチが激しく捲くし立てる様子だった。彼の声は淡く、反響して消えていく。
「何もない!ダンブルドア、これ以上君に言うことはない 」
ダンブルドアは脇に杖を置き、水盆の両端を持って軽く篩った。するとクラウチの顔はいつの間にかの知らない老魔法使いへと変わり、老人は天井に向かって疲れた様子で話し始めた。
「わしにも把握できておらんのじゃ、アルバス。上層は老い耄れには何も語りはせんのでな 」
水盆を下ろし、ようやくダンブルドアが顔を上げる。
「これはペンシーブ、憂いの篩じゃ。セブルスには以前も使ってもらったことがあるが、君は初めてじゃったのかのう」
「はい」
が答えると、彼は小さく頷いてあとを続けてきた。
「この篩はのう、溢れた思いを頭の中から注ぎ込むと、時間のある時にゆっくりと吟味できるのじゃ。今までも随分と役に立った。君にも分かると思うが、このような物質にしておくと、どういった事柄にどのような関連性があるのか、それがずっと分かりやすくなる」
言いながら、ダンブルドアがペンシーブの縁に軽く指先を触れさせる。
「 そこでじゃ。君がアーサーから聞いてきたことをこの篩の中に入れて欲しい。そうすることでより事件の全貌が見えやすくなるじゃろう」
「……分かりました」
彼女も杖を取り出し、ダンブルドアと同じようにしてウィーズリーに聞いたすべての記憶を水盆に落とした。公にマグルを虐げた死喰い人の残党とおぼしき魔法使いたち、闇の印を創り出した杖を持ったクラウチのしもべ妖精、現場の側にいたという例の三人の子供たち。そして一ヶ月前から消息を絶った、バーサ・ジョーキンズ。
「バーサが?」
ジョーキンズのことを語るアーサー・ウィーズリーの顔が水盆に浮かぶのを眺め、ダンブルドアが表情を曇らせる。彼は再び杖を取り、抜き出した憂いをペンシーブに落とした。
そこに浮かび上がったのは 学生時代のジョーキンズだ。カナリアイエローのネクタイを締め、苛立った様子で唾を散らしている。
「ダンブルドア先生、あいつ、私に呪いをかけたんですよ!私、ただちょっとからかっただけなのに」
いかにもジョーキンズらしい台詞だった。ダンブルドアはとセブルスにも彼女に関する記憶があれば入れて欲しいと促したので、は城内でジョーキンズを見かけた時のものを抜き出して落とす。水盆に浮かんだジョーキンズは数人の友人と固まり、窺うようにこちらを見ながら喧しく黄色い声をあげて立ち去っていった。
(確か……ジェームズと二人で歩いてたら、たったそれだけで勘違いされたんだっけ)
苦笑し、杖を下ろす。
ジョーキンズに関する一体どんな記憶を掘り起こしているのか、セブルスは杖を出しはしたものの憂いを抜くのは躊躇しているようだった。ダンブルドアがまた促し、渋々と杖先をこめかみに当てる。
セブルスの記憶は、どうやらのそれよりも幼い頃のものだった。小太りのジョーキンズが愉快そうに唇を歪め、こちらを指差して笑っている。
「見たわよ!あんたさっき、温室の陰であの子にキスしてたでしょう」
彼女の声は反響し、ダンブルドアが軽く水盆の中を突くとその姿は回転して水底に沈み込んでいった。小さく唸り、杖を置いたダンブルドアに問い掛ける。
「……ジョーキンズの失踪は、ワールドカップでの事件と何か関係があるのでしょうか」
「うむ。まだ何とも言えぬが、バーサがアルバニアで姿を消したという事実は非常に興味深い。奴がアルバニアで目撃されたということは、以前にも話したことがあるのう?」
頷き、は彼を見た。ダンブルドアは再び抜いた憂いを落とし、水盆の中で回るジョーキンズの姿を眺めている。
「君たちは、マグルの新聞を読むまいな?」
唐突に問われ、彼女は思わずセブルスと顔を見合わせた。そうしている間にも、ダンブルドアは言葉を続ける。その青い眼は真っ直ぐにペンシーブを見ていた。
「もう一つ、気になる失踪事件があってのう。これはマグルのことなので、魔法省では誰も気にしてはおらぬ。じゃがその男は、ヴォルデモートの父親 つまりは君の、曽祖父ということになるかのう 彼が育った村に住んでおった。フランク・ブライスという名の男じゃ。彼はもう一週間以上、一度も目撃されておらぬ」
曽祖父。は動きを止め、ぼんやりとその言葉を反芻した。そうか。祖父母がいれば当然、その親もいる。曽祖父。考えたこともなかった。帝王の、父親……。
そういえば帝王の生い立ちなど、まったく聞いたこともない。
「マグル……帝王は、マグルの出身なのですか?」
「あやつは混血じゃった。サラザール・スリザリンの血を引く純血の魔女と、マグルの間に生まれた 幼い頃から、実に異質な少年じゃった」
混血。
一体、何故なのだろう。
混血の帝王とマグルの間に生まれた母が、マグルの父と結婚して私が生まれた。スリザリンの血は確実に薄れているはずなのに、どうして私の血などが帝王を強力にするというのか。
(……理不尽よ、そんなの)
拳を握り、唇を噛む。
「バーサは、あやつが目撃された場所で跡形もなく消えた。フランク・ブライスはあやつの父親が育った屋敷の手入れをしていたそうな。これらの失踪事件は、無関係というにはあまりに繋がりを帯びているように思える」
ダンブルドアはまた憂いを落とし、水盆の表面には新聞の隅にある小さな記事が浮かび上がった。
その時。ふと、の脳裏に過ぎるものがあった。
(……一週間前?)
そしてジョーキンズが消えたのは 一ヶ月前。
「どうかしたのかね」
考え込んでいると、ダンブルドアが訝しげに訊いてきた。顔を上げると、セブルスも横目でこちらを見ている。
恐々と、彼女はローブの左袖を僅かに捲り上げた。そこには何もない 何の印も、見えはしないが。
「ひょっとして……ただの勘違いかも、しれないのですが。この夏に……二度ほど、印が……疼いたんです。ちょうど、一週間ほど前と 一月ほど前のことでした」
ぴくりと老人の眉が上下する。彼は再び杖先をこめかみに押し当て、ペンシーブに落とした憂いからは彼女自身の顔が浮かび上がった。まだ若い にはそれが、十年以上昔の自分だと分かった。天井に向け、震える声を反響させている。
「ダンブルドア先生、私 あの夜、左腕が……痛んだんです。何か、関係があるのでしょうか……」
「何故言わなかった」
非難がましく言ったのはセブルスだったが、ダンブルドアはそれを制し、篩を軽く揺すった。ジョーキンズ、そして新聞記事の残像が混ざり合い、やがて沈み込んでいく。
「いずれにせよ、動くにはまだ情報が少なすぎる。わしも手を尽くして四方から情報を集めよう。君たちも気になることがあれば、何でも構わぬ。わしに伝えておくれ」
杖を懐に仕舞い、ダンブルドアが囁く。
「。君の左腕にはどういった仕掛けが施されているのか……まだ明確には分かっておらぬ。故に、どんな些細なことでも良い。気になることがあれば、何でも教えておくれ。セブルス、君もじゃ」
それは、遠い昔にも聞かされたことではあった。それなのに、どうしても自信が持てなかった。
深く頭を下げ 頷く。
「……申し訳ありません。以後……気を、付けます」
彼は静かに、微笑んでみせた。
それから一週間後、バーサ・ジョーキンズの失踪事件は予言者新聞のトップ記事になった。だがあくまで魔法省のスキャンダルとして面白おかしく取り上げているだけで、ワールドカップでの一件と結びつけることは露も考えていないようだが。
「ねえ」
気だるげに新聞を捲るセブルスの隣に腰掛け、は淹れたばかりの珈琲を二つ、テーブルに置いた。
「……印を打ち上げたのは、一体誰だと思う?」
彼の答えは予想通りに呆気ないものだった。組んだ足の上に乗せた新聞を見ながら、短く返す。
「さあな。少なくとも俺たちの思いつく誰かではないだろう」
「……そうよね。巧みな弁解でアズカバンを逃れたっていう死喰い人が、今更ワールドカップの会場なんかでそんなことはしないわよね。印を見て逃げ出したっていうし」
よほどの度胸があり、愚かしさを顧みても届かないほどに強固な忠誠心を持っている誰か。
(分からない……どのみち情報が足りない)
それに、判断を下すのはダンブルドアだ。不足した情報をもとにどれだけの思考を重ねてもさほど意味があるとは思えない。ルシウスと接触してみるという選択肢もすぐに抹消した。向こうの出方がまったく分からない以上、迂闊な危険は冒せない。
深々と嘆息し、まだ温かいカフェオレを口に運ぶ。セブルスも新聞を見つめたまま、の淹れた珈琲に腕を伸ばした。
「そういえば」
ふと思いついて、は揺れる珈琲の表面に視線を落とす。
「新しいDADAの教授のことは、何か聞いてる?」
「いや。だが実力は確かな人間だとダンブルドアのお墨付きだそうだ。俺も名前までは聞いていない」
鼻を鳴らしたセブルスは、そこで一旦言葉を切り、皮肉に顔を歪めてみせた。
「いや、むしろ……意図的に隠しているようにも見えたな」
「隠す?どうして」
「分かればこんな言い方はしない」
彼女の頭に浮かんだのはリーマスだったが、まさかそんなことはあるまい。彼は新しい仕事を見つけられたのだろうか。あれからは一切連絡を取っていなかった。
「だがそれも、明日にははっきりする」
言いながら、彼はソファの背凭れに身体を預け、再び新聞に視線を戻した。
二ヶ月の夏季休暇も終わり、新学期は明後日に迫っている。左腕の印は、何事もなかったかのように落ち着いていた。
新しい闇の魔術に対する防衛術教授の話を聞いたのは、その翌日の職員会議でのことだ。はようやく、ダンブルドアが何故休暇中にそのことを自分たちに秘めていたのかを知った。
「明日から新しくこの城に迎える、闇の魔術に対する防衛術の先生を発表しておこう」
立ち上がったダンブルドアが、朗らかに告げる。その傍らにいるマクゴナガルは曖昧に苦笑していた。
「わしの古い友人でもあるのじゃが、闇祓いとして活躍されておったアラスター・ムーディじゃ。中には彼をご存知の先生方もおられるじゃろう。彼ならば実践的な防衛術を教授してくれようと期待しておる」
アラスター・ムーディ。
思わず横目でセブルスと視線を合わせ、強張る唇を無理やり笑わせてみせる。
(……なるほど。そういうこと)
だからこそ口を閉ざしていたのだろう。新学期を明日に迎えては、どうすることもできない。
あの男の射るような視線を思い出し、身震いする。
(……アラスター・マッド−アイ・ムーディ……)
男の名を繰り返す。マッド−アイ。往年の有能な闇祓い。ジェームズと共にいたあの男に、変装を見破られたことがある。すべてを見透かす魔法の眼を持つ男。
(厄介な相手を抱えることになったわね)
騎士団に身を置いてからも、常に疑忌の眼差しをこちらに向けてきた。信じる男、ダンブルドアと 疑う男、ムーディ。
何故このような人間を雇い続けるのか分からぬと、あの男がダンブルドアに捲くし立てる様を思い浮かべる。それはいかにも有り得そうなことではあったが。
(……どうでもいいけどね)
それこそ投げやりな気持ちで独りごちて。
また変わらぬ一年を思い、うんざりと息をつく。そしてこの一年は、平凡に終わることなどないのだろうと何とはなしに思った。ワールドカップ。死喰い人。闇の印。バーティ・クラウチ。アラスター・ムーディ。三大魔法学校対抗試合。
何事もなく終わるはずがないのだろう。きっと。