ホグワーツ魔法魔術学校の夏は、概して静かに去っていくものだった。騒々しい もとい、賑やかな子供たちは特急列車に乗ってそれぞれの実家へと戻り、教職員でも城に残る者は数えるほどしかいない。
だが、今年ばかりは勝手が違った。子供たちの不在のお陰で城内は相変わらずひっそりとはしていたものの、そこに寝泊りする職員はほとんど全員が揃っている。もちろんやセブルスも例外ではなく、彼らは去年に引き続き隠れ家には戻らず、夏季休暇のすべてをこの城で過ごした。数百年ぶりに執り行われる、三大魔法学校対抗試合の準備を進めるためだ。もっとも、課題内容は教職員の中ではダンブルドアとマクゴナガルしか知らず、課題に関する用立ては九割方魔法省が中心になって行う。故にたちが手掛けるのは、十月に来校するボーバトン・アカデミーとダームストラング校の受け入れ準備のみとなるが、何しろ相手は国も文化も大きく異なる子供たちなので、その対応策を講じるに思うより手間取っていた。
「ハグリッド、ここに置いても構わない?」
マクゴナガルから頼まれた袋 かなりの重量があるが、中身は見てはならないと釘をさされた を軽く掲げ、もう片方の手で小屋の隅を示す。ちょうどファングに生肉のようなものを与えていたハグリッドは、振り向きもせずに言った。
「ああ、その辺に適当に置いちょいてくれ。いつもすまんな」
「いいえ。彼らからすれば私が一番使いやすいんでしょうから」
拗ねた風を装って素っ気無く答えると、彼は楽しそうに声をあげて笑う。
「いいじゃねぇか。愛されてるってこった」
「………」
こちらに背を向けたまま、新鮮な餌に食いつくボアハウンド犬の背を撫でるハグリッドに思い切り顔を顰めてみせたところで意味などないのだろうが。それでも彼女は眉根を寄せ、不快そうに目を細めた。
「……そういうことを、言わないでくれる?」
答えを期待したわけではないし、彼もさほど気にした様子もなく立ち上がる。そして肉に触れて汚れた両手を流し台で軽く洗うと、いつもの朗らかな顔で振り返った。
「時間があるならちっとこいつと遊んでってくれや。俺は畑の手入れでもしてくるから」
「あー……ごめんなさい。セブルスに頼まれた薬草があるの。これからすぐ温室に行かないと」
はそう言って小さく肩を竦め、平皿に入った生肉を貪るファングを一瞥した。
「それに、その子も今は別のことに夢中のようだしね」
ハグリッドも上半身だけで振り向き、それを見て笑う。彼はが持ってきた袋をいとも簡単に片手で持ち上げると、奥のベッドに放り投げた。どうやら粗悪な扱いを受けても構わない代物らしい。魔法でそれを慎重に運んできた彼女は僅かに眉を顰めた。
柄の長い鍬を持った彼とともに、そのまま小屋を出る。
「ところでお前さん、ワールドカップなんぞは行かねえよな?」
先に扉を潜ったは数歩進んだ先で足を止め、大きな身を屈めて出てきたハグリッドに向き直った。訝しげに、言い返す。
「どうして?行くわけがないでしょう。暇もチケットの伝手もないし、そもそも興味すらないわよ。そんなものにお金を出せるほど懐は暖かくないの。分かってるとは思うけど」
「ああ、まあ、そうだろうとは思ったが。だがお前さん、クィディッチに興味はなかったっけか?」
「……は?」
どうしてそういった認識ができあがっているのか。原因が分からず、胸中をそのまま声にして伝える。彼は不思議そうに瞬きしながら、さも当たり前のように言ってきた。
「お前さん、学生時代は楽しそうによくクィディッチの話してたじゃねぇか。戻ってきてからはそうでもねぇが……だがクィディッチは、本当は好きなんじゃねぇのか?ほら、お前さんが子供だった頃にアメリカの方でワールドカップがあったろう?その話もいつかやってたじゃねぇか」
反論のために開きかけた唇を、吐息とともに飲み込む。
はこれ見よがしに視線を逸らし、物憂げに片手を振った。
「あれは……それはまあ、子供からすれば魅力的なスポーツなんでしょうけど。それにクィディッチに興味があったのは……私というよりはむしろ」
その先を続けるつもりはなかった。右手を元通り脇に下ろし、ポケットにある大きな鍵束をなぞる。スプラウトから預かってきた温室用のものだ。その形だけで、慣れた扉の鍵を探り当てながら彼女はまたハグリッドを見た。
「それじゃあ、私はこれで」
「ああ。そんじゃあな」
大きく手を振って、彼が小屋の隣にある小さな畑へと向かう。その後ろ姿をしばらく眺めてから、もまた自らの責務を果たすために歩き出した。
夢を見た。
そんなものは毎晩のように見るが、大抵は最悪な気分だけを残して翌朝までには消えている。夢を覚えている必要はなかった。そんなことには意味がないし、考えるまでもなくいつも同じような映像ばかりだからだ。
どこまでも続く黒塗りの世界に、自分は一人で立っている。
一人かどうかは定かではないが。同じ闇の中、すぐ背後に誰かが潜んでいるのかもしれない。もしかしたら文字通り自分の目の前に何者かが立っているかもしれない。そもそもそこには空間すらもないのかもしれない。自分はそこに、いないのかもしれない。
考えたところでそれらを確かめる術はないし、そんなことには意味がない。そういった世界に、やはり自分は一人で立っている。
いつもと同じ、ただそれだけの夢だった。恐らくは。意識を手放した夢の世界においてすべては曖昧であり、形を与えることで人はますますその姿を忘れていく。確かなのは、闇。それすらもあやふやだが。どこかで光を見たのかもしれない。だが、期待などはしていない。
目覚めたのは唐突だった。何の契機があったのか。さっぱり分からない。いや 皮膚を湿らせて冷えた汗を感じ、夢の中と同じく闇に塗り潰された天井を見上げ、やがて気付く。
(……これも、夢の続きなのかもしれない)
瞼を開いてもそこに広がるのが暗闇一色ならば、どうやってその境界を見出せよう。だが、彼女はのろのろと頭上に腕を伸ばした。軽い質感の何かが指先に触れる。この感覚は、夢の世界では味わえない確かなものだ 恐らく、は。
彼女は布団を被ったまま、それを軽く振って部屋の明かりを薄く灯した。光が見えた。やはりこれは、夢ではないらしい。
右手で杖に触ったまま、もう片方の手も布団の中からそっと抜き出す。
既に肘まで捲れた袖をさらに上へと上げながら、彼女は暗がりの中で自分の腕を見つめた。
(何もない……何も)
言い聞かせるようにつぶやき、目を細める。だがそれ以上は見ずに、はすぐさま腕を下ろした。明かりを強めることもない。
(思い違いよ。印が痛む……そんな錯覚は、この十年いくらだってあった)
それでも、激しく打ち付ける動悸はなかなか治まらない。噴き出す汗を手の内で握り、再び瞼を閉じる。
印が痛んだ と感じたのは、少なくともこの夏には二度あった。だがどちらも夜が更けた遅い時間のことで、既に夢の世界にあったは突然弾けたように目を開けてその感覚を淡く思い出すだけだ。確証はない。確かに夢から引き摺りだされるほどの錯覚を起こすことは稀ではあるが、決して皆無ではない。
(あんなことがあったから……少し、敏感になってるのかもね)
苦々しく、学年末の出来事を思い出す。
リーマスとの再会。そして告白、懺悔。だがそれ以上に彼女の心を掻き乱したのは、紛れもなくシリウスと そしてピーターの、出現だった。
思い出は美しい。現実のそれよりも輝かしいに違いないその世界に、ピーターは生きていた。十二年のそれはあっという間に崩れ落ち、ただ憎むべきであったはずのシリウスが昔のままに現れた。どちらを信じればいい。何を疑えばいい。生きた証となる男を目の前に見れば、真実は自ずと見えてきた。
知りたくなど、なかったのに。
ただピーターの記憶を大切にしたかった。シリウスの罪をいつまでも憎んでいたかった。そうすることで、いくらか身体が軽くなるような気がしたのだ。どのみち自分の咎だけは、この肉体が朽ちても永遠に変わらないのだが。
(……できるわけがない)
忘れることなどできないのだ。だからこそ憎むことでしか、彼を思っていられなかった。
好きな女、と。彼は言った。
(そんなもの……)
もしも。もしも本当に、今でも私のことを想っているというのなら。
(お願い。そっとしておいて)
彼の最後の言葉を思い出す。
(次に会うことがあればその時は、すべてを)
言えるわけがない。
お願いだから。私を憎み続けて。
あの子と同じように、裏切り者と罵ってくれればいい。
こんな私に愛の言葉を囁いてくれるのは。愛しい眼差しを向けてくれるのは、ダンブルドアだけでいい。あの男の瞳は、私の罪を忘れさせない。それでいい。それが、いい。
(……リーマス)
彼女は瞼を伏せたまま、声には出さずにつぶやいた。
(私、無理だよ。そんなこと、言えるはず……ない)
目頭に熱がこもる。だが、涙は出なかった。もしくは流れていたのかもしれないが、そんなものには意味がない。誰の眼にも留まらない、ただ否定されるだけの存在ならばたとえ流したところでないものと同じだろう。
夜明けまではまだ時間がある。眠ったところで見るのはこの部屋と同じ光景に過ぎないのだから、戸惑う必要などない。
寝直そうと彼女は明かりを消して鼻先まで布団を被ったが、実際に眠ることができたのか。それはとうとう最後まで分からなかった。