三大魔法学校対抗試合の準備は何ヶ月も以前から進められているようだが、ホグワーツの一職員に過ぎないやセブルスは他校を迎え入れるまでさほどの仕事もなく、いつものように試験の採点と合否の判定に学年末を費やしていた。シリウス・ブラックもマーリン勲章も一度に逃したセブルスは手酷く打ちのめされてはいたものの、リーマスの辞職を受けて何とか妥協し、城は再び落ち着きを取り戻しつつあった。

 変わらず   否、ますます騒然となったのは魔法省であり、肝心の処刑直前にバックビークを取り逃がしたマルフォイ親子だった。ルシウスはバックビークの一件に加えて人狼の雇用への抗議文をダンブルドアに送付し、それに続くようにして何通ものふくろう便が主にスリザリン生の保護者から送られてきた。魔法省は追い詰めたブラックに目と鼻の先で逃走された失態への世間の目を逸らすべく、ホグワーツの雇用問題をさり気なく攻撃するようになった。

 だが、また一つ真実を得たダンブルドアは強い。既にリーマスが辞職願を提出し、それを受理していることもあって魔法省が目論むほどの大問題にはならなかった。バックビークの件も、ハグリッドが直接逃がしたわけではないということはファッジ自身が確認している。結局のところ真実は闇の中で、この先も明かされることはないのだろう。

「ドラコ   少し、構わないかしら」

 彼らの気に入っている日陰は校庭の隅にあった。試験を終えたこの時期、大抵彼らはそこにいる。

 クラッブとゴイルに挟まれるような形で仰向けに寝転がっていたドラコは、こちらの存在に気付くと大慌てで身体を起こした。元より地面に腰を下ろしていただけのクラッブとゴイルは首だけを捻って振り向く。

 ドラコは驚いた様子で何度か瞬いた。

「あ、はい!何でしょうか」

「少し話をしない?あなたがよければ、だけど」

「え、はい、もちろんです」

 立ち上がり、ドラコが尻の土を軽く払う。は座ったままの二人に「少し借りるわよ」と告げ、一歩青年の前を歩きながら城の中へと戻った。途中何人かの生徒と擦れ違い、遠巻きに去っていく視線を感じるものの、そんなことは大したことではない。魔法薬学担当教官がスリザリンのドラコ・マルフォイを特別扱いしていることは周知の事実であったし、ドラコ自身も特別視されることを好む。そしてそれを理由に激しく攻撃されることのないほどの名家の出だった。

 地下に続く階段を下り、空っぽの魔法薬学教室へと彼を招き入れる。そうして適当な椅子を勧めながら、自分もその近くに腰掛けた。

「堅苦しい話をしようと思って呼んだのではないから、楽にして」

 言いながら、ドラコの顔を見返して。

 知らない間に思うよりも成長したのかもしれないと、はぼんやり考えた。怪我をして少なからず混乱していた時にはやはりまだまだ子供だと感じたが、こうしてただ向き合っていると感情を抑えられるようにもなったのかもしれないとも思う。または心が自立したか。一人で立つにはまだ長らく時間がかかりそうではあるが。

「お父様は随分とご立腹のようね?」

 苦笑を交えて囁くと、ドラコの表情はすぐさま翳った。やはりまだ、子供らしい。だがこの調子でいけば気付かないうちに大人になることもあるのかもしれない。

「はい…僕も、悔しいです。あんな、野蛮な大男を辞めさせられないのなら、せめてあの、野獣を…」

「そうね。私も処刑の場に立ち会おうとしたのだけれど、あれは不可解な事態だったわ」

 予想もしていなかったのだろう。ドラコは驚いたように顔を上げ、開いた眼でを見ている。彼女は控え目に口角を上げてみせた。

「危険生物処理委員会のワルデン・マクネアは知っている?」

「あ、はい。父の古い友人だと…」

「そう。私も彼のことは知っていたから、その仕事ぶりでも見ておこうかと思ってね」

 肩を竦めたのは、青年が自分の言葉をどこまで信用するかと考えたことを誤魔化すためだった。それを思案することも、隠すことすらもまったく意味がないとは分かっているのだが。

 だがドラコはそれにはまるで気付かなかったように訊ねてきた。

「先生は…純血ではない魔法使いについて、どういう風にお考えですか」

 それは唐突ではあった。また実に、単純な問い掛けでもある。それが故にこうもストレートに訊かれるとは思っておらず、彼女は隠しもせずに首を傾げてみせた。

「どうしてそんなことを訊くの?」

 非難ではなく、純粋な疑問を返す。彼自身も明確な目的があったわけではないのだろう。少なくとも数十秒ほどは逡巡し、ようやく視線を上げて恐る恐る口を開いた。

「いえ、ただ…あの大男のことも、狼人間のことも…ダンブルドアのことも、先生は…その…」

 言葉にすることに戸惑っているのだろう。傍らの机に肘をつき、笑みを深くしながらは彼の言葉を引き継いだ。

「彼らに肩入れしているように見えるということ?」

「いえ、あの…先生を疑っているわけじゃ、ないんです。ただ、その…」

「あなたは私を何だと思っているの?」

 言い方によってはそれこそ咎められていると思ったろう。だがあくまでは穏やかな口調で問い掛けた。実際彼を責めようとして放った質問ではない。だが他に、言葉も見つからなかった。

 ばつの悪い顔で俯いたドラコに、変わらぬ調子で続ける。

「確かに私はあなたのご両親と交友があった。共有している思想もあるでしょう。でも私自身が純血でない以上、純血でないからといってそれだけで魔法使いを蔑むつもりはないわ。それはあなたのご両親も一緒でしょう。そうでなければ彼らが私やセブルスを評価するはずがないと思わない?」

 彼は随分と驚いたようだったが、何とかその感情を押し込めて真っ直ぐにを見た。

「だけど   いえ、だからこそね。諸手を挙げてダンブルドアに賛同することはできない」

 彼の瞳が再び子供らしい輝きを取り戻す。まったく、分かりやすい子だ。本当にルシウスとは似ても似つかない。だからといってナルシッサに似ているかと問われてもどちらかといえばノーだ。それはただ幼稚さ故なのか。

 声を落とし、改まった口調で告げる。

「ドラコ。覚えておきなさい。何かを為そうとするのなら、緻密な計画が必要となる。それを成し遂げるためには、感情は可能な限り内側に留めておかなければならない。最後に笑うのはそれまで笑わなかった人間よ。だからこそ私は、敵対すべき人間とも手を組む。そうすることが必要だから。そういった意味ではまだ、セブルスには大人になってもらわないとね」

 受け手にとってそれは、どうとでも取れる言葉には違いない。だがドラコは小さく苦笑し、煌きを秘めたそのグレイの瞳を希望に開いたまま言ってきた。

「つまらないことを…お聞きしました。僕は先生もスネイプ先生も、心から尊敬しています。父と母が信頼している素晴らしい先生ですから…僕もお二人を信じています」

 信じる。

 両親が信頼しているというただそれだけの理由で、我々を信じる根拠にする。

 我々を信頼しているというそのルシウスたちの言葉すら真実か否かは定かでないというのに。

 いや、彼にとってそんなことはどうでもいいのだろう。問題はそれが真実かどうかではなく、それを自分が信じるか否かだ。

 どのみち確かなものなどこの世にありはしないのだから、寄る辺は自らの心にしか有り得ない。

 それすらも怪しいというのに、この青年は私を信じていると断言する。

(…そうよね。子供に罪なんてないんだから)

 愛すべき人々の子供には信用の欠片もなく疑われ、敵対すべき人々の子供には一片の疑いもなく信じられる。私はそういう生き方をしてきた。

 ルシウスたちとの繋がりを保つため、彼らの子供に近付いた。父親の朋友を装って特別の微笑みを向けるに躊躇はなかったといってもいい。彼は幼子の純粋さをもって容易に彼女を信用した。それこそがまさに、彼らの罠だとでも言わんばかりに!

(あの子を案じる思いに、さほどの作意を要しなくなってしまった)

 時折用件もなく声をかけるのは、彼に心を許させるためのはずだった。子供を通じて繋がれば、多少怪しい動きをしたとしてもルシウスに牽制されることもあるまい。だがそんな心配はまったくの杞憂に終わり、季節の変わりに挨拶状が届く以外は今のところ彼らは何も言ってはこない。放任して様子を見ようとでもいうのか、それとも本当にこちらのことを信用しているのか。

 だがまったく別の意味で、自分は動きを封じられようとしている。

(…これが本当にルシウスの思惑だというのなら、彼は思った以上に狡猾な男ね)

 皮肉混じりに、胸中で吐き出す。

 と、物思いに耽ってドラコを無視する形になってしまっていたらしい。彼女は苦笑して青年に向き直り、軽く片手を振った。

「ああ…ごめんなさい。色々と思い出すことがあってね」

 彼は突然惚けたようにあらぬ方向を見つめていた彼女を純粋に案じていたようだ。ほっと胸を撫で下ろし、言ってくる。

「あ、先生はワールドカップは見に行かれるんですか?」

 はまた口元に静かに微笑を浮かべ、かぶりを振った。

「いいえ。この夏は色々と忙しいし、元々チケットを入手できるような伝手もないからね」

「仰って下されば、父がきっと先生やスネイプ先生の分はご用意できたのに」

 心底残念そうに彼が瞬きしたので、彼女は机に肘をついていた右腕を外して姿勢を正しながら笑う。

「ありがとう。気持ちだけで嬉しいわ。それじゃああなたは家族で観戦に行くのね。羨ましいわ、楽しんでいらっしゃい」

 ドラコは照れ臭そうに軽く頬を掻いた。

 家族、か。

 教室の前でドラコを見送り、研究室へ戻る廊下で独りごちる。

 思えば、家族で揃って何かをした記憶はない。幼い頃に母が死んだのだから当然だが。暮らしたはずのイギリスの生家もまったく覚えてはいなかった。

 家族がいる。信じるものがある。

 だからこそ彼は、胸を張って生きていけるのだろう。

(…ルシウス)

 立ち止まる必要はなかった。呼びかけるべき男はそこにはいない。だが彼女は足を止め、ゆっくりと、まるで眼前にいない相手の耳にすら届かせるかのように、声には出さずにつぶやいた。

(あの子を捨駒に使うようなことがあれば、私が許さないわよ)

 もっとも、彼はともかく母親であるナルシッサがまさかそのようなことはさせまいが。

 目的を達するためには手段を選ばない。スリザリンの特性を反芻する。

(…ルシウス、ナルシッサ)

 私は知らなかった。

 家族がいることの強み。家族がいないことの弱み。

 教師という立場に身を置いて以来、意図的に子供たちの生活圏内からは遠ざかっていた。生徒は薬学を教授するためだけの対象であり、それ以上でもそれ以下でも有り得ない。

 だが、目的をもってあなたたちの息子に近付き、三年を終えてようやく。

 子供がいることの強み。子供がいないことの弱み。

(私は、嵌ってはいけない溝に嵌ってしまった)

 先程ドラコに伸ばしかけ   そしてその直前で、慌てて背中に隠した右手を見つめる。

(知るべきではなかった)

 距離を置くべきだったのに。

 他人の子供に過ぎない。あの二人の息子だ。そんなことは分かりきっているのに。

 子供をいとおしむという感情を、知ってしまった。

 疑いを知らない、私を真っ直ぐに見つめるあの子の瞳を。

(逃げるのか!臆病者!)

 また別の子供の声が、どこからともなく響く。

 分かっている。私は逃げているのだ。その結果、こんなところに辿り着いてしまった。

 どうにもできない。どうにもならない。

 気付かなかった振りをして、今まで通りの自分を貫くしかない。

 気持ちを入れ替えるために大きく息を吐き、彼女は青年の消えた方角に背を向けて悠然と歩き始めた。