よほど疲れていたのか、セブルスが寝室から出てきたのは珍しくよりも後のことだった。それでも身形だけはきちんと整え、彼女もそれを見て居心地の悪い思いで自分の襟元を正す、そんな関係が続いていた。もっとも彼の風体に関していえば、伸ばしたあの黒髪を一番どうにかしろと言いたいがそれは言葉に出さず、共に大広間へと向かう。
二人が辿り着いた時には四寮の長テーブルはそのほとんどが埋まっていたし、教職員たちもすっかり揃っていた。無論リーマスの姿はないが。ばつの悪い心地では自分たちの席に急いだが、セブルスの足取りは鷹揚なものだ。彼女は足を止めて振り向き、相棒を待ってから再び歩みを進める。スリザリンのテーブルを通り過ぎる時、多くの寮生たちが寮監とその補佐とに挨拶を送った。
と、ひどく仏頂面の青年 この年頃は少年と呼ぶべきか否か判断に困る を見つけ、セブルスの数歩先を歩くは立ち止まって声をかける。
「おはよう、ミスター・マルフォイ」
こちらに背を向ける形で座っていたドラコは気付かなかったらしい。大慌てで振り向くと、手にしていたスプーンを置いてすぐさま頭を下げた。
「お、おはようございます、先生」
クラッブやゴイル、ザビニたちは愛想を装う程度に挨拶し、それぞれの食事に戻っていく。それにも適当に言葉を返し、は腰を屈めてドラコに耳打ちした。
「…逃げられてしまったそうね?」
何食わぬ様子で囁くと、再び表情を歪めた青年が憮然と唇を引き結んで教職員席を睨む。恐らくといわずともハグリッドを見ているのだろう。当の本人は昨夜の酔いがまだ残っているのかと疑いたくなるほどに 実際にそうなのかもしれない 上機嫌だ。彼女は相手の背を軽く叩きながら、何を伝えるでもなく微苦笑を浮かべてみせた。そんなものでドラコの憤懣が薄れるはずもない。気休めはその程度にして自分も席に着こうと上半身を起こすと、ちょうど追いついてきたらしいセブルスが彼女の傍らで足を止め、上座を遠目に見つめながらほくそ笑んだ。
嫌な予感がしたのだ。その時に。
ドラコが挨拶をするよりも先に、片手で顎を撫でたセブルスがつぶやく。
「…ああ。やはり今朝は、人狼はお見えでないようだ」
「 !?」
言葉を失い、は目を見開いて振り返る。セブルスは顔色一つ変えずに真っ直ぐ教職員席を見ていた。生徒たちが聞き流してくれたならば。そんな期待は、人の生命よりも儚い。
周囲のスリザリン生はもちろん、隣のテーブルに座っているハッフルパフ生らもスリザリンの寮監らがすぐ背後にいるというだけで神経を尖らせていたので、どうやら聞こえたらしい。辺りの生徒たちは一斉に顔を上げ、教職員席と、そしてセブルスとを何度も交互に見た。たまらず、は低く声を荒げる。
「教授!」
そこでようやく自らの失言に気付いた といった筋書きなのだろう セブルスが、軽く唇を擦って首を振る。
「ああ、これは…うっかりしていた」
「教授、そんなことを…!」
「スネイプ先生、それは あの、ルーピンのことですか」
ドラコの顔色は青ざめてはいたものの、随分と勢いを取り戻したようだった。ヒッポグリフの一件で消沈していた彼を元気付けるには恰好の話題でもあろう。だがしかし、この場で暴露するようなことではあるまい。周囲の生徒たちは声を潜めつつもざわめき、それは漣のようにさほど間を置かずに広まっていく。は薄ら笑いを浮かべたままのセブルスを睨み付け、何とか子供たちを落ち着かせようと辺りの生徒にだけ聞こえる程度の声をあげた。
「みんな、静かにして。聞いたことを何でも無責任に信用しないこと。つまらない噂を広めて人を傷付けるだけなら能のない子供でもできるわ」
「…ほう。"つまらない噂"で片付けるつもりかね」
事態を愉しむように、それでいて冷ややかなセブルスの声が割り込む。反論の間すらも与えず、彼は言葉を続けた。鷲寮と獅子寮の生徒には聞こえていないようだが、二人を囲むテーブルの子供たちはその様子を固唾を呑んで凝視している。
「事実、奴は昨晩変身した姿で校庭を暴れ回った…下手をすれば生徒の身に危険が及んだ可能性も十分にある。それでも助教授は、それを"つまらない噂"で一切消し去るおつもりですかな」
「……」
それは。紛れも無い事実だ。だが、あれは不幸な事故だった。二度とあんなことには。
しかし反駁の言葉は見つからず、彼女が口を閉ざしている間にも噂は生徒たちの口から口へと伝わっていく。大抵耳にしたばかりの噂話など口頭で広まるにつれ歪められて伝わるものだが、それはあまりに簡潔すぎた ルーピンは、狼人間である。
異変を察したダンブルドアは、徐に立ち上がった。彼が言葉を発せば必然的にそれは全生徒と教職員の気を引くことになるが、無責任な噂が無責任に広がるよりはましだと思ったのだろう。彼は長いローブの裾を引きながら、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。大広間が一斉に静まり返る。彼は声を落として話したが、それでも恐らくこの場にいる全員にその言葉は伝わったろう。
「スネイプ先生も先生も、どちらも誤ってはおらぬ。確かに昨晩、ルーピン先生は周囲の人間にとっては危険な状態にあった。君たち全員に隠し通しておったことをすまなくも思う。じゃが普段、対策は十分に立ててあり我々にとってルーピン先生はとても素晴らしい先生であることは変わらぬ。今後二度と同じ過ちは犯さぬと、わしがこの場で誓おう。言葉は容易に人を傷付ける。そのことをよく考えて、君たちが行動してくれるであろうことを信じておる」
そう言ってぱちんと軽やかに手のひらを打ち鳴らすと、「さあ、みんな、美味しい食事の続きじゃ」、ダンブルドアは穏やかに微笑んで教職員テーブルへと戻っていった。もそれに続いて大股で歩き出す。いまだに意地の悪い笑みをうっすらと浮かべたセブルスを一睨みして。
それからの大広間はひっそりと静寂が漂っていたものの、生徒たちはそれぞれに声を潜めて激しく喋り続けているようだった。は憮然としたまま、ただひたすらにフォークだけを動かす。そして二人して地下室へ戻ると、堰を切ったように怒鳴りつけた。
「一体何を考えてるのよ!子供たちにばらすなんて…リーマスがここにいられなくなるわ!」
「当然だ。初めからこんなところには、奴の居場所などない」
「勝手なことを言わないで!じゃあ今まで一体何のために脱狼薬を作り続けてたのよ!全部彼がホグワーツに勤めるためでしょう!」
「俺は、ダンブルドアに頼まれたものを頼まれたように作っただけだ。元より人狼の採用など、俺は反対だった」
「それはあなたの私情であって、決めるのはダンブルドアよ。私たちが判断することじゃない」
「お前のその言い分が私情ではないとどうして言える。それならば雇われようとしている人狼がルーピンでなかったら、お前は同じようにしてダンブルドアの主張ばかりを持つのか。世の中にどういった人狼が存在するのか、お前だって知っているだろう」
は死喰い人時代にその姿を目にした人狼を思い返して嫌悪に身震いした。かぶりを振って、切り返す。
「グレイバックのことを言っているのなら、あんなものは論外でしょう。リーマスには何ら問題はないわ あの、体質以外には。そうでなければダンブルドアは採用したりしない!そのための脱狼薬で、そのための代講だったはずでしょう!」
「 とにかく」
言いながら、セブルスは身を投げ出したソファの上で両腕を組んでみせた。
「奴がいるこの城で、俺はお前と組む気はない。そのことは昨日、条件として提示したはずだ」
はっとして、昨夜の彼の言葉を思い出す つまらないものを一つ始末するだけだ。
「そんなことは、相手に理解させない限り条件とは言えないわ」
「だがお前は、問わなかった。それはお前の問題だろう」
張り詰めていた糸を。力なく弛緩させる。どのみち子供たちの口に戸を立てられるわけではない。たとえ人狼であったとしてもルーピン先生はルーピン先生だと言い切る生徒も少なからずいるだろう。だが少なくともスリザリン生の大半にそれは期待できず、蛇寮生にそれを期待できないとなればまず魔法使いの名家が黙ってはいまい。明日には大量のフクロウ便が校長宛に届くだろう。ルシウスにいたっては正式な抗議文まで書いてくるかもしれない。1年をかけて守り抜いてきたものは、たった一言で脆くも崩れ去る。そうだ。確かなものなど、この世のどこにもあるはずがない。
(お前のことが)
聞こえてきそうになった声を、意識を塞いで遮断する。は深々と嘆息し、精一杯の抗議を眼差しに込めながらもゆっくりと別の言葉を吐き出した。
「 で、これで契約は成立というわけね?」
口角を上げ、ニヤリと笑ってみせたセブルスをうんざりと見つめ、彼女は意味もなく片手を振った。
彼女が訪ねると、リーマスはちょうど部屋の片付けをしているところだった。棚にまとめてあった道具や本を床に並べ、開いたスーツケースにそれらを丁寧に詰めている。彼は顔を上げ、さして驚いた風もなく微笑んでみせた。それは穏やかではあったが、どこか泣き顔にも思えた。
「やあ 来てくれるんじゃないかと、思っていたよ」
「…いつ、行くの?」
彼は横を向き、背後に置いてあった本をケースに入れる。そうして俯いたまま、言ってきた。
「準備ができれば、すぐにでも。ダンブルドアが駅までの馬車を用意してくれる」
「…そう」
理解したことを告げるためだけに、短く応じる。後ろ手にドアを閉め、彼女はスーツケースを挟んで彼の向かいに膝をついた。作業を続けながら、彼は気楽な調子で言う。
「椅子に座ってくれても構わないよ。私は出発の準備をするだけだから」
「いいわ。私はここで」
首を振ると、彼はそれ以上は何も言ってこなかった。黙々と手元を動かし、スーツケースの中が少しずつ埋まっていく。床に跪いたまま彼女が顔を上げると、リーマスの向こうにある机の上には忍びの地図が広げられていた。
トランクの中がほとんどいっぱいになった頃、ようやく彼は顔を上げて真正面から彼女を見た。やはり微笑んではいるが、どこか虚ろな色を浮かべている。
「君たちには、本当に感謝している。お陰でこのホグワーツで、一年間教鞭を執ることができた。直接セブルスに礼を言うのはきっと彼にとっても心地良いことではないだろうから、君から私の気持ちだけ伝えて欲しい」
「…ええ」
恐らく告げることはないであろうその言葉を胸中で反芻し、頷く。それは彼にも分かっているのだろう。弓形の唇を微かに動かしただけだった。あまり間を置かずに、だが若干の逡巡を含ませて言ってくる。
「セブルスとの関係は…戻ったのかな」
彼との関係。リーマスはどこまでの境界を言っているのだろう。仲間としてのそれか、男と女としてのそれか。どちらとも受け取れた。十年以上も共にいて、そういった関係を疑わない人間もそういないだろう。無責任な子供ですら言い当てる程度のことだ。
だが彼女は小さく頭を振り、前者のことだと決め付けて答えを返すことにした。微苦笑し、つぶやく。
「その代償として、あなたを失うことになった」
彼はすべてを予測していたかのように小さく笑い、こちらの顔を見返しただけだった。
「そんなもので君たちの関係が回復したのなら、私は一向に構わない。過ぎた職だったんだ、初めからね」
恨み言の一つも言わず、彼は静かに微笑んだ。元より何も望んではいないのだ、彼は。いや、望むことを本能が悉く消し去る そうやってずっと、諦めを抱いて生きてきた。
「この一年、ホグワーツにいられたことは本当に幸運だったと思っている。神がこんな私に与えて下さった、唯一の
いや、二度目の、そして恐らくは人生最後の必然だと」
言いながら彼は、数秒ほど外していた視線を再びこちらへと戻した。
「君の、そしてシリウスの 真実を知ることができた。それだけで私は、この12年を生きてきた意味を見出せたような気がしたんだ」
「……」
何も言わず 否、何も答えることはできず、ただ口を噤んで彼の言葉を聞く。
と、彼は唐突に言ってきた。
「ペティグリューの言葉を、気にしているのかい?」
図星を指され、少しずつ顔を俯かせる。思い返したのはピーターの言葉ばかりではないが。あらゆる声は交錯して流れていく。だがもう、12年前のあの日、追い詰められたピーターの叫びは聞こえない。胸を打つのは、33歳のピーター・ペティグリューが滑稽な姿で泣き叫ぶ声だった。
「気にすることはない。あんな言葉は命乞いに思いついた突発的なものなんだろう。君が気に病むようなことじゃない」
「でも、私は 気付いていたのかも…しれない」
言ってしまってから。
どうしてそんな台詞が自分の口から飛び出したのかは理解できなかった。リーマスも不意を衝かれたように目を瞬いている。だが唇は、無意識のうちにさらにそのあとを続けた。
「…私は、彼の気持ちに気付いていたのかもしれない。それでもなお、彼の目の前で私が他の誰かへの想いを声高に叫び続けていたのだとしたら…追い詰めたのは、他でもない私 」
「」
愁嘆の色を滲ませながら、彼の両手がの肩を掴んだ。かぶりを振って、言ってくる。
「たとえそうだったとしても、君にはどうすることもできなかった。そうだろう?君はシリウスのことが好きだったんだ」
あたかも未知の言葉を聞かされたかのように口を閉ざす彼女に、彼は続け様に囁く。
「愛していたなら、もっと他に表現方法はあったはずだ。それができなかったのは彼の弱さに他ならない。君にはどうすることもできなかった。頼むからもう、一人で背負うのはやめてくれ」
「……」
瞼を伏せ、彼女は彼の眼差しから逃げるようにして俯いた。泣いていると勘違いしたのだろう、彼がそっと、手を放す。入れ替わるように自らの腕を抱き、は唇を噛んだ。
リーマスの声が、幾分か柔らかみを帯びたものに変わる。
「…シリウスとは、話をしたのかい?」
それはきっと。
彼に会いにくることで最も恐れていた問い掛けだったに違いない。一瞬で身が竦むのを感じ、両腕を掴む手に力がこもる。それでもは顔を上げ、だが相手の眼は見ないままに小さくかぶりを振った。
「いいえ、ほとんど…あまり、時間もなかったから」
「そうか」
意に反して彼はそれだけを言うと、床に置いた最後の本をスーツケースの中に詰めた。立ち上がり、見落としがないかを首を巡らせて確認している。
机の上に広げた地図を覗き込みながら、彼は落ち着いた調子で言った。
「ああ、それから一つ。君に頼みがあるんだ。構わないかな」
頼み事をされるとは思っておらず、彼女は彼の背中を見上げたまま相手の言葉を待つ。振り向いたリーマスはなぜか突然、哀しそうに笑ってみせた。
「一度でいい。一度でいいんだ。ニースに 彼女に、会いに行ってやって欲しい」
「……!?」
絶句して、ただ呆然と彼の顔を見返す。彼は身体ごとこちらに向き直り、大袈裟に両腕を振って続けた。
「いや、私がそういった言い方をするのは傲慢だと、分かってはいるんだ。だけどどうしても…放っておけなくてね」
「…どうして」
掠れた声で、問い掛ける。彼は小さく息をつき、頼りない声音でつぶやいた。
「これも…偶然なのかな。たまたま去年の夏に、フローリシュ&ブロッツで彼女に会ったんだ。それまでも何度か、時々は通っていたんだけれど…彼女と会ったのは、本当に久し振りでね。ホグワーツに就職することが決まったと伝えたら、君のことを言っていた」
どういう風に、とは聞けなかった。10年以上 正確には15年か。それだけの空白を持つ彼女が自分をどういった色ガラスを通して見ているのか、それを知るのは恐ろしかった。
彼は構わず、あとを続けてくる。
「彼女は今でも、君のことを学生時代のまま、友人だと思っている」
そんなことは。
言いかけて、その言葉はあっさりと喉の奥で潰える。
「辛いのは分かるよ。私は君と彼女がどれほどに親しかったのか、あまり詳しくは知らない。でも私が君をよく知るよりも先に、彼女が君と親しくしていたことは知っている。その後君たちの間にどういった事件が起きたかも、忘れてはいない。それでもなお、彼女は君を覚えている。きっと信じているんだろうと思う。だから 私からの、願いだ。一度彼女と会って、話をしてみて欲しい。決めるのは、君だよ」
それは文字通りの、"願い"なのだろう。彼は決して、強要しているわけではない。だが言葉にはない何かが彼女の胸を締め付け、肺の奥に溜めた息を静かに、長く吐き出していると。
遠く、背後から、慌しい足音が聞こえてきた。確信はなくとも、子供のものだろうと思えた。急ぎの用件でなくともああいった足音を立てる教師を私は知らない。
振り向くよりも先に、部屋の扉が勢いよく開いた。飛び込んできたのは息を切らせたハリーだ。彼はリーマスの他にの姿を認めると隠しもせずに顔を顰めてみせたが、彼女はまったく意に介さず徐に腰を上げた。
「お客様が来たようだから、私は失礼するわ。下で待ってる」
「ああ…分かった。ありがとう」
リーマスは控え目に笑い、部屋を出て行く彼女を見送った。は一瞥すらせずにハリーの脇を通り過ぎたが、青年が射るような眼差しでこちらを睨んでいるのを感じる。
そっと、オフィスの扉を閉めて、彼女はゆっくりと玄関ホールへと下りていった。子供たちの喧騒はほとんど聞こえてはこない。3年生以上は試験明けのホグズミードを楽しんでいるはずだった。
「おう 先生」
ホールへと続く大理石の階段を下りている途中、後ろから名前を呼ばれ、彼女は数秒ほど遅れて足を止めた。階段の上からダンブルドアが覗いている。彼は朗らかに笑いながら言ってきた。
「馬車は正門のところに来ておるよ」
「ありがとうございます」
それだけを手短に返し、浅く頭を下げる。次に顔を上げた時には、老人の姿は視界から消えていた。