護るべきものを一つだけ選べと言われたら。どちらかに折れなければならないとすると何を曲げるべきか。

 部屋に閉じこもり物音一つ立てない彼を前にすれば、答えは自ずと見えてくる。今ここにない抽象的な何かを貫くことでこの先も彼と反発し合うことになるのならば、こちらから折れるしかない。究極の目的を達するためには彼と手を組まねばならない。たとえどれだけの傷を背負おうとも。

「セブルス   入るわよ」

 答えを聞かぬまま   もっとも、イエスと返ってくるはずもないが   はドアノブを杖で一度だけ叩いてその扉を押し開けた。部屋に明かりはない。背中のオフィスから差し込む光が力なくベッドに座り込む男の姿を照らした。

 すべてを失った、男の顔だ。

(馬鹿な)

 俯くセブルスに見えるはずもないが、顔を顰め、扉は開けたまま部屋の中に一歩足を踏み入れる。彼は眼球だけを動かして   この薄がりでもなぜかそれははっきりと分かった   剣呑な眼差しでこちらを睨んだ。

「何の用だ」

「話をしましょう」

「下らない虚言の続きか。そんなものはもう聞きたくはない」

「だったら無理にでも閉め出せば良かったでしょう」

 こともなげに言い返すと、彼は次の言葉を飲み込んで再び目を逸らした。固く扉を閉ざしておきたければそれなりの呪文はある。それを使わずに安易に開けさせたのは心のどこかにそういった期待があるからに他ならない。拒絶するつもりで完全にはそれができない。それだけの時間を共に過ごしてきた。

(…臆病者は死ぬ前に幾度となく死ぬ。とはよく言ったものね)

 自嘲気味につぶやき、二人の間を隔てる距離をゆっくりと埋めていく。彼はもう無駄に拒む姿勢を見せることもない。それでも張り詰めた呼吸だけは緩めず、じっと視線の先を見つめていた。

 彼の前に立ち、それを途中で遮る。セブルスは顔を上げない。構わず、続けた。

「この1年、あなたが私に不信を抱いていたのは仕方の無いことだと思うわ。あなたの言う通り、それだけ私はシリウス・ブラックともリーマスとも親しくしていた。ブラックの脱獄、リーマスの就職、そして私の投獄   あまりに不自然な偶然が重なり過ぎた。だから易々と信じろとは言わない。15年が何よ。それだけの時間共にいたからといって私があなたを裏切らない理由にはならない。何でもかんでも信じる奴はただの馬鹿よ」

 虚を衝かれたのか顔を上げて目を開くセブルスに、彼女は口を挟ませまいとすぐさま言葉を繋ぐ。

「だけど、何も信じられないのも同じくらい馬鹿よね。それじゃあ何もできない。独り相撲を取っていたってそれじゃあ意味がない」

 こちらの物言いに苛立ったのか、図星を指されて戸惑ったのか   恐らく後者に違いない   彼は眉根を寄せ、細めた視界の下から憮然とこちらを見上げてくる。彼女は意味もなく肩を竦めると、しばし虚空を彷徨わせた目線を再び彼へと戻した。

「だから私たちは、決めなければならない。何を信じて、何を疑うのか。あなたは私を信じる?それとも疑って終わるの」

「……」

 彼は元々閉じていた唇をさらに引き結び、考え込むようにして前を向く。言葉で言えばそれがすべてではない。それでもなお、問うておくべきだと思った。言葉はすべてではない。すべてではないにせよ、何らかの動機付けにはなりえるはずだ。そんな些事にすら頼らねば、彼との関係を修復するには及ばない。

 セブルスは肺の底から吐き出すように長く嘆息し、軽く頭を振ってみせた。

「疑うことは容易い。そしてお前を信用できる材料は不足している」

「それならこちらからも一つ訊くわ。あなたは、本当に知らなかったの?」

 訝しげに眉を顰める彼に、さほど間を置かずに告げる。

「他の死喰い人たちは、ペティグリューが仲間だと知っていたそうよ。帝王が倒れる直前まであのお方のもとに足を運んでいたあなたが、本当にそれを知らなかったの?」

 セブルスは憤然と目を開き、初めてベッドから腰を浮かせかけた。すぐにその上に座り直し、凄絶な声音で言ってくる。

「…馬鹿な!そんなことは   

「アズカバンに収容されている囚人も多くはそのことを知っていたようだし、ブラックの言葉を信用できないというのなら私がついさっきマクネアから聞いてきた言葉を直接あなたに伝えましょうか?私の言葉すらも信じられないというのならそこまでだけどね」

 "ブラック"の名に彼はすぐさま顔色を変えたが、それでも反駁してくることはなかった。苦渋を浮かべながら、ただひたすらに床を見つめてじっとしている。当然そこに何があるというわけでもないが。

 彼女は息をつき、慣れない仕草で大仰に腕を振ってみせた。

「信頼と疑念なんて所詮その程度よ。帝王は既に私たちに疑いを持っていた。信頼を得ていたと信じ込むのも容易い。疑うにも信じるにもその根拠なんて必要ない。私はあなたを信じる。ダンブルドアを信じている。この言葉をどう受け取るかも、すべてあなた次第」

「随分と投げやりな言い草に聞こえるが」

「私にはあなたに何かを信じさせる力なんてない。あなたが自分で選ぶしかない」

 こちらを真っ直ぐに見上げる彼の黒い瞳を見返しながら。

(結局)

 切り捨てることなんか、できるはずがない。そのことだけは確信している。

(私を切り捨てればそれこそ、彼の手元には何も残らなくなる)

 ダンブルドアはすべてを赦した。その救いがすべてだといえた。だが同時に、あの老人の踏み込めない領域を自分たちは確かに持っている。そしてそれこそが、彼女らのすべてともいえた。

(私はあなたを捨てられない。あなたは私を手放せない)

 開いた瞼をゆっくりと下ろし、またそれを上げるという過程の中で、彼はようやく重い唇を動かした。

   信じることでしか、共にいられないなどということは   有り得ない」

「正論だわ」

 咎めるでもなくそう言って、彼女は彼の傍らに腰を下ろした。前を向いたまま、調子を変えずにあとを続ける。

「私はあなたを信じもするし、疑いもする。あなたも私を信じ、そして時に疑う。それが当然の在り方でしょうね。だからこの1年のような露骨な態度はやめて欲しいんだけど」

「それはお前とて同じことだろう」

「それはあなたが   

 反論しかけて、ため息とともに打ち切る。下らない。こんなことには意味がない。

「私はあなたの補助をする。それが与えられた仕事だから。私はあなたと共に戦う。そうすることでしか   

 そうすることでしか。

 言葉を言い終えるよりも先に、こちらを向いたセブルスが言ってきた。その眼にはもう憤怒も失望もない。ただ決意の色だけがあった。

「誓おう。だが一つ、条件がある」

 これは対等な契約のはずだ。それを一体、何を考えている?

 これ見よがしに顔を顰めるに、彼は小さく鼻で笑って目を細めた。

「つまらないものを一つ始末するだけだ」

 ますます意味が分からず唇を歪める。セブルスはこれで話は打ち切りとばかりに適当に手のひらを振って告げた。

「明日には分かるだろう。俺はもう、休みたい」

「……」

 それ以上の追及は諦め   元より彼の口を割らせようなど今の自分には徒労だと分かっていた。自分もまた、疲れているのだ。思い出したかのようにどっと肩に圧し掛かった重みに舌打ちしつつ、物憂げに立ち上がる。

 ベッドの縁に座り込んだまま無造作にマントを脱ぎ始めた彼を振り返り、彼女は何とはなしにそちらに足を戻した。ぼんやりと、彼の名を呼ぶ。

「セブルス」

 休みたいのだという言葉は本当だったのだろう。それすらも疑っていたわけではないが。煩わしげに顔を上げたセブルスの唇に、腰を屈めて口付ける。

 ほんの一時、瞬きを終える瞬間には彼女は身体を引いて再び扉へと歩き出していた。たった一つのドアで繋がったオフィスに踏み込んでから、振り向きもせずにつぶやく。

「おやすみ」

 答えはなく   あったとしてもそれを遮るほどに素早く、彼女は後ろ手に扉を閉めた。突如訪れたであろう彼の部屋の闇黒を思い、ぞっと身震いする。

 自分は今、何をしてしまったのか。考えるまでもなくかぶりを振り、飛び込んだ自室で布団の上に倒れ込み頭を抱える。だがしかし、すぐにそれを押し込めようとまったく別の声が聞こえてくる。

(あの程度のことは、今更どうこう言うほどのことじゃない)

 何度となく身体を重ねてきた。それが殊更に互いの虚無を増大させるのだとしても、忘れるようにして何度も抱き合ってきた。

 それを今更、唇くらいのことで何を戸惑う。

 確かに久方ぶりではあったが、ただそれだけのことだ。今ここで逡巡するなどどうかしている。

(私は今でもお前のことを)

 脳裏を揺さぶる言葉を身体から押し出そうと、咳き込む。そんなことに意味があるはずもないのに。聞こえてくるのは、頭蓋骨の奥からだ。

(知らない!知らない   私は何も、知らない!)

 声には出さずに喚き、握り締めた拳を布団に叩き付ける。彼がアズカバンから逃走し、そして今夜また同じことに成功したのは喜ぶべきことなのだろう。彼は、ジェームズの親友で有り続けた彼は、無実だったのだから。いつか必ず日陰から出てこられる。そう信じるだけで、心はいくらか救われるようだった。

 あの言葉さえ、なければ。

(お前のことが)

(私は今でもお前のことを)

 やめてくれ!

 こんな私に、そんな言葉をかけないでくれ。

 愛を知るから戦うのだ。罪を知るから戦うのだ。そんな私に、愛される資格などあるものか!

(私は君が好きだった)

(君のためを思って)

 私のため?

 私のためにジェームズとリリーを売ったと?

(今でもお前のことを)

(君のためにやったんだ)

 言葉はいくらでも浮かんでは、霧散していく。思い返すことに意味があるわけでもない。それでも自分に愛を告げるその言葉は何度でも繰り返されていく。

(俺はお前が)

(俺らと一緒にいろ)

 はっとして、自分の身体を抱き抱える。背筋を走る悪寒は当分消えてくれそうになかった。声が。幸せだったあの頃の、シリウスの声が。

(何があっても俺はお前と一緒にいるから)

 そんなこと。

 そんなこと、今更思い出しても。どうすることもできない。滲み出た涙はそのままに、彼女は自分のかさついた唇に触れた。もう何も、思い出せない。彼の口付けを思い返すことはできない。

 もう何もかも失ってしまったのだ。愛も、友も、掛け替えのない家族も。

(だから…戦う。これ以上は、もう)

 涙を拭い、は徐に上半身を起こした。取り出した杖で部屋の明かりをつけ、ふらふらと立ち上がって鏡台へと向かう。その引き出しをそっと開き、彼女は奥から一冊の本を取り出した。吸血鬼の牙の毒性。結局これを利用できる新薬の開発には至っていないが。あれは方便に過ぎなかった。

(これ以上は何も、奪わせない)

 決意を、誓いを胸に、それを同じところに仕舞い、また元通りに引き出しを閉ざす。こうして思い出さねばならない。もっとも、忘れられるようなものでもないが。

 そのまま台に両手を突き、彼女は楕円を描いたその鏡を覗き込んだ。

「…ひどい顔」

 自嘲気味につぶやき、振り向く。無論そこには誰もいない。私だけの部屋。私だけが、泣くことも怒ることもできる。すべてを脱ぎ捨てても構わないのは、この空間だけだった。

 どさりと再びベッドに崩れ落ち、目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのはやはり、二人の男だった。何度も何度も、繰り返される言葉を否応なく脳の奥で聞く。聞きたいはずもない。だが遠ざけておける手段もない。

(それでも僕は   

 それを聞いたのは、夢の中だったのか。

のこと…す、好きだよ   

 何にせよそれが、翌朝目覚めた彼女の意識に残ることはなかった。