シリウスが消えたということに気付いたセブルスの反応には鬼気迫るものがあった。周囲の目もまったく気にせず
そんな余裕もなく、といった方が正しかろうが 瞬時に詰め寄り、憎々しげに彼女の胸倉を掴み上げる。はそれにもまったく動じず、冷厳な眼差しで相手を見返した。
セブルスが低めた声で、唸る。
「…お前か」
「何のことよ」
「うそぶくな!お前が逃がした、そうだろう!」
「馬鹿馬鹿しい!私は杖を持っていなかったのよ、ここからどうやってブラックを逃がすって?」
「その通りじゃ、セブルス。彼女の杖は この通り」
言いながらダンブルドアは徐に懐からの杖を取り出してみせたが、セブルスはそちらには目もくれずただひたすらに彼女を睨み続けている。吸魂鬼は獲物を逃がした憤懣のためか落ち着きなく身じろぎし、マクネアも物珍しい見世物を取り上げられて不服そうに唇を歪めていた。
おろおろと狼狽し、空っぽの部屋を見回したファッジがこちらを振り向いてつぶやく。
「ああ、うっかりしていた…スネイプ、きっとブラックは姿くらましを使ったんだろう。、中からそれらしい音を聞かなかったか 」
「そのようなことは有り得ん!」
吐き捨てるように怒鳴りつけて、セブルスがのローブを掴む両手に力を込める。その締め付けに気道を圧迫され、彼女は顔を顰めながらもその手の甲に爪を立てた。引き剥がすようにして、渾身の力でセブルスの束縛を解き放つ。絞め殺すつもりでもなければ長くは拘束できなかったろう。それほどに彼は指先だけに力を込め過ぎていた。
(…まさか私を殺そうなんて、)
乱れた襟首を大雑把に正しながら、表情には出さずに嘲笑する。そうして自分に注がれるあらゆる視線を無視し、彼女はダンブルドアに向き直った。
「校長。私はずっとこの部屋の前で見張っていましたが、特に不審なことはありませんでした。一体どうやってブラックが逃亡したのか…まったく想像もつきません」
「白々しい」
セブルスが毒づいたが、は聞こえなかった振りをしてダンブルドアの青い瞳を見返す。そしてその時、はっと気付いた もちろん、周囲に悟られない程度に面の皮に押し込めてだが。ハリーのシリウス逃亡幇助もすべては彼の計らいに違いない。老人は真顔の奥でどこか楽しげにこちらを見ていた。
と、の側を離れたセブルスが開け放たれた窓に再び近付き、そこから僅かに身を乗り出す。見えるはずのないそれを少なくとも数秒ほどは無駄に探しながら、彼は聞こえよがしに舌打ちしてみせた。
身体を手前に戻してから、乱暴に窓を閉める。
「…あくまでお前でないと、言い張るのなら」
言いながら、セブルスは険悪な息を吐いてゆっくりと振り向いた。彼女は大きく嘆息し、だが胸の内は読まれぬようにと努めて平静を保つ。私にはそれが可能なはずだ。こんな時に閉じてしまわなければ、こんな力に一体何の意味がある!
(…まさかセブルスを相手に閉心術を使おうなんてね)
そのつぶやきすらも腹の底に押し込める。だが彼は、こちらの心を開こうとはしなかったらしい。すぐさま目線を逸らし、部屋の入り口に向かって大股で歩き出した。そのまま彼女の脇を通り過ぎ、フリットウィックのオフィスを出て行く。ファッジはあたふたとその後を追いかけ、ダンブルドアも悠然と踵を返す。擦れ違い様に彼はほんの一瞬、それと分からない程度にこちらにウィンクしてみせた。憶測が確信へと化ける。ダンブルドアは扉の手前に立ち尽くしていた吸魂鬼に向け、たった一言「御苦労じゃったのう」とだけ告げて去っていった。
振り向くと、その場に残っていたのは煮え切らない顔をしたマクネア一人だ。はセブルスが蹴り飛ばしていった小さな椅子をそっと起こし、部屋を出るためにそちらに歩み寄る。
出口を塞ぐ形で立ったマクネアに、彼女はこともなげに言った。
「あなたももう帰ったら?あなたの欲求を満たすような見世物はすべて霧散してしまった」
「……」
彼のただでさえ小さな眼が、訝しげに細められる。そのベルトにはまだ名残惜しそうに刃の磨かれた斧が清潔なまま挟まっていた。声を低め、言ってくる。
「…お前、本当に何も知らないのか?」
「どういう意味よ」
続け様に不信をぶつけられて苛立っているのだと そう見えてくれればいいが 彼女は眉を顰め、訊き返す。マクネアはため息混じりに背中の壁に凭れ掛かり、そちらに体重をかけながら物憂げに頬を掻いた。
「ヒッポグリフが消えた時も、そしてブラックが逃走した時も…現場のすぐ側にいたのは、、お前だ」
「冗談はよして」
噛み付くように告げて、は首を振ってみせる。どちらも大したことではない。偶然か、不可抗力か。どちらにしても意図的に起こしたことではない。身近で起こったのは単なる事故に過ぎない。私は何も、知らない。
相手に次の問いを出させまいと、先手を打って彼女は口を開いた。
「そんなことよりも、ショックだわ」
「?何のことだ」
壁から背中を浮かせ、マクネアが訊いてくる。さほどの時間は挟まずに、言った。
「知っていたんでしょう。死喰い人が本当は、シリウス・ブラックじゃない。ピーター・ペティグリューだったと」
「……」
彼はつまらなさそうに親指の爪を噛んでいた唇を呆然と開き、瞬きもせずにこちらを凝視している。だがようやく言葉を取り戻したかのように息を詰まらせてから、おどけた調子で言ってきた。
「それがどうした。大したことじゃないだろう。知らなかったのか」
「…ええ」
重苦しいため息をとともに吐き出して、は首を振った。否定のためのそれではなく、疲れを振り払うためだ。そんなもので軽減されるほどにつまらないものではないが。
彼はまた右手の親指をまじまじと見つめ 彼は昔から爪の形だけは気遣っているようだった そしてそれを浅く唇に含む。確かに彼にとっては、ピーターなどどうということもない死喰い人の一人に過ぎなかったのだろう。それほど忠誠心の篤い死喰い人だったというわけでもない。彼の情報で帝王が力を失ったといったところでマクネアは、こうして日向に生き、こうして磨いた刃で血を見ることができればそれだけで十分なのだろう。死喰い人ではない人間が死喰い人として処刑されたとしても、彼にとってそれは同じ"処刑"であって、違いなどないに等しい。
その彼が知っていて、どうして私が。
「…私は知らなかった」
そのつぶやきもまた、彼にとってはどうということもない風の音と同じことなのだろう。構わず、続ける。
「確かに私は忠実とはいえなかったかもしれない。だけど誰もが知っていて、どうして私は知らされなかったの。帝王は私を信用していなかった?そのことだけが、残念でならないわ。私を信じて何もかも打ち明けて下さっていれば、少なくとも最悪の事態だけは防げたかもしれないのに」
「いや、変わらないだろう、何も」
あっさりと、マクネアは言ってきた。今もまだ、半分ほど伏せた瞼の下から真っ直ぐに指先を見ている。
「第一お前はダンブルドアの懐にいたんだ。何もかもを知らせるほどに帝王は愚かじゃなかった。それだけのことだろう。何度元に戻ったって同じさ。何度でも帝王は倒れる。あのワームテールなんぞの情報を鵜呑みにするようじゃな」
「…ワームテール?」
まさかこんなところで聞くとは思っていなかった名前に、は鸚鵡返しに問い掛ける。その名は心の奥深くを突いた。あの頃。傷も罪も知らなかったあの頃を象徴するものの一つだったはずだ。それが死喰い人の 仲間の口から出てきた。それがどこまでも自然であるかのように、すんなりと。その流れをぶつ切りにしてしまった自分になぜか負い目を感じては瞼を伏せた。
それにもさして違和感を覚えなかったのか、マクネアはすぐさま答えてくる。
「ああ、ペティグリューのことだ。よく分からないが、あいつは実の名で呼ばれるのを嫌ってたようだからな」
ピーター。ピーター・ペティグリュー。それは私たちと共に過ごした青年の名だった。そして ワームテール。
『ワームテールって、どうかな。だってほら、ピーターの尻尾ってミミズみたいでしょう?』
そうだ。確か私が…考えた名前だった。それを 闇の人間たちが、口にしていた。言いようのない屈辱であると同時に、確かに思い出が穢されていくのを感じる。
(…まったく)
考えて、は自嘲気味に唇を歪めた。まったく、いちいち自分の言葉にすら嫌悪を感じる。自分自身にすら疑念を抱かざるを得ないこの世界で、一体何を信じればいい。
『お前のことが』
そんなこと。どうやって信じろって。
『私は君が好きだった』
そんなもの、どうやって。
言葉だけならどうとでも言える。紡ぎだした言葉が意識に錯覚を引き起こすことは往々にして有り得ることだ。それを信じるのは馬鹿げている。信じ切って行動を起こすのは愚昧だろう。だが同時に。
(…リリーがもしも、私だったら)
胸中ですら言葉の続きを発さず、彼女はまったく別のことを口にした。
「ペティグリューに会ったわ」
しきりに指先を見下ろしていたマクネアの眼球が緩やかに動いて、上目遣いにを見た。意味が分からないらしい。瞬きもせずにこちらを凝視している。その暗い瞳を見返して、憮然と言い直す。
「今夜…ペティグリューに会った。アニメーガスだったのよ。生徒のペットに成りすまして何年もホグワーツに潜入していた」
いまだ状況が掴めずに不可解な顔をしているマクネアから視線を外し、彼女は嘆息してみせた。ダンブルドアがフリットウィックのデスクに置いていった杖の存在にようやく気付き、それを手に取って続ける。
「 殺そうと、思ったわ。あの男のせいで帝王は力を失った。殺すしかないと思った。でも、まんまと逃げられた」
「おいおい ワームテールが生きてたって?あいつはあの時死んだんだろう。それとも古い友情とやらに今頃目覚めてブラックの妄言なんて信じてるわけじゃ」
「妄言というのなら好きにしてくれて構わないけど」
相手の言葉を遮るようにして、ははっきりと言った。
「あの男は確実に帝王のところへ行ったわ。魔法省から英雄として称えられていた魔法使いが帝王の配下だったと、ダンブルドアサイドの人間に知られてしまった。あの男にはもう、帝王しか残されていないはず。いずれ、また会うことになるでしょうよ。その時は」
息継ぎと見えてくれればいいが ほんの一瞬の沈黙を挟んで、告げる。
「 確実に、殺してやる。どうせあの男は駒としては有用じゃなかったんでしょう?」
「そりゃ、まあ…だが帝王は、今どこにいるかなんて 」
言葉の途中。彼女は素早く左手を突き出してマクネアに静寂を要求した。ひたひたと、子供のような足音が聞こえる。だが子供ではない。私はそれを知っている。
案の定、扉の向こうから姿を見せたのはフリットウィックだった。部屋に残っていた二人を見て驚いた風に瞬きを繰り返す。
「ああ、まだこんなところに残っていたんですか、先生。いや、びっくりしましたよ…ブラックがまた逃亡したそうで。いやはや、まったく…一体どうやって。あれですな、魔法ではなく、あれです、マグルの…確か手品とかいう、それでも使ったような。不思議なことがあるものです」
「手品には種があるんですよ」
無感動にそう告げてから、はマクネアに目配せして部屋を出るよう促した。大人しく歩き出す彼の後ろについていきながら、去り際に小さな老教授に声をかける。
「シリウス・ブラックの逃亡こそ、本物の手品なのかもしれませんね」
フリットウィックの返事を聞くこともなく。
後ろ手にドアを閉め、彼女は斧を携えたその男と、無言で階段を下り始めた。胸は晴れなかったものの、それでも多少の時間は心の平穏を取り戻すに有益だと思えた。