名前を。
自分の名前を最後に彼が口にしたのは 今夜叫びの屋敷で彼が古い記憶を語る最中につぶやいたそれではなく 呼び掛けられたのはいつだったかと思案し、そして彼女は結局その答えを見つけることはできなかった。分からない。。それは紛れもなく自分の名だ。それだというのに今背後から聞こえてきたそれには随分と物珍しい、そして居心地の悪い何かが込められているように感じた。息を呑み、呼吸を忘れた喉にようやく唾を流し込んで、抱えた膝に顔を押し付ける。
だんまりを決め込んだ彼女に、シリウスは扉の向こうからさらに言葉を続ける。それは力強いものなどでは決してなく、彼女と同じほどには怯えているようにも聞こえた。
「…。いるんだろう?聞こえてるなら…頼む、答えてくれ。 」
どうしてあなたが。どうして私なんかに、懇願するの。放っておけばいいのに。私にはもう、何もできない。それならばせめて、思い付く限りの呪詛をつぶやいて欲しい。ただひたすらに私への怨憎を思いながら死んでいって欲しい。
そんな儚げな声で、私の名を呼ばないで。私に一体、どうしろというの。
鼓動は脈絡もなく速まっていった。その一方で背筋に走る悪寒は治まらない。噴き出す汗が冷えたのだろう。それら全てを抑え込むようにきつく瞼を閉じ、心を閉じる術を思い出そうとする。これまで幾度となく試みてきたことだ。騎士団で彼らに再会したあの時も、初めてハリーに出会った時も。自らの心を閉ざしてしまうことで自制を保とうとした。そしてそれは目立つほどに失敗したことはない はずだ。同じことが今、できないはずがない。否。そうしなければならない。
優れた閉心術の能力。それは闇の帝王から得た数少ないものの一つだ。こんなところで、しくじってはならない。彼が間もなく死ぬというのなら、骨の髄まで私を憎みながら死ねばいい。私はただ、ここで膝を抱えて口を閉ざしていればそれでいい。
「 」
彼の痛切な囁きが、それだけで頭蓋骨を揺さぶる。やめてくれ。そんな声で、私を呼ばないで!
は瞼を伏せ視界を塞いだまま、両手でそれぞれの耳をきつく覆った。だからといって聴覚がその機能を失うはずもない。ごく僅かに遠ざかったようにも聞こえたが、やはり変わらず彼の言葉は鼓膜に伝わってくる。
「…。私は…どうすればいいのか、分からないんだ」
何を。
言いかけた言葉を、すんでのところで喉に押し込める。扉を隔てた彼はまったく気付いた様子もなく、あとを続けた。もしくは彼女がいなくともそれはそれで構わないということなのかもしれないが。彼の声の調子は、独白に聞こえなくもなかった。
「ずっとお前を…憎んできた。あの時お前が、私たちの手を振り払ってから、ずっとだ。お前を憎むことでしか、私は立っていられなかった。無力な私には、それが悪意に満ちたものだとしてもどうしても支えが必要だった」
それならばこの先も、憎み続ければいい。彼女もまた同じだった。憎まれることでしか、自分を保つことができない。リーマスは私と分かち合おうと言ってくれた。だがしかし結局のところ、最も深いところで分かり合える誰かがいるとすればそれはセブルス以外には有り得ない。だからこそ脆くなる。自分に向けられる強力な憎悪。それだけが確実に自らを奮い立たせてくれた。
彼の声が、殊更に低く掠れ、今度こそ独り言のように小さくなった。
「それなのにお前は…ジェームズと、リリーのために…私に、杖を向けた…」
唇は強張り、見開いた目は顔を押し付けたままの暗いローブに遮られて何も見えない。だがそのままの状態でしばらくは身動き一つとれず、は得体の知れない寒気に身を任せ、ごく僅かに震えた。シリウスの声の調子が、心持ち元に戻る。
「お前に、理性があれば…いくらなんでも、誰かの目の前であんな呪文を…唱えるはずが、ない。お前が本当に心から死喰い人になったのなら、そんな馬鹿なことを…するはずがない。何もかもが見えなくなるほどに感情的になっていたのだとすれば それは、あいつらのことを思って、裏切り者と言われた私を憎んで…そう、考えざるを得なかった。リーマスは…お前の事情を、理解できると言った。私たちがもっと、分かろうとすべきだったと。何を信じればいいのか 私には、分からなかった…」
「 自分を、自分の思うことだけを信じればいい」
言葉は、無意識のうちにつぶやいていた。顔を上げ、思わず口元を押さえるが言ってしまったことはどうしようもない。彼が何かを答えるよりも先に、はそのままの勢いで続けた。
「あなたが私を憎みたいなら、憎めばいい。リーマスは、あなたとは違う。憎み続ければいい。私も、憎まれることでこの先も自分の足で立っていられる」
彼がどんな顔をしてその言葉を聞いているのか。そんなことは、分かるはずもない。このまま私が逃げ出してしまっても、彼はきっとそんなことには気付かずに終わるだろう。どちらにしても大差はない。扉の向こうに誰かがいるなどというのは、すべて幻想にしか過ぎないのだから。
だが彼は、打って変わって強い口調で言ってきた。それは投げやりな心持ちとも受け取れたが、かといってすべてをなげうったような調子でもない。
「いい加減にしてくれ。どのみち俺は助からないんだ。だったら最期くらいは」
息継ぎのためか、彼はそこで一度言葉を切って、続けた。
「最期くらいは、本当のことを言ってくれ」
文字通り言葉を失って、はぞっとする。扉一枚だ。たったの一枚ということもできるし、それを決して貫通させることのできない岩盤に例えることもできよう。感情はこの胸の内に押し留めたはずだった。それなのに扉の向こうにいるはずの彼にはそんなことはとっくにお見通しだとでもいうのか。
(冗談じゃない)
胸中で吐き捨てながら、彼女は意味もなく拳を握った。それを背後の扉に叩き付けるわけでもない。自分の膝を殴りつけるわけでもない。ただやり場のない感情が噴き出すのを指先に込めるしかなかった。
「今更話したからって、それが一体何になるのよ!」
言葉は、やはり知らず知らずのうちに飛び出していた。心を閉じる術を忘れてしまったらしい。拳を握ったまま振り向き、目の前にそそり立つ古びた扉に振り落とす。鈍い衝撃音がほとばしり、同時に微かに何かが軋む音がした。蝶番が少しばかり傷付いたのかもしれない。だがそんなことはどうだっていい。
「あなたはこのまま帰らぬ人になってしまう!私の犯した罪は消えない!それなら今になって私があなたに打ち明けたところでそれが何の救いになるっていうの!何も聞かない方がいい、私を憎んだまま、恨んだまま死んでいった方がいい!その方があなたにとっては楽なはずよ!私だって、半端な感情で死なれてしまうくらいなら 」
「!」
吼えるような叫びが、二人を隔てた扉を震わせた気がした。片手を突いたまま、その右手が振動を感じて竦む。は乾いた喉に唾を飲み込み、力なくかぶりを振りながらその場に項垂れた。
だが続け様に発された彼の言葉に、彼女は信じられない思いで目を見開いた。
「馬鹿野郎!好きな女を憎んだまま死にたいって、一体誰がそんな馬鹿なことを思うんだ!それが楽な最期だっていうんなら俺は苦しみながら死んだって構わない!どこまでお前の勝手な理屈を押し通すつもりなんだ!いい加減にしろ!」
「 」
彼は今、何と言ったのか。
聴覚が拾い上げた言葉を頭の中で整理するには随分と時間がかかった。その間に扉の向こうから聞こえた鈍い何かは、彼もまた手のひらをドアに押し付けて歯噛みでもしているのだろう。
ようやく意識を回復して徐に唇を動かすと、自分でも笑ってしまうほどに間の抜けた声が出た。
「…何、言ってるの。馬鹿…馬鹿は一体、どっちよ」
15年。15年だ。こちらから一方的に連絡手段を遮断し、実質的に別れてからもう15年だ。彼らの手を振り払ってからずっと、ずっと私を憎み続けてきたと、確かにそう言ったばかりではないか。
だが彼は、変わらない調子ですぐさま言ってきた。
「お前だ、決まってるだろう。お前は昔からそうだ、ずっと、ずっと馬鹿だったんだ!下らないことで俺たちから離れていった時も、卒業してからのことも。どうしようもない大馬鹿野郎だ!」
扉を隔てていたのは、かえって良かったに違いない。彼の顔を見れば同じようにして叫ぶことができたかは疑問だ。は声を荒げ、扉に齧り付く。
「そうよ!私はどうしようもない愚か者よ!私がもう少し賢明だったら、私にもう少しだけでも勇気があれば!でもそんな私よりも、あなたはよっぽど馬鹿よ!何で、何で…何で、こんな、私なんか…何で 」
言葉は次第に嗚咽に飲み込まれていった。まったく、途方もなく馬鹿だ。一体どうして、私なのか。ただひたすらに、憎めばいい。裏切り者として排除すればいい。それだけのことをした私に、どうしてまさに今、愛を叫ぶことが可能なのか。
愛していた。確かに、愛していた。だがしかしそんなことはとっくに過去の遺物に消える。12年だ。あの感情を忘れ去るにはまだ足りない。だが今更溺れてしまうほどに純粋な感情ではなかった。たとえば私がハッフルパフなら何かが違ったのかもしれない。組み分け帽子は私がどこの寮でもきっとやっていけるだろうと言った。それが正しいのならそういった可能性もあったはずだ。私が穴熊生の純真さと愚かしさを併せ持っていたとすれば今でも彼を愛せたのかもしれないが。
言ってみたところで、さして意味はない。私は獅子であり、そしてそれを名乗るには多少の蛇らしさも混ざってしまったただの異物に過ぎない。愛しているなんて、言えるはずがない。今でも彼を愛しているのかすら、よく分からない。
それを彼は、声高に叫ぶことができるというのか。
口を閉ざし、言葉の先を見出せないままでいる彼女に、扉の向こうから彼は途端に弱々しい声で途切れ途切れにつぶやいた。
「俺だって、そんなことは…そんなことは分からない。分かるはずがないんだ!だが、それでも、ずっと」
彼が唾を飲む音が聞こえたような気がしたが、それは恐らく錯覚なのだろう。
「お前のことが、忘れられなかった…」
掠れたその声が。もう10年以上も感じたことのなかった方法での胸を打ち据えた。圧迫されるような苦しさに、汗ではなく涙が噴き出すように流れ落ちる。そして遠い日のあの頃、自分が犯した罪の重さに再び雁字がらめにされてしまった。私は、こんなにも純粋で真っ直ぐな人を捨てて、闇の世界にこの身を投じた。これ以上の罪があるか。赦される道なんてこの先永遠に、あるはずがない。
扉に押し当てた両手をきつく握り、額を何度もそこに打ち当ててかぶりを振る。溢れ出た涙が顎を伝って止め処なく零れ落ちていった。どれだけ瞼を押さえつけても、喉が嗄れるほどに声を荒げても。それを止める術はどこにもない。
「馬鹿!馬鹿!ずっとずっと、憎み続けて欲しかった!私はそれだけのことをした!それなのに今更、そんなことを言われても…私にはどうすることもできない!迷わなくていい!私だけを憎めばいい!疑えばいい!そうでなければ私は、自分のこの足で立っていける自信がなくなる!私にはそれが必要なのに!」
刹那。部屋の扉が内側から激しく叩き付けられ、その衝撃には思わず後ろに尻餅をついた。渾身の力で拳を叩きつけたのだろう、シリウスがそのままの勢いで怒鳴りつけてくる。
「いつからそこまで独善的になった!リーマスの言葉を聞いてなかったのか!?お前は何だって自分一人で背負い込もうとするんだ!分け合うことを忘れたのか!?リーマスには話したんだろう、それを、どうして 」
まさにその時だった。彼の叫びを掻き消すようにして、部屋の中から何かの破裂音が聞こえてきた。シリウスの言葉もあっという間に潰える。何が起こったのか分からず、は瞬時に立ち上がって目の前の扉に両の手のひらを押し付けた。
続いて聞こえてきたのは、切羽詰った子供の声だった。
「乗って!時間がないんです!」
あまりの事態に、唖然とする。声は紛れもなくハリーのものだった。先程の破裂音は部屋の窓が勢いよく開けられた音らしい。だがしかし、一体どうやって。まったく同じ問いを、シリウスが発するのが聞こえてきた。
「ど、どうやって 」
「早くここから出ないと!吸魂鬼がやって来ます、マクネアが呼びに行きました!」
それからしばらくの間、正体不明の小さな音がしきりに鼓膜を叩いた。一体何がどうなっているんだ。ハリーは今、医務室で眠っているはずで、だがしかし一体どうやってこんなところに。ポンフリーが病人を医務室から出すはずがないし、そもそも彼らを見張る大人が他に誰もいないというのも腑に落ちない。かといって部屋の中に入ることもできない。杖は、ダンブルドアの手中にある。
「!」
それからすぐに、シリウスの絶叫が彼女の名を呼んだ。
「次に会うことがあればその時は、すべてを話すんだ!私は今でもお前のことを 」
言葉はそこで、途切れた。
否、途切れたというのはきっと正しくはない。彼の声が次第に遠ざかっていくのを感じた。彼はその言葉を最後まで口にしたのだろう、きっと。それがこちらの耳に届くにはあまりに距離がありすぎる。そういった途切れ方だった。
(…一体、どうやって)
だがどれだけ考えたところで有り得そうな解答は何一つ浮かばず、それを確かめる術はない。昏倒するようにその場に崩れ落ち、彼女はようやく涙が止まっていることに気付いた。
まだ湿った頬を人差し指でゆっくりと撫で、特に感慨を覚えるでもなく深く、息をつく。どこからともなく現れたハリーの手によって恐らく連れ出されたに違いない彼の行方よりも、今はただ彼との言葉のやり取りに終止符を打てたことに安堵していた。
逃げ出したくてたまらなかったのだ。それをしなかったのは、否、できなかったのはただダンブルドアの指示があったからに過ぎない。彼がここに残れと言ったのだ。だからこそ残った。それだけのことだった。
(次に会うことがあればその時は)
最後に叫んだ彼の声が、脳裏に染み付いて離れない。振り払うようにして何度もかぶりを振った。
(私は今でもお前のことを)
やめてくれ。
二度と会いたくはないし、会うこともないだろう。そう自分に言い聞かせ、今度はしっかりと涙のあとを拭う。間もなくファッジたちがやって来るだろう。毅然とした態度で臨まなければ。私はしっかりと、自らの役割を果たしたのだと。少なくとも自分ではそう信じて疑わないのだと。私は何も、知らない。
現れたファッジ、一体の吸魂鬼、マクネア、セブルス。そしてダンブルドアを迎え。
彼女は徐に立ち上がり、悠然と彼らを受け入れた。