が目を覚ましたのは、ちょうど担架からベッドに移されるその時だった。開いたはずの視界に映るのはただひたすらに全てを否定するかのような、真っ暗闇。すぐにそれはセブルスのマントに顔を押し付けられているせいだと気付いた。ベッドの上に彼女を横たえ、彼は無表情ながらもその身体に丁寧に布団を掛ける。はそれからしばらく、自分が今まで何をしていたのか思い出せなかった。

「寝ていろ。直に校医が診察してくれよう」

 ベッドの脇に立ったまま、セブルスはこちらを見もせずに言った。その視線は校医のオフィスに通じるものを除けば医務室にたった一つだけある扉へと真っ直ぐに注がれている。何かを待っているようだった。

「…セブルス。私、一体どうして…」

「寝ていろと言ったろう」

 両肘を後ろにつきながら、何とか身を起こそうとした彼女にセブルスは短く吐き捨てる。それでもは上半身だけを起こすと、傍らのベッドに寝かされ死んだように眠り続けている子供たちを見てはっと思い出した。私は、こんなところで一体何をしているのだ。

「セブルス…シリウスは    彼はどこ!彼はどうしたの!」

「黙れ。校医に追い出されたくないのなら、静かにしていろ」

 ポンフリーの姿は少なくとも見える範囲にはなかったが、恐らく奥のオフィスで手当ての準備をしているのだろう。途端にぎらついたセブルスの険悪な眼差しをきつく睨み返しながら、は声を低めて繰り返した。

「彼はどこにいるの。セブルス、私たちは大きな思い違いをしていたのよ。シリウスじゃなかった、スパイは彼じゃなかった!ピーターだったのよ」

 容易に推測できたことではあるが、セブルスは顔色一つ変えずに小さく鼻を鳴らしただけだった。いや、ピーターだったと言った時には僅かに眉が上下したか。だがどちらにしてもそう大差はない。再び視線を遠く離れた入り口へと戻し、セブルスはこともなげにつぶやいた。

「お前は錯乱しているんだ。もしくはその振りでもしているのか知らんが。今更ペティグリューの名など出したところでお前の神経を疑われるだけだ。つまらんことを言わずに大人しく寝ていろ。すぐにファッジが来るはずだ」

「セブルス、私は正気よ。彼じゃない!ピーターは生きていたの、私がこの目で見た!」

 完全に無視を決め込んだらしいセブルスは腕を組んでただひたすらにファッジの到着を待っている。は布団を乱暴に剥ぎベッドの上で身体ごと彼に向き直ると、子供たちを起こさない程度に、だがしかし激しい口調で捲くし立てた。

「セブルス、後できちんと話はする。でも今は答えて。彼も一緒に城に連れて戻ったんでしょう?彼の居場所を教えて。急がないと間に合わなくなるわ!」

「何が    

 邪険に振り払うようにしてこちらを見下ろした彼の腕をローブの上からでも爪が食い込むほどに、きつく、掴み引き寄せる。ベッドから腰を浮かせて多少無理な姿勢で顔を近付け、挑むような眼差しを向けた彼女にセブルスは冷ややかな一瞥をくれるばかりでまともに取り合おうともしない。

 もう一度、息を吸い込み、それを深く、長く吐き出すようには彼の名を呼んだ。

「セブルス」

 彼は物憂げに、嫌悪の色を滲ませながら、しかし確実に眼球を動かして彼女を見た。はもう一度だけ、警告染みた口調でゆっくりと繰り返す。

「シリウスは、どこ」

 やがて、セブルスはひどく不快な疲労から生じる重苦しいため息をついて、彼女のためではなく自らに弁明でもするかのように軽く首を振った。さらにもう一度嘆息し、こちらから目線を逸らし斜め前を見下ろしながら気怠げに口を開く。

「…フリットウィックのオフィスに、ダンブルドアが連行していった。担当の吸魂鬼が来れば、即座に『キス』が施される」

 頭が気付くよりも先に、の身体は動き出していた。枕元に置かれた杖を反射的に掴み、セブルスがいる方向とはまったく反対側の床に飛び下りる。使い古した靴の踵を無造作に踏み付けたまま、彼女はまだ重い身体を引き摺って医務室を走り出た。早く、全てをダンブルドアに話してしまわなければ。あの老人しか彼を救えない。他の何者であったとしてもそれを止めることなどできやしない。

 チョコレートを食べていないとはいえ吸魂鬼に与えられた絶望感と衝撃がまだこれだけ尾を引いているということは、あれからそう長時間が過ぎたということはあるまい。急げばまだ、時間はあるはずだ。証拠はない。セブルスをも納得させられるような物証は何一つ手元に残らなかった。それでも、ダンブルドアは真実から目を逸らすような人間ではない。たとえそれがどれだけ残酷なものであろうとも、彼の信じる正義を貫く限りはそうあるべき道を取るはずだ。ダンブルドアになら    全てを説明すれば、もしくは。

「校長!」

 8階のフリットウィックのオフィスに辿り着く頃には、の体力はほとんど限界を迎えていた。崩れるようにして部屋の扉に凭れ掛かり、それが内側から開けられた時にはそのままダンブルドアの肩に倒れ込んでしまった。いくら行年を重ねた老人であっても、彼にはどこか周囲の人間を安堵させるような力強さがある。ダンブルドアはの身体を抱えて少し離れたところの椅子に座らせると、自分は床に座り込んだシリウスの前に再び跪いた。顔だけを彼女に向け、落ち着いた調子で、だがしかし確かに平生の彼とは何かしら異なった厳しい雰囲気で告げる。

「そろそろ来るのではないかと、思っておったよ」

 俯き、音を立てないようにと喉の奥で乱れた呼吸を密やかに整えていたはぱっと顔を上げてダンブルドアを見た。彼の正面に座るシリウスからは故意に視線をずらし、薄く唇を開く。言葉は、まだ疲労に苛まれて力なく掠れた。

「…どうしても、お伝えしなければと。どうしても…私は…」

「話ならばたった今、シリウスから全てを聞いた。12年前の事件の真相を。どのようにして彼がアズカバンを脱出し、そしてまさに今宵、叫びの屋敷で一体何が起こったのかを」

「それなら    あの、先生…彼は…」

 可能性を見出して思わず期待を込めた声を発すると、薄暗い明かりを灯しただけの部屋の中、ダンブルドアは小さくかぶりを振ってみせた。

「残念じゃが、わしにはどうすることもできぬ」

「…そんな!」

 たった一つの希望を打ち砕かれ、愕然と目を見開く。だがシリウスは俯いて項垂れたまま、ぴくりとも動かない。

 分かっている。私だって、分かっている。唯一の、そして決定的な証拠であるピーターを取り逃がしてしまったのだ。彼の無実を証明するものは、何一つない。分かっていたはずだ。ダンブルドアとて、万能ではない。そんなことは、分かり切っていたはずなのに。

 いや、だがしかし。

「ですが…私が魔法省で証言すれば、あるいは…」

「残念じゃが、それは」

 言いながら、ダンブルドアがまた疲れたように首を振ってみせる。

「魔法法執行部の上層には…君の祖父の正体、君が過去に犯した罪…それらを知る者が、今でも多く残っておる。その上」

 数秒ほど言葉を切り、はダンブルドアがちらりとシリウスを一瞥するのを見た。それもほんの一瞬のことで、すぐにこちらへと視線を戻して続ける。

「君とシリウスが旧知の仲じゃということを知る人間も、少なくはあるまい。どうしたところで、君にも、そしてわしにもそれを止める術は残されておらぬ」

 肉体を苛む疲労は、とっくに消え去っていた。というよりは脳天を打ち据えた衝撃の方が大きかったせいだろうが。単なる偶然であれ必然であれ、私はその現場に居合わせ全てをこの目で見ていたというのに。だというのにこの手は、彼を救うために何もできない。

(私は…いつだって無力だ)

 イギリス中のほとんど全ての魔法使いを恐怖のどん底に叩き落したあの強力な闇の魔法使いが、こんな私の血を渇望していただなんてまったくお笑い種だ。そんなものによって得た力などどうということもなかろうと今ならば思える。それでも帝王はまだ、この血を欲しているのだろうか?闇の印は今でも左腕に刻まれ、膜の下で鳴りをひそめたままだ。

 長引いた沈黙の後、ダンブルドアは徐に腰を上げた。雲間から覗いたのだろう、窓から差し込んだ月明かりが彼の横顔を照らす。しばらく真っ直ぐにその窓の外を見つめていたダンブルドアの青い瞳からは、何の感情を読み取ることもできなかった。

 やがてそちらから顔を逸らし、目線を下ろしたダンブルドアがやはり項垂れたままのシリウスに背を向けて、ゆっくりと歩き出す。扉の手前まで進み、そしてそこで静かに足を止めた。

「わしは行かねばならぬ。為すべきことが、あるからのう」

 為すべきこと。自分の為すべきこと。こんな私でも、できることがあるのなら。

「ダンブルドア先生、何か私に    

 フリットウィック専用のものなのだろう    もっとも、ここは彼の部屋なのだから当然だが    随分と脚の短い椅子から僅かに腰を浮かせて言ったを、ダンブルドアは軽く右手を突き出して制した。

「いや、君にできることは何もない。かえってセブルスの神経を逆撫でするだけじゃろう。君は、ここに残るのじゃ」

「え…」

 突如老人に為されたあまりの指示に虚を衝かれ、間の抜けた声をあげると同時に大きく目を見開く。シリウスもそこで初めてぱっと勢いよく顔を上げ、かなり驚いた様子でダンブルドアを見上げた。

 当の本人はそれがまったく自然な流れだとばかりに二人を見返す。時折見せる茶目っ気を孕んだそれではない。ただひたすらに深い、真剣な眼差しだった。

「シリウス・ブラックは、凶悪な脱獄犯じゃ」

 唐突に、彼はそう言った。老人の意図を汲み取ることができず、はその続きを待つ。シリウスも訝しげに眉を顰めつつ、黙ってダンブルドアの言葉に耳を傾けていた。

「杖を持たないとはいえ、監視をつけるのは妥当な判断といえよう」

 口を噤んだまま彼を見つめるに、ダンブルドアはさらに言いやる。

「シリウス・ブラックはこの部屋に閉じ込めておく。君は部屋の前で監視してくれればそれでいい。扉の鍵はわしが責任をもって閉め、君の杖はわしが預かっていく。君がもしもおかしな気を起こしてブラックを逃がしてはならんからのう」

 ああ、そうか。ダンブルドアは最後に、彼と話をする時間を与えようとしてくれているのだ。そんなものは要らない。どうせ何もできないのなら、ここに留まったとしても同じことだ。所詮何もできやしない。彼がこうして今まさに抜け殻になろうとしている状況で、たった一枚の扉を隔てて彼と一体何を話せと?

 だがしかしこの老人の言葉を振り払うことは、今の私には到底できない。それだけの勇気すら、持ち合わせてはいない。私はただ彼の言葉を聞き、そしてそれに従うのみだ。

「…分かりました」

 軽く頷きながら、ゆっくりと椅子から立ち上がる。肩はまた顔を顰めたくなるほどに重たくなっている。解すように片手でそこをきつく押しながら、はダンブルドアに続いてそっとフリットウィックのオフィスを出た。結局最後の最後まで、彼の顔をまともに見ることはできなかった。

 静かにドアを閉め、彼女に手渡された杖でダンブルドアがノブを一度だけ叩く。するとカチャンと微かに金属音のようなものが弾け、彼はの杖を自分のポケットに挿し入れた。

「君はここで、中のブラックの様子を監視していておくれ。わしはファッジと、そして吸魂鬼を連れて戻ってくる。それまでに何か不審なことがあれば、サー・ニコラスを伝令に使ってくれれば良い。彼にはグリフィンドール寮の入り口付近で待機してくれるように頼んでおこう」

 有り得ない。彼がこの部屋から逃亡する方法など、あるはずがない。とうとうあの化け物に、彼を奪われてしまう。

(…馬鹿げてる)

 元々彼は、私の物などではない。まったく馬鹿げている。こんな時にまで私は、自分のためにしか考ることができない。

「分かりました」

 瞼を伏せ、がほとんどそれとは分からない程度の礼をすると、ダンブルドアは頷いてきびきびとその場を去っていった。彼の後ろ姿が廊下の向こう、彼方の角に見えなくなってからやっと、躊躇いがちに背後の扉に背中を押し付ける。それからは突然身体中の力が抜け、へなへなと床に蹲りきつく両膝を抱えた。先程まで皮膚を粟立たせた残酷な現実は、今ではすっかり身体の体温を下げてしまい時折思い出したように微かに身震いする。シリウスは死んでしまう。厳密にいえばそれは死とは違うのだと誰かが言っていたように思うが、それも大きな違いではなかろう。澄んだ空を見ることもない、季節を告げる春風を感じることもない。思う心がなければどうしてそれが死ではないといえよう。同じことだ。どちらにしてももう、彼と言葉を交わすことはないのだから。

 言うことはない。伝えるべき言葉は、何一つとして残されてはいない。あの時告げた謝罪の言葉も、今となっては何のために紡いだ言葉だったのかすら、もう思い出せない。何を謝ればいいのか。今更私が、一体彼に何を謝罪すればいい?そんなものには意味がない。こうして彼は、ずっとジェームズの親友であり続けた彼は、無実の罪のために死んでいくのだから。

 絶海の孤島ではない。彼はこの、薄っぺらな扉を隔てただけのすぐ側にいるのに。処刑はすぐそこで間もなく行われようとしているのに。

(…私は、結局何のために)

 胸中でつぶやいた、その時。

    

 それは推測できたものではなく、さらにいえばもしも本能的なところで予測がついていたのだとしても思うより随分と近い、それこそ薄いドアを挟んだすぐ向こう側から発せられたもののように聞こえた。