暴れ柳の根元に出るまでに、交わされた会話はほとんど皆無だった。誰もが俯き、薄暗い通路をただひたすらに歩く。はセブルスの頭を天井にぶつけないように気を配るだけで手一杯だった。もっともどれだけ注意したところで隠し通路の天井はですら背を屈めねば通れないほどに低く、彼の後頭部は最後までゴツゴツと当たってばかりいたのだが。
そんな中でシリウスは、躊躇いがちにハリーに声をかけた。君のご両親が私を後見人にと決めたのだ。もしも私の汚名が晴れたら、もしも君が別の家族を望むなら…、と。その先を口にするには彼もまた臆病だったのかもしれないが、その怯臆な心は決して罪ではない。
「えっ?あ あなたと暮らす?ダーズリー一家と別れて?」
裏返った声を発してハリーは天井から突き出している岩に嫌というほど頭をぶつけた。
「もちろん、君はそんなことは望まないだろうが。よく、分かるよ。ただ、もしかしたら私と、と思ってね…」
「とんでもない!」
ハリーの声は掠れ、傍らのシリウスを向いたその横顔が薄暗い通路の中でも上気しているのが分かった。
「もちろん、ダーズリーのところなんか出たいです!住む家はありますか?僕、いつ引っ越せますか?」
俯き加減だったシリウスの顔がぱっとハリーを見て驚いたように瞬く。彼もまたその頭をひどく天井に打ちつけた。
「そうしたいのかい?本当に?」
「はい、本気です!」
意気込んでハリーが答えると、げっそりしたシリウスの顔が急に笑顔になった。執念に満ちた惨めな男がそのほんの一瞬で若々しく輝いたように見える。はその横顔に子供だったあの頃の面影を思い、たまらずに目を逸らした。
暴れ柳の幹のコブをクルックシャンクスが押してくれたらしい。リーマス、ウィーズリー、ピーターが這い上がり、続いてハリー、グレンジャー、そしてシリウスがトンネルから出て行った。は杖を振ってセブルスを先に出し、一番最後に穴をよじ登る。月は雲に隠れ、辺りは遠くに見える城の窓から漏れ出る明かりだけがぼんやりと照らしていた。ピーターは相変わらずゼイゼイと激しく呼吸し、時折ひーひー泣いている。それ以外は特に何一つ音はなく、一同は静かに城へと向かって歩き出した。
「少しでも変な真似をしてみろ、ピーター」
脅すように、リーマスが低く囁く。その声が心持ち震えているのはきっと憤りのせいばかりではないだろう。は不安げに視線を上げてただひたすらに黒い空を見上げ、つぶやく。
「リーマス。ピーターを吸魂鬼に引き渡せば、あとは私がダンブルドアやファッジたちに説明する。だからあなたは、そのまま部屋に戻って 」
そこまでを口にしたその時。
突然、流れていた雲が切れた。校庭にぼんやりとした影が落ち、眩しいほどの月明かりが彼らを照らしていく。先頭を歩いていたリーマスがふいに立ち止まり、必然的に繋がれたピーターやウィーズリーも足を止める。そのすぐ後ろを歩いていたシリウスは片手を上げてハリーとグレンジャーを制した。ははっとして目を見開く。
リーマスの黒い影が、硬直していた。そして急に何の前触れもなく痙攣し始め、身体を屈めて身悶えする。術が途切れセブルスが地面に落下するのも構わず、は警告染みた声音で叫んだ。
「リーマス!今夜は脱狼薬を飲んでいないの?リーマス!」
彼は答えない。その間にもみるみるうちにリーマスの身体は変貌を遂げ、恐ろしい唸り声をあげてその両腕を空へと広げた。シリウスの絶叫が響く。
「逃げろ!早く!」
その言葉は子供たちに向けられたものだったのだろうが、ハリーは鎖でリーマスやピーターに繋がれたままのウィーズリーを助けようと前方に飛び出した。それを長身のシリウスが両腕で抱えて引き戻す。
「私に任せて、君たちは逃げるんだ!」
変身を遂げたリーマスが後足で立ち上がり、ばきばきと牙を打ち鳴らした時シリウスの姿もたちの目の前から消えていた。同時に巨大な、熊のようなあの黒い犬が躍り出て轟くような雄叫びをあげる。リーマスが自分を拘束していた手錠を捻じ切ると、犬はその首に食らいついて彼をウィーズリーやピーターから引き離した。抵抗するように身を捩った狼人間がシリウスに牙を剥く。二頭は互いにその鉤爪で身体を引き裂き、あらゆる部位に噛み付いた。
(…どうにも、できない)
変身してしまった以上、リーマスを抑えることはできない。学生時代もそうだった。共に冒険に出掛けることはできた。それでも一匹の蛇に過ぎない自分は興奮した狼人間を抑制する術などは持たなかったのだ。今もまた、私はここで何をすることも。
「あなたたちは早く逃げなさい!あとのことは私が 」
はハリーとグレンジャーに向けて声を張り上げたが、それはグレンジャーの悲鳴にあっさりと遮られた。彼女の目線の先を追い、はっと息を呑む。
ピーターがリーマスの落とした杖に飛びついていた。包帯を巻きつけた足で不安定だったウィーズリーが引き摺られて転倒する。ピーターが瞬時にその杖先をウィーズリーに向けると、バンという音が破裂して閃光が走った。まともにそれを食らったウィーズリーは倒れたまま動かなくなり、続いて破裂音が鳴ると今度はクルックシャンクスが宙を飛び、地面に落ちてくしゃっと伸び上がった。
「エクスペリアームス、武器よ去れ!」
咄嗟に杖を向け、は武装解除呪文を叫ぶ。ピーターの手から杖が高々と舞い上がり、どこか離れたところに落下した。だがその時には既に、禿げ上がったピーターの姿は視界から消えていた。だらりと伸びたウィーズリーの腕にかかっている手錠を、みすぼらしいネズミが一匹掻い潜って逃げていく。はそちらに駆け出しながら杖を振り被った。
「ステューピファイ!」
放たれた紅い光線は対象を外れて草むらに弾けて消える。速まる動悸を抑えることもせず、は愕然とその場に立ち尽くした。逃げた ピーターに逃げられた!
「シリウス!あいつが逃げた!ペティグリューが変身した!」
ハリーが叫ぶのと、リーマスの咆哮とはほとんど同時だった。振り向くと、巨大な犬に追い立てられて狼人間が森へと疾走していく。シリウスは鼻面と背に深い傷を負っていたが、ハリーの言葉を聞くとすぐさま立ち上がりピーターの消えた方角に走り去った。はしばらくの間彼らの消えた闇をただ茫然と見つめていたが、自分の為すべきことを思い出してそれを果たすためだけに重たい身体を引き摺るようにして動き出す。ハリーとグレンジャーはぴくりとも動かないウィーズリーとクルックシャンクスを小刻みに震えながら見下ろしていた。二人の背中に、ひっそりと声を掛ける。
「あなたたちはウィーズリーを連れて先に戻っていなさい」
「…先生は…?」
振り向いたグレンジャーが不安げに瞬くのを見て、はさり気なく目を逸らす。深く、だが悟られない程度の息を吐いて、ほとんど独り言のように言った。
「私は、ペティグリューを追う」
震える指先で、年季の入った一本の杖をきつく握り締める。
「あの男を捕らえない限りは、何もかも終わらない。何も始めることは、できない…何も」
ぱっと勢いよく振り返り 反論の声を張り上げようとしたのだろう 大きく息を吸ったハリーの言葉を、暗闇の奥から遠くに聞こえてきた犬の鳴き声が掻き消す。それはキャンキャンと、はっきりと苦痛を訴えるそれだった。
「シリウス」
つぶやいたのは、月明かりに照らされた顔面を蒼白にしたハリーだ。彼は一度ウィーズリーを気にしてか振り向いたが、それでもすぐさま立ち上がり、甲高い鳴き声が続く方角へと飛び出していった。伸ばしかけたの手は、彼の袖を掠って空を掴む。ぞっとするような何かを感じて身震いするものの、何とか彼を引きとめようとさらに腕を伸ばす。彼はあっという間に彼女の懐を離れ、矢のように駆けていった。
駄目だ。行ってはいけない。
「戻りなさい!戻りなさい、ポッター!」
暗闇に向けて叫んだが、返事があるはずもない。は彼に続いて走り出そうとしたグレンジャーの腕を引き戻し、鋭く囁いた。
「駄目よ、あなたはすぐに戻りなさい。ウィーズリーと、あの猫を連れてマダム・ポンフリーのところに」
「でも!でもハリーが!」
ほとんど涙声のような調子で必死に声を張り上げたグレンジャーの眼に、煌く何かを見ては思わず息を呑む。同じだ。この子は彼女と、同じ瞳をしている。全てをなげうっても、命を懸けることになっても大切なものを護り抜いた、彼女に、…。
は口を噤んでしばし黙り込んだが、その間にもシリウスの鳴き声は続いていた。こうしてはいられない。彼の身に、何らかの危険が及んでいることは疑い様もない。
「…分かったわ、ついてきなさい」
短く告げると、彼女の顔を見ないまま踵を返して駆け出す。ウィーズリーやセブルスを置き去りにすることは気掛かりだったが、リーマスは森に逃げ去ったし今更のこのことピーターが戻ってくるとも思えない。差し迫った危険はないはずだ。
今はそれよりも、シリウスを。
声は湖の側から聞こえてくるようだった。だがやがて、その鳴き声もぱたりとやむ。ぞっとするような冷気を感じては走りながら唇を噛んだ。とてつもなく、嫌な予感がする。そんなものはどれだけ感じたところで外界に影響を及ぼすことなど有り得ないが、それでも確かにそれを感じた時には過去に幾度となく不吉なことが起こった。そんなものは、まったくもって不条理だ!
湖の畔まで駆け寄り、はようやく状況を理解した。すぐ後ろをついてきていたグレンジャーは声にもならない悲鳴をあげて立ち竦む。何百もの、それこそあの日競技場に現れたものよりも確実に多くの吸魂鬼が真っ黒な塊になって何かを囲み、さらにそれに近付こうと蠢いていた。その中心で、跪きながらも何とか杖を掲げて必死に守護霊呪文を唱えようとしている子供の姿を捉える。杖先からは銀色の光が噴き出してはいたものの、その程度の術では吸魂鬼をほんの数メートルほどに遠ざけておくことしかできない。少年の傍らには、人の姿に戻って気を失っているらしいシリウスがいる。
「シリウス!」
絶望を孕んだ言葉で彼の名を叫ぶ。そうすることが吸魂鬼を尚のこと引き寄せてしまうのだということは分かっていたが、それでもどうしようもない。親友たちの、そして愛する家族の断末魔の悲鳴が頭蓋骨を振動させ、守護霊呪文は喉の奥でつっかえる。でも私がどうにかしなければ。シリウスが、死んでしまう!
「逃げなさい、早く!」
は背後のグレンジャーに向けて怒鳴り上げたが、一向に彼女が去っていく気配はない。杖先を吸魂鬼の大群に突きつけながらほんの一瞬の間だけ振り向くと、グレンジャーは既にその場に倒れ気絶していた。舌打ちし、は守護霊呪文を行使するために脳裏に幸せな思いを呼び起こそうとする。
「エクスペクト…」
(彼は、裏切り者じゃなかった)
「エクスペクト…」
(彼は永遠に、ジェームズの兄弟だった)
「エクスペクト…」
(ピーターの身柄さえ引き渡せば、彼は自由の身になれる!)
「エクスペクト・パトローナム!!」
杖先から放出された銀色の筋は真っ直ぐに吸魂鬼を突き刺して伸びていくが、それもやがて彼らの影に掻き消されて霧散する。聞こえてくるのは父の叫び。そして母が、敬愛する師に縋り、その腕の中で死んでいく様が 。
(そんなものは、どうしようもない!)
どれだけ思い悩んだところで、大切な人たちは戻ってこない。全てを狂わせたあの男をこの手で葬り去るまでは、考えるだけ無駄なことだ。振り返るのはその後でいい。全てを終わらせて、それから彼らの墓に参じればいい!
(シリウスは無実だ)
塞いだ瞼をぱっと見開き、は眼前に信じられない光景を見た。ハリーの目の前の吸魂鬼が、緩慢な動きでそのフードを後ろに脱いだ。そしてその腐り切った手が、少年の首に巻き付けられる。まさか、そんな…。
そんなことは、あってはならない。
「やめなさい!相手が誰だか分かっているの!?それは生徒よ やめなさい 」
あの化物に、人間の言葉など届くはずもない。それでも叫ばずにはいられなかった。呪文を唱えるよりも先に、本能だけで駆け出す。そんなことは、そんなことは有り得ない!
その時だった。彼方から何かが、聞こえた気がした。刹那。
辺りに立ち込めていた霧のような冷気が突如として吹き飛ぶ。視界を塗り潰すほどの眩い銀色の光。もその煽ち風をまともに正面から受け、どうしても立っていることができなくなった。何とか飛ばされまいと慎重に地面に膝をつき、眼球を庇って押し上げた右腕を僅かにずらす。何が起こっているのか、見定めねばならない。こんな強力な守護霊を生み出すなんて、一体誰が。鼓膜の奥に響いていた親友たちの叫びが、次第に遠退いていく。
溢れんばかりの光の中で、薄く瞼を開きはじっと目を凝らした。吸魂鬼が次々と、それこそ文字通り魔法のように姿を消していく。そしてその向こうに、彼女は確かにそれを見た。
(…まさか)
そんなこと、あるはずがない。有り得ない。そんなことが、あってたまるか!
この世の全てを愚弄するかのようなその光景には意識が遠退くのを感じながらも、杖を持つ右手を確かにきつく握り締めたことだけは覚えていた。