ピーターの惨めな泣き声だけが、さして広くは無い部屋に響く。は杖を突き出したまま、乾いた下唇をやはり水分を失いつつある舌先で軽く舐めた。
「シリウス…私だ、ピーターだ…君の友人の…まさか君は…」
涙ながらににじり出たピーターに、シリウスは物憂げに足を振る。ピーターはすぐさま後ずさった。
「私のローブはもう十分に汚れ切った。この上お前のその手で汚されたくなどない」
「リーマス!」
金切り声をあげ、ピーターはリーマスに向き直り身を捩る。
「君は信じないだろう…計画を変更したのなら、シリウスは君に話したはずだ…」
「ピーター、私がスパイだと思ったら話さなかったろうな」
リーマスはあくまで辛辣に言い放った。杖を構えたまま、シリウスに顔を向ける。
「シリウス、多分それで私には話してくれなかったんだろう?身近にスパイがいるという、その情報には信憑性があった」
「…悪かった、リーマス」
俯き加減にシリウスが言うと、リーマスは首を振って薄く笑ってみせた。そしてローブの袖を捲り上げる。
「気にするな、パッドフット。その代わり、私が君をスパイだと思い違いしたことを許してくれるかい?」
「ああ、もちろんだ、ムーニー」
シリウスも微かに笑みを漏らし、杖を握ったまま徐に袖を捲り始めた。
「一緒にこいつを殺るか?」
「ああ、そうしよう」
リーマスがあっさりとそう返すと、ピーターは悲鳴をあげての足元に転がり込んできた。思わず後ずさり、だがしかし杖先だけは彼を狙ったまま動かない。ピーターは喘ぎ喘ぎ泣き喚いた。
「!分かっておくれ!私は…私は君のためにやったんだ!私は君が好きだった…君が向こう側にいることは分かっていたんだ、だから、だから君のためを思って!」
その言葉にが息を呑み立ち竦んでいると、シリウスは突然容赦なくピーターの身体を蹴り飛ばし、金切り声をあげる彼の胸元に杖先を突きつけたまま怒鳴りあげた。
「お前…よくもそんなことが言えるな!お前は力のある人間に媚びるのが好きなただの臆病者だった、それだけのことだろう!」
「ピーター。もしも仮にその気持ちが本物だったとしても、自分の弱さを愛する者のせいにしてはいけない。そんなものは何の言い訳にもなりはしない」
リーマスもまたピーターに杖を向けたまま、静かに、だが冷ややかに言う。一方のは、身動き一つとることができなかった。今、彼は何と言ったか。私が好きだと。"向こう側"にいる私のためにそれを犯したのだと。そう言ったのか。そんなものは罪を逃れるための出任せに過ぎない。今まで散々彼の弁解を聞いてきただろう。その程度のものだ。それなのに、こんなにも動じてしまうなんて。この程度のことで、私は。
リーマスは僅かに哀しげな面持ちで、続けた。
「…のことは、理解できる」
彼が何を言っているのか、分からなかった。動けなくとも聴覚は正常に働く。それに任せて彼の言葉を聞いていた。
「彼女の事情は、理解できる。私たちがもっと、分かろうとすべきだった。でもピーター、はっきり言って君のことはまったく理解できない。きっとこの先何を聞いたところでそれは変わらないだろう。私は君を、許すことはできない」
シリウスは訝しげに眉を顰めたが、それでも今は問い掛けるべきではないと判断したのだろう、口を閉ざしている。ピーターは顔を上げたまましばらくぱくぱくと口を動かしていたが、やがて切羽詰ったように声を張り上げた。
「お…同じはずだ!どんな事情があったって、も私も帝王の下で働いていたんだ!それは変わらないはずだ!それなのに、私だけが咎められるべきか、私だけが!」
「…貴様!」
声を荒げ、跪き、シリウスが杖を持たない左手でピーターの襟首を掴み上げた。利き手ではないためにそこまで力がこもったわけではないがそれでもピーターが青ざめて咳き込む。リーマスが手で制すと、シリウスは舌打ちしながら無造作に彼を放り出した。
グレンジャーが、恐怖にか目に見えて震えながら口を開く。
「ルーピン先生…シリウス、さん…その、つまり…先生は 『例のあの人』の、支持者だったっていうことですか…?」
嘆息し、すぐさま答えを返そうとしたを遮って、リーマスが静かに言った。
「ハーマイオニー、聞いてくれ。彼女のことだ、きっと弁解などしないだろうと思う。確かに、そういった時期もあった。でも彼女は既に悔い改め、十分に贖ってきたはずだ。どうしたところで過去は変えられない。退っ引きならない事情があったんだよ。だからそのことは、君たちの胸の内に仕舞いこんでおいて欲しい。お願いだ」
「そんな…正気かよ!」
素っ頓狂な声で、ウィーズリーが叫んだ。
「そ、そんな人間を雇うなんて…ダンブルドアは一体何を考えてるんだ?し、死喰い人に…狼人間?そんな問題だらけの人選…!」
「ウィーズリー」
押し殺した声で、が呼び掛ける。しまったとばかりに両手で口を押さえたウィーズリーに、は細めた視線だけを投げつけて呟く。
「…もう一度同じ言葉を言ったら残りの足も折ると、確かにそう言ったはずだけど」
「そ、それは…その…」
「私のことは何と言ったところで構わないわ。好きなだけ罵ればいい。だけどリーマスのこと、そしてダンブルドアのことを何か言うつもりなら私は本気であなたの足を折る」
「!そういった言い方をするから誤解を招くんだ!ロン、はそんなことはしない。人一倍生徒のことを考えている素晴らしい先生なんだ」
「…だから、だからなんだ!」
突然激しい口調で叫んだのはハリーだった。誰もがぱっと振り向いて彼を見る。ハリーは憎々しげにを睨み、言葉を続ける。
「本当はまだ、ヴォルデモートのために動いてるんだ!父さんや母さんや、ルーピン先生の友達の振りをして!だからどれだけ僕の両親の親友の振りをしていたってあんな風に僕を見るんだ!いつか僕を殺そうと…ヴォルデモートに突き出そうとして!」
「ハリー!」
咎めるようにして叫んだのは、リーマスだった。厳しい眼をしてハリーを見ている。
「ハリー、間違ってもそんなことを言うべきじゃない。が君のことを殺そうとするはずがないんだ。がどれだけジェームズと信頼し合っていたか ジェームズとリリーは、心からを信頼していたんだ。私はそれを知っている」
「それじゃあどうして!どうして僕をあんな眼で見るんですか!どうしてヴォルデモートの手下なんかになるんですか!それじゃあペティグリューと何も変わらない!は僕の父さんと母さんを 先生のことだって裏切ったんじゃないですか!」
心臓を冷えた手で鷲掴みにでもされたかのように。不気味な悪寒が身体中を支配する。脈が激しく打つかと思えば、突然鼓動を失ったかのように静まり返る。恐れていたのはその言葉だ。だがしかし、まだ、核心部分には触れられていない…このまま、秘めておけるはずだ。
「否定はしないわ。憎みたいだけ、憎めばいい。だけど今は、黙っていなさい」
瞼を閉じ、静かに言い付けたにハリーは拳を握って歯噛みする。しかし次に口を開いたのは、沈んだ、だがはっきりとした何かを持ったシリウスだった。
「ハリー。私を信じてくれるのなら 頼む…のことも、信じてやって欲しい」
はあまりに予想外の言葉に、茫然と瞬く。リーマスも随分と驚いたようだった。ハリーを見つめたまま、シリウスは躊躇いがちに言う。
「リーマスが、を信用している。リリーも、そしてきっとジェームズも、を信じていた。私はリーマスのことも、君のご両親のことも信頼している。だから、を信じる。頼む、を信じてやって欲しい」
「わ…私のことは、誰も信じてくれないのに!、私だ!ピーターだよ!友達だったろう…友達だったはずだ!」
「 ピーター」
涙を流しながら激しく首を振るピーターに、は杖を突きつけたまま、静かに告げる。
「私も、あなたも、みんなの信頼を裏切った。それはどうしたところで変わらない。その私たちが彼らに信頼を求めるなんてあまりに図々しいわ」
ピーターの小さな眼が恐怖に収縮して開いた。一呼吸を置き、続ける。
「だから、そんな中でも私を信じてくれるという、リーマスとシリウスには心から感謝している」
リーマスが僅かに目尻を緩め、軽く頷いて唇を開く。
「私も君には感謝している。今までも、そしてきっとこれからもこの命が尽きるまでずっと。一緒にやろう、ポーレス。三人で、だ」
しばしの沈黙を挟んでが顎を浅く引いてみせると、それを合図にして三本の杖が床に転がったままのピーターを狙う。は、この15年と同じように、袖を捲らなかった。ただ少しだけコートの袖口を上げる。ピーターは甲高い悲鳴をあげてウィーズリーの側に必死の形相で這っていった。
「ロン…私はいい、ペットだったろう?私を殺させないでくれ、ロン…お願いだ…君は私の味方だろう?そうだろう…」
だがウィーズリーは顔中に嫌悪の色を浮かべて彼を睨み付けた。
「自分のベッドにお前を寝かせてたなんて!」
「君は優しい子だ…私は知っている…情け深いご主人様…殺させないでくれ…私は君のネズミだった…いいペットだった…」
「情け深いご主人様を求めていたのだとしたら、あなたはそれとは到底程遠い魔法使いを選んでしまったようね。始めからウィーズリー家のネズミに成り下がるべきだった。そうすれば私たちがこうして杖を上げることもなかったでしょうに。この先もずっと輝かしい記憶の中で永遠に私たちの友人でいられた」
が熱を失った平淡な口調で言いやると、ピーターは膝を折ったまま向きを変え、前のめりになりながらグレンジャーのローブの裾を掴んだ。
「優しいお嬢さん…賢いお嬢さん…あなたは…あなたなら、そんなことはさせないでしょう…助けて…」
グレンジャーはローブを上に引っ張り、しがみつくピーターを引き剥がして怯え切った顔で壁際まで下がる。すると彼は絶えず大袈裟なまでに震えながら もっとも死の直走るその足音をすぐ背後に聞いたのならばそうならざるを得まいが 跪いてハリーに向かってゆっくりと顔を上げた。
「ハリー、ハリー…君はお父さんに生き写しだ…そっくりだ…」
「ハリーに話しかけるなんて、どういう神経だ」
シリウスは突然低い声で吼え、杖を突き出して半歩ピーターへと近付いた。
「お前がハリーに顔向けできるのか?この子の前でジェームズのことを話すなんて、どの面下げてできるんだ!」
だがピーターはただ命乞いのためにハリーに膝で歩み寄りながらその両手を伸ばす。
「ハリー、ジェームズなら私が殺されることを望まなかったろう…ジェームズなら分かってくれたよ、ハリー…ジェームズなら私に情けをかけてくれただろう…」
合図は必要なかった。、リーマス、シリウスはほとんど同時に足を踏み出し、シリウスがピーターの肩を掴んで床の上に仰向けに叩き付ける。そして三人で一斉に杖を向けると、恐怖にひくひくと痙攣しながらピーターはその小さな眼でたちを見た。
シリウスもまたその身体を震わせながら、呟く。
「お前は…ジェームズとリリーをヴォルデモートに売った。否定できるか?」
するとピーターは突然わっと泣き出した。まだ幼い子供だった頃、確かに彼がこうして涙を流すのを見たことはあるが、だがしかし育ち過ぎた禿げた赤ん坊のような姿に成り果てた彼の泣き様は目を逸らしたくなるほどおぞましい光景だった。それでもきっと、見届けなければならないのだろう。
「シリウス、シリウス、私に何ができたっていうんだ。闇の帝王は…君には分からないだろう…あの方には君の想像もつかないような武器がある…、君になら分かるだろう?私は怖かった…」
「残念だけど、ピーター」
より一層声の調子を落とし、ほとんど独白のような呟きでは言う。
「確かに、帝王の恐ろしさは私もよく知っている。でも私は、残念だけれど恐怖心からあのお方についたわけじゃない」
息を詰まらせたピーターが、涙混じりに首を振った。
「ああ…シリウス、リーマス、私は…君たちのように勇敢ではなかったんだ…私はやろうと思ってやったわけじゃない。あの、『名前を言ってはいけないあの人』が無理やり 」
「嘘を吐くな!」
力の限り、シリウスの絶叫が迸った。
「お前はジェームズとリリーが死ぬその1年も前からヴォルデモートに密通していた!俺は知っているぞ、お前がスパイだったんだ!」
「あ、あの方は…あの方は、この国のあらゆるところを征服していた!あの方を拒んで、な、何が得られたっていうんだ」
「史上最も邪悪な魔法使いに抗って、何が得られたかだと?それは罪もない人々の掛け替えのない命だ、ピーター!」
それらの言葉一つ一つが。の胸を無残に突き刺した。だが今は、それに狼狽えている場合ではない。私には、やらねばならないことがある。それを、この二人に負わせてはいけない。私が、たった一人で引き受けるべきだ。私がそうすべきだ。
「君には分かっていないんだ!シリウス、私が殺されかねなかった!」
「それなら死ねば良かったんだ!!」
シリウスの激しい叫びが、の心臓を揺さぶる。死ねば良かったんだ。お前が、死ねば良かったのに。
「友を裏切るくらいなら死ぬべきだった!俺たちもお前のためにそうしたろう!」
友を裏切るくらいなら。死ぬべきだった。杖を握り締め、振り払うようにして構え直す。
「ジェームズなら情けをかけてくれただろうと、そう言ったわね」
の静かな言葉に、ピーターの眼がこちらを向く。そうしてその瞳に希望の色が閃くのを見た。打ち壊すように、告げる。
「もしもあなたが同じようにしてシリウスを死なせていたとすればきっと、ジェームズは躊躇うことなくあなたを殺していたわ」
「お前は気付くべきだった」
リーマスの声が、追い討ちをかけていく。
「ヴォルデモートが殺さなければ、私たちが殺すと。ピーター、さらばだ」
一瞬だ。ほんの一瞬、二人よりも先にその呪文を唱えれば。ピーターが頭を抱え、は薄く唇を開く。その呪文さえあれば、要する時間はほんの一瞬でいい。その刹那の時間で対象は事切れるはずだ。
だがの喉が呪文を発するまさにその時、飛び出してきたハリーが立ち塞がるように両腕を広げた。ははっとして杖を脇に逸らす。ほんの微かな緑色の閃光が行き場を失い床に散らばって消えた。
「やめて!」
喘ぎながら、ハリーが呟く。
「殺しちゃ…だめだ。殺したら…」
はリーマス、そしてシリウスと顔を見合わせて愕然とした。殺すべきだ。今すぐ、殺してしまうべきだ。私はそうしなければならない。
「ハリー、このクズのせいで君はご両親を亡くしたんだ」
唸るように、シリウスが言った。
「このヘコヘコしている碌でなしは、あの時君も死んでいたらそれを平然と眺めていたはずだ、そういう男だ。小汚い自分の命の方が君の家族全員の命より大切だったんだ」
「分かってる」
強い、その緑色の眼差しで、ハリーはシリウスを見つめたまま繰り返す。
「分かってる。こいつを城まで連れていこう。僕たちで吸魂鬼に引き渡すんだ。こいつはアズカバンに行けばいい。でも殺すのだけは、やめて」
「ハリー!」
息を呑み、ピーターが両腕でハリーの膝を抱き締めた。
「君は…ありがとう!こんな私に…ありがとう!」
「放せ」
ハリーがピーターの手を撥ねつけ、吐き捨てるように告げる。
「お前のために止めたんじゃない。僕の父さんはきっと、親友が…お前みたいなもののために殺人者になるのを望まないと思っただけだ」
「それならば止める理由はないわ、ポッター。私が一人で始末をつける」
再び杖をピーターに向けて唸ったに、リーマスは緊張しきった声をあげた。
「!?何を言ってるんだ…三人でやろうと、そう言っただろう!」
「三人でする必要はない。私がたった一言唱えればそれで済むのよ。あなたたちが手を汚す必要はないわ。私の手はもう、穢れ切ってる…私が殺せばそれで済むのよ!」
「!」
リーマスはこちらに身体を向け、彼女の両肩を強く掴んで揺さぶった。逃げようと飛び上がりかけたピーターの進路にすかさずシリウスが杖先を突きつけてその動きを止める。
「何を言ってるんだ!君一人にそんなものを負わせるわけにはいかない!」
「私はそれだけのものを負った。あなたたちは無垢だわ、その手を血に染めることはない」
「馬鹿なことを言うんじゃない 」
その時、割れるように大きな声を張り上げたのはシリウスだった。杖先と視線だけはピーターを狙い定めたまま、だが確かにその言葉はに向けられているのが分かる。
「ふざけるな!どれだけ一人で抱え込めば気が済むんだ!何でも一人でできるとでも思ってるのか!自惚れるな!」
はっとして、リーマスの手の中で強張っていた身体から一気に力が抜けていく。倒れかけた彼女の肩をリーマスが掴んで引き上げた。シリウスの言葉が、その一つ一つが嫌というほどにの頭蓋骨を震わせ、心臓を揺さぶる。握り締めた杖が手のひらを離れかけ、ただそれだけは避けようと強く掴み直した。この杖がなければ、私は何もできない。すべきことを成し遂げられない。
「シリウスの言う通りだ、」
疲れたように首を振り、だが微かに笑みを浮かべながらリーマスはの顔を覗き込んだ。
「君は何でも一人で背負おうとし過ぎる。私たちがいるんだ、そんな必要は無いよ。どれだけの時間を隔てていても、君は私たちの大切な人だということはきっとこの先も変わらないんだ。分け合えばいい。私たちならそれができる」
「……」
唇を開き、だが何の言葉を発することもできないままに恐る恐る視線を上げてシリウスを見ると、彼はふいと顔を背けながらもその横顔には拒絶の色は窺えなかった。激しい感情をピーターにぶつけたまま、呟く。
「ハリー、君だけが決める権利がある。だが、よく考えてくれ…こいつの仕出かしたことを…」
「こいつは、アズカバンに行けばいいんだ」
憎悪の眼差しをピーターに向けながら、ハリーははっきりと言った。
「そこに相応しい奴がいるとしたら、こいつしかいない」
を抱き起こしたリーマスは、小さく息を吐いて彼女と、そしてシリウスに目配せする。それから杖を上げてみせた。
「分かった。それじゃあハリー、脇に退いてくれ」
躊躇しているらしいハリーに、彼は静かに告げる。
「縛り上げるだけだよ。誓って、それだけだ」
ようやく納得したハリーはピーターから離れた。リーマスが杖を振ると、噴き出した細長い紐がピーターを縛り、猿ぐつわを噛ませる。はそれだけではどこか不安を感じ、失神させることを提案したがリーマスは「必要ないだろう」と言って首を振った。
「だが、ピーター、もしも変身したら」
杖を構え、ピーターの身体の下に爪先を差し込んで上を向かせながらシリウスが唸る。
「やはり殺す。それでいいね、ハリー?」
ハリーはピーターに見えるように頷いた。塞がれた口の奥で何やらモゴモゴと喚き、ピーターが身悶える。シリウスはその腕に踵を押し付けて黙らせた。
「よし」
気合を入れなおすように言い、リーマスが落ちかけた袖をまた捲り上げる。
「ロン、私はマダム・ポンフリーほどうまく骨折を治すことはできないから医務室に行くまで包帯で固定しておくのがいいだろうと思う。、君は骨折の手当てに自信があるかい?」
「いいえ、そういったことには。固定しておくのが一番問題がないでしょうね」
頷き、リーマスはウィーズリーの傍らに屈んでその杖先を彼の足に当てた。「フェルーラ、巻け」、ぎゅっときつく瞼を閉じたウィーズリーの折れた左足とリーマスの当てた添え木を虚空から現れた包帯が巻き付けていく。ウィーズリーはリーマスの手を借りてようやく立ち上がり、恐る恐る両足に体重をかけたがさして痛みはないようだった。
「ありがとう、ございます」
窺うように顔を上げながら、ウィーズリーが言った。グレンジャーはずっと部屋の隅に放置されていた、まだ気絶したままのセブルスに歩み寄りながら小声で囁く。
「スネイプ先生は…どうしましょう」
「そう、大きな問題はなさそうね。今は寝かせておいた方がいいでしょう。あとで私から説明しておくわ。だけどあなたたちのしたことは、決して褒められたことではないわね」
「…はい、分かっています。すみませんでした…」
しおらしく項垂れたグレンジャーの脇に片膝をつき、はセブルスに向けて杖を振った。
「モビリコーパス、身体よ動け」
すると手首、首、膝に見えない糸が取り付けられたかのように、あっという間にセブルスの身体が宙に浮いた。頭部はぐらぐらと不安定に揺れ、不気味な操り人形のようだがそんなことは誰も気にはかけまい。そのすぐ側に落ちていたらしい透明マントを、近付いてきたリーマスが拾い上げて丁寧にポケットに仕舞い込んだ。
「ああ、それから、」
思い出した風にリーマスが声をかける。振り向くと彼は真面目な顔をして言った。
「さっきの…君の過去の話だけれど。あとできちんと子供たちにも説明してやってくれ。さすがにあれだけを聞けばみんな不安がるだろう。説明する必要はあると思うよ」
は答えなかった。再びリーマスに背を向け、杖を振って浮いたセブルスの身体を扉の方へと動かして外に出しやすいようにする。
「誰か二人、こいつと繋がっておいた方がいい。万が一のためだ」
シリウスがピーターを爪先で小突きながら言うと、リーマスが進み出た。
「私が繋がろう」
「…僕も」
ウィーズリーも片足を引き摺りながら乱暴な口調で答える。彼はどうやらネズミの正体を自分への屈辱と受け取ったようだった。苦しいだろう。歯痒いだろう。彼もまた大切な何かをこんな形で失ってしまった。彼らと同じ年齢だった頃、私はそれだけのものを身に受けただろうか。アニメーガスの能力に目覚めたのは確か2年生の時だった。だがしかしまだこんな未来が待っていようとは露も知らず、ここにいる子供たちのような試練を引き受けてはいなかったはずだ。ただの、純粋な子供だった。
シリウスは空中から重量のありそうな手錠を取り出し、立ち上がったピーターとその両脇のリーマス、ウィーズリーの腕とを繋いだ。部屋を出るために歩き出そうとした彼らの背で、は思わず声をあげる。
「シリウス!」
飛び上がらんばかりに仰天し、シリウスはゆっくりと、本当にじわじわと振り返った。リーマスはピーターの心臓に杖を突きつけたまま素早く首を捻ってこちらを見る。彼のその名を、呼んではならないという気がしていた。私にはもうそんな資格はないのだと。だが今ここで言わなければと思ったのも事実だ。彼の灰色の、あまりに真っ直ぐで美しいその瞳がを捉えて収縮する。
「…シリウス」
もう一度、呼んだ。振り向かせるためではなく、呼び掛けるためではなく。彼が目の前のいるという事実を、私の唇はまだ彼の名を紡いでも構わないのか、それらを確認するように、籠もった声で、呟く。彼はかさついた唇を引き結び、じっと彼女のその先を待っていた。
「…ごめんなさい」
彼の瞳孔が、瞬時に大きく開く。だがそれは彼女のその言葉だけに反応してのことではなかった。は誰もが言葉を失って茫然とこちらを見ていることに気付いてはっと自覚する。溢れ出た涙が頬を伝って零れ落ちていた。急いで袖で拭い取り、声には出さずに己を叱咤する。こんなところで涙を見せるなんてこの上なく卑怯で劣悪な振る舞いだ。一体どうして私にそんな権利があるというのか!
「…何が」
吐き出すように呟いたシリウスの言葉に被せる風にして、リーマスが口を開く。
「シリウス、。話ならば後からでもできるはずだ。こいつの身柄さえ引き渡せばシリウスは自由になれる。そうすれば時間なんていくらでもあるんだ。二人だけで、ゆっくりと話せばいい。お互いに言いたいことは山ほどあるはずだ。だから今は、とにかく戻ろう。さあ」
顎で扉を示し、リーマスが促すと、ベッドからひらりと飛び降りたオレンジ色の猫 クルックシャンクスといったか が先頭に立って部屋を出た。瓶洗いブラシのような尻尾を誇らしげにきりっと上げ、悠然と。リーマス、ウィーズリー、ピーターがそのすぐ後についていく。残された、シリウス、ハリー、グレンジャー、そして宙吊りのセブルスはしばらく無言でその場に立ち尽くしていたが、振り切るようにシリウスが足早にリーマスたちを追っていった。ハリーとグレンジャーもその後ろに続き、は最後尾を気絶したままのセブルスを動かしながら辿っていく。
シリウスの、大人の男にしてはあまりに痩せ細ったその後ろ姿を見つめながら、は目を細めた。話したいことは、山ほどあると?そんなものはない。私にはただ、この言葉しか残されていない。
( ごめんなさい…)
ただ、それだけで。