互いの変身した姿を一体何度見たか、それを数えるのは古い記憶ではなかったとしても恐らく不可能だろう。それほどに変身した私たちは何度も共に夜の冒険へと出掛けた。種族を超えた普遍的な愛だとジェームズは笑いながらよく言っていたように思う。

 それがまさか、こんな形で私を打ちのめすとは。ウィーズリーに掴まれたネズミを見た瞬間、は全てを悟った。守り人は、シリウスではなかったのだ。

「…先生?」

 不安げな面持ちでグレンジャーが呼び掛けた。は思わず後方に半歩引き下がり、震える腕を抱えて振り向く。苦渋に満ちた表情のリーマスと、憎々しげに唇を歪めたシリウスと。シリウスの顔を、はまともに見ることができなかった。

「ピーターが…本当に、ピーターが…?」

「真実は、ロンの手の中にある」

 そう言ってリーマスは、ベルトに挟んだ杖をゆっくりと引き抜きながらこちらに少しずつ近付いていた。びくりと飛び上がったウィーズリーがまた後ずさろうとして惨めに床に転がる。それでもネズミだけは両手でしっかりと握り締めていた。慌てたグレンジャーが彼の身体を起こし、そして庇うようにしてウィーズリーの肩に腕を回した。

 そっと腕を伸ばし、リーマスが落ち着いた声音で囁く。

「ロン、お願いだ。これから証明してみせよう。ネズミを渡してくれ」

「い…嫌だ!近寄るな、狼人間!」

 その言葉に素早く反応したのは、だった。杖の先をウィーズリーの眉間に突きつけてほとんど吐息のような声で呟く。ウィーズリーとグレンジャーは「ひっ」と悲鳴をあげて後ろに仰け反った。

「…どこでそれを知ったのか私は知らないけれど、もう一度同じことを言ったら残りの足も折るわよ」

、やめてくれ。そのことはいいんだ。それよりも、ピーターが先だ」

 は精一杯の憎しみを込めてウィーズリーを睨んだが、それでもすぐさま杖を脇に下ろして口を噤む。本気で生徒の足を折ろうとは思わなかったが、その言葉に彼が長年どれほど苦しめられてきたか、想像するだけで身が捩れる。所詮他人の痛みなど共有することはできないが、推し量ることはできる、それが人間という生き物の長所でもあり短所だった。

「ウィーズリー。今すぐそのネズミをこちらに渡しなさい」

 が冷たく告げると、ウィーズリーはネズミをますますしっかりと胸に抱き締めながら怯え切った声音で呟いた。

「冗談はよしてください…どうかしてる。みんな、どうかしてるんだ!こいつはスキャバーズです、うちでずっと飼ってるネズミなんです!こいつは何も関係ない!」

「だからそれを証明しようと言っているんだ。君、ピーターを渡してくれ」

 リーマスの傍らまで歩み寄ってきたシリウスが、低めた声で言った。ウィーズリーはひたすらに激しく首を振り、尻だけで何とか後方に下がろうとしている。

「スキャバーズなんかに手を下すためにわざわざアズカバンを脱獄したっていうのか?つまり…でも、ねえ…」

 縋るような眼で、ウィーズリーがハリーとグレンジャーを見やる。

「たとえペティグリューがネズミに変身できたとしても…ネズミなんて何百万といるじゃないか。アズカバンに閉じ込められていて、どのネズミが自分の探してるネズミかなんてどうやって分かるっていうんだ?」

「そうだ、シリウス。まともな疑問だよ」

 リーマスは杖を掴んだまま、首だけをシリウスの方へと傾けて眉根を寄せた。

「奴の居場所を、一体どうやって見つけたんだい」

 まったくもって、その通りだ。ウィーズリーのペットなら、もう3年も同じ城内にいたということだ。それなのに、私はこれっぽっちも気付けなかった…。

 するとシリウスは右手をローブのポケットに突っ込み、くしゃくしゃになった紙の切れ端を取り出して広げた。どうやら新聞の切抜きのようだが。それはウィーズリー家の家族写真だった。ウィーズリーの肩に、ネズミが    紛れもなくピーターが、ちょこんと乗っている。

「どうしてこれを、君が…」

 驚愕に目を見開き、リーマスが問い掛ける。シリウスは切り抜きの端をきつく握りながら、食い縛った歯の奥で呻いた。

「ファッジだ。去年アズカバンの視察に来た時に、ファッジがくれた。一面に…ピーターが載っていた。この子の肩に乗って、堂々とそこに。私には、すぐに分かった…こいつが変身するのを、何回見たと思う?それに、記事には、この子がホグワーツに戻ると書いてあった…ハリーのいる、ホグワーツへと」

 はあっと息を呑んだ。どうしてこうも、運が無いのか。大抵いつも新聞は全てのページに目を通している。それなのにこの記事を読んでいなかったのはきっと、これが掲載された時私はまさに入院中だったせいだろう。あの頃はポンフリーにも新聞は禁じられていたし、退院後に溜まった新聞を読むことはなかった。仮にその気があったとしてもとっくにセブルスが処分していたろう。もしも私がこの記事を読めば、その時点で気付けたはずなのに。

「…やはり、そうか」

 呟いて、リーマスが新聞の切り抜きから実際のネズミへと視線を戻す。そして静かに、言った。

「前脚が」

「そうだ、お前の言う通り。指が一本欠けている」

 シリウスが言葉の後を引き継ぐと、リーマスは深く溜め息を吐いて軽くかぶりを振る。

「やはりそうか…奴は自分で」

「そうだ。変身する直前にな」

 言ってシリウスは、握り潰した新聞記事をまたポケットに戻した。

「あいつを追い詰めた時、奴は道行く人々全員に聞こえるように叫んだ。私がジェームズとリリーを裏切ったんだと。それから私が呪いをかけるよりも先に、奴は隠し持った杖で道を吹き飛ばし、周囲の人間を大勢殺した。そして自分は素早く変身して下水道に逃げ込んだ。私は、何もかもに…ただ笑うしか、なかった」

 シリウスの高笑いを。記憶の底に聞いた気がした。だがそれはあの時の自分と重なる。そうだ、彼がピーターや沢山のマグルを殺してアズカバンに投獄されたと記事で読んだその時、私が笑うしかなかったように…。

「ロン、聞いたことはないかい」

 あくまで静かな口調で、リーマスが言った。

「ピーターの残骸で、一番大きなものが指だったと」

「でもそれは、きっとスキャバーズが他のネズミと喧嘩した時かなんかにそうなったんだよ!こいつは何年も家族の中でお下がりだったんだ、確か    

「12年だね、確か」

 リーマスの言葉に、はますます眉を寄せて口を開く。

「12年?ウィーズリー、そんなに長生きするネズミを飼っていて家族の誰も変だと思わなかったの?いくら魔法界といえどそんなに長寿のネズミなんて有り得ないわ」

「それは    僕たち…僕たちがちゃんと世話をしてたんです!だから!」

「今はあまり元気ではないようだね」

 リーマスの眼が、次第に熱を失っていくように思う。冷たい眼差しで、ひたすら鳴き続けるネズミを見下ろして続ける。

「これは私の推測だが、シリウスが脱獄して自由の身になったと聞いて以来、怯えて痩せ衰えてきたんだろう」

「違う!こいつはその狂った猫が怖いんだ!」

 ウィーズリーが顎で示したのはベッドに乗った赤い猫だったが、シリウスがそのふわふわの頭を撫でると猫はゴロゴロと満足げに喉を鳴らして彼の腕に擦り寄った。そういえばあの時も、この猫はああして知った風に甘えてきた。

「この猫は狂ってなどいない。私の出会った猫の中で、こんなに賢い猫はまたといない。ピーターを見るなりすぐ正体を見抜いた。私に初めて会った時も、私が犬でないことを見破った。私を信用するようになるまで時間はかかったが…それでもやっと私の狙いをこの猫に伝えることができた。それ以来、この猫はずっと私を手助けしてくれていた」

 きっとこんな時でなければ、そう、幼いあの頃のままなら、猫と仲良くするシリウスなんて想像できないといって皆で大笑いしたところだろう。だが今はただ、神経を研ぎ澄ませて全てを飲み込もうと意識を凝らす。グレンジャーが引き攣った声で訊いた。

「それ…どういうこと」

「ピーターを私のところに連れてこようとしたんだ。だが、できなかった…そこで私のためにグリフィンドール塔への合言葉を盗み出してくれた。誰か男の子のベッド脇の小机から持ってきたらしい」

 そんな、ことを。は目を見開いて、シリウスに撫でられて気持ち良さそうに喉を鳴らす赤い猫を見つめる。ひょっとしてこの猫は全てに気付いていて、それを私に伝えようとして近付いてきた…?

「だが、ピーターは事の成り行きを察知して逃げ出した。この猫は    クルックシャンクスという名だね?この猫はピーターがベッドのシーツに血の痕を残していったと教えてくれた…恐らく、自分で自分を噛んだのだろう。そう、死んだと見せかけるのは、以前にも一度うまくやってのけたのだから…」

「じゃあ何でペティグリューは自分が死んだと見せかけたんだ!」

 黙ってそれまでのやり取りを聞いていたハリーが突然激しい口調で怒鳴りつける。シリウスは猫を撫でる手を止めて彼を見た。

「お前が僕の両親を殺したように、自分のことも殺そうとしていると気付いたからじゃないのか!」

「違うんだ、ハリー    

「それで今度は確実に止めを刺そうとしてやって来たんだろう!」

 リーマスが遮るのを無視して叫ぶハリーに、シリウスは殺気立った眼でネズミを睨みながらぶっきらぼうに言う。

「その通りだ」

「だったら僕はスネイプにお前を引き渡すべきだった!」

「ポッター!」

 声を張り上げ、は鋭い眼光でハリーを見据えた。ハリーは僅かに驚いた様子だったがすぐに唇を引き結んで睨み付けてくる。杖をネズミに向けたまま、は怒鳴った。

「あの場で彼をセブルスに引き渡していたら、あなたはきっと永遠に後悔することになったはずよ」

「どうしてそんな!あなたはスネイプの仲間なんじゃ    

「ハリー」

 顔色も悪く咳き込んだまま、リーマスが彼を呼んだ。

「ここまで言ってもまだ分からないのか?私たちはずっと、シリウスが君のご両親を裏切ったと思っていた。ピーターがシリウスを追い詰めたと思っていた    でもそれは、逆だった!分からないのかい?君のご両親を裏切ったのはピーターだった    追い詰めたのは、シリウスだったんだ」

嘘だ!

 ハリーがあまりに大音量で絶叫したために、その声は裏返って奇妙に響いた。だがそんなことは誰にとってもおおよそ重要なことではない。

ブラックが秘密の守り人だった!ブラック自身がさっきそう言ったんだ!こいつは自分が僕の両親を殺したと言ったんだ!

 ハリーが指差した先には、青ざめたシリウスの姿がある。彼はゆっくりと首を振り、落ち窪んだ眼には急に涙が浮かんだ。それを見ては、本当に分かった。シリウスがジェームズを裏切るはずがないと    私は一番よく分かっているはずだったのに。の瞳にもまた涙が溢れ出たが、誰もがシリウスを見ていた。悟られないうちに、コートの袖で拭い去る。泣くべきではない。私には、そんな権利は一切ない。そんなことは有り得ない。あってはならない。

「ハリー…私が殺したも同然だ…」

 その声には、はっきりと自らの罪を悔い、どこまでも自らを貶める響きがある。そんなものは彼には必要ないのに。誰しもが負い目を感じて生きているのだとリーマスは言った。だが彼らを巡る罪はただ私だけが負うべきなのに。彼は自分の全てを懸けて親友のために行動した、ただそれだけのことだというのに。

 それなのに私は、彼を信じることができなかった。ただひたすらに彼を蔑み、憎んできた。私は彼に杖を突きつけ、何の躊躇もなく禁じられた呪文を唱えた…私は結局のところ、永遠に死喰い人の溝から抜け出すことなどできないのだ。刻まれた髑髏は、一生この身体を蝕み続ける。

「最後の最後になって、ジェームズとリリーにピーターを守り人にするよう勧めたのはこの私だ。ピーターに替えるようにと勧めた…私が悪いんだ。二人が死んだ夜、私はピーターのところに行く手筈になっていた。ピーターが無事かどうか、確かめに行くことにしていたんだ。だがピーターの隠れ家に行ってみると、もぬけの殻だ。しかも、争った跡がない。どう考えても、おかしい。私は不吉な予感がして、すぐに君のご両親のところへ向かった。そして、家が壊され、二人が死んでいるのを見た時    私は悟った。ピーターが何をしたのかを。私が何をしてしまったのかを」

 杖を握る手が、ぞっとするほどに震えた。シリウスは涙声になり、こちらから顔を逸らす。も込み上げてくる嗚咽を何とか飲み込んで、誤魔化すように咳払いした。

 リーマスが杖を握り直し、その先をはっきりとピーターに向けて呟く。その声には情け容赦のない、強い響きがあった。

「話はもう十分だ。真実を明らかにする道はただ一つ。ロン、そのネズミを寄越しなさい

「わ、渡したら、こいつに何をするっていうんだ」

 ウィーズリーは緊張しきった声で問い、不安げにネズミを抱き締めた。相変わらず煩く鳴き喚いている。暴れれば逃げられるとでも思っているのか。もまた杖を構え、冷え切った眼差しをそちらに向ける。もう逃げられはしない。そんな手段は与えない。

「無理にでも正体を顕させる。もしもそれが本当のネズミなら、これで傷付くことはない」

 リーマスは答えたが、それでもまだウィーズリーはネズミを放さない。は有無を言わさぬ強い口調で、はっきりと言い切った。

「ウィーズリー。そいつを今すぐ渡しなさい。まだホグワーツに残りたいというのなら。さあ

 びくりと身を強張らせ、ウィーズリーが今にも泣き出しそうな顔をする。だがとうとう折れ、差し出されたネズミをリーマスはしっかりと受け取った。ネズミはキーキー甲高い声で喚き続け、彼の手の中でのた打ち回り、小さな黒い目は飛び出しそうだ。これが…今まさに…。

「一緒にやるか」

 セブルスの杖を取ったのか、それを構えたシリウスが言った。その眼は真っ直ぐにリーマスを見ている。リーマスは静かに頷き、そして僅かに首を傾けて傍らのを示した。

も一緒だ。、構わないだろう?」

 は小さく息を漏らして目を見開き、シリウスもまた訝しげに眉を顰める。リーマスはシリウスに視線を戻して落ち着いた口調で言った。

「シリウス、今は時間がないがあとでゆっくり話をするといい。彼女には避けては通れない理由があった。そのために苦渋の決断をしたんだ。私たちはもっと彼女のことを考えるべきだった。今、私が君の親友であるように、彼女もまた私の親友だ。私は彼女を信頼している。三人で、共にやろう」

    

 シリウスはまだ、渋い顔をしていた。だがやがて彼女から目を逸らすと、小さく頷いて杖先をネズミへと向けた。

 微かに笑みを漏らし、リーマスがを見る。

、一緒にやってくれるね」

 言葉を発するのに、随分と時間がかかったように思う。本当に、いいのだろうか。果たして私がそれをやっても、構わないのだろうか。だが杖を構え、は吐息のような声を吐き出した。

「…ええ」

 頷いて、リーマスもまたネズミを握っていない方の手に掴んだ杖を掲げる。

「三つ数えたらだ。いち        さん!

 はそのための呪文を口早に唱えた。青白い光が、三本の杖から迸り確かに一つになっていく。リーマスが手放したネズミの身体は一瞬宙に浮き、そこでぱたりと動きを止めた。そして突然激しく捩れ、ウィーズリーの悲鳴と同時に床にぼとりと落ちる。もう一度目も眩むような閃光が走り。

 木が育つのを早送りで見ているかのように大きくなった    と言ったところで背丈はハリーやグレンジャーとほとんど大差ない小柄な男だが    その人影を囲み、見下ろし、そして朗らかにリーマスは笑ってみせた。

「やあ、ピーター。しばらくだったね」