そこにいた数人がはっと息を呑んでこちらを凝視するのと、が壁に叩き付けられて伸びあがったセブルスを捉えるのとはほぼ同時だった。内臓が蠢くような不気味な感覚に襲われつつ、無意識のうちに駆け寄ってセブルスの傍らに跪く。
「セブルス!セブルス! あなたたち、一体何のつもりなの!」
顔を上げ、は辺りに立ち尽くす子供たちを睨み付けた。武装解除呪文を唱えたのはまず間違いなくハリー、そしてグレンジャーとウィーズリーだった。ウィーズリーは片方の足が途中で奇妙に折れ曲がって床に倒れ込んでいたが、その手に杖を握ったまま青ざめている。はさらに首を捻ってその奥に、なぜか縛られているリーマスと、彼の猿ぐつわを解いたままの姿勢で床に膝をついている男を睨み付けた。激しい感情が腹の底から噴き出し、脳細胞を沸騰させる。くたびれた格好の男は唖然と口を開いたまま、ただそのグレイの瞳で茫然とを見つめていた。
この男が。この男があの三人を!
立ち上がったが杖を突き出して呪文を唱えるのに要したのは、ほんの一瞬だった。躊躇いなど、必要ない。
「クルーシオ!!」
必要なのはただ、憎悪だった。ブラックは悲鳴をあげ、その場で引っ繰り返って人のものとは思えない音を吐き出しながら悶える。リーマスは縛られたままの格好で硬直し、子供たちは怯えきった面持ちで後ずさった。今まで気付かなかったらしい一匹の猫が、威嚇するようにこちらを向いて激しく鳴き喚く。一度だけ城の前で出会った、あのオレンジ色の猫だった。
「先生…そ、その呪文は…た、確か…魔法省に、禁じられて…」
震える声を絞り出し、グレンジャーが呟く。は杖先をブラックに向けたまま、視線すらも一時も外さずに言った。
「ええ、その通りよ、グレンジャー。3年生でその知識を有しているのならグリフィンドールに10点をあげてもいいわ。こんな状況でさえなければね」
嘲るように鼻を鳴らし、続ける。
「確かにこの呪文はヒトに対して使えばそれだけでアズカバン行きに値する。でも時と場合によるのよ、覚えておきなさい。脱獄犯に対して情け容赦は必要ない。この程度の呪文は正当化されるわ」
青ざめたまま、だがそれ以上の言葉は飲み込んだらしいグレンジャーが僅かによろめくのが視界の隅で見えた。ようやく磔の呪いから持ち直し、ゆらゆらと身を起こそうとしたブラックに一歩近付いては脅すように低い声音で呟く。
「動くな」
起き上がりかけたブラックの身体が、力なくだらりと床に伸びる。さらにそちらに一歩踏み出し、は一呼吸すら無駄にはしまいと慎重に息を吐く。いつでも呪文を唱えられるように神経だけは研ぎ澄ませたまま、続ける。
「きっかけさえ与えてくれれば、確実に仕留めるわ。そのための呪文はある。あなたのために…この手であなたを仕留めるための呪文が」
だが反応したのはブラックではなく、手足の自由が利かないままに首を捻ってを見た、リーマスだった。彼はひどく物悲しい顔で微かに笑いながら、言う。
「セブルスと…言うことは、同じなんだね」
「随分と長く、一緒にいたからね。そりゃあ似てもくるでしょうよ」
平然と言い返し、続いてブラックの喉に視線をやる。仰向けに横たわったまま上を向いた男の顔はあまりに反らしすぎていてには見えなかったのだ。
「吸魂鬼にキスを受けるよりも、この場で殺された方がずっと楽でしょう。これは私の、あなたに対する最初で最後の情けよ」
ぴくりと、ブラックの喉が上下する。僅かに腕を持ち上げて杖を構え直したに、リーマスは戸惑った風に叫んだ。
「待ってくれ!、私たちの話を聞いてくれ。違うんだ、シリウスじゃないんだ」
「……?」
意味が分からず、眉を寄せて立ち止まる。少しだけ首を回して脇の子供たちを見ると、彼らもまた必死の形相で真っ直ぐにを見ていた。再び視線を戻した時にはブラックのもとまで歩いていった赤い猫が彼の胸の上に前脚を乗せて蹲る。完全にブラックを庇う形で居座った。
「…リーマス。これは一体、どういうこと」
「…。君の気持ちも分かる。だが今は私の話を聞いてくれ。私たちは憎むべき相手を誤っていた」
一体、どういうことなのか。推し量れない。立ち尽くしたまま唇を噛むに、おずおずと口を開いたのはグレンジャーだった。
「先生…その、私たちがスネイプ先生にしたことは…あの、もちろん許されないことだと思います。でも、でも今はルーピン先生たちの話を聞くべきだと思ったんです。ひょっとして私たちは、ずっと間違っていたんじゃないかって…」
「一体何を言っているの」
あくまで冷静に、事態を把握しようと情報を集める。今はグレンジャーの生意気な発言すら重要な手掛かりになり得た。
「あの…ハリーのご両親を殺したのは…その人じゃ、ないかもしれないんです…」
グレンジャーの声は、授業中のいつものものとは違って随分と弱々しく、確証を持てないようだった。だがはっきりと目的と持っての耳に届く。彼女はグレンジャーではなくリーマスを凄まじい形相で睨み付け、吐き捨てるようにして怒鳴った。
「一体どういうことなの。子供たちに何を言ったの。まさかあなたが…まさか、そんな…」
そこまで言葉を発した時、はっと思い当たることがあった。どうしてこの場に、リーマスが…。
「あなた、まさか…知っていたの?ブラックがこの屋敷を、隠れ家に使っていると。知っていて黙っていたと、そういうことなの?」
「違う!、私の話を聞いてくれ。私は今日この時まで、何も知らなかったんだ」
「どういうことよ!それじゃあどうしてあなたがここにいるの。しかもその男と一緒に。縛ったのはセブルスね。ブラックはあなたの縄を解こうとしていた…これでようやく、不可解だった線が一本に繋がったわ。ブラックを手引きしていたのは、リーマス、あなたね」
「違う!、聞くんだ!お願いだ、私の話を聞いてくれ!」
すると今まで床に転がりひたすらに押し黙っていたブラックが、勢いよく上半身を起こしてを視界に捉える。オレンジ色の猫が床に転がり落ちた。はすかさずそちらに杖を向け直し、やはりリーマスを睨む。
「リーマス、私はあなたを信じた。それなのに…これが咎なの?これが私への咎だというの?私を罰したいのならそうすればいい。でも子供たちを危険に晒した…こんなやり方、私は絶対に許さない」
「違う!頼むから杖を下ろしてくれ…話をしよう。私は君の信頼を裏切るようなことは誓ってしていない。もちろん、子供たちを危険に晒すような真似もだ。ただ真実に君より先に気付いてしまった、それだけなんだよ」
「…真実?」
眉を寄せ、杖を握る指先に憎悪とともに力を込める。意識などしなくとも唇は歪み、自然と引き攣った笑いを漏らすことになった。
「真実なんて、たった一つしか有り得ない。その男はジェームズとリリーを帝王に売り、そしてピーターを殺した!それだけ分かれば他に知るべきことなんて何もない!」
「 違う!!」
声を張り上げたのは、床に座り込んだまま項垂れたブラックだった。ずっと言葉を失っていたかのような、ひどく儚い、掠れた声。だが何の色もないただの音ではなかった。強い何かを抱いた、そう、あの頃に似た…。
揺れそうになった胸を空いた手で押さえつけ、は低めた声で、言う。
「…何が違うというの。あなたがピーターを吹き飛ばしたという現場の目撃者なんていくらでもいるのよ。ジェームズとリリーはあなたを秘密の守り人にすると、確かにそう言った。知らないのなら言っておくけれど、二人は私の目の前でそう言ったのよ。私はこの耳で、はっきりとそれを聞いた。ジェームズたちが帝王に襲われたのは、それからたったの4日後だった!」
ブラックは驚いたように顔を上げ、落ち窪んだ眼でしばらくを凝視したが、すぐにまた下を向いて黙り込んだ。叩き付けるように、言葉を続ける。それは自分をも痛め付けるために。
「…リリーは、私を秘密の守り人にしようと言ってくれた」
ブラックが再び、そしてリーマスもまた目を丸くしてを見上げる。傍らで子供たちも息を呑んでいるのが気配で知れたが、それでも抑えることはできない。今ここで言ってしまわないと、次の瞬間には私はこの男を殺しているかもしれないのだ。
「でもジェームズは…あなたに任せることを、強く押し通した。ダンブルドアも案じていたわ…スパイは確実にいると、あれだけ忠告したのに…それでもジェームズはあなたを信じた!私があの時無理にでも通していれば…私が受けるべきだったのよ!私はジェームズを信じていた、でもあなたのことは疑ってかかるべきだったのに!」
「 お前がか!」
突然、弾け飛んだように声を荒げたブラックが、跳ねるように勢いよく立ち上がりとの距離を瞬時に詰めてきた。杖を突きつけようとするも間に合わず、男の両手がの胸倉を掴んで僅かに持ち上げる。呪文を唱えるのが先か、ブラックが私の首を締め上げるのが先か。一か八かの賭けだった。だがブラックの眼は確かにを躊躇させる何かを孕んで彼女は赤く腫れたその瞼を睨み付けた。
ブラックの荒々しい言葉は、続いていく。
「お前がジェームズを信じてたって!?笑わせるな!お前は俺たちを捨てた!お前は俺たちじゃなく穢れ切った闇の世界を選んだ!そのお前を、リリーが秘密の守り人に選んだって!?笑わせるな、そんな下らない冗談はあいつらへの侮辱だ!俺はお前を許さない 絶対に、許さねえ!!」
思考が、理解できずに同じところをぐるぐると回る。何を言っているのか。闇に堕ちたのは、自分だって同じことだろう。今更ジェームズやリリーの親友面をしてみせるのか。私を悪役にして子供たちを欺き、信用させるためか。長い間歯も磨かず、風呂にも入っていないのだろう 当然だが ブラックが唾を散らす度、黄色い歯が覗き、異様な臭いが鼻を突いた。ああ、そうだ、これは、アズカバンのあの忌まわしい腐敗臭に似ている。
口を挟んだのは、リーマスだった。縛られた身体で必死に上半身を起こし、言ってくる。
「シリウス、。君たちはお互いを誤解している。話し合うべきだ。せっかくのセブルスの犠牲を無駄にするのは彼に悪い。それに今は、時間がない。そうだろう、シリウス」
彼の言葉に、はちらりと視線を巡らせて気を失ったままのセブルスを見る。もちろん杖先は相手の心臓に押し当てたままだが。ブラックもセブルスの姿を一瞥し、舌打ちしながらのローブを放す。
その時、震える声で呟いたのは今まで黙り込んでいたハリーだった。青白い顔で茫然とを見、力なく首を振る。
「…嘘だ。それじゃあどうして…父さんと母さんの親友だったなら…母さんに秘密の守り人に選ばれるくらい信頼し合っていたんなら!どうして…どうして僕に…あんな、あんな風に…」
唐突に、喉の奥から吐き気が込み上げてくる。それこそがまさに、彼が入学してきて以来ずっと恐れてきた問い掛けだった。生徒からの問いならば他のどんな質問にも冷静に対処できる自信はあった。だがこれだけは、できることならば永遠に封じ込めておきたかったものだ。
がさり気なく視線を逸らすと、リーマスの声が諭すように言う。
「ハリー、そのことはあとで彼女がきちんと話をしてくれるだろう。彼女は誠実な人間だ。だから今は、抑えてくれないか。時間がないんだ。私たちにはやらねばならないことがある」
言いながらリーマスが床の上で転がり縛られた手首が見えるようにすると、はっと目を開いたブラックが「悪い」と囁いてその縄を解いていく。はわけが分からずただひたすらにリーマスの言葉を待った。何が起こっているのか、見当もつかない。リーマスの言う"真実"とは、一体何だ。真実。そんなものは、いつだって残酷なものだ…。
手足の自由を手に入れたリーマスが、やっとのことで身体を起こす。少なからず安堵したように肩を撫でると、の手元を見て弱々しく苦笑いした。
「、ひとまず杖を下ろしてくれないか。君もシリウスも少し気が立っているんだ。黙って私の話を聞いて欲しい」
「…大人しく命を差し出せと、そう言いたいの?」
押し殺した声で低く呟いたに、リーマスは瞼を半分ほど下ろして首を振る。そして杖を持たない両手を降参の形に挙げたまま徐に立ち上がり、言った。
「分かった、そのままでいい。但し話は最後まで聞いてくれ。、既にハリーたちには話したけれど、私は今夜、忍びの地図を見ていたんだ。そこで、信じられないものを見つけた」
リーマスは一旦言葉を切り、乾いた喉に唾を流し込んでから続ける。
「ハリーたちは…その、ヒッポグリフの処刑前にハグリッドを訪ねていたんだ。そして小屋を離れた時、ハリー、ハーマイオニー、ロン、そしてそこにはシリウスの名と、もう一人の人物の名が刻まれていた」
「…じれったいわね。私の忍耐はそろそろ我慢の限界なんだけど。今すぐにでもその男を殺したいと思っているのだから」
ブラックは激しい感情を浮かべた瞳でぎろりとを睨んだが、リーマスが窘めるとすぐに視線を外して俯いた。小さく息を吐き、リーマスは呟く。
「分かった、言おう。私は自分の目を疑ったよ。何しろそこに書かれていたのは、ピーター・ペティグリューという名だった」
「 嘘よ!」
何の意図があってそんな明らかな嘘を吐くのか。ピーターの死は誰もが確認しているはずだ。は杖を構えた右手をさらに前へと伸ばし、声を荒げる。
「何のためにそんなことを言うの!ピーターはその男に吹き飛ばされたと、あの日あなたがそう言ったのよ!魔法省には彼の指が保管されていると…私にそう言ったのはあなただったはずよ!」
「…そう、思い込んでいたんだ。誰もが、まんまと騙された。小賢しい…だが確かなやり方だった。思惑通り、奴は自分の存在を消し去りシリウスに罪を着せることに成功したのだから」
「いい加減にして!分からない…分からないわ、どうしてあなたがそんな嘘を吐くのか!どうやってピーターが大勢のマグルの前で死んだ振りができたというの!どうしてそんなことをする必要があったの!」
「…奴は、自分で道の大半を吹き飛ばしたんだ。そして自分の指を一本切り落とした。それだけの話だ。自分は騒ぎに紛れてネズミの姿になり、下水道に飛び込めばそれでよかった…」
「な…なんの根拠があって、そんな!」
怒鳴り上げたの側で、俯いたままのブラックがその右手をゆっくりと挙げる。警戒して呪文を唱える準備をしたが、実際には彼はその痩せ切った指で床に倒れ込んだままのウィーズリーを指差しただけだった。
「…見ろ」
「何を…言ってるの」
「いいから黙って見ろ。お前になら分かるはずだ。その子が握っているネズミを…しっかりと、見ろ」
ネズミ…。
まさか、そんなことが。
眉を顰めてそっとリーマスに目配せすると、彼は神妙な面持ちで頷いてみせた。まさか、そんなことがあずはずがない。はゆっくりと、一歩ずつ、だがしかし杖先だけはブラックに向けたまま、ウィーズリーに近付いていく。彼は怯えた様子で後ずさったが、どうやら骨折したらしい足ではまともに動けずに悶える。その両手にはキーキーと甲高い声で鳴き喚く一匹のネズミがしっかりと握られていた。
そしてそれを覗き込んだ瞬間 あまりの事態に、心臓が跳ね上がる。まさか…そんな…。
「分かっただろう、」
沈んだ声で、リーマスが言った。
「私たちは憎むべき相手を誤っていたんだ。裏切り者は、シリウスではなかった」