私も血を見るのは嫌いではないのだとか、ダンブルドアの信頼をこの先も欲するのならハグリッドとの繋がりを維持することも重要なのだとか、そういった取り繕いを様々に用意していた。だがしかしそんなものは一気に霧散し、マクネアは斧を力の限りに握り締めて怒声を飛ばした。

「ここに繋がれていたんだ!俺は見た!確かにここだった!

 小屋から顔を出したダンブルドアはどこか面白がっているような声で言う。

「ほう、これは異なこと」

「ビーキー!」

 両手を挙げて、ハグリッドは涙混じりに叫んだ。マクネアは癇癪でも起こしたかのように奇怪な声を張り上げて磨き上げた斧を柵に振り下ろす。も彼と同じようにして周囲を見渡したが、ヒッポグリフらしき姿は影も形もなかった。

「いねえ!いなくなっちまった!良かった、可愛い嘴のビーキー!きっと自分で自由になったんだ!ビーキー、賢いビーキー!」

「誰かが逃がしたんだ。そうに違いない」

 言いながらマクネアが苦々しげにハグリッドを睨む。一方のハグリッドは啜り泣きながら夜空に向かって何度も何度も愛しげにバックビークの名を叫び続けていた。

「探さなければ。校庭や森、それから…」

「マクネア、バックビークが盗まれたのなら、盗人はヒッポグリフを歩かせて連れ去ると思うかね?」

 ダンブルドアはあくまで朗らかだった。

「どうせなら空を探すといいじゃろう。さあ、ハグリッド、お茶を一杯頂こうかのう。ブランデーをたっぷりでもいいのう。先生もいかがじゃ」

「え、ええ…喜んで」

 訝しげに顰めた顔がマクネアにとって、残念至極な表情に見えればいい。そんなことを思いながらハグリッドとダンブルドアの後について小屋の中へと戻った。さらにその後ろからファッジや危険生物処理委員会の老魔法使い、そして斧を未練がましく見つめるマクネアが入ってくる。彼はバタンと勢いよく扉を閉め、テーブルについたホグワーツの教職員たちを一斉に睨んだ。

 老魔法使いが疲れたように息を吐き、マクネアに顔を向ける。

「ああ…面倒なことになった。ワルデン、どうすべきかのう」

「探すに決まっているでしょう!あの獣は俺が処刑します…大臣、多少吸魂鬼をお貸し頂けるのなら、すぐにでも」

「吸魂鬼を?いや、だめだめ…マクネア、それはいかん。吸魂鬼はブラック対策でホグワーツに来ているのであってそんな…」

「構わんよ、コーネリウス」

 ハグリッドが覚束ない手付きで慌てて淹れた紅茶にブランデーを注ぎながらダンブルドアが世間話のような口振りで言う。驚いた風に振り向いたファッジに彼はさらに言葉を続けた。

「城内にはわしの信頼する先生方が常に目を光らせておいでじゃ。多少吸魂鬼が減ったところで何の支障もない。但し」

 そこで初めて、ダンブルドアの青い瞳が厳しい色を帯びて閃く。

「ホグワーツの敷地外の、空だけじゃ。吸魂鬼たちが再びこの学校の敷居を跨ぐことがあればその時は容赦はせぬ」

 マクネアは小さく舌打ちし、ファッジはほとほと疲れ切ったという面持ちで嘆息する。老魔法使いは今すぐに戻って休みたいとでも言いたげだった。

「分かった、分かったよ…マクネア、吸魂鬼を何体かヒッポグリフ捜索に当たらせよう。仕方ない。発見次第処刑しても…構わんな?」

 窺うように片眉を上げたファッジに、ダンブルドアは穏やかに微笑む。ハグリッドはぎょっとしたようだったが。

「見つかれば、のう」

 マクネアは大袈裟に鼻を鳴らして小屋を飛び出し、ファッジと老魔法使いはやれやれとその後に続いて去っていった。は淹れ立ての紅茶に一口だけ口をつけ、そして悠然と椅子に腰掛けるダンブルドアとまだ啜り泣いているハグリッドとを交互に見比べる。

「…バックビークが見つからないという確信でもお有りですか」

 そっと訊ねたに、ダンブルドアはまったく動じた様子もなく微笑むばかりだ。

「どうかのう。それはバックビークにしか分からんじゃろう」

 いや、きっとダンブルドアは全てを知っているはずだ。根拠はなかったが確信があった。繋がれたはずのヒッポグリフ。解かれた綱。後にバックビークがどうやって逃亡したのだろうと何気なく問い掛けたに、ハグリッドは涙混じりにこう言ったものだ。

「なんだっていい。あいつがどこかで生きててくれるんなら、俺にはそれだけでええ」

 確かにその通りかもしれない。過程を求めるのは愚か者のすることだ。はたった一度だけ触れたあのヒッポグリフのことを思った。そしてその夜は少しだけ、勧められるままにブランデーを紅茶に混ぜた。ほんの、少しだけだ。

 その量にもきっとまた、意味があったのだろう。何にせよは、意識を保ったままやがて一人でハグリッドの小屋を後にした。ダンブルドアはまだ残ると言ったからだ。

 そうしてその道で、黒い影に出会った。

「…誰」

 コートの前部分をきつく合わせたまま、押し殺した声で問い掛ける。寒さのせいではない。言い知れない不安が募ったせいだ。人影は足を止めたが、それでも長く留まるつもりはなかったのだろう。すぐにを避ける風にして道を回りながら、の知った声で、だがどこか切羽詰った物言いで言った。

「すぐに、城に帰れ」

「…セブルス?どうしたの。こんな時間にあなたが、一体どこへ」

「何も訊くな。とにかくお前は戻れ。いいか、ついてくるな」

 一方的に切り捨て、セブルスの声を発したその影は足早にその場を去っていった。ハグリッドの小屋…いや、森の方角か。後方を気にしながら急いでいくのはそのシルエットだけで知れた。だがは言われるままに戻るほど素直な人間ではない。セブルスもそのことは当然知っているはずだ。本当に尾行されたくないのなら倒してでも行くべきだったのだ。そうしなかったのは心のどこかで彼女を呼んでいたせいだろう。そんなことは、言葉一つで容易に推察できる。その程度には距離を狭めたのだと気付くべきだった。

(いい加減に、してよ)

 私はあなたもリーマスも手放したくはない。手放すことなど到底できないのだ。そのことを知っていて!

 は距離を置いてセブルスを追ったが、どうしたところできっと彼は気付いているのだろう。だが杖を向けてまで止めようとはしなかった。それとも目的の何かに心を奪われて後方にまで気が回らないのか。どちらも有り得そうではあったが。

 ここまでセブルスを引き付ける何かとは一体。純粋に、興味があった。そして彼を追わねばならないと思ったのだ。

 彼はあの因縁の暴れ柳の前で、その足を止めたようだった。は脇の幹に身を隠して彼の様子を見守る。セブルスは細長い何かで柳の幹を突き、そして動きを止めた枝の下を潜りその根元に姿を消した。

 ほんの数秒の出来事だったが、にとってそれはやけに長く感じられた。セブルスが、叫びの屋敷へ続く通路に入った。どうして。今更そんなところに、一体何があるというのか。

(…まさか)

 ぞっとするような悪寒が、背筋を撫でる。ブラックがどうやって吸魂鬼を出し抜いてこの城に侵入したのか、それは分からない。分からないがしかし一旦敷地内に入ってしまえば、そうか、あとはあの屋敷を使えば好きな時に姿を晦ますこともしばらく籠もることも可能だ。いや、でもやはりおかしい…それでは食料を得られないはずだ。まったく何もかもが不可解だった。しかし追わないわけにはいかない。ブラックが本当に叫びの屋敷にいるのならば。

 そしてセブルスは、どうやってそのことを知ったのか。それとも疾うに気付いていて、自分には黙っていたということか。どちらにしても…。

(今はただ、追いかけるしかなさそうね)

 舌打ちして、再び動き始めた暴れ柳に近付く。何度か静かに深呼吸を繰り返し、そして瞼を閉じた。次に目を開いた時には、自分の視点は今までのそれとはまったく異なり全てを見上げるような形になっている。地面を這うようにして、柳の根元までを大急ぎで進んだ。そしてそのまま、開いた穴に滑り落ちる。通路に下りてからは、あっという間に人間の姿に戻った。どう考えても蛇より人の歩幅(もっとも蛇の歩幅などは有り得ないが。あの生き物はpawlessだ)の方が大きい。そしてホグズミードのあの屋敷への道のりをひたすらに走った。息切れがする。動悸が激しい。それでも、急がねばならなかった。

 もしも本当に、ブラックがいるのならば。

 選択肢はない。そこに彼がいるのなら、足を進めていくしかない。今の私にはホグワーツが全てだった。いや、ダンブルドア、マクゴナガル。下らないシニストラの戯言でもいい。自らが身に纏ったものと同じネクタイを締めて章を付けた獅子の子供たちの憎悪の眼差しすら今の自分には意味を与えてくれる。そしてリーマス、セブルスだ。私の居場所はホグワーツにしか有り得ない。いずれそれらを全て、捨て去ることになろうとも。

 そのためには、ブラックの身柄が必要だった。

 愛していた。確かに、愛していた。だがしかしそんなことはとっくに過去の遺物に消える。12年だ。あの感情を忘れ去るにはまだ足りない。だが今更溺れてしまうほどに純粋な感情ではなかった。たとえば私がハッフルパフなら何かが違ったのかもしれない。組み分け帽子は私がどこの寮でもきっとやっていけるだろうと言った。それが正しいのならそういった可能性もあったはずだ。私が穴熊生の純真さと愚かしさを併せ持っていたとすれば今でも彼を愛せたのかもしれないが。

 言ってみたところで、さして意味はない。私は獅子であり、そしてそれを名乗るには多少の蛇らしさも混ざってしまったただの異物に過ぎない。捕らえればいい。そしてほら見ろとセブルスに突き出してやればいい。

 狭く暗い、通路を抜けた。

 部屋がある。倒壊したその様子はあの頃のままだったが、やはりしばらく放置されていたためか随分と埃っぽかった。だがしかしそこには複数の足跡がくっきりと残っている。大人の足跡に、犬のもの。それに。

(…子供もいる?)

 嫌な予感がする。そしてそれは、恐らく間違ってはいないだろう。

(まったく、どこまで人に心配をかければ気が済むの)

 歯噛みし、懐から取り出した杖を握り締める。それともこれは何らかの必然だろうか。運命か。だとすればどこまでも皮肉なものだ。唇を歪め、慎重に床を踏み締めて些細な音ですら掴み取ろうとする。

 音が、頭上でした。床か何かが軋むような音だ。覚悟を決めて、足を進める。隣のホールに移動し、階上へと続く段を一つずつ、音を潜めて上がっていく。無音で行動を起こす術は遠い昔に身に付けていた、忌まわしいが役に立つ特技だ。セブルスもそうして二階へと上がっていったのだろう。セブルス。

(セブルスは、無事かしら)

 まさか弱ったはずのブラックに負けるとも思えないが。我々にも想像できない闇の魔法を会得しているのならば分からない。ハリーがいるとすれば尚のこと厄介だ。神経を研ぎ澄ませ、聞こえてくる音を逃さないように耳を澄ます。必然的に目を細めることになった。視覚と聴覚は厳密にいえば繋がってはいないが視界が遮られれば自然と耳まで遠くなったかのように錯覚する。二階のくたびれた床を無音で踏み、埃の上を引き摺ったような不自然な跡を追って慎重に進んだ。

 その時だ。奥の部屋から突然、セブルスの狂気じみた叫びが聞こえてきた。はっとして、息を呑む。何が起こっているのか。今すぐにでも飛び出したいが、様子を探る必要がある。壁伝いにやはりじりじりとそちらの扉に近付き、片方の耳を控え目に押し付けた。

「黙れ!我輩に向かってそのような口を利くことは許さん!」

 でさえ どきり とするものがあるほど、セブルスの声音は切羽詰った危険なものだった。続け様に、怒鳴りつける。

「蛙の子は蛙だな、ポッター。我輩は今お前のその首を助けてやったのだ。平伏して感謝するがいい!こいつに殺されれば自業自得だったろうに。お前の父親と同じような死に方をしただろうにな!ブラックのことで親も子も自分が判断を誤ったとは認めない高慢さだ…さあ、退け。さもないと、我輩がそうさせてやる。退くんだ、ポッター!」

 意味は、よく飲み込めなかった。だが扉を開けるのはもう少し、先のことでもいいはずだ。もうしばらく、様子を…。

 しかし。

「エクスペリアームス!武器よ去れ!」

 突然武装解除呪文が、しかも複数の声と重なり凄まじい振動が屋敷を震わせた。は思わず身を屈め、壁に寄り掛かって目を見開く。それ以上はもう、待てなかった。杖を持ち直し、目標の扉を蹴り開けて部屋にいる何者かに向けて構える。

 視界に飛び込んできた光景に、は長年溜め込んできた激しい感情が噴き出すのを感じて身震いした。