しばらくリーマスと話をしていて、はようやくハグリッドを訪ねる勇気が出てきた。もう何ヶ月も個人的に顔を合わせていない。試験が始まって数日が経った頃、セブルスに言い渡された採点を全て終えてから彼の小屋へと足を運んだ。予想外の訪問にハグリッドは随分と驚いた様子だったが、それでも喜んで彼女を中へと迎え入れた。

「久し振りだな。茶でも飲むか」

「ありがとう。それじゃあ…頂こうかしら」

 小屋に入ると例のヒッポグリフはすぐさま目に入った。部屋の奥の方に寝そべり、突然やって来たを驚いた風に見つめてじっとしている。このヒッポグリフと会うのは初めてだ。はヤカンに水を注いでいるハグリッドの後ろ姿に問い掛けた。

「名前は、何ていったかしら」

「ん?あ、ああ…バックビークだ」

 ヒッポグリフへの接し方は人並みには心得ているつもりだ。はバックビークの眼を真っ直ぐに見つめ、相手が動くのを待つ。ゆっくりと立ち上がったヒッポグリフに近付き礼をすると、ヒッポグリフは前脚を折ってお辞儀を返してくれた。ありがとう、と言ってその嘴を撫でる。いつも通り不器用な紅茶を淹れてくれたハグリッドはその様子を見て涙ぐんだ。

「バックビークとは初めてだったか。ビーキーもお前さんに会えて喜んどる」

 微笑み、はまたバックビークに礼をしてからハグリッドの向かいに腰を下ろす。待ってましたと言わんばかりに今まで隅で大人しくしていたファングがの膝に前脚をかけて大きく尻尾を振った。ハグリッドはティーカップをに差し出しながら洟を啜る。

「そういえばお前さん、確か魔法生物飼育学も得意だったな。ケトルバーン先生の指導がきっと、良かったんだろうな…」

 ポケットから取り出したハンカチで涙を拭いながらハグリッドが項垂れる。やはり相当気が滅入っているようだ。バックビークの控訴裁判は試験最終日、3日後に迫っていた。

「私は元々生き物が好きだったのよ。あなたの授業を受けたとしてもきっと楽しめたと思うわ」

 こんな気休めが彼を元気付けるとは思わなかったが、それでもハグリッドは少なからず笑みを零した。

「あ、ありがとな。お前さんも忙しいっちゅうのに、俺なんか慰めに来てくれて…ほんとに…」

    ごめんなさい、ハグリッド」

 低く呟いたの言葉に、ハグリッドは驚いた風に顔を上げた。その目は涙で潤んでいたが、大きく見開かれて時折瞬く。

「何でお前さんが謝るんだ?」

「私は…何も、してあげられないから。ルシウスとの繋がりも、そう強くはないけどあるし死刑執行人のマクネアも知った仲よ。それなのに私は、あなたのために何もしてあげられない」

「やめてくれ!俺は、そんな…奴らと知った仲だっちゅうてもお前さんには辛い過去だし、お前さんがそんなことを気に病む理由なんかちっともねえんだ!やめてくれ。俺には、お前さんのその気持ちだけで十分だ…」

 再び声をあげて泣き始めたハグリッドに、は唇を噛み締めて黙って紅茶を口に運ぶ。動物は敏感だ。ファングもそしてきっとバックビーク自身も疾うに気付いているのだろう。泣きじゃくる主人を見て不安げに鳴いた。

 ようやく静かになったハグリッドは、それでもまだ目元をハンカチで拭きながらを見る。

「そういえば、聞いたぞ。お前さんがまた、ルーピンと仲良くなれたってな。良かったじゃねえか。ずっと…そうしたかったんだろ?」

「…やだ。それ、誰に聞いたの?」

「違うのか?俺はダンブルドアに聞いたんだが」

「……そう」

 ダンブルドアの前ではいつもと同じように振る舞っているつもりだし、そう親しいといったことも告げていないはずだ。それなのにもうこんなところにまで伝わっているというのはきっと。

(やっぱりダンブルドアの策略だったわけね)

 どこか苦い思いを噛み締めながらも、少なくとも不快ではない。ダンブルドアがいなければきっと、私は今でも孤独なままだ。

 でも、今は違う。

(私はもう、独りじゃない)

 そう思える何かがあるというのはこの上なく幸せなことなのだろう。そう美味しくもない紅茶を啜りながら、片手でファングの耳の裏を掻く。小屋を去る前にはまたバックビークの嘴を撫で、そして一声をかけた。

「また、来るからね」

 それは当てのない口約束ではない。確かな誓いだった。











 魔法薬学の試験は、最終日の午前中には終了した。あとは期限までに採点を済ませればそれでお仕舞いだ。ひとまずセブルスのあの忌々しい視線から解放されようと、意味もなく地下室を出て玄関ホールへと上がった。だがそこで、嬉しくはない来客に遭遇しては眉を顰める。ファッジだ。

「ああ、じゃないか。これはこれは…試験は順調に進みましたかな」

「ええ、お陰様で。先程全ての試験を終了しましたのであとは採点だけですね」

「そうかそうか。それは何より…」

 言いながら、ファッジの顔が曇る。その後ろから大理石の階段を下りてきたのは、今にも萎び果ててしまいそうな老人と、そして細い口髭を生やした大柄な男だった。ニヤリと笑ったマクネアを一瞥し、はファッジに視線を戻す。

「…控訴裁判の件でお越しですか」

「ん?あ、ああ…まあブラック事件の状況を調べるついでだから構わんといえば構わんのだが…やはり処刑なんてもんは、あんまり嬉しいものじゃない」

「…そうでしょうね。お役目御疲れ様です」

 ファッジは処刑といったか。やはり控訴裁判とは名ばかりでバックビークの処刑は決定事項らしい。仕方ないか。ルシウスの圧力とマクネアの"熱意"があれば避けられるはずもない。開け放たれたままの樫の扉を抜けていったファッジの後ろをついていく老人に軽く頭を下げ、はそのさらに後ろを歩く男に視線を投げ掛ける。マクネアはそれに気付いて口髭の奥でやはり意地悪くほくそ笑んだ。玄関先で立ち止まりファッジと老魔法使いがうんざりした様子で話すのを横目に見ながら、とマクネアはさり気なくホールの脇に寄って低めた声で呟く。

「久し振りだな、

「…ええ、まったくね。お役所は随分とお忙しいようで」

「俺は"熱心な"役人だからな」

 皮肉だとしても、そう大きく間違っているわけでもない。は唇の端を持ち上げる嫌なやり方で笑い、その一方で慎重に考える。マクネアは何か、ブラックのことを知っているだろうか。

「スネイプは元気にしてるのか」

 ベルトに挟んだ斧の刃を愉しげに撫でながら、マクネアが薄く笑う。だがしかし、ここで問うにはあまりに人目があり過ぎる。

「ええ、私も彼も、元気にしているわ」

「噂によるとどうも、満足のいく暮らしぶりだそうで」

「…まあね。こちらにはあの男の庇護もあるし、不自由はないわ」

 嘘は、吐いていない。大きな嘘は。吐いたところで悟られなければいいだけの話だが。嘘を吐く必要もなかった。

 ふと視線を感じて振り向くと、玄関先のファッジのところに、ハリーがいる。そして訝しげにこちらを見ていた。小さく舌打ちし、は踵を返す。マクネアは呼び止めることも、追ってくることもしなかった。もっともそんな必要もまったくなかったろうが。

 はその足で、校長室へと向かった。











「…こんな時間に、どこへ行く」

 それは容易に想像できたことではあった。羽織ったコートにゆっくりと袖を通し、振り向きもせずに言う。

「出掛けるわ」

「どこへ行く、と訊いている」

「聞かなくても分かるんじゃないかしら」

「言え」

 追い詰めるような籠もったセブルスの命令口調が嫌いだ。すぐ背後まで迫ってきたらしい彼から逃げるように前方に数歩足を踏み出し、ようやく振り返る。カーテンのような彼の黒髪が顔にかかって表情は見えなかった。それでも漂う陰鬱な空気は否めない。

「分かってるでしょう。ハグリッドのところに行くわ」

    何をしに」

 セブルスの語気が、幾分も強まった。凌ぐように喉に力を入れ、返す。

「ヒッポグリフの処刑に立ち会う。ダンブルドアの許可も貰ってるわ」

「何のために!」

 怒鳴りつけたセブルスの拳が傍らの壁を打ちつけた。疎らに落ちた彼の黒髪の間から、セブルスの黒い眼が見える。忌々しげに歪められた眼球が一寸の隙もなくを鋭く射抜いていた。同じ、いや、その眼光の強さだけは同じ程度に視線を戻す。しばし無音の睨み合いが続いた。やがて大袈裟に息を吐き、は溜め息混じりに呟く。

「ハグリッドは私の大事な友人だわ。こんな時でも私は側についていることくらいしか何もしてあげられない。だったらそれをするまでよ」

「お前が行ったところで何も変わらんだろう。そんなものはお前の自己満足に過ぎん」

「だったら私は大切な人のために何ができるというの?そんなことでしか私は動けない。何もできない」

「どうして!お前はそうやって!」

 握り締めた拳を、だがしかしやり場に困ったのだろう、セブルスは遣り切れないといった面持ちで解いた。ただその眼差しだけは真っ直ぐにを睨み付けたままだ。

「…どうしてお前はそうやって、失いたくないものを作る。ルーピンのこともそうだ…どうせ何もかも、失うというのに!」

「そんなものは」

 怯まずにの眼球もまたセブルスのそれを捉えていた。

「失うことを恐れていたら何も掴めない。そうやって何もかもを拒んでいたら守るべきものも守れなくなるわ。あなたはそれに気付くべきよ。私は気付いた。リーマスが思い出させてくれた」

 セブルスの右手が伸びた。の襟首を掴みかけて、そしてすぐに零れ落ちていく。やはり伸ばした黒髪に阻まれて俯いたまま、絶望に満ちたその声が言った。

「…お前は所詮、グリフィンドールだな」

「ええ、そうね。あなたは所詮スリザリンだわ。私はあなたとは、違う」

 言葉はそこで打ち切り、オフィスを出ようと振り向いた。だがしかし思い当たったことがあり、は首を捻ってセブルスを見る。

「いいえ。あなたも私と、同じはずだわ」

 暗いカーテンの向こうで、彼が確かにピクリと反応したように見えた。錯覚だったのかもしれないが。馬鹿にした風な調子で告げる。

「ふざけるな。俺はお前とは、違う」

「だったらどうして」

 目の前の扉に手を掛け、は静かに言葉を続ける。

「どうしてあなたは、戦うの」

 セブルスは答えなかったし、それ以上は彼女を止めることもなかった。はひっそりと足音を響かせながら階段を上がり、玄関ホールを踏んで城の外に出る。

 そこには既にダンブルドアやファッジ、危険生物処理委員会の老魔法使いとマクネアが待っていた。

「魔法薬学担当のです。立会人として同行させて頂きます」

 ダンブルドアが話をしていたのだろう、老魔法使いは三角帽子を軽く上げて挨拶し、ファッジはばつの悪い様子で目を逸らす。マクネアはどこか面白がっているような顔付きでニヤニヤとを見ていた。

「…それでは、行こうか」

 重々しい声で、ファッジが言った。