クィディッチの決勝戦も終わり、今学期も残すところあと1ヶ月。学年末試験が刻々と近付いてきている。それは生徒たちにとって大いなる脅威だが、それ以上に教員もまた試験作りやその対策に追われててんてこ舞いだった。だが確実にの心を癒したものが、ある。

「これをね、以前ハリーから預かったんだよ」

 そう言ってリーマスが引き出しから取り上げたのは、一枚の古びた羊皮紙だった。まだ温かい紅茶を口に運んでいたは思わず噎せ返って咳き込む。大丈夫かいと差し出された彼の手にティーカップを押し付けてから杖を一振りし、自分のローブを汚した液体を拭い去る。そうしてようやく机の上に置かれたその羊皮紙を見つめた。あ、と声をあげてリーマスが思い出した風に言う。

「叱らないであげてくれないか。あの子にはもう私からきつく言ってある」

「…そんなことより。まさか、それ…」

「確信がないのなら、自分で試してみたらどうだい?」

 愉しそうに唇を緩め、彼はのカップを机に置き直す。そして促すように軽く右手を挙げてみせた。

 は眉を顰めつつ、握ったままの杖を羊皮紙にそっと当てる。

「…我、ここに誓う。我、好からぬことを企む者なり」

 するとたちまち杖先の触れたところから、細いインクの線が蜘蛛の巣のように広がり始めた。その線はあちこちで繋がり、交差し、羊皮紙に隅から隅まで伸びていく。そしてやがて上部に、まるで花でも開くかのように渦巻き型の大きな緑色の文字がポッ、ポッと現れた。はますます眉を寄せ、にやにやと笑うリーマスを睨みつける。

「どうしてこれを、あの子が?」

「可能性としては、一つしかないじゃないか。私たちは確かにあの日、これをミスター・フィルチにプレゼントしたんだからね」

「…プレゼント、ね」

 は杖を膝の上に戻し、呟く。だがハリーがフィルチのオフィスからこの地図を盗み出してきたとはあまり考えられなかった。確かに父親に似て向こう見ずなところはあるが、それでもそこまでの冒険好きとは思えない。彼の数々の所業もどちらかというと必要に迫られてといった印象を受ける。おおよそウィーズリーの双子がくすねてきたものをハリーに贈ったのだろう。それならば納得できた。

「でもこれを、あの子が持っていたわけでしょう?もしシリウスが見つけてしまっていたら…彼ならこれの使い方なんてすぐに分かるはずだし…そんな危険なことを、あの子はまた…」

「だから私が預かったんじゃないか。あの子のことが心配なのは分かるけど、今回のことは何も言わないでやって欲しい。お願いだ」

「…あなたがそうやって、甘やかすから」

 咎めるように言いかけたが、は諦めて口を閉ざす。私があの子に厳しく当たり、リーマスがあの子を人一倍甘やかす。きっとそれくらいがちょうどいいのだろう。確かに彼の言う通り、自分の罪を隠すためとはいえあの子にはきつく当たり過ぎた。だからといって今更それを改めるつもりなど露もないが。私は、憎まれるままでいい。

 彼は地図の上で様々に動く点を見つめ、突然心配そうな顔をして言った。

「そういえば…セブルスの、ことなんだけれどね」

 は冷めかけた紅茶を温め直し、口をつけたところだった。平然とした風を装って、訊き返す。

「彼が何か?」

「その…触れて欲しくないことなら、答えなくても構わない。ただ、どうしても訊いておきたかったんだ」

 リーマスは自分の紅茶を一口飲み、乾いた喉を潤してから気まずそうに続ける。はカップを膝に置いたまま黙って彼の言葉を待った。こうした沈黙は、今や辛いものではない。

「今までは…ずっと、君とセブルスはうまくいっていたと、色んな人から話を聞いている。それなのに今年は…どうも、おかしいと。君たちは…ああいった時代にも、行動を共にしてきた、きっと…仲間のはずだ。私が彼に好かれていないのは当然だし、私の方も取り立てて何も感じない。例の薬の件で感謝している以外にはね。でも…君とセブルスの間に、どうやら深い溝のようなものができてしまったらしいと…それは、その…一体…」

「構わないの、別に。今のところ、仕事に大きな支障は出ていないから」

 あっさりと言い捨てて、茶請けに出されたクッキーを口に含む。リーマスは明らかに戸惑いの色を浮かべてを凝視していた。狼狽しながら、続け様に言ってくる。

「でも、その…やっぱりそれには何か、きっかけのようなものが、あるんだろう?生徒から…話を聞いたんだ。私の代講をしてくれた時…その…セブルスが、人狼の項目を取り上げようとしたその時、君が…突然怒り出して…その…飛び出していったんだって。だからその…もしかして、君たちがうまくいかなくなったのは、それは…私が…」

「やめて、リーマス」

 ぴしゃりと遮って、は鋭い視線でリーマスを見る。誰しも負い目を感じながら生きているだって?まったく、その通りだ。

「確かにあなたがこの城にやって来たことも引き金の一つかもしれない。でもそれだけじゃないわ。だから余計なことを気にしないで。彼はただ、私が信用できなくなっただけ。彼の心の問題なのよ」

『俺じゃない。おかしいのはお前だ』

 私も、そう、本当に変わったのだろうか。だとしたら確かに、アズカバンでの生活を言い訳にするのは醜いことかもしれない。だがそれが一体何なのか、まったく…分からない。自分でも、分からないのだ。

 やはり不安げな瞳のまま、リーマスが問いかけてくる。

「一体どうしてセブルスは、急に君のことを信じられなくなったんだい?だって君たちはずっと…もう10年以上もずっと、すぐ側で一緒に仕事をしてきたはずだろう。誰よりも…分かり合えていいはずだ。違うかい?」

 そうだ。そう、信じてきた。私だって。だがセブルスは、違った。それだけの話だ。

「…セブルスは」

 話してしまっても、構わないだろうか。この程度の、ことならば。

「セブルスは、私があなたとグルになってシリウスの手引きをしたと思い込んでるの」

 どうやら、予想していなかったらしい。目を見開き、上擦った声をあげながらリーマスが瞬く。そして唖然とした表情のまま、呆けた調子で呟いた。

「そんな…私が疑われるのは、仕方がないと思う。でもいくらなんでも、セブルスが君を疑うなんて、そんな…」

「きっと、そうすべきなのよ」

 そんな言葉が出てきたこと自体が、自分にとっても意外だった。は驚いたが、話しながら、そのことを少しずつ意識していく。

「つまらない情に流されて、真実を見失うことはよくある。セブルスは最悪の事態を避けるためにそうしているのよ。私があなたや…彼と親しくしていたのは、紛れもない事実だしね」

「…でも、いくらなんでも」

 右手を差し出して彼の言葉の続きを制し、は首を振った。これ以上続けてしまってはいずれ、自分がアズカバンに投獄されたという事実を口にしてしまうかもしれない。知られて不都合な話ではなかったが、少なくとも喜んで語りたい内容ではない。互いに重たい感情を引き摺るだけだろう。隠しておけるのならば、黙っておいた方がいい。

「もうやめましょう。どちらにしても彼が捕まればはっきりすることよ。私は疾しいことなど何もしていない。だからこれからも堂々とセブルスと仕事をしていくわ。心配しないで」

 彼はまだ何か言いたそうにしていたが、やがて諦めた風に息を吐いて忍びの地図に視線を落とす。そうしてまた厳しい表情に戻ってその指先でとある通路をなぞりながら、言った。

「そういえば…君は、どう思う」

「何を」

 彼が辿っているのは、4階の隻眼の魔女像からホグズミードへと続く隠し通路だ。リーマスは人差し指でその通路が地図上から切れるところを2、3度叩き、続ける。

「ブラックがどうやってこの城に侵入したか、だよ」

「…ああ、そうね」

 も眉を顰め、絶えず動き続ける数々の点が蠢く地図を見つめる。無論その中にシリウス・ブラックの文字はなかったが。闇の魔術に対する防衛術のオフィスに、自分と、そしてリーマス・ジョン・ルーピンの名が並んでいるのを見る。

「想像もつかないわ。でも二度もこの城に侵入して、どちらも逃亡にまで成功している。杖がなければまず、そこまでのことはできないと思うわ。いくら帝王の下で強力な闇の魔法を習っていたのだとしても。私もきっとセブルスも、そんな術は、まったく思い付かない」

「…でも彼は、イギリス中で手配されているんだ。どうやって杖なんて購入できる?」

「それは…推測の域を出ないけど、でももしも彼が既に他の死喰い人と接触して、それが10年前の裁判で無罪を勝ち取った人間だとすれば…その人物が大っぴらに杖を買うことは可能よ。もちろん、最も適した杖は本人が買いに行かないことには得られないけどね。でもとにかく杖さえあれば可能性は広がる」

「杖があれば、城への侵入も可能になる?」

「…いいえ、それは」

 分からない、といってはかぶりを振る。杖を手に入れたからといってあらゆる出入り口を固めている大量の吸魂鬼をどうやって出し抜くのか。仮に守護霊でその場は凌げたとしてもそうすれば必ずダンブルドアに報告が入るはずだ。もしくは怒り狂った吸魂鬼が総出で彼を追い詰めるか。どちらにしても可能性としてはあまりに低い。

「…一つだけ、考えていたことが、あるんだ」

 呟いた彼の顔色はいつの間にやらすっかり暗くなり、自分のその考えにひどく怯えているようだった。はそっと、訊ねる。

「…何か考えが、あるの?」

 彼は地図から指先を離し、代わりに取り出した杖で、悪戯完了と囁いた。ただの羊皮紙になったそれをしばらく無言のまま見つめ、やがて弱々しい声で、言ってくる。

「私も…ひょっとして、と思う程度なんだ。何の確証もない。でも他に、どうしても説明がつかないんだ…」

 強く先を促すことはしなかった。彼も頭の中で必死に整理しているのだろう。根気強く待つべきだ。私は、きっとそうだ、12年も彼を待たせてしまったのだから。

 リーマスは下唇を軽く噛み、思い切ったように視線を上げた。

「シリウス・ブラックの姿はこの近辺ではまったく目撃されていない。"シリウス・ブラックの姿"は、だ。だからつまり…他の何か、動物の姿をしていればもしかしたら…」

「ちょ、ちょっと待って!」

 思わず声を荒げ、は持っていたカップから僅かに紅茶を跳ねさせてしまった。それでも構わずリーマスに詰め寄る。

「ブラックがアニメーガスの姿で侵入してくるっていうの?それは…有り得ない話じゃないかもしれない。でも、だからといってそれで吸魂鬼を欺ける?吸魂鬼は目が見えないはずでしょう。いくら犬の姿とはいってもブラックが側を通って気付かないはずがないわ!有り得ない」

「あ、ああ…そう、そうだよね。うん、どうかしていたんだ。ただひょっとして、と思った、ただそれだけだよ」

 彼はそう言って曖昧に微笑んでみせたが、彼がどれだけ安堵したのかは手に取るように分かった。もしもブラックがアニメーガスの能力を用いてホグワーツに侵入してきたのだとすれば彼が動物もどきであるという事実をダンブルドアに打ち明ける必要がある。それは私にとってもそしてもちろんリーマスにとってもとてつもなく苦しいことだ。私にとってもリーマスにとってもダンブルドアの信頼は絶対であり生きていく限りにおいて不可欠だ。彼の取り決めを侵して叫びの屋敷を抜け出していたリーマスも、友人たちが非登録のアニメーガスになることを勧め毎月の冒険に自らの力を乱用して参加していた自分も。あの老人の信頼を失うことがこんなにも恐ろしい。

 だがアニメーガスの能力はこの際無関係だろう。犬になったところで所詮は人間なのだ。あの化け物が気付かないはずがない。そんなことは、有り得ない…。

 それでもは彼のオフィスを後にする際、消え去った地図を一瞥して言った。

「その地図を持っているのなら…時々は城内の様子を、見ておいた方がいいわね」

 立ち上がり、皿に残ったクッキーを二つ纏めて口に放り込んだリーマスは慌ててそれを飲み込みながら大袈裟に頷いてみせた。口腔を空にしてからやっと言葉を発する。

「ああ、そうするようにしているよ。これからも気を配るようにする」

「そう。じゃあ、お願いね。御馳走様」

 軽く右手を挙げて合図してから、扉を開けて部屋を出る。彼が確かに穏やかに微笑んだのを見て、胸の奥が温かくなるのを感じる。たった、それだけのことで。彼とこうして時折、子供の頃のようにとはいかなくとも共にテーブルを囲めるのが嬉しかった。日に日にますます不機嫌になっていくセブルスとのやり取りにも耐えられたのは、まず間違いなく彼のお陰だ。

「…どこに行っていた」

 ほとんど極限までと思われるほどに鋭く目を細めたセブルスが、危なげな声音で訊いてくる。は自分の椅子に腰掛けて机に置かれた書類の束を見ながら平然と言った。

「ルーピン教授のところ」

「…それで楽しくお茶でもしてきたと、そういうことか」

「そうよ。悪い?」

 こちらにまで聞こえるように舌打ちし、セブルスは書きかけの書類に覆い被さるようにしてまた激しく羽根ペンを動かし始める。そして突然思い出したように吐き捨てた。

「楽しいお茶会も結構だが、それは必ず今日中に終わらせろ」

「分かりました」

 とリーマスが親しくするようになったことに重なり、スリザリンが7年ぶりに優勝杯を逃したこともあってセブルスには鬼気迫るものがあった。それでもは普段と変わらないようにと努めて平然と振る舞うようにしている。いつかまた彼の信頼を取り戻せる日が来るのだと信じて。それは何もかも、ブラックが捕まればはっきりすることだ。裏返せばきっと、彼が捕まらない限りは私の無実は証明できない。

 セブルスとの関係は、どうしてもこのまま切り捨ててしまうわけにはいかなかった。

 小さく息を吐き、先程の紅茶の味を思い出しながら積み上げられた書類を一つずつ片付けていく。こうしていくことにはもうすっかり慣れてしまったはずだ。それでも居心地が悪いと感じてしまうのはきっと、セブルスと言葉を交わしながら過ごす時間が今まで長かったせいだ。そうしていくことに意味があったに違いない。

 だから、どうしても。

 はふと、5階の奥にある魔女の胸像を思った。