風はない、よく晴れ渡った清々しい一日だった。まさにこの日のために用意されたかのような、澄んだコバルトブルーの空。競技場はあっという間に爆発し、観客席からは生徒たちが雪崩のようにグラウンドに滑り落ちた。
「やった!優勝よ!私たちが勝ったのよ!」
グリフィンドールのジョンソンやスピネット、ベルたちが黄色い声をあげながら空中で抱き合っている。生徒たちの歓声や嵐のような拍手の中でも、不思議とそれはの耳にも届いた。そして傍らで打ち鳴らす、懸命の拍手の音すらも。
教職員のスタンドで、は僅かに首を捻って隣に座る男を見た。視線に気付いた彼もこちらを向き、まだ手のひらを打ち合わせながらにっこりと微笑む。つられたように薄く笑みを漏らし、はポケットに突っ込んでいた両手を抜き出して小さく拍手した。グラウンドに下りてきたグリフィンドールの選手たちが真紅の応援団に囲まれてすぐさま見えなくなる。
「やっつけたぞ、ハリー!お前さんが奴らをやっつけた!バックビークに教えてやんねえと!」
紅いバラ飾りをくたびれた服にべたべたと貼り付けたハグリッドが生徒たちの群れの中で涙を流しながら吼えた。グリフィンドールのスタンドに座っていたマクゴナガルはウッド顔負けの大泣きで、巨大なグリフィンドール寮旗で目尻を拭っている。やがて周りの生徒たちに肩車されて、こちら、教職員席のダンブルドアのもとへやって来る選手たちの笑顔はその日の陽射しよりも随分と眩しく感じた。遠目に見えるスリザリンスタンドの生徒たちやセブルスは苦々しげに顔を顰めているようだ。はさり気なく視線を逸らしてやはり傍らのリーマスを見る。彼は溢れ出てくる笑みを必死に抑えようとしながらも結局のところ無駄骨といった風に曖昧な笑顔のままで言った。
「いや、本当はどこか一つの寮に肩入れすべきではないとは思うんだけど…うん、でもやっぱり私は」
は鼻を鳴らし、小さな背凭れに僅かに体重を預けながら天を仰いで呟く。
「いいんじゃないの?だってあなたの、出身寮なんだから」
「あ、ああ、うん、そうだよね。うん、これくらいのことは…うん、そうだよ。ねえ、」
横顔に、彼の控え目な視線を感じる。上を向き、鳴り止まない歓声の中でそっと瞼を閉じ、は静かに微笑む。
「ええ、もちろん」
そうしてゆっくり目を開くと、輝く優勝杯をダンブルドアが涙で顔がグシャグシャになったウッドに手渡すところだった。歓声はさらに大きくなり、耳鳴りがするが、それでも決して不快ではない。
は教師になって初めて、自分の出身寮の優勝を素直に嬉しいと思った。
夢か、はたまた現実だったのか。そんなことはどれだけ考えたところできっと意味のないことなのだろう。
約束だと言われ、はそのことを話さざるを得なかった。馬鹿馬鹿しい。彼らとの約束をあんな形で破った私が、今更そんな儚い口約束に縛られるなんて。血に刻まれた契約以外、何の意味も成さないはずだ。だがしかし、その時ばかりはなぜか、話してしまわねばならないと、確かにそう感じたのだ。
弁解がましくなるのは避けられなかった。どうしたところで自分の犯した罪だけは変わらない。それでも話してしまわなければ、きっと一生後悔すると心のどこかで誰かが言う。
彼は、生き残ったたった一人の最後の親友だったのだ。
話し終えるまで、彼は一言も喋らなかった。彼の反応を見るのも恐ろしく、も俯いたまままるで石像にでも話しかけるかのようにただひたすらに言葉を続ける。歴代校長は額縁の中で起きているに違いなく既に一度彼女のその話を聞いていたはずだったが、彼らもまた何も言わずに静かにしているだけだ。ダンブルドアは。もしかするとこの部屋のどこかで、同じようにして聞いているのかもしれない。
全てを話し終え、ようやくゆっくりと顔を上げる。彼はまだ、立てた片方の膝に額を押し当てたまま黙っていた。ぎゅっときつく胸が締め付けられ、そして10年前のあの日のリーマスを思い出して身震いする。そこまで言われたら僕らだって失望する。何があるかなんて、分からないよ、…。
しばしの沈黙を挟んだ後、彼は俯いたまま消え入りそうな声で、言った。
「…それを、ジェームズとリリーは…」
「え?」
眉を顰め、声をあげると、徐に顔を上げた彼は潤む瞳を右の手のひらで隠しながら、呟く。
「あの二人は…そのことを、知っていたのかい?」
唇を噛み締め、ええ、と囁いた。瞼を伏せ、静かに続ける。
「彼らが…襲われる、ほんの数日前に。間違いに気付いた私は…急いでダンブルドアと、ポッター家に向かったの。そこで全てを打ち明けて、彼らに忠誠の魔法を勧めて…本当は、あんなことさえ起こらなければ…次の会合で、あなたたちに、真実を話すつもりだった。ジェームズとリリーが…ついていてくれるなら、私には、それが…」
ああ、また。そんなことは、悔いたところで何の意味もない。話せなかったのは、自分の臆病さが故だ。それ以上でも、それ以下でも。
非難を、罵声を。想定した。そうされるのが当たり前だからだ。何もかも全て、私の身勝手な思い込みが招いた…全て、私の。
だがしかし洟を啜って目尻を拭ったリーマスは、どこか安堵したように口元を緩ませながらを見て、微笑んだ。
「…良かった」
「 え…」
言葉を失って、その場に座り込んだまま硬直する。何が良かったと。私たちみんなをバラバラにして、彼らを死なせてしまった私の言い訳を聞いてどうして一体そんな言葉が、…。
「…何が」
激しく声を発したのは、の方だった。込み上げてくるのは憤りではない。自らを恥じ、貶める言葉ならばいくらでも出てくる。どうして。今更そんな情けは、必要ない!
「何が良かったって!?私がみんなを死なせたのよ!ジェームズもリリーも、ピーターも!シリウスを追い立てたのだってきっと…私が、私があの時彼の手を握っていればこんなことには!何もかも、私の思い込みが引き起こしたことなのに!ハリーから…あの子から家族を奪ったのは、私だっていうのに!どうして、どうしてそんなことを言うの!?罵倒すればいいじゃない!好きなだけ殴ればいいじゃない!あなたから全てを奪ったのは、この私なのよ!!」
だが、彼は穏やかに微笑んだまま何も言わない。明かりを受けて煌くその瞳から時折涙を零しながらも、黙ってを見ていた。どうして。どうしてそんな優しい、哀しい眼で、私を見るの…憎めばいいのに。ハリーのように。私に向けられるあの子の瞳は、自分の罪を永遠に記憶させるに十分だ。それで、いいのに。
「それは、違う」
やっと口を開いた彼の喉から紡がれたのは、そんな言葉だった。目を見開き、相手の真意を計りかねて動きを止める。握った拳が、力なく解けた。
「それは違うよ、。私からたくさんのものを奪ったのは、君じゃない。もっと別の大きな力だ。確かに君の行為は、私たちの運命を大きく左右したかもしれない。でもそれは結果論だ。私は君を憎むことなんて、できない」
「…どうして!私が帝王のところへ行かなければあの予言を聞くこともなかった!きっとシリウスが死喰い人になることもなかった!ジェームズとリリーが、ピーターが!あんな形で死ぬことはなかったしボーンズやマクキノンが殺されることもなかったかもしれない!ロングボトムがあんな…あんなことになったのも、全部!」
「、私の話を聞くんだ」
再び取り乱したように声を荒げたの肩を掴み、リーマスは厳しい口調で告げる。は彼の手から逃れようと身を捩ったが、それでも彼はその手を放さなかった。低めた声で、続ける。
「予言のことは…確かに驚いた。驚いたけど…でも君が聞かなければ、セブルスが聞いていただろう。セブルスが聞いていなければきっと他の死喰い人が聞いていたろうと思う。君はその場に偶然居合わせただけだ。あまり自分を責めないでくれ」
「どうして!そんなことを言ってたら世の中の何もかも、"偶然"に押し付けることができてしまうじゃないの!だったら私たちには何の責任もないわけ!?違うでしょう!」
「そんなことを言っているんじゃない。ただ、、私はどうしたところで君を完全に憎むことなんてできないんだ」
「どうして!!私は…私は 」
涙が。溢れ出た。喉から漏れた嗚咽を飲み込もうと、唇を閉じて咳き込む。相変わらず彼女の両肩を掴んだまま、彼は根気強く言った。
「それは」
彼の瞳が。真っ直ぐにを捉える。視線を上げたは思わず硬直し、息を呑んだ。目を、逸らすことができない。
「、獣の私を解き放ってくれたのは、紛れもなく、君なんだ。私にあらゆる幸福を初めて与えてくれたのは、他でもない、君なんだよ」
瞼の縁から零れ落ちた涙が、頬を擽る。それをリーマスの指先が、そっと拭った。優しい、温かい肌だ。こんな温もりは…穢れた私には、到底相応しくはない。それでも、拒むことはできなかった。
「それにきっと私が君でも、誰にも…打ち明けられなかったろうと、思う」
は薄く開いた唇を閉じ、じっと、彼の潤んだ目を見た。その眼球が、哀しげにこちらを向く。
「もっと君を信じるべきだった。もっと深く、追及すべきだった。君がその背にどれだけ重いものを負っているのか、私たちは知っていたはずなのに。もっと強く、君に問い掛けるべきだったんだ。あの時の君のように 私も、そうすべきだったのに。もっと君を、信じるべきだったのに」
「……」
なんということだ。悔いているのは、悔いるのはただ私だけであるべきなのに。それなのに。涙は、止められなかった。
「…ただ、一つ。心から良かったと思えるのは」
彼の言葉は、穏やかに続いていく。
「ジェームズとリリーが、君を疑ったままに死んではいかなかったことだ。打ち明けられたのなら彼らは、決して君を恨んで死んでいったわけじゃ、ないだろう?」
そっと放された身体でがくりと床に両手をつき、は茫然とした面持ちのまま、音もなく頷く。
「…ただ、どうして言ってくれなかったんだって。ジェームズには…馬鹿だって、怒鳴られたし」
悲しみからくるそれではなく、初めて昔をいとおしむように薄く笑いながら、彼は自分の乾いた唇をなぞった。
「…ジェームズらしいな。でも本当に、良かった。残念なのは…ピーターが君を、誤解したまま死んでしまったということだ」
「……」
彼は唇から笑みを消し、も俯いたまま項垂れる。ピーター。ごめんなさい。でもきっと…あなたは何の遠慮もなく、ただ私を憎んでいられるのよね。一人くらいはそういった誰かがいる方が、きっといい。生温い感情を切り捨てなければならない時は、この先必ず訪れるはずだ。そうした時に彼の存在はきっと私を奮い立たせてくれる。
「とにかくもう、あまり自分を責めないでくれ」
伸ばした手を再びの肩に置き、彼は穏やかに微笑んだ。
「君はもう、十分に責めを負って生きてきたはずだ。もう、いいだろう?誰しも負い目を感じながら生きているんだろうと思う。でも君は、人一倍それを感じてきたはずだ。私には、分かる。だからもう、やめてくれ。君は打ち明けてくれたんだ」
は視線を上げ、細めた目で彼を見る。
「今自分たちにできることを、やってのけよう。ハリーを狙う人間がいるのだとすれば、私たちは彼を守り抜くべきだ。残された私たちには、そうする義務がある」
学生時代のシリウスを、思い出した。屈託のない顔で大胆に笑う彼を。だがしかし軽くかぶりを振って、その残像を払う。ダンブルドアの言う通りだ。そんなことは彼と話ができるようになってから考えればいい。今はただ、一刻も早く彼を捕らえるべきだ。
頷いて、リーマスの眼を見返す。彼は疲れた顔色の中でも柔らかく微笑んで、言った。
「もう一度君を、親友と呼んでもいいかな」
これ以上泣かせるなと言って、は声をあげて、泣いた。