やられた。
ダンブルドアの"お茶目"な"罠"だ。は目の前に広げられた3つのグラスや数本の瓶を見下ろして立ち尽くす。それはほとんど向かいに立つリーマスも同じことで、惚けた顔でじっとダンブルドアを見ていた。当の本人は脇に片付けたテーブルの跡で鼻歌雑じりにたくさんの菓子を広げている。ハニーデュークスで見るような魔法のお菓子もマグルのものも様々だ。ははっとして床に膝をつき慌ててダンブルドアを手伝った。彼はにこにこと首を振る。
「呼び立てたのはわしじゃ。お客様はのんびり待っておいて下され」
「で、ですが…」
ダンブルドアは本当に楽しそうに床に広げたシートの上に小さな宴会の準備をしていく。まるでピクニック気分だ。何が面白いのか額縁の中の歴代校長たちも陽気にそれを見ていたし不死鳥も何やら微かに歌っているようだ。戸惑うリーマスと一瞬目線を合わせ、仕方なくその様子を見守る。
イースター休暇の前夜、はダンブルドアに呼び出された。ハグリッドへの言伝をよく頼まれるはまたその類だろうと踏んで出掛けたのだが、ダンブルドアは一緒に飲もうと言ったばかりだ。すぐにリーマスもやって来た。なるほどそういうことかと、は胸中で毒づく。
ハグリッドの時もそうだった。うまく歩み寄れない二人を気遣う風にしてしばしば共に仕事をさせる機会を作ったりした。だがリーマスは違う。私が彼にしたことは、いや、正確に言えば私の罪の行為が彼に及ぼした影響はとても口では語れないし、またそうするべきでもないのだろう。どうしようもないのだ。それはダンブルドアにも分かりきっているはずなのに、それなのに敢えてこのような場を設けようというのか?
それでも、目くじらを立てて部屋を飛び出せるほどの気力は持ち合わせていなかった。向き合う勇気も、そして逃げる度胸すらも。同じだ。そうして私はずっとハリーを追い立ててきた。
最低だ。こんな私が彼らの親友だったと、どうしてそんなことが言えよう?
(まったくどうかしてるのよ…彼はいつだって、そうよ。何も、考えちゃいない…)
それならば自分は考えているとでもいうのか。本当に、そう言えるのか。
(分からない…そんなこと、私に分かるわけがない!)
自分に分からなくて一体誰に分かるというのか。つまるところ誰も、何も分からないということだ。確かなのはたったそれだけ。それだけのことに気付くまでにも、こうして時間は過ぎる。
(違う。そんなものは逃げに過ぎない。私が歯車を狂わせたのだから、私が元に戻さなければならない)
そんなことが、できるはずがない。
あの頃も、そして今この時も。私は無力な臆病者のままだ。
(それを言い訳にするのか)
違う!!
「 先生」
脳の奥に響く鈍い声を潜り。凛とした男の声がした。知らず知らずのうちに握り締めた拳には不快な汗が絡まっている。はっとして顔を上げると、不安げに瞬くダンブルドアが菓子を広げた敷物から徐に立ち上がりを見る。その向こうに立ち尽くすリーマスも僅かに驚いた様子でこちらを見つめていた。そうだ、いつだってこうだ。こうして引き戻すのはいつもこの男なのだ。セブルスの声が聞こえたのだろうか。まさか、有り得ない。もしかすると自分が叫んでいたのかもしれないが。は拳を振り解いて力なく微笑んでみせる。どちらにしても結局そんなことは分からず仕舞いなのだろう。それでいい、そうして有耶無耶にしてしまえばいい。
「ダンブルドア校長。確か、シニストラ教授が嗜んでいらっしゃるワインが上等のフランス製だとか。先日分けて貰うお話を頂きましたので、今から伺って参ります。少し、お待ち下さい。ルーピン教授も」
「ほう。それは有り難いことじゃのう。実に楽しみじゃ」
にこりと微笑んで、ダンブルドアが目を細める。はリーマスの顔を見ないまま、踵を返して校長室を出た。足取りは決して軽くなどない。ただ深呼吸を繰り返すためだけの歩みを進める。大したことはない。こんなことは、容易に想像できたことだ。
本当に?
自問したところで何が返ってくるということもない。自分が答えるのだからそんなものは端から分かり切っているのだ。それでも自問を繰り返すのはただ不安だからに過ぎない。確かな何かを掴みたかった。
そんなもの、始めから持ってなどいないというのに。無いものを掴もうとしてもそこには空虚があるばかりだ。空を切った手のひらに意味などあるはずもない。
(確実なのは、ただ…)
シニストラのオフィスの前で、は音もなく立ち止まった。扉越しに何やら一定の小さな振動が聞こえてくる。天体の動きを明るい時間でも知るための道具か何かを開発しているのだとシニストラは言っていたか。それらしい音に聞こえなくもない。もっとも真面目に聞いていたわけではないのでその概念は曖昧だし、そもそもその方向性すら怪しいがさして重要なことでもないだろう。少なくとも自分にとってはどうでもいいことだ。
は扉をノックするのを止めた。シニストラの邪魔をしたくなかったといえば尤もらしい理由にもなろう。元々会うつもりもなかったが。この時間はそれぞれが好きに使っているということは分かりきっていた。肺の底の空気を入れ替えたかっただけだ。
ドアノブに触れないまま戻りかけたは、だがしかしふと脳裏を過ぎったものに気付けばその足を止める。止めざるを得なかった。ダンブルドアの嬉しげな顔を思い出したのだ。聞き分けのない子供ではないが、あの男は落胆を隠すまい。それが故意ではないにせよ。大袈裟に嘆息し、重苦しい気持ちでは天文学のオフィスをノックする。
がっかりさせたくないなどと。
案の定、研究(なのだろう、恐らく)を邪魔されて不機嫌そうなシニストラの顔を見ながらは思う。確実なのはただ自分があの老人の落胆した顔を見たくはないと、たったそれだけのことだった。
楽しい宴とは到底言えない。そんなものを大人になってから持ったことがあるかと問われればそれだけできっと答えはノーだが。だがこれは、あまりに度を越している。分けて貰ったアルコールがひどく不味かったと言えばシニストラは拳を振り回して怒るだろう。そういった子供っぽさはいつまでも健在らしい。羨ましいとは思わないが、ある種の希望は持てるような気がした。はどうにでもなれという思いで新たに注がれたワインを一気に飲み干した。広げられた菓子は随分と片付いた。ダンブルドアが最もよく食べていたことは言うまでもないが。もリーマスも言葉少なに、ただ多くを語らずに済む程度に口内に物を含んでいた。
だがは、元々アルコールにひどく弱い。きっとダンブルドアの半分も飲んではいないだろう。それでも意識が朦朧とし軽い頭痛を覚えさせるには十分だ。額縁の歴代校長たちもこれは良い機会だとばかりにドンちゃん騒ぎをしていたが、その上機嫌な声すらも次第に遠ざかっていくように思う。リーマスはそんな彼女を心配そうに見ていた。
酒を酌み交わすのならば、こんな形ではなく。何のしこりもなく心から笑いながら杯を交わしたかった。そんなことを言ったところで意味はない。何の、意味もない。あの夜ジェームズに手渡されたアルコールはひどく温くなった間延びしたワインだったが、それでもこの酒よりは何倍もましだろう。
「…、大丈夫かい」
リーマスが、伸ばした腕での肩を軽く揺さぶった。は床に突っ伏してその手からはグラスが離れる。リーマスの声が、掠れていく。飲み過ぎたかもしれないと、大抵のことは気付いた時にはもうとっくに手遅れなのだ。
…見えたのは、同じようにして床に倒れ込んだリーマスの姿だ。夢か、いやきっと夢なのだろう。ダンブルドアの姿はない。ただ静かな校長室で、二人してだらしなく眠り込んでいる。
身体を起こそうとしたが、肩が重い。後頭部が鈍く痛んで眼球の奥は弾け飛びそうだ。無理をして起きることもないだろう。どうしたところでいずれこの夢は覚めて私はまたいつものように仕事につく。交わす言葉もなく、セブルスの隣でただ黙々と手足を動かすだけの。
いや、こうしてこのまま眠っていればいい。眠り続ける私の夢の中で、穏やかに眠るリーマスがいる。起き上がれば待ち受けるのは理不尽ばかりの世界だ。それならばこのまま、眠っていればいい。いっそのこと、このまま。
「…」
菓子の残骸が散らばった床の上に突っ伏したまま、リーマスが呼んだ。やはりこれはきっと、夢なのだ。とても現の世界の声とは思えない、神々しいという言葉のよく似合う響きだ。いや、単に私の耳がおかしくなったのか?そんなことは、どうだっていいだろう。
彼は僅かに上半身を起こし、虚ろな目を擦りながら寝そべったまま床に肘をついた。寝起きの上機嫌な老人のようだ。は首だけを捻って仰向けにそれを見る。
これが確かに夢ならば、きっとあの悪夢のような日々も全て幻だったのだろう。私たちは、親友でいられるばずだ。
それでもは、彼の名を呼ぶのを躊躇った。
(馬鹿馬鹿しい!)
夢ですら恐れるそれとは一体、何だ。そんなものは。そんな、ものは…。
拳を握った、つもりでいた。だが夢の中で金縛りでもかけられているのか、実際にの指はぴくりとも動かなかったが。現の自分はきっと寝返りくらいは打ったのかもしれない。それはつまり、夢よりも現実の方が自由だとでもいうのか。
彼の名は、知っているだろう。
呼べばいい。昔のようにして、その名を呼べばいい。
名前は、知っているはずでしょう?
…それなのに。
(自由なはずの夢の中でまで、どうして私は囚われているの?)
唇が動かないのなら、心で叫べばいい。幾度となくそうしてきたはずだ。これが夢ならば。私は何処へでも行ける。何でも自由に話すことができる。
何かのしがらみがあるのだろう。夢の中にまで罪を持ち込まねばならないようだ。舌打ちするに替わるようにして、夢見心地な眼をしたリーマスはゆっくりとその唇を開いた。
(何も、言わないで)
何でも言えばいい。私の夢だ。私の解釈でいくらでも変われる。
だが。
「…ハリー」
彼は突然、そんなことを呟いた。は夢の中で硬直した。確かに言い様のない寒気を感じてただ熱を求めるが、そんなものは何処にもないらしい。探したくとも、動けない。
(こんなことは、あるはずが…)
やはりそれは舌から紡がれることはない。心の内で叫べた風でもない。どこか曖昧なところに霧散していくような。まったく、不可解なことばかりだ!
「…君は随分と、あの子に辛く当たっているようだね」
リーマスが言ったのは、そんなことだった。怒るでもない、嘲るでもない。ただ、彼は悲しそうだった。夢なのに。これは夢なのに、一体どうしてこんなところまで。それとも、これこそが咎だとでも言うのか!
(私が生徒をどう扱おうと、そんなことはあなたに関係ないでしょう)
やはり声は、出なかった。恐らく。だが彼は答えた。それもきっとこれが夢である証なのだろう。それでいい。そうでもなければまともに会話も交わせないのだから。
「もちろん、君は教師だ。指導方針は大きく外れることさえなければ大抵自分の意思で決められる。私もまたそうであるように。そしてダンブルドアはほとんど全ての教師の意思を大いに尊重している。彼はそういう人間だ」
(分かってるわ、分かってるわよ。その私の方針にどうしてあなたが口を挟むの。あなたが!)
彼の瞳の色は、深い。だがダンブルドアに及ぶはずもない。それなのにその眼は、確かに彼女を捉えて離さない。同じだ。ダンブルドアのあの青い瞳と…。あるはずがない。そんなことが、あるはずもない!
彼はその目を細めて、僅かに眉を寄せる。やや時間を置いて、言う。重々しい、言葉だった。
「親友だったからだよ」
夢の中で、は確かに息を呑んだ。仰向けになっていた自分の身体はいつの間にか、起き上がって正面のリーマスを見ている。目を逸らすことができなかった。彼もまた、一瞬も視線を外さない。
「君はあの二人と、確かに親友だったじゃないか。7年も、ずっと、一緒にいたんじゃないか。卒業してから、君に何があったのか私は知らない。でもハリーは、あの二人の息子なんだ。分かるだろう、君はセブルスとは違うはずだ 」
「あなたに何が分かるのよ!!」
どこから飛び出したのか、自分でもよく分からないほどに震える声が出た。だがそれを考えることにきっと意味などないのだろう。夢に厳密な意味を求めるのは正しくない。全てが曖昧なはずだ。
突き出した両手がリーマスのくたびれたローブを乱暴に引き寄せた。互いに、実年齢を思えばきっと笑えるほどに老け込んでいるに違いない。髪の毛に白が混じっていないだけ自分はまだましかもしれないが。その額を突き合わせて、は憎々しげに声を荒げる。服の重みが随分と現実味を帯びてきた。目覚めの時が近いのかもしれない。彼の瞳は儚げだった。ただひたすらに悲しそうだった。
「あなたには分からない!あなたたちを…あの二人を裏切った私が、どうしてあの子に顔向けできるって!?私はあなたとは、違うのよ!他にどうすれば良かったの?私が、私であることで憎まれるしかないじゃない!他に私に…何ができたっていうの!?」
指先にこめた力が、一瞬で崩れ落ちる。泣きたくなどないのだ。それなのに頬を濡らすそれは一向に治まる気配を見せない。はその場に座り込んでただ声をあげて泣き続ける。こんな夢ならもう、覚めてしまえばいいのに。唯一の逃げ場だったはずが、神はそれすらも奪い取るのだ。私にはもう、何も残らない。
「…どうして」
リーマスの声だけが 相変わらず悲しそうな、その声だけが、いつまでも耳の奥に響く。やめてくれ。もう、聞きたくはない。起こしてしまって。お願いだから。
「どうして、死喰い人なんかに…、一体どうして」
夢の中でまでそんなことを、語れというのか。この髑髏の所以を?
(…聞かせたところで、意味なんてないでしょう)
「どうして」
仰向けに倒れたは、空高くにそびえる塔の上を見ていた。天井…?いや…。
(どうせこれは、夢なんだから)
卑屈に笑いながら呟いたに、リーマスの声は平然と切り返してきた。空が、明るくなってきた…。
「誰が決めたのかな。今私たちが、夢の世界にいるんだって」
(そんなこと。決まってるじゃない。私が眠っているからよ)
「君は確かに、眠っていると?」
(それは何かの確認のつもりかしら)
「だったら、ねえ、」
ほとんど白で塗り潰された視界の中に見たその塔を、は知っているような気もしたが。
「約束してくれないか。もしもこれが夢でなければその時は、君が僕たちを離れてまでヴォルデモートについたその理由を教えてくれると」
閉じた瞼を薄く開いたその時、見えたのはまだ随分と若い、白髪や皺などはまだまったくないリーマスの顔だ。これがどうして夢でないなどと馬鹿げたことが言えるのだろうか?
約束。そんなものに大きな意味はない。
『約束よ、』
…そんな、ものには。
はきつく、目を閉じた。
はそっと、目を開けた。34歳のリーマス・ルーピンは確かにそこに立っていて、悲しげな、それでいてどこか強さを湛えたまさに獅子寮生の名に相応しい眼をしていた。微笑みというにはいまひとつ足りないような曖昧な笑みを唇に浮かべ、言ってくる。
「約束だよ、。あの時のことを、何もかも聞かせて欲しい」