クリスマス休暇も終わり、城に戻ってきた生徒たちはスネイプとの不仲は解消されたらしいと口々に囁き合ったがそれは間違いだ。はとうとう完全に諦めてつんつんするのをやめただけだ。仕事は互いに滞りのないように進めた。だが最早二人の間にプライベートな会話は一言もない。教授と、その助手を務める助教授。関係はそれ以外の何物でもなかった。
ファイアボルトは知らない間にセブルスがマクゴナガルに戻していたようだ。彼女によると問題は全く無かったらしい。3月のレイブンクロー戦を控えマクゴナガルも神経質になっており、これからポッターに箒を返しに行くところだと言った。
「勝てると良いですね」
は心にも無いことを言いながら職員室のドアを開けマクゴナガルを先に通そうと脇に避けたが、マクゴナガルはファイアボルトを持ったまま表情を曇らせた。
「…どうかなさいましたか」
職員室には他に誰もいないというのにマクゴナガルは声を低めてますます眉を寄せる。
「スネイプ先生と一体、何があったんですか」
咎める風な同僚の顔ではなく、それは純粋に彼女を案じる教師としてのそれだ。は答えずに眼鏡の奥で煌く彼女のビーズのような眼をじっと見ていた。
「どうもあなたの様子もおかしいですし…それに、セブルスも。一体どうしたというんです」
は俯き、指先に隠すようにして小さく笑った。学生時代に同じようなことで寮監に心配されたことを思い出したのだ。何年経ってもこの人は変わらないのだと純粋に嬉しく思った。
「先生」
口元を押さえたまま眼球だけを動かして、は訝しげなマクゴナガルを見る。彼女もまたダンブルドアに杖を向けた自分を解そうとしてくれた人間の一人だ。
「私はもう、子供じゃないんですよ。誰とどういう付き合いをしていくかは自分で見極められます」
「確かに」
言いながら、マクゴナガルは右手の中指で眼鏡を押し上げた。そのフレームの上から探るように視線を上げる。
「あなたのことは同僚としても認めていますし、私が介入すべき問題ではないでしょう。ですが、忘れないで頂きたいですね。何年経っても、あなたは私の大切な教え子だということを」
「…」
何も言わずに、俯いた。後ろに一歩引き、開いたドアに軽く左腕を伸ばして外に出るようにと促す。マクゴナガルはその場でしばらくを見ていたが、やがて小さく頭を下げて職員室を出て行った。熱くなった目頭を押さえつけ、もまたよろよろと部屋を出る。簡単な鍵をかけて振り向くと、既に廊下にマクゴナガルの姿はなかった。
感情論だと言う時、それは大抵下らない議論として片付けられるのが常だ。だがどうもセブルスに嫌われそうな情ばかりが先走っては閉めたばかりの扉に額を押し付けて吐息する。それでもこればかりは、捨てられそうにない。きっとセブルスとて同じことだろう。だから戦うのだ。馬鹿げていると、口で言うばかりで。
いつの間に覚えたのか。3月に行われたグリフィンドール対レイブンクロー戦、はセブルスではなくシニストラと並んで試合を観戦していた。やはりまだ喧嘩中なのかと不思議そうに言ったシニストラに、はからりと晴れ上がった空に舞い上がる選手たちを見上げて聞こえない振りをした。セブルスは教職員の多いスタンドの少し離れたところに一人で座っている。新月が近く調子のいいリーマスはさらにそこから離れたところにフリットウィックと並んで座っていた。
その試合中、何を思ったのかいきなりハリーは守護霊の呪文を唱え見事にそれを成功させたのだ。パフォーマンスか何かのつもりか?だがその大きな守護霊が(有形だが輪郭はまだぼんやりしている。それにしても3年生の生徒が創り出すにしては十分すぎるだろう)直撃した先に黒い何かを見ては素早く立ち上がった。それは吸魂鬼ではなく、ハリーを驚かせようとしたドラコを始めとするスリザリンの子供たちだったわけだが。
「浅ましい悪戯です!」
やセブルスが駆け寄ったところで憤怒の形相をしたマクゴナガルがまだ地面に転がってもがいていたドラコたちを見下ろして叫ぶ。
「グリフィンドールのシーカーに危害を加えようとは、下劣な卑しい行為です!全員処罰します!さらに、スリザリンは50点減点!このことはダンブルドア先生にお話します、間違いなく!ああ、噂をすればいらっしゃいました 」
はぱっと振り向いてダンブルドアが滑るようにやって来るのを見た。頭巾のついた長い黒いローブから脱出しようとドラコはバタバタ暴れ、ゴイルの頭はまだローブに突っ込まれたままだ。ダンブルドアはほとんど全く色のない眼でスリザリン生たちを見下ろし、まことに遺憾じゃと言って処罰を全てマクゴナガルに任せると告げた。
「それで構わんのう、セブルス?」
少しだけ首を傾げながらダンブルドアが問い掛けると、セブルスは顔を顰めつつ「もちろんです」と頷いた。"そんな…"とショックを受けた顔をしたドラコに軽く目配せし、ダンブルドアが去った後ではドラコたちを縺れたローブから引きずり出す。3人の下敷きにされ顔面から地面に突っ込んだフリントは鼻が曲がり顔中血だらけだった。はひとまず流れ出る血だけを魔法で拭い、4人ともを立たせてやる。憤然としたままのマクゴナガルに顔を向け、はっきりと言った。
「マクゴナガル教授、処罰はまた後日で結構ですね?彼らは手当てを受けなければいけませんから」
"自業自得です"と鼻を鳴らしながらもマクゴナガルは「行きなさい」と顎だけで言い、はフリントに手を貸して彼らと医務室に向かった。セブルスはその後ろ姿を見送るばかりでついてはこない。試合に勝ったグリフィンドールの寮生が沸き立って城に戻っていく最中だったので、は彼らを鬱陶しそうに脇に退けながら歩いた。
ドラコたちの怪我は、ポンフリーの手にかかればそれこそものの数分で完治した。折れたフリントの鼻もだ。恐らく彼女に治せない怪我などない。骨すら再生させるような校医だ。ひょっとして聖マンゴから引き抜いてきたのかもしれないとは何度か思ったことがあった。あそこは魔法界でも最大にして最高の病院だ。厄介になったことは有り難いことに無いが。見舞ったことは、ある。たったの二度。一度はリーマスに会って怖気づいて逃げた。二度目も逃げそうになったがその前にあの男の母親に見つかって留まらざるを得なかった。どちらも彼らに会うだけの勇気は持ち合わせていなかったのだ。それでも足を運んだのは罪の意識を消せないからだ。そして自己防衛の本能が働いてのことだろう。どちらもどうすることもできないが、見舞う勇気すら潰えた。ネビルの顔を見ると、それすらもできなくなったのだ。
「少し考えが足りなかったわね」
ポンフリーが呆れ顔で自分のオフィスに引っ込んだ後、はベッドに腰掛けて項垂れるドラコたちを見た。
「弁解の余地もないでしょう」
俯いたまま、誰も何も言わない。他のどの寮よりも概してスリザリン生に甘いだが、悪戯にしては吸魂鬼の真似事はやり過ぎだ。尤も誰に習ったのか(まず間違いなくリーマスだろうが)ハリーはきちんと対応を考えていて怯えることもなく、大きな問題にはならなかったが。
「あれでもしもポッターが箒から落ちたりしていたらあなたたちも減点や罰則どころじゃ済まなかったでしょうね。運が良かったと思いなさい。あなたたちはもう少し賢明だと思っていたのだけれどね」
クラッブやゴイルは大抵何も考えていないし(父親にそっくりだ)、フリントは媚びるばかりで本音を表すことはない。だがの前では飛切り素直で従順なドラコはこれにはすっかり落ち込んでとうとう医務室を出るまで一言も喋らなかった。
「何かを目論むのならそれなりに慎重にということよ」
地下には潜らずにそのまま校庭に戻ろうとしたは玄関ホールで彼らと別れる際、ドラコにそっと声をかけた。彼はまた子供のように目を輝かせて、嬉しそうに頷きながら地下に続く階段をフリントたちと下りていった。外は既に真っ暗だがまだ夕食には時間がある。城の外の空気を吸っておきたい気分だった。
子供たちにとってこの城は、第二の実家なのだろう。だが自分にとっては違った。生まれ育った家も同然だ。幼年時代を過ごした家に未練はない。両親の墓もこちらにあるのだ。日本に未練はない。それはきっとあの蛇も同じことだろう。彼はこちらに家庭を持った。あの裏山に未練はあるまい。大よそ可愛い子がいればそれだけで十分のはずだ。
吸魂鬼が側にいるだけで、嫌な思い出ばかりが浮かんでくる。自分が"名前を言ってはいけないあの人"の孫だと分かった時だとか、そうして親友たちから離れていった時だとか。シリウスがセブルスを死なせかけたことだとか、ダンブルドアが母を殺したのだと告げられたことだとか。ジェームズに殴られたことだとか、仲間の殺した数々の死体を始末したことだとか。嫌な思い出は何でも鮮明に蘇ってくる。
そして、愛する人々の最期の声だ。
単なる思い込みであってそれは外から聞こえてくるのではなく自らが創り出しているものなのかもしれない。それでもは愛する人々の最期の声を聞いた。帝王の落ち着き払った声までもだ。
狼狽える父に、帝王が語りかけるのを聞いた。
『親愛なるお父上殿。我が最愛のを無事にお育て下さったことには、心からの謝意を表します』
『な…君は、一体。を、あの子の居場所を知っているのか!』
次に帝王が発したのは、父の問い掛けへの答えではない。そんなものは端から用意されてなどいなかった。
『アバダケダブラ!』
その先の父の声は、聞こえない。何も、聞こえなくなる。壊れたラジオのように掠れた音で、だが脳の奥に確かに聞こえてきた母の叫びは少しずつ大きくなっていく。
『お願いです、先生…あの子だけは、助けてやって下さい!』
繰り返される。ジェームズの厳しい声だったり、リリーの、文字通り命懸けの懇願であったり。涙の滲むピーターの叫びだったり。そういったものは終わりなく巡っていくばかりだ。
結局みんな、殺したのは帝王なのだ。それなのに私はダンブルドアではなく、あの男を信じて進んだ。母の敵を取ろうとして手を貸したのはその仇本人だ。そうして大切な人々を失った。
樫の扉を出て城の前の石段に腰掛けたは月のない空を見上げた。城の明かりがまだ強いので星は見えない。見えないだけだ。無数の星々がそこには散らばっている。
ふと見下ろしたそこに、オレンジ色の何かが転がっていた。そしてそれは、のそのそとゆっくり石段を上がってくる。
猫だった。赤味がかったオレンジ色の毛をたっぷりと身体中にたくわえ、気難しそうな顔は可笑しな具合に潰れている。まるで煉瓦の壁にでも正面衝突したかのようだ。城に戻ってくるということは誰かのペットなのだろうが、少なくともスリザリン生の猫ではないだろう。歩き方もどこか変わっている。が呼びもしないのにゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄ってきた。
「…初めて見るわね。ご主人様はどこの誰?」
は仕方なくその猫を両手で持ち上げて膝の上に乗せたが、猫は満足げに丸くなって目を閉じる。こんなところで寝られては敵わないと怒られない程度に揺り起こした。醜い顔で思い切り欠伸を漏らした猫は顔を上げてじっとを見る。何か言いたいことでも有りそうな雰囲気に見えた。だがまさか、そんなことはあるまい。過去に猫と親しくなった覚えもない。
「ごめんなさい。猫の言葉は分からないのよ。あなたが蛇だったら良かったんだけど」
言って猫を膝の上から下ろし、は物憂げに立ち上がる。戻らなければ、セブルスにまた妙な疑惑を持たれても不愉快だ。すると猫は猫らしくひらりと軽やかに石段を飛び下りて、まるでついてこいと言わんばかりにを何度も振り返りながら歩き出した。その行動が気にならなかったわけではない。明らかにあの猫はを意識して森の方に向かっている。
だがは、階段の上からその後ろ姿に大きく呼びかけた。
「ごめんなさい。私は戻らないと。あなたも早めに主人のところに帰りなさいな。夜は物騒よ」
そして踵を返し、樫の扉を押し開けて地下へと戻る。セブルスはオフィスで自分の机に着いて黙々と仕事をしていたが、が帰っても視線すら上げなかった。それももうすっかり慣れた。も何も言わずに自分の席に座り、脇のレポートを引き寄せる。それから夕食を摂りに大広間に行くまで、部屋には羽根ペンを走らせる音と時折羊皮紙を繰る音ばかりが響いた。ヒッポグリフの裁判は1週間後に迫っていたが、やはりはハグリッドと一言も話をしなかった。