ハリーは週明けの月曜日に退院した。ダンブルドアが落下の衝撃を和らげたお陰で後遺症もないらしい。それからは取り立てて大きな事件もなく、クリスマス休暇が近付いてきた。学期最期の週末は生徒にホグズミード行きが許可され、もまた巡回を任されている。
セブルスとの関係は相変わらずだったが、彼はが研究室を出る時には行き先と、何分で戻るのかをやたらとしつこく訊いてきた。そのことにうんざりして用事がなければ極力外に出ることは控えるようになったが、だからといってセブルスの態度が軟化したわけではない。私室にいる時は一人でコーヒーを飲んでとにかく心も身体も休めようと横になってはみたが、それもあたわなかった。
その日も、朝からセブルスは煩かった。ホグズミードのどの辺りを見回るのか、何時までには戻るのか。は口答えするのも面倒だったので一日の予定を大まかに告げて地下室を出た。大抵いつもホグズミードの巡回は二人のどちらかが参加することになっていてセブルスは片付けるべき書類が溜まっている。マントを着込んでマフラーをきつく巻きつけたが雪のちらつく外に出ると、すっかり生徒たちのいなくなった校庭ではマクゴナガルにフリットウィックが彼女を待っていた。
「ファッジがシリウス・ブラックの件でお見えになっています」
湖の側に見慣れぬ上等の馬車が停まっているのを見てが眉を顰めると、マクゴナガルが言った。
「今はダンブルドア校長とお話を。その後でホグズミードにも来られるそうですよ。5時に三本の箒で一緒に休憩を取ることになっています。先生も如何ですか」
「はあ…そうですね。分かりました。ご一緒させて頂きます」
が浮かない顔で言うと、フリットウィックは楽しそうに笑った。彼は知らないのだ。がファッジの手で(尤も、そうさせたのは魔法省のもっと古株だろうが)アズカバン送りにされたという事実は。それを知るのはホグワーツではダンブルドアにマクゴナガル、セブルス、そしてハグリッドだけだった。ファッジの馬車はあの時のものとはまた違っている。無駄なことに金を使うなと喉の奥で吐き捨てた。もっと他にいくらでもやることがあるだろうが。
いつものように他の教員と別れたはゾンコの方にゆっくりと、だがきびきびと歩いていった。雪は次第に強くなっている。悴む手をマントのポケットに突っ込んでマフラーに唇を埋めた。長く吐き出した息が自分の首筋を暖めては熱を奪われていく。通りを行き来する子供たちの姿も脇の店内へと雪崩れ込んでいった。
はふと足を止め、側の店先に貼られていたポスターを見る。どこもかしこもシリウス・ブラックの写真でいっぱいだ。そしてそれはかつての彼を知る者でもそうと言われなければきっと気付かないであろう、それほどの変わり様だ。
当然か。あれからもう、12年だ。彼が過ごしてきたのは、あの暗く湿り切った監獄の中。変わらない方が不自然だ。はまた吸魂鬼の腐った身体を思い出してマントの中で身震いする。振り払うように息を吐いて歩き出した。
好きだった。
一生で一度だけ、愛した男だった。ホグワーツに来る前は、周囲の人間にほとんど興味がなかった。つまらない奴らばかりだと思っていた。ホグワーツに入学して最初に知り合ったジェームズとシリウスは共に魅力的で好きにならざるを得なかったろうと思う。きっと何度生まれ変わっても私は彼らを好きになる。
ジェームズ。大切な親友だった。いつだって側で一緒に笑ったり泣いたり、こんな私の為に怒ってくれた。リリーもそうだ。とても正義感が強くて、優しくて、厳しくて…本気で怒って、涙を流してくれた。彼らが結ばれて、私がどれほど幸せだったか。
…シリウス。
幸せだった、本当に。彼は帝王の孫である私を受け入れ、抱き締めてくれた。何があっても、一緒にいると言ってくれたのに。私は自らその手を振り払った。突き放した。そして彼は…最愛の親友を、裏切った。私のせいだ。私が…私があの時彼の手を握っていればきっと。
でももう、そんなことを言ったところで意味が無い。彼は私たちの知らないところで帝王の腹心として動いていた。そして今、ハリーの命を狙っている。させるものか。その時は必ず、この手で彼を捕らえる。最悪、殺さねばならない状況も有り得よう。そうしてウィルクスやロジエールたちは死んでいった。その呪文は彼の為にこうして取っておこう。12年前のあの日、最後まで唱えられなかった呪文を。
約束の5時には、少し遅れた。は舞い上がる雪の中を急ぎ足で三本の箒へと向かう。ホグワーツの生徒や様々な魔法使いで混み合った店内でマクゴナガルたちを探して首を捻った。すぐに目に付いたハグリッドは奥のテーブルに座っている。4人用の机にもう一つ椅子を持ってきて座ったロスメルタの後ろ姿も見えた。ハグリッド、マクゴナガル、フリットウィック、そしてファッジだ。は僅かに顔を顰めながらもすました表情の下にそれを覆い隠し、彼らのもとへと歩み寄った。何やら熱心に話し込んでいるようだった。
「遅くなってすみません。ゾンコで少し厄介な事がありまして…。皆さん、どうかなさいましたか」
がひっそりと声をかけると、顔を上げた彼らの目はなぜか潤んでいるように見えた。は意表を突かれてその場に立ち尽くす。ばつの悪い顔をしたロスメルタが誤魔化すように笑って立ち上がった。
「あら、いらっしゃい。いつもので構わないかしら?それとも今日は飲んでから戻ります?」
「…いいえ、仕事帰りですので。ホットレモンソーダで」
が言うと、ロスメルタはヒールをコツコツと鳴らしながらカウンターに引っ込んだ。それを見送ってから側にある予備の椅子を一つ取り、ロスメルタの椅子の隣に置いたそれに腰掛けてマントに掛かった雪を大雑把に払う。
「皆さん、御疲れ様です。大臣も御機嫌如何ですか」
ファッジはを見て仕事の愚痴を軽く言いかけたが、すぐに喉の奥に押し込めて「お陰さまで元気だよ」とだけ言った。
「先ほどまで、一体何のお話を?話の腰を折ってしまったようで申し訳ありません」
「いえ、大したことでは。御苦労様です、先生」
マクゴナガルは微笑んでみせたが、それもどこか不自然な作り笑いにしか見えない。はフリットウィックが床に届かない足をブラブラさせるのを視界の隅で見ながら居心地の悪い思いで振り向いた。ちょうどロスメルタが注文の品を持って戻ってくる。ありがとうと言ってすぐに少しだけ口をつけると、身体中が温まった。
ロスメルタはそのまままた椅子に座り、身を乗り出すようにして机の向こうに掛けるファッジを見る。
「さっきの続きですけど、でも、ブラックは逃げ遂せなかったわね?魔法省が次の日に追い詰めたわ!そうでしょう?」
ああ、またブラックの話か。は冷めた思いでそれを聞く。彼が脱獄して以来、どこに行ってもシリウス・ブラックの話題は尽きなかった。三本の箒でも彼がどうやって脱獄したのか、どんな恐ろしい闇の魔法を例のあの人から教わっていたのか、考えただけでも身の毛がよだつと囁かれているのを何度も聞いた。ファッジやマクゴナガル、フリットウィックは気まずそうに目配せしてちらりとを見たが、は何でもないという風に肩を竦めてみせた。
「お気になさらず、どうぞ続けて下さい」
変に気を遣われる方が不愉快だ。ファッジはから目を逸らし、咳払いしてから言った。
「ああ、そうだ、それが魔法省なら良かったのだがね!」
はぴくりと片眉を上げ、眼球だけを動かしてファッジを見る。彼の方は明らかにの眼を避けてロスメルタを見た。
「奴を見つけたのは我々ではなく、チビのピーター・ペティグリューだった。ママさんも知っているだろう?きっと悲しみで頭がおかしくなったんだろう、多分な。ブラックが秘密の守り人だと知っていたペティグリューは自らブラックを追ったんだ」
「ペティグリュー…ホグワーツにいた頃はいつもあの二人の後にくっついていた、あの太った小さな男の子でしょう?」
ロスメルタは窺うようにを見ながら言い、答えたマクゴナガルもちらちらを見た。
「ブラックとポッターのことを英雄のように崇めていた子でした」
いい加減にしてくれ。私は、関係ない。は瞼を閉じて静かにレモンソーダを口に運ぶ。
「能力からいって、あの二人の仲間にはなりえなかった子ですが。私、あの子には時に厳しく当たりました。私が今どんなにそれを…どんなに悔いているか…」
取り出したタータンチェックのハンカチで洟をかんだマクゴナガルをファッジが穏やかに慰めた。
「さあ、さあ、ミネルバ。ペティグリューは英雄として死んだんだ。目撃者の証言では…もちろんこのマグルの記憶は後で消しておいたがね…ペティグリューはブラックを追い詰めたんだ!あんな小さな子が!泣きながら、『ジェームズとリリーを。シリウス、よくもそんなことを!』と言っていたそうだ。それから杖を取り出そうとした、だが…まあ、もちろん、ブラックの方が速かった。ペティグリューは木っ端微塵に吹っ飛ばされてしまった…」
吸魂鬼が近付いてきた時に聞いたピーターの叫びが頭蓋骨を揺さぶる。はまたきつく目を閉じて、焼け付く喉にソーダを流し込んだ。マクゴナガルが洟を啜る。
「馬鹿な子…間抜けな子…どうしようもなく決闘が下手な子でした…魔法省に任せるべきだったのに」
「親友だと信じた男が、親友を死なせたんです。じっとしてはいられなかったでしょう」
静かに言ったの言葉に、誰もが息を呑んでまた洟をかんだ。机の上で拳を握ったハグリッドは吠えるように言う。
「俺なら…俺がペティグリューのチビより先にブラックと対決してたら、もたもた杖なんか出さねえぞ…奴を引っこ抜いて、バラバラに…八つ裂きにしてやったのに…」
「ハグリッド、馬鹿を言うんじゃない」
ファッジはハグリッドに厳しい視線を向けた。
「魔法警察部隊から派遣される『特殊部隊』以外は、追い詰められたブラックに太刀打ちできる者はいなかったろう。私はその時、魔法惨事部の次官だったが、ブラックがあれだけの人間を殺した後に現場に到着した第一陣の一人だった。私は、あの…あの光景が、忘れられない。今でも時々夢に見るんだ。道の真ん中に深く抉れたクレーター…その底の方で下水管に亀裂が入っていた…死体が累々…マグルたちは悲鳴をあげていた…そしてブラックがそこに仁王立ちして、笑っていたんだ。奴の前にはペティグリューの残骸が…血だらけのローブと僅かの…僅かの、肉片が…」
ファッジは言葉を詰まらせ、みんなが洟をかんだ。は机に置いたジョッキを両の手のひらで握り締める。耳の奥で冷たい高笑いが聞こえたが、それがシリウスのものなのかは分からない。何しろは、その声を聞いていない。
卒業してからは、一度もピーターに会っていなかった。騎士団に入ってからも彼はよく会合を休んでいた。体調が良くないらしいとジェームズは言っていたが、それもとうとう分からず仕舞いだ。そのままはピーターに会うことはなかったのだから。卒業するまで彼は入学してからとほどんど変わらないぽっちゃりと小柄な体格のままだった。もちろん背は伸びたが、それも目立つほどではない。ファッジの話を聞く限り卒業してからもそう大きくなったということはなさそうだが、それでも大人になってからの友人を一目見ておきたかった。少しは子供らしさが消えて、大人っぽくなっていたに違いない…。それも何もかも、もう永遠に分からない。彼は、死んだ。
『嘘だと思うなら魔法省に行けばいい。彼の指が…保管されてるはずだから』
あの時リーマスは、信じるものを全て失ったはずだ。そうだ、ダンブルドア以外は全て。
「そういうことなんだよ、ロスメルタ」
ファッジが掠れた低い声で言った。
「ブラックは魔法警察部隊が20人がかりで連行し、ペティグリューは勲一等マーリン勲章を授与されたんだ。哀れなお母上にとってはこれが少しは慰めになったろう。ブラックはそれ以来ずっとアズカバンに収監されていた」
ファッジが今度はハグリッドととを探る風に見る。は目を細めてそれを見返してから、ロスメルタの溜め息に被せるようにして言った。
「マーリン勲章が何ですか。指一本じゃ何も出来やしない」
目尻に涙を浮かべていたマクゴナガルたちはぱっと顔を上げてを見た。は一旦瞼を伏せて乾いた唇を舐めてから、ゆっくりと視線を上げてマクゴナガルを見る。彼女の眼球が怯えたように収縮する。
「マクゴナガル教授、ご存知でしたか?ペティグリューの、夢」
「…夢?」
零れ落ちた涙をハンカチで拭い、マクゴナガルは力なく首を振った。
「そんなことは…進路指導の時も、一度も」
「それは、進路指導で言うような夢ではないからですよ」
言っては微かに笑い、まだほとんど減っていないレモンソーダをまた一口飲んだ。視線は液体の中で弾ける細かい泡を見つめている。まだ、温かい。まだ。の笑みは純粋な感情から溢れ出たものだった。
「7年生の時に、教えてくれたんです。彼の、夢。誰にも言わないでって、何度も釘をさされましたよ。15年も経てば、時効でしょう」
今度の笑いは、自虐的なそれだ。は隠しもせずにその笑みを唇に残したまま続ける。
「ロンドンに出たいんだって」
マクゴナガルの洟をかむ音が、しつこく聞こえてきた。
「彼はどこか、派手なことに憧れていました。ジェームズたちは…眩しかったんでしょう、彼にとっては、とても。私にとってもそうでした。だからジェームズたちから離れることが出来なかった。一緒なんです、きっと、私も、ピーターも。彼は派手なことに憧れていました。きっとだから、ロンドンに出たいんだって。馬鹿にされるだろうから、誰にも言わないでって…約束してって…」
とうとうマクゴナガルはわっと泣き出し、傍らに座るファッジとフリットウィックが懸命に宥めた。それでもここが三本の箒で助かった。騒がしい店内では誰もマクゴナガルの泣き顔を咎めたりしない。ハグリッドも憚らずにぐずぐずと涙を流した。は、泣かなかった。ただ真っ直ぐに、手元のジョッキを見つめる。
「…ピーターは夢を、叶えられたんでしょうか」
視線を上げ、はマクゴナガルを見た。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたマクゴナガルはハンカチで鼻を押さえつけながらふらふらと首を振る。
「いいえ…あの子がロンドンに出たということは、私は聞いていません。実家をしばらく離れて、どこかひっそりした田舎の方に移ったと聞いていました…」
「…そうですか」
何も、知らないのだ。私が語れるのは彼らの学生時代のことばかりだ。感傷だけではほとんど意味が無い。それでもこうして、私の舌はそれを語る。一体いつまで続ければいいのだろう。
「叶えてあげられたら、良かった」
誰かの夢を叶えようとか、そんなものは思い上がった考えだと思う。自分のことすら何も出来ないくせに。でもロンドンに出たいというピーターの夢は叶えてあげられる気がした。思えばきっと容易い。いや、そうするにはこの手はあまりに穢れきっていたろうか。やはり彼の夢を叶えてあげようなどと、自惚れという言葉で片付けることすら躊躇われるほどに図々しいことだ。
どちらにしてももう、ピーターはいない。
瞬いた瞼の縁から何かが零れ落ち、は初めて自分が泣いていることに気付いた。はっとして顔を上げ、湿ったマントの袖で目尻を拭う。テーブルの誰もが泣きながら彼女を見ていた。は俯き、ジョッキの中にまだ半分ほどレモンソーダを残して立ち上がる。懐から取り出した銀貨をロスメルタに手渡した。
「マダム、御馳走様。私はお先に、失礼します」
テーブルをさっと見渡し、は椅子を元の場所に戻してから客の間を縫って店の外に出た。冷たい風に舞う雪がしつこく絡み付いてくる。大通りを上がる途中、何人かの生徒たちとすれ違った。マフラーや耳あてから覗く頬が寒さに染まっているのを見る。それでも彼らの眼は希望に満ちた輝きを放つ。同じ年の頃にはきっと自分もああだったのだろうと考えると、情けなく思って首を振る。戻らない。もう、何も戻ってはこない。
(来るなら来なさい)
既に積もった雪を踏み締め、は城への道のりを辿る。
(あなたがハリーを仕留めるよりも先に、私があなたを仕留める)
遠く彼方に黒い影が飛ぶのを見たように思う。だが雪に阻まれた視界を擦ってまた顔を上げた時には、もうそこには何もなかった。