万事休す。

 セブルスとの関係は悉く打ち壊されてしまった。恐らくきっとあそこで自分があんな行動に出なかったとしても、遅かれ早かれこうなっただろう。は寝室のベッドに浅く腰掛けて、部屋に備えていたインスタントのコーヒーを飲む。仕事も全てオフィスから持ち帰った。オフィスに戻るとセブルスの姿もなく、机の上にはただ必要な書類だけが置かれていたのだ。

「…教授。ここに、サインを」

 部屋から物憂げに仏頂面を出したセブルスにが視線を逸らしたまま書類を突き出すと、何も言わずに彼女の手から羽根ペンを取り上げて乱暴な字で"セブルス・スネイプ教授"と書き殴る。も書類と羽根ペンを受け取ってあくまで事務的に「ありがとうございます」と呟くとすぐさま踵を返して自分の私室へと帰った。

 だが翌朝、着替えを終えて薬学のオフィスに出たはそこにセブルスが残っているのを見て少なからず驚いた。ここ最近、いつもより早めに起きたセブルスはを置いて一人で朝食に行くことが多かった。自分の席に着いて朝から何やら黙々と仕事をしているセブルスは顔も上げずに手元の書類を片付け、立ち上がって背を向け歩き出す。

 その場で立ち尽くすに、セブルスはドアの手前で振り返りもせずに言った。

「朝飯を食べに行かないのか」

「…行きますよ。もちろん、行きます」

 疎ましげに切り返し、は彼を追って研究室を出る。まさか、一時休戦というわけでもあるまい。セブルスがそこまで大人ならそもそもこんな状況にはならずに済んだのだと胸の内で押し付ける。それから黙って食事を摂って(リーマスは来なかった)、嵐の中を二人でクィディッチ競技場へと向かった。ハリーの開幕試合だったからだ。この調子では一人で行くことになるかもしれないと危惧していたは安堵したが、何しろ雨も風もひどい。傘も役には立たないほどの暴風雨だったせいでもセブルスも雨避けの黒いマントを着込んだが、二人ともフードだけは被らなかった。あまりに苦すぎる記憶が蘇る。忘れられるはずもない、忘れてはならないものだと分かってはいるが。

 グリフィンドール対ハッフルパフ戦は何時間にも渡った。昼食時には食事を摂りに戻る生徒たちも大勢いたほどだ。も一人ずつ昼食を食べに行こうと提案したが、なぜかセブルスは頑なに首を振るばかりで(「それならお前だけ戻れ」)結局二人とも昼食を抜く羽目になった。選手たちの姿は、激しい雨にぼやけてほとんど判別できない。

 何時間が経ったのだろう。空が、少し暗み始めた。このままでは夜に縺れ込むだろう。そうなればハリーを狙う人間もまた彼を見つけ難くなるが、それは自分たちにも言えることだ。早く終わらせてしまえ。ディゴリーがスニッチを掴んでも構わないのだから。

「セブルス」

 雨音に掻き消されないようにと、傍らに座るセブルスの耳元に近付いて呼ぶ。雨を避けてほとんど閉じられた瞼の下は真っ直ぐに上空を見上げてはいたが、きっと聞こえているはずだ。

「薬を作りに戻らないと」

 声を潜めて、だが強く言ったにセブルスは聞こえない振りをした。ただ護るべき憎い男の息子を眼で追う。は眉を寄せてさらに語気を強めた。

「教授、薬を。ルーピン教授に」

 セブルスの横顔は強風と激しい雨に煽られるばかりで動かない。思わず膝の上で硬く拳を握り締め、籠もったような声で言った。

「教授。もう、こんな時間ですよ。薬を煎じるには少し遅いくらいです。早く行って下さい。あとは私が責任を持ちますから」

 セブルスが目を閉じた。濡れきった瞼を指先で軽く拭い、また視線を上げてハリーを探す。

「…教授」

 掠れた声は叩きつけるような雨に紛れて自分の耳にすら届かない。掻き上げた前髪は流れ落ちてまた左目にかかった。

「教授、そこまで私が信用できませんか。今日はダンブルドアも来ています。あなたは早急に、自分の仕事に取り掛かって下さい」

 セブルスが横を向いた。薄く開いたその暗い眼は、ただひたすら物も言わずにを見つめて逸らされた。それから徐に腰を上げ、嵐の中をセブルスは一人でスタンドを去っていく。

 どうしようもない憤りが、冷え切った胸を掴んで揺さぶった。悔しかった。もどかしかった。もう引き返せないところに来てしまったのだ。また同じものを築くには、きっとそれこそさらに時間がかかるだろう。

 ダンブルドアが全てだと言えるほどあの老人に寄り掛かることは出来なかった。彼の広さは堕落しきった自分を救ったと同時にこの先も永遠に苦しめる。消せない罪を犯した以上穢れたこの手は染まったままだ。いっそ清らかな全てから切り離されてしまえば楽だった。だが自分は今こうして子供たちの集う学び舎に身を置いている。

 ダンブルドアとはまったく違った意味で彼女を救ったのはセブルスだった。闇の世界で共にこの手を汚し、共にダンブルドアに救われ今はただ一つの目的のためだけに戦っている。彼だけがこの暗闇の救いだった。それはセブルスにとってもまた同じことだったろうと思うのに。それも一つの救いだったと言えるかもしれない。

 だがもうこんなにも、離れてしまった。10年以上をかけて築き上げてきたものが崩れるのはほんの一瞬で事足りる。瞼を伏せたは、もう一度目を開けて上空を見上げたその時視界に映るものに気付いて愕然とした。

 何十、いやひょっとして百以上の吸魂鬼がグラウンドに向かって一斉に押し寄せてきたのだ。競技場の歓声は突然凍りつき、ぞっとするような悪寒が全身を縛り付ける。誰もがそちらに釘付けになり、身動きもとれずに硬直した。

『リリー、ハリーを連れて逃げるんだ、急いで!』

『お願い、ハリーを…お願い、この子だけは!』

『ジェームズとリリーを…シリウス、よくも!』

 瞬時に懐に手を入れて杖を掴んだ右手が、氷にでも掴まれたかのように動かなくなる。親友たちの断末魔の声が。の頭蓋骨を揺さぶって朦朧とさせる。アズカバンに放り込まれてから何度もずっと、彼らの叫びを聞いてきた。

『君は…一体』

 茫然とした、それでいてどこか緊迫した父の声が聞こえる。

を、あの子の居場所を知っているのか!』

 切羽詰った父の叫びと、残忍な高笑い。一体誰のものなのか、はそれを自分の肌でよく知っている。

『お願いです、先生…あの子だけは、助けてやって下さい!』

 母の縋るような悲痛な声を、脳の奥で聞いた。取り出した杖を握り締め、有りっ丈の力を振り絞って叫ぶ。

エクスペクト・パトローナム!

 杖先から噴き出した幾筋もの銀色の光が、嵐の中を押し寄せてくる吸魂鬼を一気に吹き飛ばした。それでもの中にはまだ、愛する人々の声が響いている。纏わり付くように、絡みつくように。何度も、何度も。













 ハリーが落ちたことに、は気付かなかった。ダンブルドアがいなければきっと彼は、死んでしまっていただろう。はダンブルドアに任されて担架に乗せたハリーを医務室まで運び、ダンブルドアはの守護霊に追われて去っていった吸魂鬼たちのところへとすぐさま向かった。ダンブルドアが激しい感情を瞳に浮かべて憤るのをは何度か見たことがあったが、それでも生徒たちの前でそれを見せたことはほとんどないはずだ。

「全員、食べなさい」

 ぐったりと気を失っているハリーを震える手でベッドに寝かせ、は懐から取り出したチョコレートをグリフィンドールの選手たちとウィーズリー、グレンジャーに一欠片ずつ手渡した。念のためにと持ってきておいて良かった。受け取りはしたものの訝しげにこちらを見る生徒たちを冷ややかに見据え、は静かに言う。

「何も入っていないわよ。吸魂鬼から受けた影響にはチョコレートが一番効くの。すぐに食べなさい」

「…」

 ウィーズリーの双子などはまだ疑わしそうにを見ていた。不安げにウィーズリーに目配せしたグレンジャーが真っ先にから渡されたチョコレートを食べ、つられるようにして他の生徒たちも次々とそれを口に放り込んだ。は手元に残ったチョコレートを小さく砕いて、その欠片の一つをハリーの唇にも無理に押し込む。ポンフリーは奥の部屋でハリーの濡れきった身体を拭くための準備と目覚めた時に飲ませるホットチョコレートを作っていた。

「あの…先生」

 眠り続けるハリーを見つめるの後ろ姿に、おずおずとグレンジャーが声をかける。は首だけを捻って僅かに振り向きながら眉を寄せた。

「何かしら」

「あの…先生も少し、食べられた方が宜しいんじゃありませんか?顔色が…あまり良くありません」

 誤魔化すように、はまた前を向いてハリーの泥塗れの顔を見下ろす。それから脇の小さなテーブルに余ったチョコレートの包みを載せ、用意されたタオルでハリーの顔をそっと拭った。眼鏡を外して脇に置き、顔面と、そしてくしゃくしゃの黒髪から軽く水分を取る。あの二人の、息子としてではない。一人の…生徒として、だ。そう言い聞かせても、タオル越しに彼の皮膚に触れるだけで寒気がする。この手で…触れては、いけない。

「…目が覚めたら、誰かまた、チョコレートをやって。私は、もう行かないと」

 は湿ったタオルを元の位置に戻し、生徒たちの顔は見ないようにして足早にポンフリーのオフィスに向かった。簡単な現状を告げ、自分はこれからダンブルドアのところへ行かなければならないので後は全て任せたと言って医務室を出る。セブルスには、伝えるべきだろうか。いや、彼には脱狼薬調合の仕事がある。言うのはまだ、先のことでいい。

 ダンブルドアとは、校長室のちょうど前でばったりと出会った。今にも泣き出しそうな情けない顔をしたマクゴナガルも一緒だ。彼はまだ随分と厳しい表情だったが、を見るとほんの僅かに目尻を緩めて彼女を部屋の中へと招き入れた。マクゴナガルは、が医務室に運びハリーは今完全に眠り込んでいると告げると慌てた様子で医務室に走っていった。

「…吸魂鬼は、」

 止まり木で羽を休める不死鳥を優しく撫で付け背を向けたダンブルドアに問い掛ける。ゆっくりと振り返り、やはりあの青い瞳に激しい色を浮かべながらダンブルドアは言った。

「吸魂鬼には、はっきりと言ってきた。二度とこの城の敷居は跨がせぬ。、君の迅速な対応で生徒たちを傷付けずに済んだ。ありがとう」

「…」

 誰も傷付かずに、済んだと?は彼の眼から視線を逸らして眉を寄せる。何も出来ない、自分が歯痒い。

「ハリーが落下したのは、君の責任ではない」

 見透かした風に、ダンブルドアは言った。は二人の間を隔てる机の上に載った銀板のようなものを見る。何の為に使われる道具なのかにはよく分からなかった。きっと説明書きなど無くとも彼には使いこなせるのだろう。なぜかマグルの爪切りを持って豊かな白い顎髭を揃えようとするダンブルドアの姿が思い浮かんだ。

「君にもよく分かっておるとは思うが、あの子は自分の記憶にすらない過去に、想像を絶する恐怖を持っておる。あの子が吸魂鬼から多大なる影響を受けることだけは我々にはどうしてやることもできぬ。君の責任ではない」

 何も言わないを見て、ダンブルドアは机の引き出しから取り出した特大のチョコレートを持ち上げてみせた。

「あとはポピーとミネルバに任せて、一緒にお茶でもどうかね。時にはこういった茶菓子も酔狂じゃと思うがのう」

 確かに50センチ四方のチョコレートを囲んでのティータイムとはなかなか酔狂なことだろう。は頷くこともしなかったが、そのまま部屋を去ることもしなかった。ダンブルドアの眼は全てを見透かす。そしてその温もりがきっとこの先も永遠に人々を惹き付ける。

 到底、身を置く世界が違うのだ。

 それでもこうして、一緒に茶を飲むことくらいは出来る。は杖を振って彼が愉しげに紅茶を淹れるのを黙って見ていた。ダンブルドアの眼は全てを見透かす。きっとこうなることすらも彼は予測していたのだろう。まったく、どうしてこの男は。いつかきっと後悔すると、だが結局悔いるのは自分の方だった。