シリウスなのだろう、とは思った。確かに彼は癇癪持ちだった。友人といえどカッとなると手が出るという癖がよくあった。だが無残に切り刻まれたキャンバスを目の当たりにするとやはりショックを隠し切れない。太った婦人の消えた絵の残骸を茫然と眺めるは緊迫した様子で言ったダンブルドアの言葉にはっと振り向いた。
「グリフィンドール生は全員大広間に戻るように。スネイプ先生はスリザリン生を広間に誘導しておくれ。先生とルーピン先生はスプラウト先生とフリットウィック先生にも各々の寮生を大広間に連れていくよう伝えて欲しい」
頷いて、はリーマスに自分はスプラウトのところに行くと言ってダンブルドアやセブルスと足早に階段を下りた。マクゴナガルはグリフィンドール生を導いてその後ろを下りてくる。は彼らと2階の踊り場で分かれ、オフィスにいたスプラウトに伝言を伝えて急ぎ大広間に下りた。子供たちはまだひどく戸惑い混乱したグリフィンドール生しかいないが、既に連絡を受けたらしい教職員がぞろぞろと集まってきている。
「先生たち全員で城中を隈なく捜索せねばならぬ。みな、協力しておくれ」
はフーチ、シニストラ、ベクトルと大広間を出た。それから自分は4階と5階を捜すので他の階を見て欲しいと頼んだ。どうしても、確認しなければならないことがある。3人ともの言うことを聞いてそれぞれ担当の階を決めて散らばった。の目的地はとうに決まっている。行かねばならなかった。
もしもあの抜け道が、使われていたとしたら。それは紛れもなく自分の責任だ。罪を隠すために口を閉ざした。大きな悪事はダンブルドアを前に告白してみせたのに、だ。些細な傷すら負いたくないがために知らない振りをした。それがあらゆる護りを砕いたというのならそれもまた自分の弱さのせいだ。
多少馬鹿でも勇ましい方がましだ。は喉の奥で歯噛みしながら呟く。辿り着いた隻眼の魔女の像の傍らで、周囲に誰もいないことをしっかり確認してから杖を取り出して言った。
「ディセンディウム、降下」
杖で叩いたコブが割れ、像の脇に細い穴が出来上がった。もう一度辺りを見回してから、そっとその中に滑り込む。かなり長い距離を滑り降り、は湿った冷たい地面に着地した。杖先に明かりを灯し、微かな物音すら逃さないようにして慎重に、だが足早に進んでいく。彼は杖を持っていないんだ。この通路を使えるはずがない。そう自分に言い聞かせても、どこか不安が残る。杖を持たない彼がどうやって厳重な護りを掻い潜ってホグワーツに侵入できる?残された可能性はそう多くない。
息切れがしてきても、足を止めるわけにはいかなかった。は急ぎ足で歩き続け、やがて上り坂になる。出口が近い。だが自分の足音以外は何も聞こえなかった。どうかこのまま、何も見つからないで。
ようやく辿り着いた古びた石段を上がり、は速度を落として動悸の激しい胸を押さえつけながら荒い呼吸を繰り返した。身体中が酸素を欲して喘ぐ。この通路を使ったのは卒業以来だった。だがあの頃と変わらず抜け道は城の外へと繋がっている。杖を持たない左手で頭上を探りながら上っていくと、やがて観音開きの撥ね戸にぶつかった。何も聞こえない、何も…。
は撥ね戸を押し開けようと明かりのついた杖を横に銜えて両手に力を込めた。だが、戸はぴくりとも動かない。ちょうど上に重たい何かが載っているようだ。ほっとした。これでは、誰も通れないはずだ。額に滲んだ汗を袖で拭いながら、は急いで元来た道を引き返した。早く、戻らないと。
だがそれならば一体どうやって、彼はホグワーツに潜り込んだというのか。私にもセブルスにも想像がつかないような、そういった強力な闇の魔法を知っているのだろうか、…。
とうとう体力が切れ、立ち止まってよろよろと抜け道の壁に凭れ掛かった。学生時代ですら片道を行くだけで随分と疲れたものだ。ましてやもう三十路を越えて持久力は激減している。そのまま地面に座り込み、呼吸が整うまでしばらく待った。
その時だ。遠くから慌しい足音を聞いたのは。
地面につけていた尻を上げ、だがしゃがみ込んだまま明かりのついた杖を掲げて神経を研ぎ澄ませた。それはホグワーツの方からやって来るようだ。誰だ…。往復の途中で乱れきった鼓動が緊張に張り詰めてうねる。どうか…シリウスでは、ありませんように。もしも彼ならどうすればいい。杖を向けて捕らえるしかない。場合によっては殺すだろう。そのための術は持っている。あとはそれを使えるか否かだ。
(…いや、)
殺すべきではない。訊きたいことは、山ほどあるのだ。
(…鬼か、それとも)
「 誰だ」
曖昧な輪郭の明かりが見えてから、聞こえてきたのは男の声だった。だが覚悟していたそれとは違っては持ち上げていた杖を力なく下ろす。
「…リーマス」
近付いてきたその人影は紛れもなくリーマスだった。彼もまた明かりを灯した杖を下ろして張り詰めた糸が切れたかのように項垂れる。歩み寄り、乱れた吐息に被せて呟いた。
「あなたも…まさかと思ったのね」
彼の顔は暗がりの中で薄暗い光を浴びているせいもあってかますますやつれて見えた。満月も近い。それにシリウスの侵入が重なった…彼にとってはそれこそ最悪のハロウィンだったろう。尤も、私たちのハロウィンはあの夜から永遠に呪われたも同じだが。
小さく頷いて、リーマスが顔を上げる。
「やつは…いなかったのかい」
「…ええ。ハニーデュークスまで行ってみたけど、扉の上は荷物で塞がれてたわ。誰も出入りできない」
「そうか」
彼は疲れの中にも安堵を滲ませて呟いた。彼もまた同じなのだろう。グリフィンドール生は勇敢だという。それがこの様だ。は組み分け帽子の無能さを思って自嘲気味に笑った。
「戻りましょう。あまり遅いと怪しまれるわ」
「…」
黙り込んでじっと訝しげにこちらを見ているリーマスに気付いて、は唇の端を持ち上げて言う。
「ひょっとして、私が彼を逃がしたとでも思ってるの?」
「…いや」
彼の答えはそう時間がかからなかったが、納得した風でもない。瞼を伏せ、気楽に言ってのける。
「疑われるのは慣れてるわ」
明らかに衝撃を受けたような顔をしたリーマスから視線を逸らし、城への道を辿り始めた。そのすぐ後ろを、彼も足早に追いかけてくる。灯した明かりで照らし出す足元には、確かに二人分の足跡しか残っていなかった。
石の滑り台を手摺に縋って上がり、魔女のコブの内側で静かに耳を澄ませる。誰の足音もしないことを確認してから素早く穴を飛び出した。忍びの地図があれば手助けにもなるが、今更フィルチから返して貰えるとも思えない。続いてリーマスが這い出てくると、コブはあっという間に閉じた。それから5階の鏡の裏の抜け道も確かめに行こうとすると、リーマスがすぐを引き止めた。
「その必要はないよ」
「どうして」
は振り向いて眉を顰める。彼は杖を振って明かりを消した。の杖はとうにポケットに納まっている。
「その通路はさっき私が確認した。崩れて、完全に塞がってしまっていた。もうあの抜け道は使えない」
答えずに目を細めるを見て、今度はリーマスが卑屈に笑ってみせる。
「信じていないようだね」
「…いいえ」
「いいんだ。信用されないのは慣れている」
はますます眉を寄せてくるりと彼に背中を向けた。5階に上がるためではない。大広間に戻るためだ。リーマスも彼女を追って階段を下りた。1階に下りるまで、二人は誰とも遭遇しなかった。
そっと扉を開けて中に入ると、天井から差し込む月明かりに照らされていくつかの人影が見えた。ダンブルドアに、セブルス…それに、生徒が一人か。
「校長ですか」
がそっと声をかけると、ダンブルドアらしき影は顔を上げてこちらを見た。とリーマスは子供たちの寝袋の間を縫うようにして歩み寄り、伏せ目がちに囁く。
「私とルーピン教授で4階と5階を捜索しましたが、ブラックはいませんでした」
答えたのは、ダンブルドアではなくセブルスだ。彼は冷ややかな口調ですぐさま切り返す。
「ほう。4階は先ほどまで我輩が隈なく捜していたのですがね…」
「そうですか。では行き違いになったのでしょう」
はセブルスの顔を見なかったが、彼が荒っぽく鼻息を出したのは気配で知れた。ダンブルドアは落ち着いた調子で言う。
「そうか。、リーマス、御苦労じゃった。それではわしは吸魂鬼たちに会いに行かねば。捜索が終われば知らせると言ってあるのでのう」
「先生。吸魂鬼は手伝おうとは言わなかったのですか」
たちのやり取りをまるで講義のように熱心に聞いていた7年生のウィーズリーがダンブルドアに問い掛けた。ダンブルドアの声は冷ややかだ。
「ああ、言ったとも。わしが校長職にある限り、吸魂鬼にはこの城の敷居は跨がせぬ」
はその言葉に素直に敬意を示し、軽く頭を下げた。ウィーズリーは恥じ入った様子で俯く。ダンブルドアはそのまま足早に大広間を出て行き、セブルスは憤懣やる方ない表情でその後ろ姿を見送っていたがやがてとリーマスを同時に睨んで舌打ちし、部屋を去っていった。は彼の消えた扉を茫然と見つめる。
「…私たちも行こうか。パーシー、あとは任せたよ」
疲れたように微笑みながら、リーマスが言った。
シリウスの侵入事件以来、セブルスはますます刺々しくなった。仕事の話すらも「それ」「あれ」「準備」などと片言の英語で喋るし、あらゆるストレスをぶつけるかのようにネビルを中心としたグリフィンドール生にやたらときつくあたるものだからも負けじとグリフィンドールに加点するようになった(それでもハリー苛めだけは放置した)。お陰でスリザリンとグリフィンドールの合同授業は減点加点減点加点の繰り返しで(「グリフィンドールは5点減点!」「グリフィンドールに10点!」「グリフィンドールから15点減点!!」「グリフィンドールに20点!!」…)これには生徒たちも大弱りだったが、どちらも全く折れる気配を見せない。日に日に悪化する担当教官の関係に誰もが戸惑いを隠せないでいた。
一方万全と思われていた警備を掻い潜ってブラックが城内に侵入したということもあり、ハリーへの監視の目はぎらぎらと凄まじいものになった。教師は何かと理由をつけては大抵彼と一緒に廊下を歩いたし(やセブルスはもちろんそんなことはしない)、マクゴナガルは彼の夕方以降のクィディッチ練習を禁じようとした程だ。だがそこはやはりグリフィンドールの熱血寮監なので、フーチに監督して貰うことを条件に練習を許可したようだが。
ドラコの腕が完治していないという理由で対ハッフルパフ戦になったグリフィンドールの開幕戦前日、とセブルスは2階の闇の魔術に対する防衛術の教室へと向かった。今夜は満月でリーマスはとても授業のできる身体ではない。初めての教壇に着いたセブルスは戸惑うグリフィンドール生を暗い眼で見渡しながら言った。
「本日は我々が闇の魔術に対する防衛術の授業を行う。全員教科書を出したまえ」
唖然とした表情の生徒たちは反応が遅れてあたふたと教科書を取り出したが、前列に座っていたトーマスが手を挙げて口を開いた。
「先生、ルーピン先生はどうされたんですか」
「今日は気分が悪く教えられないとのことだ。無駄口を叩いていないで早急に教科書を出したまえ」
セブルスが冷たく言い放つと、トーマスは恨みがましく唇を引き結んで鞄から教科書を取り出した。はリーマスから借りた教科書をセブルスが退屈そうに捲るのを見る。それから蔑むように視線を上げセブルスは言った。
「ルーピン教授は到底配慮の足りない教員のようだな。これまで何を教えてきたのか、全く記録していない。これで代講など図々しくもよく頼めたものだ」
「先生」
いつものようにグレンジャーがきびきびと手を挙げたが、セブルスは完全に無視した。
「よって本日はこちらで指定した項目を取り上げることとする。本日我々が学ぶのは 」
「遅れてすみません!ルーピン先生、僕 」
ちょうどその時、息を切らせたハリーが教室に飛び込んできた。挙手したままのグレンジャーも思わず右手を下ろしてそちらを見やる。顔を上げたハリーは教壇にいるのがセブルスとであることに気付いてあんぐりを口を開けた。
「授業は10分前に始まったぞ、ポッター。よってグリフィンドールは10点減点とする。座れ」
「…ルーピン先生は」
「今日は気分が悪く、教えられないとのことだ」
セブルスはせせら笑った。は教壇の机に片肘をついてうんざりと息を吐く。
「座れと言ったはずだが」
「どうなさったんですか、ルーピン先生は…」
「命に別状はない。グリフィンドールはさらに5点減点。もう一度我輩に座れと言わせたら、次は50点減点する」
近頃ではが加点するのを期待しているらしいグリフィンドール生だが、減点対象がハリーならばそれも適用されないと分かっているので別段当てにしている風もない。ハリーはのろのろとウィーズリーやグレンジャーの側まで歩いていき、力なく座った。セブルスはまたクラスを見渡してぶっきらぼうに言う。
「ポッターが邪魔をする前に話していたことだが、ルーピン教授はこれまでどのような内容を教えたのか、全く記録を残していないからして 」
「先生、これまでやったのはまね妖怪、赤帽鬼、河童、水魔です」
グレンジャーはセブルスの言葉を遮ってはっきりと言った。セブルスの眉がぴくりと上下したのを横目に見た。
「これからやる予定だったのは…」
「黙れ」
セブルスの暗い眼がグレンジャーを睨み付けて忌々しげに揺らめく。
「教えてくれと言ったわけではない。我輩はただ、ルーピン教授の怠惰を指摘したまでだ」
「ルーピン先生はこれまで闇の魔術に対する防衛術の先生の中で一番の先生です」
トーマスが果敢に発言すると、クラス中ががやがやと同意の声をあげた。は何も言わず、ただセブルスの顔がますます威嚇的になっていくのを冷ややかに見る。
「点の甘いことだ。ルーピンは諸君に対して著しく厳しさに欠ける。赤帽鬼や水魔など、1年生でもできることだろう。我々が本日学ぶのは」
セブルスは手元の教科書を一気に後ろまで捲った。
「人狼である」
が目を開いてセブルスを睨み付けるのと、グレンジャーが声をあげるのとはほぼ同時だった。グレンジャーは手を挙げたまま強い口調で言う。
「でも先生、まだ狼人間までやる予定ではありません。これからやる予定だったのはヒンキーパンクで…」
「ミス・グレンジャー。このクラスは我輩が教えているのであり、君ではないはずだが。その我輩が、諸君に394ページを開くようにと言っている。全員!今すぐにだ!」
それこそ狂ったように怒鳴り散らし、セブルスはクラス中を見回した。苦々しげに視線を交わしながらも生徒たちが教科書の後ろを捲っていく。はたまらなくなって声を張り上げた。
「教授、次の予定はヒンキーパンクだと生徒が言っているでしょう。人狼はまだ今の段階では扱うべきではないと思いますが」
くるりとこちらを向いたセブルスの瞳はぎらぎらと怪しげな暗い光を放っていた。生徒たちは期待するような恐ろしげな複雑な表情でそれを見ている。セブルスは唇の端を持ち上げて毒の籠もった声で静かに言った。
「助教授、あなたはあくまで我輩の助手であるということを忘れないで頂きたい」
「ええ、その通りです。ですから私には教授が軌道を逸れそうになればその時は元に引き戻すという義務があります」
はあくまで冷静に言ってみせる。セブルスは顔を生徒たちに戻して、ほとんど独り言のような声量で言ったが静まり返った教室では誰の耳にも届いたに違いない。
「我輩は394ページを開けと言っている。全員、今すぐ該当のページを開け!」
まだ開いていなかったらしい生徒が大慌てでページを繰った。はとうとう頭のどこかで何かが切れるのを感じてセブルスが教科書を広げた机を右足の裏で向こうに蹴り倒す。がしゃんと大きな音を立てて転がったそれを見て獅子寮生は全員呆気に取られて固まってしまった。セブルスも唖然とした表情でしばらく倒れた机と教科書を見ていたが、やがて精一杯の憎悪をこめてを睨んだ。ああ、きっとそれこそがあなたに相応しい私を見る眼なんだろうと吐き捨てる。
「ええ、分かりました。そこまで仰るのでしたらどうぞご随意に。失礼します」
そして転がした机の隣に置いてあった小さなテーブルに載せた羊皮紙の巻紙と筆記具を掴んで、ぽかんと口を開けたままの生徒たちとセブルスを残して教室を後にした。我ながら大人気ないとは反省してみるも、決して悔いているわけではない。やはりセブルスはどこかおかしいのだ。そして、きっと自分もまた。歯車は、完全に狂ってしまった。