その日の夕方、はハグリッドの小屋を訪ねることになっていた。見せたいものがあるからと朝食の席でハグリッドが嬉しそうに声をかけてきたからだ。ハグリッドは昔から怪しげな生き物をこっそり小屋の中で飼っては本省の魔法生物管理局に喧しく突かれるということがあったのだがの知る限り彼が危険な生物を手元に置いていたのは2年前のドラゴンで最後だ。教師としてホグワーツに戻ってきて以来10年以上ぎこちない距離感のあった二人だが、共にアズカバンに投獄されるという経験はその距離を縮めるのに十分役立った。はセブルスの疎ましげな視線を無視してあっさりとハグリッドの申し出を快諾する。

 だが彼の小屋を訪ねるよりも先に、ハグリッドの言う見せたいもの≠ェ何たるかを知った。ヒッポグリフに襲われたといってドラコが医務室に運ばれたのだ。授業を終えてから知らせを受けたセブルスはすぐさま医務室に向かい、その日のうちにその一件はルシウスや理事たちのところにまで伝わった。

「…だから、言ったじゃないの。教材は段階を経て揃えなさいって」

 日が暮れてからハグリッドの小屋を訪れたはダンブルドアから受け取った理事たちのふくろう便をテーブルに置きながら傍らの椅子に腰掛ける。ルシウスのものは敢えて持ってこなかった。随分ときついことが書かれていたからだ。ハグリッドは腫れ上がった目をショボショボさせて水玉のハンカチで溢れ出る涙を拭っていた。ファングは彼の膝に頭を乗せて落ち着きなくクンクン鳴いている。

「あ、あいつ…マルフォイの具合は…どうだ」

「私はまだ直接見舞いに行ったわけじゃないけど。随分疼くらしいって、セブルスは言ってたわ。長引きそうだって」

 あっさりと言ったの言葉に、ハグリッドはハンカチに顔を埋めてまたメソメソと泣き始める。が軽く腕を伸ばして呼ぶと、ファングは嬉しそうに跳ねて彼女の足の間に滑り込んだ。豊かな毛の感触を楽しむようにはファングの背を指の腹で撫で付ける。ハグリッドの洟を啜る音だけがしめやかに響いた。

「ひとまず、理事たちの手紙には目を通しておいて。そんなに落ち込まなくても大丈夫よ、ダンブルドアが対応して下さるそうだから」

 そうは言いながらも、自信があるわけではない。ダンブルドアを停職にまで追い込んだ男だ、ルシウスは。そうでなくとも彼の強引さは髑髏を重ねたその瞬間から嫌というほどよく知っている。ハグリッドはハンカチから顔も上げない。気休めに過ぎないと分かっているからだ。

 これ以上留まったところで出来ることは何もない。はふくろう便の束をハグリッドの方へと押しやりながら物憂げに立ち上がった。名残惜しそうに彼女を見上げて尾を振るファングの頭を撫で、明日の授業はしっかりこなすようにと告げて城への道のりを辿る。月のない夜はどうしようもないほどに暗いが城に灯る明かりが道標だ。ただ光を求めて足を進めればいい。

 地下室に戻ったはドアを閉めて机に向かうセブルスを見たが、彼は目の前に広げた羊皮紙に羽根ペンを走らせるばかりで彼女が戻ってきたことにすら気付かない様子だ。だがそれはただ集中した時のものとは違うと、すぐに分かってしまうこと自体が不愉快だ。はそのままセブルスの横顔から視線を外して薄っぺらな羊皮紙の束を取り出した。何も言わずにまたオフィスを出てスプラウトの部屋に向かう。来週の薬草の準備はまだ先でも良い。ただあの部屋にじっとしているのが耐えられなかった。それだというのにノックした彼女の部屋は静まり返っていてをひどく落胆させる。不在を知らせるプレートが今頃目に入ってうんざりと息を吐いた。温室か、または穴熊寮か。どちらにしても気が重いことだ。

 気だるげに踵を返した視線の先に、覚束ない足取りで階段を上がってくる人影を見た。両手に重たい紙袋でもぶら提げているらしい。はあはあ息を切らせながらやっと廊下の上にまで上がってきたその男はひとまず両手の荷物を床に置いて膝に手のひらをついた。しばらくそうした後呼吸を整えてようやく顔を上げる。彼はそこで初めての存在に気付いたようだった。

「…あー…今晩は、

 彼は穏やかに微笑んでみせるも、唇の端が引き攣るのは疲労のせいばかりではないだろう。それからまたいかにも重たそうな荷物を掴んで次の階段へと歩き始めたリーマスを見て、は眉を顰めて言った。

「どうして魔法で運ばないの」

 紙袋を持ち上げたままで彼は振り向いて笑う。

「ずっと運動不足だからね。せめて城の中くらいは自分で動こうかなと思って」

「…」

 そう言って3階に続く階段を一つずつふらふらと上がっていく。放っておけばいい。構う義理などない。

 踏み出した足は遅れて階段を駆け上がり彼の荷物を一つ取る。確かに重みは身体に圧し掛かるだけではない。こうした些細な動機付けは至る所に転がっているというのに、一体どうしてあの時ばかりは。リーマスは驚いた風に振り向いたが、は俯いたまま彼の脇を通り過ぎて段を駆け上がる。

「運動するよりも健康的な食生活で身体を作ることの方が先じゃありませんか。今にも落っこちてきそうでしたよ」

 リーマスは言葉を失って黙り込むも、込み上げてくる笑いはそのままに唇を緩めた。こうして笑っていられるのは、彼女が背を向けているからだ。正面きって向かい合った時、私はどんな顔をすればいいのか分からない。

「運びますよ」

 3階の廊下に踏み上げた時になっては振り向きもせずに言った。右腕を痛めてきた荷物を今度は両腕で抱え込んで彼のオフィスへと爪先を向ける。どさりと床に袋を落とす音がして、は何気なく振り向いた。相変わらず苦しそうに息を吐きながら額を拭ったリーマスはその袖を捲り上げてまた荷物を持つ。

 たったそれだけのことだ。大抵の人間は何の気もなくそれが出来る。自分にも同じことは可能だ。それなのにこの13年、袖を捲ることは出来なかった。

 追いついたリーマスが前を向いたまま微笑んだ。

「ありがとうございます」

 彼はどんな顔をして、あの二人の息子に出会うのだろう。少なくとも自分の喉を掻き切りたいという衝動には駆られまい。

 扉の前で荷物を下ろし、取り出した杖で鍵を開けながらリーマスが振り向く。

「中で一緒にお茶でもどうかな」

 は腕の中でしわになった書類を掴んで乾いた唇を舐めた。失望しながらもきっと共にテーブルを囲むことは出来る。

「ええ、喜んで」










 例えば教師としての生活はどうだとか、言ってみれば出会ったばかりの人間でもできるような話を何十分か、いや、ひょっとして何分かはしたのかもしれない。ただ淹れてもらった紅茶がすっかりと冷めてしまったことを考えると、きっと少なくとも数十分は話をしていたのだろう。だがいっそ初対面の相手の方が何倍も気楽だった。互いに敢えて避けている話題が手に取るように分かるからだ。

「でも、いい子ばかりで助かったよ。どうなるかと随分不安だったからね」

「…そう。それは良かったわね。私のクラスは可愛げのない子供ばかりで困るわ」

 愚痴る風でもなく、瞼を伏せたは淡々と言って冷たくなったミルクティーを口に運ぶ。リーマスは微かに苦笑いして茶請けに用意したクッキーを齧る。ただそのサクサクという小気味好い音だけが聞こえた。

 会話は、よく途切れた。それは言葉の続きを模索して途方に暮れる、ひどく落ち着かない時間だ。昔はこういった風ではなかったと悔やんでみたところで、過去は過去だ。罪を知らない、子供だった頃の話だ。友のためにと命懸けで動物になろうとするような、純粋でただ自分たちの能力に酔っていた、そういう幼い日々の断片だった。

 空虚を埋めるようにして、リーマスが取り出した杖をのティーカップにかざす。冷え切った紅茶はまた湯気を立てて二人の鼻腔を擽った。ありがとう、と俯いたまま言ってカップに手を伸ばす。

「…教科書を、ね」

 呟いたリーマスの言葉には視線だけを上げたが、彼は膝に置いた杖を見つめたまま言った。ほとんど独白のようだったが紛れもなくそれは彼女の耳にも届く。はカップを取って、間を持たせるためだけに口をつけた。

「…」

 唇を開いては、漏れ出てくるのは吐息ばかりだ。リーマスは乾いた喉に唾を飲み込んでまた薄く口を開く。呟いたはずの言葉は力なく掠れて誤魔化すように咳をした。

「…いや、何でもない」

 彼女は何も言わない。それは救いでもあり絶望でもある。思うところがなければ絶望を感じることすらもないのだろうと考えると、まだ彼女に何かを期待しているということだろうか。それこそが絶望的だ。リーマスは下を向いたまますっかり古びた杖を見た。この世界に飛び込んで以来あらゆる自分を知るのはこの棒切れしかない。他のものは何もかも、手の届かないところに打ち棄てられた。

 教科書を探しに行ったフローリシュ&ブロッツ書店で、懐かしい顔に出会った。ニースだ。まだここで働いていたんだねと言うと、他に行くところもないからと寂しそうに笑う。それからあまりに顔色が悪いと言って栄養について考えようというようなタイトルの本を押し付けられそうになった。

「いや、もう…大丈夫そうなんだ。ホグワーツに就職することになったから。今日はそれで教科書を探しに来たんだよ」

 何とかそれを押し返してそう言うと、ニースはぱたりと動きを止めて大きく開いた眼でリーマスを見た。

あなたが、ホグワーツに?」

「そうだよ。そんなにおかしいかな」

「いいえ、違うの、そうじゃなくて…へえ、あなたが…」

「なんだ、やっぱりおかしいんじゃないか」

「違うわ、違うったら!」

 むきになって声をあげる彼女は昔の、少なくとも彼の知る昔のままでリーマスは安堵する。学生時代はそう親しくもなかった。ただジェームズの近しい女友達の一人に過ぎなかったのだ。しかし彼女はポッター夫妻の結婚式にやって来た。彼女は、現れた。

「教科は?あなたのことだから闇の魔術に対する防衛術とか?」

「ああ、うん。そうだよ」

「それじゃあ精々1年ね。どんな本を探してるの?防衛術関連ならあの辺りに固まってるけど…必要なら大抵のものはすぐ取り寄せられるわよ」

 『暮らし』というカテゴリから離れて店の奥に進みながらニースが気楽に笑ってみせる。彼女も到底健康的とは言えない顔色だったが笑うことで何歳かは若返ったようにも見えた。それに比べて自分はうまく笑えているのだろうか。リーマスは彼女の後ろ髪が穏やかに揺れるのを見る。

「この辺りね。ホグワーツの指定教科書は担当教官なら無料で持ち帰れるから目ぼしいのがあったら呼んで」

「ああ、ありがとう」

 彼女は腰に巻いた前掛けの下に両手を突っ込んで急ぎ足でレジの方へ戻っていった。教科書を探すうちにも何度か顔を上げて彼女を見たが、ずっと忙しなく働いている。私の知らないところで誰もがこうして自分の道を生きてきたのだと知った。それは当たり前の日常だが彼にとってはどこか遠い世界のことのようにも思える。数時間後ようやく一冊の本を持って空っぽのレジに行くと、側の棚で商品の陳列をしていたニースがまた慌しく戻ってきた。

「ありがとうございます、ルーピン先生」

 ニースはそう言って微笑みながら慣れた手付きで本を袋に入れてくれた。そうして視線が下を向いている間にも彼女の言葉は止まらない。かといってそれは決して煩い類のものではない。森の辺で静かに溢れる湧き水のようだ。リーマスは俯いた彼女の睫毛が瞬くのを見下ろした。

「そう、きっと…ええ、そう。あなたにはホグワーツが似合うわ」

 呟くように言った彼女が顔を上げて袋を差し出してくる。リーマスは受け取らずに彼女の眼を見返して苦笑する。

「ホグワーツが似合う?どういう意味だい」

 ニースは持ち上げた袋をテーブルの上に戻しながら困ったように笑った。言いながら自分でもうまく理由を探れずにいたのだろう、しばらくそうして考えているようだった。逸らしていた視線を上げ、言う。

「似合うと思うの。だから」

 真面目な顔をしてそう言うものだから、リーマスは思わず噴き出して口を押さえる。少し拗ねたような顔をしたニースはクスクス笑い続ける彼を睨み付けて言った。

「きっと似合うわ、ルーピン先生。それに今あの学校には、ハリーがいる」

 笑い声を飲み込んで、リーマスは唇を引き攣らせた。

「…あの子に、会ったのかい?」

「ええ。去年教科書を買いに来た時、偶然私も表に出てたから。本当にあの二人に、そっくりよ。見ればすぐに分かるわ」

「…そうか」

 視線を下ろし、リーマスは袋の載った机を見る。彼女の手がそれを掴んでいた。初めて、その薬指に小振りの指輪が嵌っていることに気付く。

「結婚したのかい」

 ニースはなぜか寂しそうに笑う。首を振って、言った。

「するつもりだった。でも、できなかった。闇祓いだったの、10年前に、それで…」

「…」

 気分を入れ替えるように唇の端を持ち上げたニースはまた教科書の入った袋を持ち上げて今度こそリーマスの手に押し付ける。茫然と立ち竦む彼は反応が遅れて無様によろめいた。やっぱり栄養が足りていないのだと彼女は案じる母親のような顔をする。実際の母よりもその瞳は優しくて温かい。だがそれは彼女が私の中に潜む獣を知らないからだ。

「それにホグワーツには、もいる」

 リーマスはぱっと顔を上げて彼女を見た。殺された闇祓いの婚約者の後にその名が出てくるとは思わなかったのだ。目を見開いて動かない彼を見返してニースは訝しげに瞬く。

「どうしたの」

「…いや、その…」

「まぁ、いいけど。ホグワーツにはもいるし、きっとあなたにはあの城が似合うわ。あなたにはが必要なのよ。それににもあなたが必要なんだと思う」

「…」

 本を受け取った時に触れた彼女の指は思いの外冷たかった。

「…君は」

「?」

「君は…卒業後、彼女がどうしてたか…何も、聞いていないのか」

 ニースは目を開いて机の向こうから身を乗り出すようにしたが、好奇心ばかりが見えて答えを窺い知るのは容易だ。何か知ってるの?と意気込む彼女から目を逸らしてほとんど独り言のように言った。

「…知らないままでいることの方が幸せな時も、ある」

 彼女は訝しげに眉を寄せるばかりだ。







 彼女を送り出した部屋の中で、空になったティーカップを二つ片付けながら呟く。時間が過ぎるのは実に退屈なものだ。

「…知らないままでいることの方が、きっと幸せなんだろうね」