どうしてあんなことを言ってしまったのか、自分でも分からない。きっとダンブルドアのせいだ。ダンブルドアがあんなことを言うからだ。は恨みがましく瞼の裏に微笑むばかりの老人を浮かべる。
ダンブルドアの言葉通り、リーマスはそれから2週間ほどを城で過ごした。人狼の雇用という前代未聞の提案に強く反対の声をあげる教職員も少なくはなかったが、ここ数年のうちに開発された脱狼薬の服用と魔法薬学教員による代講の案、そしてリーマス自身の人柄を強調してダンブルドアは彼らを納得させることに成功した。ただ一人、セブルスだけがとうとう夏季休暇が終盤に差し掛かってもずっとそのことで不快感を顕にしていたが。
リーマスと言葉を交わしたのは彼を迎えに行ったあの日だけだった。休暇中は食事もそれぞれのオフィスで摂るために広間で顔を合わせることもない。地下室にこもって研究に明け暮れるが3階にオフィスを構えるリーマスと会うにはその機会すらなかったのだ。尤も、それで良いのだと思う。恐らく全く別の感情ではあるが、彼に会いたくはないという気持ちはセブルスも同じはずだ。
新聞は毎日隅から隅まで読んだが、シリウス・ブラックに関する新しい情報は皆無だった。ダンブルドアは吸魂鬼のホグワーツ配備を何とか避けようとほとんど毎日魔法省に通い詰めていたが、この調子ではそれも無駄に終わりそうだ。8月の下旬、城に戻ってきたダンブルドアは疲れた顔でホグワーツの敷地内に立ち入らないことを絶対条件に吸魂鬼の配備を受け入れたと告げた。
「吸魂鬼はホグワーツのありとあらゆる出入り口を封鎖する。敷地内の警備は全て君たちに任せる。何か不審な点があれば、すぐに報告しておくれ」
ありとあらゆる出入り口、と言われては嫌な予感がした。ダンブルドアは一体どこまでを把握しているのだろう。フィルチの知らない隠れ通路を知っているのだろうか。そう例えば、4階の隻眼の魔女の像からハニーデュークスに続く道だとか、5階の鏡の裏から郵便局のふくろう小屋に出る道だとか。だがはそれをダンブルドアに話そうとは思わなかった。まさか手配中のブラックが、のこのこハニーデュークスや郵便局には現れまい。それに、怖かった。学生時代にそこを4匹の動物もどきと1匹の人狼が渡り歩いていたなどと、ダンブルドアに知られてしまうことが。あの3人は未登録だったし、ダンブルドアもまさかリーマスが叫びの屋敷を抜け出して校内やホグズミードを徘徊していたなんて夢にも思わなかったろう。そんなことが明るみに出ればリーマスはもちろん自分が教師でいられるかも怪しい。そうだ、まさか、シリウス・ブラックがホグズミードに現れたりは、…。
新学期初日、夕方からはひどい雨が降り始めた。それに数日前からホグワーツの敷地を取り囲むように配備された吸魂鬼のせいですっかり冷たい空気が張り詰めている。はそれだけで2月のアズカバン暮らしを思って身震いした。先日ハニーデュークスで大量に買ってきたチョコレートがオフィスの引き出しにはごっそり入っている。それを小さく砕いて口に運びながら、倉庫から取り出してきた実習の材料をオフィスの棚に並べているセブルスの後ろ姿に声をかけた。
「セブルスも、どう?チョコレート」
「いい」
「…」
セブルスは振り向きもせずに黙々と棚の中を整理していく。この夏中、ずっとこの調子だった。元々愛想がいいとは思わないが、これではまるで疎外し合っていた学生時代に逆戻りでもしたかのようだ。リーマスとの再会は自分にとっても大きな戸惑いだったというのに、長年添ってきたセブルスまでこれでは八方塞がりだ。だがどうすれば良いというものでもあるまい。自分たちの間には、それだけ複雑に絡み合う何かがあった。解く術を、私は知らない。
そもそも一人だったのだ。たった一人の戦いだった。だからも気付かない振りをしてチョコレートを頬張ったまま引き出しを閉めてから徐に立ち上がった。
「そろそろ生徒たちが着く頃でしょう。行きましょう」
椅子の背に掛けたマントに袖を通す。人差し指で弾いて鰓昆布の数をチェックしたセブルスがガラス棚を閉じて振り向いた。その眼はを避けて壁の時計を見上げる。それから棚の鍵穴を杖先で軽く叩いたセブルスは何も言わずに彼女の脇を通り過ぎて大股でオフィスを出た。も口を噤んだまま研究室に鍵をかけてその後を追う。翻るマントの下にある肩が随分と怒っているのを見て取りはうんざりと溜め息を吐いた。
リーマスの懐に帰ることも出来ない。それでいてセブルスは私と彼らの関係を忘れない。私も本当はずっと一人だったのだ。セブルスもそしてリーマスも。みんな、独りだった。私とセブルスは自らその道を選び取った。でもリーマスは。
大広間には既に生徒たちがぼろぼろと入っていく頃だった。ホグワーツ特急でやって来たというリーマスも教職員テーブルの、いつもの闇の魔術に対する防衛術の担当教官の座席に腰掛けている。先月再会した時にも思ったが、随分とひどい身なりだ。この10年どれだけ苦労してきたのだろうと考えると身を切られる思いだった。本当は、私ではない、彼のような人間こそこの職に相応しいというのに。
「スネイプ先生、先生。今晩は」
セブルスが傍らの席に座ると、リーマスが穏やかに声をかけた。きゅっと口元を引き結んだセブルスはほとんど唇を動かさずに「御機嫌よう」と呟いただけですぐに前を向いて黙り込む。セブルスを挟んでその隣に腰掛けたは愛想笑い程度のものは浮かべながら「今晩は、ルーピン教授」と言った。
やがて生徒たちのテーブルも埋まり、組み分けの儀式が進んでいく中でいつも以上に仏頂面のセブルスは身じろぎ一つしなかった。もとうとう諦めてシニストラとだけ時折声を潜めて囁き合う程度だ。フリットウィックが組み分け帽子を仕舞っているところへマクゴナガルが戻ってきて、挨拶をするためにダンブルドアが立ち上がった。
「おめでとう!」
ダンブルドアは朗らかだが、先ほどまではひどく憤っていたのを知っている。ブラックの捜査だといって吸魂鬼がホグワーツ特急に入り込んだのだ。リーマスが適切に対処しなければ大変なことになっていたかもしれないとマクゴナガルは狼狽えていた。
ダンブルドアによる吸魂鬼に関する注意と新任教師の紹介の後、いつものようにご馳走が現れた。セブルスはやはり一言も喋らず、リーマスは向こう隣のフリットウィックと杯を交わしている。それからこちらを向いてセブルスにもゴブレットを持つように促したが、セブルスはほんの一瞬杯を持ち上げただけでそれがリーマスのものと触れるよりも先にゴブレットを手放した。
困ったような寂しそうな曖昧な笑みを浮かべながら見上げたリーマスの視線がの眼とぶつかる。互いに、逸らす機会を失った。リーマスが掴んだままのゴブレットを軽く掲げてみせたので、はセブルスの頭越しに自分も同じ動作をしてすぐに生徒たちの方を向く。呷るように飲んだアルコールが頭蓋骨を強く揺さぶる頃、もうやめろと言ってセブルスがその日初めて口を利いた。