の2月のアズカバン生活と1月の入院生活でセブルスは通常の倍にも増した職務をこなすのに手一杯だったが、それでも文句を言うわけにはいくまい。ダンブルドアの庇護で何とか逃れた監獄だったが、には自分以上に不利な境遇が多すぎる。よくよく考えればこれまで10年以上アズカバンを逃れ続けることが出来ただけでも奇跡に近いのではないか。何しろ彼女は、帝王の血を引く強力な魔女だ。そんなをあそこまで衰弱させた吸魂鬼を思うだけで背筋が凍る。
だが自分は休み過ぎたといって聞かない。セブルスの仕事や実験までも極力進んでやろうとした。お前にこの実験は無理だと言ってのけても知らないうちに済ませてしまっているものだから開いた口が塞がらない。お陰で手持ち無沙汰になった自分はまた別の実験をこなしたり本を読んだりと余暇≠過ごす時間が増えた。
それは全て、余計なことを一切考えまいとしてのことにしか見えなかったが。あの招集、そしてあの男がやって来て以来、どう考えても彼女はおかしい。歯車は、確実に狂い始めている。
マグルの叔母の家を飛び出したハリーが漏れ鍋で保護されたというニュースはホグワーツに残る数少ない教員たちを安堵させた(セブルスは舌打ちしたばかりだ)。どれほど魔法使いに縁遠い家庭なのだろうかと推し量ってみても彼の家族を覗きに行く資格などないしそのつもりすらもない。は数日後に控えたリーマスの来校を思ってまた溜め息を吐いた。彼の乗車する汽車は午後の6時に到着する予定だ。それからダンブルドアの部屋で正式な手続きを済ませて闇の魔術に対する防衛術担当教官のオフィスに入る。数日は城に泊まって新学期の準備をするとダンブルドアは言った。
歩み寄って欲しいとでも思っているのだろうか。私が再び彼の手を握ることが出来ると、本気でそんなことを考えているのだろうか。
無理だ、無理だろうそんなことは。私は彼らを裏切った。私を再び受け入れてくれる準備がある時に私はそんな彼らをまた傷付けて離れた。失望したと、彼は言った。そうなのだろう、私は彼らを失望させた。そして結果的に、ジェームズ、リリー、ピーターを死なせた。シリウスもまた裏切った。そしてリーマスは、たった一人になった。
私にとってジェームズは、初めての友達だった。それはリーマスにとっても同じだったろう。私はまた彼を、一人にさせてしまった。
…私さえ、いなければ。
その日は朝から身体中が重く、は文字通り足を引き摺るようにして動いた。あまりにそわそわして落ち着かない様に見兼ねたセブルスが「今日は薬品棚に触るな」と釘をさした程だ。自分がどれほど動揺しているかにも気付いた。だから大人しくそれに従って今日は全く働かなかった。いや、夕方ホグズミードまで出向くというのも立派な仕事≠フうちだが。
夏の夕刻はまだ空に随分と橙が残る。はいつものローブにマントだけを羽織って地下室を出た。汽車の到着までは時間があるが、古本屋に寄ろうとしたのだ。入院中マクゴナガルが貸してくれた本の中にクロスワードパズルがあった。熱心に考え込む性質の人間ならそれだけでストレスにもなろうが、気楽に解く分にはいい息抜きになる。
前を通り過ぎる時ちょうど小屋の中から出てきたハグリッドは酒瓶を振り回して上機嫌だ。に気が付くとアルコール臭い息を吐きながらニコニコと笑ってみせた。魔法生物飼育学の担当教官に決まってからというもの、こうしてよく酒を飲んでいるのを見かける。本当に教材の準備は大丈夫なのかと訊くと、「任せとけって」と豪快に笑ったものだ。幸せとはきっと、こういう些細なものを言うのだろう。もしも闇の魔術に対する防衛術の担当教官になることができたらその時は、セブルスも幸福を感じるのだろうか。…馬鹿馬鹿しい。
まともに焦点も合っていないらしいハグリッドに手を振ってみせたところで見えやしまいと、は一声だけをかけてホグズミードへの道のりを到底軽やかとは言えない足取りで進んでいく。行こう行こうと思っていて、美容院にはまだ行っていなかった。入院中すっかり伸びた髪を気にして困った風に呟いたに、マクゴナガルは「私が切りましょうか」と大真面目に言ってのけた。お気持ちだけはと曖昧に誤魔化してはうそぶいたものだ。このまま髪を切ってから駅に行こうかとも考えたが、そうするにはあまりに時間がなさすぎる。
一つに纏め上げた髪は生温い風に吹かれて零れ落ちた後ろ髪が頬を撫で付ける。意味もなくポケットの杖を指先で弄った。ファッジの手から返された時には随分と安心した。やはりこの棒切れがなければ生きてはいけないらしい。事実、監獄の中はきっと地獄があるとすればこのようだろうという惨い閉鎖空間だった。
それだというのに。頭に引っ掛かって離れないことがある。あんな所からどうすれば脱獄できる?仮にそんな手段があったとしても気が触れた人間には到底出来やしまい。明らかに矛盾している。無理に飛び出そうとすれば吸魂鬼のキスを食らって一発だ。大抵の魔法使いには想像もつかないような闇の魔術を用いたのだろうと噂されているようだが、そんなものがあるとすればとっくの昔に使っているのではないか。わけが分からない。
信じようとは、思わなかった。そんなものが、何になる。は今更額が汗ばむことに気付いて歩きながらマントを脱ぐ。丸めかけたそれを腕に、左腕に覆い被せ、靴底で地面を擦るように歩いた。遠い。ホグズミードまでの道は、まだずっと続いていく。
思い出すことがあった。何度も。この道を並んで通った友人たちを。並んで見た夕焼けや、投げつけ合った雪玉や。それも年を重ねる毎にひどくなっていくものだから、塞ぐようにして記憶を閉じた。この道を歩くのに、感傷は不要になった。
それなのに、神はどこまで残酷なのか。ダンブルドアは信じ、全てを赦した。ホグワーツを唯一の居場所にした。傷付け、死なせた人たちの子供を何人も送り込んできた。そしてとうとう、何もかもを失わせたかつての親友をこんな形で引き合わせようとしている。
逃れられないと、分かっている。どれだけ隠そうとしても刻まれた髑髏は永遠に消えない。印を受けたその日、突き合わせた三つの髑髏を思った。
『The Dark Lord』
導いたのはセブルスだ。その手を引いたのはルシウスだ。この髑髏によって永遠に繋がれ、切り離されることがあるとすればそれは死というその瞬間のことなのだろう。死ぬのはきっと容易い。だが神はそれを許さずこうしてここにまだ。
マントで覆った腕が熱を生んで汗を噴き出す。それでもは、マントを外さなかった。
薄暗い窓の外に城の明かりが見える。ほとんど誰もいない汽車の中は静かだ。リーマスは冷たい窓ガラスに押し当てていた頬をずらしてまた身体の熱を発散させようとする。ダンブルドアは交通費を払うと言ったが彼はそれを拒んだ。どこまでも頼り切るわけにはいかない。尊いダンブルドアは私の全てだ。私は結局いつだって、全てを受け入れるあの瞳に救われていた、…。
「ホグズミード駅、終点まであと5分です」
徐々に速度を落としていく車内で、気だるげな声の放送が流れた。乗り込んでからほとんど死んだように動かなかったリーマスはやっと身体を起こして、スーツケースの上に乗せていたマントを手に取る。昼食はカートから買ったサンドイッチ一つに小さな紙パックのカボチャジュースだった。ここ数週間で最もまともな食事だったろう。ホグワーツの厨房を思って彼はゴロゴロと鳴る腹を押さえながら物憂げに立ち上がった。いよいよ汽車のスピードが落ち、やがて車輪を軋ませてホームに流れ込む。体重をかけながらスーツケースを前方へと滑らせ、リーマスはコンパートメントを出て通路を歩いた。持ち上げる足は重い。別にこの職が嫌だというわけではない。むしろ自分には過ぎた仕事だと思っている。だからこそずっと断り続けてきた。そんなことではない。
すっかり暗くなった小さなホームに下りると、出口のすぐ側にぽつんと人影が立っていた。数少ない街灯はそのシルエットを曖昧に照らすばかりでリーマスは無意識に目を凝らす。だが取り立てて気にかけることもなく、彼はスーツケースのローラーを転がしながらそちらに向かってゆっくりと進んでいった。マントを羽織ろうかとも思ったが、それには少し空気が温いように感じる。結局片腕にそれを掛けたまま、ホグワーツへの道のりを辿ろうと歩き続けた。
そしてふと、気が付いた。ホームの出口に立っている人影が、じっとこちらを見ている。何だか落ち着かないものを感じてリーマスはそちらから視線を外して歩いた。足取りはますます重くなる。
ついにその人影の脇を通り過ぎるという頃になって、リーマスは低い女の声を聞いた。
「…リーマス」
意表を突かれて、ぱたりと足を止めた。反応が遅れたスーツケースのローラーはしばらく先を進んで不自然に曲がってから止まる。すっかりそれに体重をかけていた彼の上半身も奇妙に捻れてぎこちなく振り向いたが、顔を上げるには激しく脈打つ心臓の鼓動が邪魔をした。きっかけが必要だったが、彼女はその先は押し黙ったままだ。
しばしの沈黙の後、ようやく俯いた視線の先に躊躇いがちに差し出された封筒を見てリーマスは顔を上げた。無造作にマントを着込んで片手をポケットに突っ込んだ女が右手で新しげな封筒を突き出している。その表情は彼女の後ろに立つ街灯の作り出す陰に隠れて見えなかったが、少なくとも笑っているとは思えない。
名前を呼ぶことすら、躊躇われた。また視線を落としてその封筒を見つめながら、どうすればいいか分からないでいる。彼女もまた、何も言わなかった。
全ての乗客を下ろしたホグワーツ特急が、汽笛を鳴らしてドアを閉める。新たに乗り込む客もいないまま、そうしてまたロンドンへの旅をのんびりと戻っていくのだろう。その汽笛に紛らせて彼は深く息を吐いた。降りなければ良かったなどと、馬鹿げた考えが頭を過ぎる。眠り込んでしまったのならば何も気付かないままにロンドンへ逆戻りできたろうに。
「…これ」
動き出した汽車の音に紛れても、なぜか女の声ははっきりと鼓膜を震わせた。誤魔化したつもりだったが自分の溜め息もまた彼女に聞こえてしまったのかもしれない。リーマスは窺うように顔を上げた。女の顔にはやはり陰が落ちて表情は見えない。
「校長から、預かってきたの。ひとまず今回の行きの交通費。帰りのはまた改めて渡すって」
ぽかんと口を開けたリーマスは暗い陰に隠れた女の顔を見つめて茫然と瞬く。それから受け取れないと言って首を振った。
「ダンブルドアには話したはずだ。そんなものは受け取れないと」
彼女は動じた風もなくただ淡々と言葉を返すばかりだ。
「私に言われても困るわ。あなたに渡すようにと、頼まれてきたんだから。突き返したところで彼も受け取らないでしょう。私の面子もあるの。何も言わずに受け取って頂戴」
「…でも」
無駄なことは一切話さないといった雰囲気だ。そのまま黙り込んだ彼女は頑なに封筒を突き出して動かない。ばつの悪い顔でやっとそれを受け取ったリーマスは、もう片方の手もポケットに突っ込んだ女を見て呟くように言った。
「久し振り、だね…」
挨拶すらも返さないのかと訝り始めた頃、彼女は事務的な口調で「そうね」と言っただけだった。リーマスは胸のどこかが軋むように感じて所在無く掴んでいた封筒を無造作にローブのポケットに突っ込む。汽車の中で食べたサンドイッチの包みがかさついた指先を撫でた。すっかり遠ざかった汽車の音はもう霞程度にしか聞こえない。辺りは一層暗くなった。明かりを灯そうとポケットの杖を掴んだが、それもあっさりと断念する。彼女の顔を見るのが怖かった。
期待などしていなかったはずだ。あの日の彼女を覚えているだろう。彼女は自分の知る彼女ではないのだ。知っていると思っていた。そして、シリウスもまた…。
取り出した杖を振り、彼女は彼のスーツケースを魔法で転がして歩き出した。慌てて追いながら自分でやるよと言ってはみたものの、長旅で疲れているのだろうと言ったきり彼女はまた黙り込んだ。ホグワーツへの道のりを照らす街灯が彼女の後ろ姿を浮き上がらせる。髪は、随分と伸びているようだった。12年も会っていないのだから…どう変わっていても不思議はない。ただ彼女の顔を見るのが、怖かった。どうかこのまま、振り向かないでくれ。
結局城の前まで、彼女は一度も振り返らなかった。一言も喋らなかった。ただスーツケースのローラーがゴロゴロと地面を擦る音だけが響く。明かりのついたハグリッドの小屋からは懐かしい彼の鼻歌らしきものが聞こえてきた。変わらないものがあるのだということが、今の彼の心を少しだけ軽くする。だが同時に、城の入り口に着くのが恐ろしかった。お願いだ、君は…振り向かないでくれ。
入り口の樫の扉へ上がる階段の前で、彼女はまた杖を振った。その動きに導かれるようにしてスーツケースが楽しげにタップダンスして階段を上り始める。一方で彼の身体はただひたすらに重い。引き摺るようにして彼女の後ろをついて上がった。
最後の段を上り彼女が杖を下ろすと、スーツケースもまた彼女の傍らで静かに動きを止める。リーマスは思わず階段の途中で立ち止まった。お願いだ、振り向かずにそのまま、扉を開けて、行ってくれ、…。
「リーマス」
突然、彼女は背を向けたまま口を開いた。彼は思わず身を強張らせて乾いた唇を舐める。落ち着きかけた心臓の鼓動が悶える蛇のように脈打った。瞼を閉じて、静かに深く息を吐く。
首だけを捻って振り向いた彼女の黒い瞳が、怯えた彼の眼を捉えて僅かに微笑んだ。
「お帰り、リーマス」
茫然と立ち尽くす彼を置き去りに、彼女は樫の扉を押し開けて玄関ホールへと入っていった。それからはまた振り返りもせず、杖を振って踊るスーツケースと一緒に大理石の階段を上がっていく。動き出すのには随分と時間がかかった。戸惑った。何を、今更…今更、何を言われたところで…。
だが溢れ出す涙を止めることは出来なくて。
彼女は振り返らなかった。ただそれだけが、救いだった。