シリウスがジェームズとリリーの息子を殺すために、アズカバンを脱獄した?
アズカバンに放り込まれる以前なら、そんなことは天地が引っ繰り返っても有り得ないと言い放ったかもしれない。帝王に寝返ったとしても、ジェームズとリリーを売ったのだとしても。彼らの忘れ形見であるハリーを、あのシリウスが殺そうとするなんて。
だが自分は、アズカバンがどれほど恐ろしい場所なのかを知った。2月閉じ込められただけで心も身体もすっかり弱り切ってしまった。そんな所に12年も放り込まれていたシリウスが狂わないと、どうしてそんなことが言えよう?ベラトリクスもロドルファスも、ただ帝王への執念だけで生きていた。帝王の復活を望むシリウスが、帝王凋落の原因となったハリーを狙っても…本当に気が触れたというのなら、いくらジェームズとリリーの息子と言えどもそんなことは関係がないのだろう。
所詮私が知っているのは、学生時代のシリウスに過ぎないのだ。
「セブルス、。2人は残っておくれ」
騎士団の話を終えて去りかけた4人の後ろ姿にダンブルドアが静かに声をかける。振り向いたマクゴナガルとハグリッドは訝しげに眉を顰めながらも大人しく校長室を出て行く。とセブルスはくるりと踵を返してまたダンブルドアの許へと戻った。先ほどまでと比べれば随分落ち着いた表情にはなっていたが、それでもダンブルドアの平生見せる優しげな色は薄い。どこか緊迫したようにも思えた。思い過ごしだろうと、その後考えるようにはなるのだが。
「何でしょう」
真剣な面持ちを崩さないセブルスが静かにその先を促す。そこでやっとダンブルドアは目元を緩めて小さく笑った。
「そう硬くなる必要はない。君たちにはまだ話していなかったのじゃが、新しい闇の魔術に対する防衛術の先生のことじゃ」
セブルスは不機嫌そうに眉根を寄せ、はダンブルドアの意図を汲みかねて目を細める。セブルスはホグワーツの2年目以降毎年闇の魔術に対する防衛術の教官に志願してきたが、それが叶うことはきっとないと分かっている。ダンブルドアもそのことは悟っているだろう。彼が毎年どこからか探し出してくる教授たちについては事前にこのような形で知らされることはなかった。大抵いつもふくろう便でさり気なく届くだけだ。ダンブルドアは僅かに肩を解して続ける。
「実のところ彼には随分と前からこの職を強く勧めておったんじゃが、自分は相応しくないと言ってどうしても引き受けようとはしなかった。じゃがわしもいよいよ困り果ててのう。半ば押し付けるような形で受けてもらったんじゃが、それにはいくつか条件がある」
ダンブルドアに条件をつけようとはなかなか図太い人間だと思った。セブルスはますます嫌そうに顔を顰める。ダンブルドアは何でもない風に言葉を続けていく。
「彼は些か体質に問題があってのう。それを補うために、セブルス、君には毎月脱狼薬を煎じて貰いたいのじゃ。頼めるかね」
それはあまりに唐突だった。もセブルスも唖然としてしばらく声も出せない。薄く開いた唇を一旦きつく引き結び、眉間に深いしわを刻んだセブルスはゆっくりと口を開く。
「…校長。まさかとは思うのですが あなたはこの学校に、人狼を雇うおつもりですか」
ダンブルドアは穏やかに微笑むばかりで何も言わない。そしてそのブルーの瞳を見て、は瞬時に理解した。全身からさーっと熱が潮のように引いていく。
「校長…あなたが仰っているのは、リーマス・ルーピンのことですか…?」
の問い掛けにダンブルドアはますますニッコリ笑って、「その通りじゃ」とあっさり答えた。セブルスの反応は迅速だった。握った拳をダンブルドアの机に叩きつけ、昂ぶった声を構わず喚き散らす。セブルスがダンブルドアの前でこれほど感情を顕にするのをは見たことがなかった。
「校長!御自分が何を仰っているのかお分かりですか!ただでさえ人狼を学校に雇うなど考えられない話だというのに…あなたは今し方仰いましたね、ブラックがポッターを狙ってホグワーツへ来るだろうと!どれだけ内側の護りを固めようと、仮に吸魂鬼を配備するとしても…城の内部にブラックと通じる者がいればそれも完全なる護りとは言えなくなります!あの男がどれほどブラックと近しかったかはあなたもよくご存知のはずだ!」
「…セブルス」
は咎める風にセブルスを見たが、彼の黒い眼は激しい色を浮かべてただダンブルドアを睨み付けている。ダンブルドアは全く動じた様子もなくセブルスを見上げていた。
「一つずつ、解決していくとするかのう。まず、リーマスが人狼であるという件じゃが、それは君たちの協力でカバーできると信じておる。セブルス、君が脱狼薬を煎じてくれるのならば彼はこの城で決して誰をも傷つけることなく自分の部屋で静かに眠ることが出来る。毎月彼が変身しておる日だけは、君たち2人が代講してくれれば良い。それから、彼がブラックと近しかったという問題じゃが…つまり君は、彼がブラックの手引きをして城に潜り込ませるのではないかと、そういったことを危惧しておるのかね」
セブルスはダンブルドアの言葉に苦虫を噛み潰したかのような顔をしていたが、問い掛けられて苛立たしげに頷く。豊かな顎鬚に手を添えたダンブルドアは続いて黙したままのを見た。
「…かつてブラックと近しかったという点から考えれば…、君も十分その範疇に入るじゃろうと思う。しかし、どうかね。リーマスがブラックに手を貸すということが、果たして有り得るかのう?君の意見を聞かせて欲しい」
答えは、決まっていた。だが言葉を慎重に選び、セブルスの張り詰めた空気を横目に感じながらはゆっくりと口を開く。
「…有り得ないと、思います。彼は…彼だけは、最後までポッター夫妻の友人でした。彼らを裏切った私も…彼らを死なせたブラックも…私が彼に会ったのは12年前が最後でしたが、その時彼は私に対してもブラックに対しても…強い、疑念を持っていました。私たちの間にはもう…信頼の念は、全く残っていません。それが今更…彼がブラックに手を貸すとは、到底思えません」
ダンブルドアはどこか寂しそうな表情でセブルスに顔を向けた。セブルスはそれでもまだ反論しようと口を開きかけたが、ダンブルドアの深い瞳を見ているだけで言葉の続きは喉の奥で潰える。そのまま唇を噛み締めて視線を脇へと逸らし、セブルスは口を噤んだ。
「脱狼薬と代講の件は、2人とも、頼めるかね」
卑怯だと、セブルスは思う。その眼はたとえ何があっても相手をうんと言わせる力を持っているのだ。セブルスは瞼を閉じて浅く頷き、もようやく「…はい」と言って頭を下げた。
ほっと安堵した様子のダンブルドアが、目元を緩ませてを見る。
「それから最後に、これはに頼みたいのじゃが」
嫌な予感はしたが、は大人しく彼の頼み≠待った。セブルスはもう素知らぬ風を装って意味もなく部屋の脇にある棚をぼんやりと見上げる。不死鳥はまもなく燃焼期なのだろう、随分と老い耄れていた。セブルスは眼球だけを動かして不思議な魔法道具、そして棚の上の方に置かれたくたびれた三角帽子を見る。何を思って彼女をグリフィンドールなどに入れ直したのかと遠い昔を思った。
「8月の上旬に、リーマスが正式な手続きと簡単な引継ぎのためにホグワーツに来ることになっておる。日時が分かれば知らせてくる手筈になっておる故、君にはホグズミード駅まで彼を迎えに行って貰いたいのじゃが」
はギョッとしてダンブルドアを見た。彼は相変わらず微笑んでいる。どうしてそんな、残酷なことを、…。熱気と冷気がほとんど同時に身体中を駆け巡って身震いする。セブルスは気付かない振りをして顔を逸らした。
「…ルーピン教授は、ホグワーツの卒業生ですよ。駅から城への道のりは、いくらなんでも忘れてはいないでしょう」
何を言ったところで無駄だということは、よく分かっていた。ダンブルドアの表情は決して崩れない。彼は午後のお茶会にでも誘うかのような、やんわりした笑顔で言った。
「久し振りの実家に戻った時、誰の迎えもないというのは君が思うよりも随分と味気ないものじゃよ」
(久し振りの、実家、…)
顔を顰めるも、まさかNoと言えるはずもない。つくづく卑怯な男だと、は思った。誰もあなたの笑顔には、逆らえないというのに。だからこそ引き戻されたのだと、思い知らされた。
覆われた髑髏はまだ、膜の下に潜んだままだ。だがそれは確かにここにあって、永遠に自分を蝕み続ける。