アズカバンから戻ってきたその晩は、セブルスがずっと側についていてくれた。ハグリッドは医務室でポンフリーに面倒を看て貰っている。無理はさせないと言ってセブルスは大量にチョコレートを食べさせられたをそのまま地下室に連れ帰ったのだ。幸福感までは与えてやれないが吸魂鬼による衰弱には人肌の温もりが効くことはよく知っている。セブルスは同じ布団に入って弱り切ったをただ静かに抱き寄せてやっていた。
「…ベラトリクスに、会ったわ」
震えはまだ止まらない。セブルスの胸に額を摺り寄せてはきつく瞼を閉じる。セブルスは彼女の背中に腕を回したままぴくりとも動かない。眠っているのかもしれないと思ったが、は気にせずゆっくりと続けた。
「ロドルファスも…ドロホフも、マルシベールも…みんな、みんな…あんな所で、あんな所で10年も…これからも、ずっと…きっと帝王の帰りを信じて…私は…」
涙が零れ落ちるよりも先に、セブルスが僅かに身じろいだ。起きているとは思わずは目を開けて首を捻るが、暗がりの部屋で急に彼の静かな寝息が聞こえてきたように思ってまた目を伏せる。どうだっていい。聞いていようが眠った振りだろうがそんなことはどうだっていいのだ。ただ監獄の冷気を思い出して身震いする。は頬をきつくセブルスの胸元に押し付けた。
檻の中では押し殺してきた記憶を思い起こして、乾いた下唇を噛む。あんな感情の片鱗すら感じさせない空間に閉じ込められてきたシリウスを思った。
もしも生きているとすれば、彼の牢の前を通り過ぎたのかもしれない。そんなことは分からない。探すつもりもなかった。誰もがアズカバンで気が触れて死んでいくという。ベラトリクスもロドルファスもドロホフもマルシベールも、生きていた。生きて彼女を覚えていた。だからといってシリウスが生きているという証明になろうか。生きていたとしても、それがどうした。アズカバンで再会したとして、私は一体どうしたい。シリウスも私も、みんなを裏切ってジェームズとリリー、ピーターを死なせた。そんな私たちが顔を突き合わせたところでそれが何になる。
彼を殺したい?まさか、そんなことは思ってもいない。ただどうすることも、出来やしない。帝王の息の根を止める。その障害になるのなら何でも一つずつ始末していくだけだ。
もしも帝王が復活して、ルシウスの言うようにアズカバンが開放されるとすれば。その時はひょっとして、この手で彼を。
「…私は」
零れ落ちるよりも先に、涙はセブルスのローブで拭った。深く長い息を吐き出して、は彼の腕の中で背中を丸める。
『裏切り者が!お前など私がこの手で、殺してやる!』
彼方から微かに鼓膜を奮わせる音がしたように思った。ベラトリクスの声は随分と掠れ、ただ執念だけを込めてに向けられる。は薄く開いた目を、ゆっくりと閉じた。
夏季休暇に入ると、本格的な養生に努めるとポンフリーはを強制的に医務室に入院させた。それならばハグリッドにも同様の処置を施すべきだと言ったに、あなたと彼とは元々の身体の違うのだとポンフリーはあっさりと切り返してみせた。確かにハグリッドも2月という長期の(尤もベラトリクスたちに比べればどうということはないが)アズカバン生活で衰えてはいたが、ほど日常生活で体調を崩すということもない。は大人しく校医の指示に従い、それに伴ってセブルスもこの夏は隠れ家に戻らないことを決めた。
1日に2度はチョコレートを食べろという、何とも脂肪が気になるプランをポンフリーは用意してくれたが、どちらにしてもこの2ヶ月で激減した体重を戻すにはそれくらいのことが必要だった。食事は相変わらず彼女が考案してくれたバランスの良いメニューになっているので心底感謝して毎日の三食を口にする。マクゴナガルは週に何度か見舞いに来てあまり頭を使わない本を置いていってくれたので、そこまで退屈はせずに済んだ。
「あぁ…でも本当に、良かった。あなたもこうして戻ってきてくれましたし、ダンブルドアも…ウィーズリーもポッターもみんな…」
ベッドの傍らにあるスツールに腰掛けたマクゴナガルが取り出したタータンチェックのハンカチを目尻に押し当てて啜り泣いた。は首だけを捻って呆れたような微笑みをかつての寮監に向けて瞬く。
「あなたが信じなくて、どうするんですか。校長がこの城を離れるなんてことは…この先もきっと、有り得ませんよ。我々には、ダンブルドアが必要です」
「ええ…もちろん、ええ、そうでしょうとも。でもこうも事件が続けば…私はもう、心配で心配で。あなたもこうやって、すっかり痩せてしまって…」
真っ赤に腫れ上がった目をハンカチの上から覗かせてマクゴナガルは洟を啜ったが、は彼女から視線を外して窓の外を見る。からりと晴れた夏空が一面に広がり、陽の光は眩しい。適度な気温を保たれた医務室はまるで外界とは完全に切り離されているかのようだ。は視線を布団の上で組んだ両手に落とす。爪が、随分と伸びた。退院すれば髪も揃えに行こうと思っている。ホグズミードの美容院は学生の頃から年に何度か通っていた。
「…私は、疑われても仕方のないことをしましたから」
マクゴナガルはズルズルと鼻で音を出しながらじっとを見た。は両手を見下ろしたまま動かない。やがて精一杯鼻水を吸い込んで目尻と鼻をハンカチで拭い去ったマクゴナガルは気持ちを入れ替えるように2、3度咳をしてからきびきびと立ち上がった。スツールをベッドの下に押し込み、振り向き様に訊ねる。
「何か他に必要なものがありますか?」
はマクゴナガルが持ってきてくれた2冊の本を一瞥し、それから彼女に顔を向けて思い出したように言った。
「…爪切り、を」
マクゴナガルは何度か不思議そうに瞬いたが、すぐに「分かりました」と言って歩き出す。その後ろ姿に少し大きな声を出した。
「出来れば…マグルのものを」
入り口の戸に手を掛けたマクゴナガルがまたこちらを振り向いて涙目で微笑む。
「確か、ダンブルドア校長がお持ちでしたよ」
は声を低めて、笑った。